アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その3) ― 比較文化的に見る禅と森田療法 ―

2016/09/03

 夏の間、ブログの更新が途切れていましたが、前回までの連載に引き続き、
 まとめに代えて、その最終回の稿を出しておきます。
 

france zen⑥画像

       RYUMON-JI(龍門寺)の庭の龍。
       ドラゴンは西洋においても『ヨハネの黙示録』にも出てくる伝説上の動物である。
 

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1.西洋に導入されている禅
1-1.フランスにおける禅への関心

 
 一昨年(2014年)、京都で私たちが開催したフランス語圏「PSYCAUSE国際学会」で、丹後ふるさと病院院長の瀬古敬先生は、「森田療法における『あるがまま』の背景にあるもの」について発表して下さいました。その中で瀬古先生は、フランスと日本のそれぞれの文化における、自然と人間の関係について述べ、その対照的な例として、ベルサイユ宮殿と修学院離宮を提示されました。17世紀に太陽王と呼ばれたルイ14世は、絶対王政を誇り、自然をも制服する神の子として豪華な宮殿を建築し、広大な人工的庭園を造営して、それを権力の象徴としました。同じ17世紀に、後水尾上皇の意により京都の比叡山麓に、離宮と、その周辺の自然を生かした広大な庭園が造営されました。前者には、自然を制服して、その人為の力を誇示する人間の生き方を、後者には、自然と調和する人間の生き方を見て取ることができます。瀬古先生は、修学院離宮の庭園を「あるがまま」のひとつの原型として示されたのでした。
 フランス革命によって王政は廃止され、人権を手に入れたフランス人は「解放 Liberté」としての自由を手に入れました。しかしその後、「自我の勝利」を謳うフロイトの精神分析を歓迎したフランス人たちは、望んでフロイト王朝の支配下に入り、自我の囚われ人となったのでした。そんな閉塞感を打破しようとして起こったのが、1968年のパリ五月革命だったと見ることもできるでしょう。1960年代後半から1970年代前半にかけての、権力に対するあの異議申し立て運動は、やがて弾圧されて終息します。当事者たちの間には敗北感と共に、ある種のカタルシスによる虚脱感が蔓延したのでした。ヒッピー族が現れたのもそのひとつの現象です。
 時あたかもその頃に、弟子丸泰仙禅師は、ヨーロッパで積極的に曹洞宗の禅を広めていました。精神的拠り所を求めていた当時の人たちに、自我に囚われない禅という生き方は魅力的なものとして受け入れられたのでした。
 禅は、キリスト教における “méditation メディタシオン” や、東南アジアから移入された小乗仏教などと、ややもすると混同されがちです。またフランス語化した“ZEN”は、フランス人の生活の中に俗化して普及し、日本的な芸術や芸能、東洋的な代替医療や健康法などを、広く指すものとなっています。本物の禅が適切に理解されて受け入れられているならば、フランス的な禅やZENの文化が生まれることを、咎め立てする必要はありません。
 そこで改めて、フランスにおける本来の禅の受け入れ事情のことにふれておきます。
 この国に導入されている禅の大半は、曹洞宗の禅であることは既に述べました。修証一等を旨とし、座禅をすること、修行し続けること自体が悟りであるとする曹洞禅は、公案を介さない「非思量」を重んじるので、“méditation” や瞑想から、あまり無理なく入っていけるのでしょう。彼らの修行の様子を直接見たこともない自分として、その修行についてコメントする力はありません。でもたまたま気になっていることがあります。それは道元の重要な教えの語句のフランス語訳についてです。
 
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふといふは、自己をわわするるなり。
 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
 万法に証せらるるといふは、
 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
                           (『正法眼蔵』現成公案)
 
 これは、一言では「身心脱落」と言われる、道元の最も重要な教えのひとつです。
 このフランス語訳が、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ており、その部分を画像にして、下に掲げました。ここで気になるのは、道元の言葉の最後の部分、「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」のフランス語訳についてです。それは次のように記されています。
 
 “c’est dépouiller son propre corps et son propre esprit comme le corps et l’esprit de l’autre.”
 
 「脱落せしむる」の訳として“dépouiller”という他動詞の一語を当てるのは、直訳として正しいと思います。しかし道元の教えのこのくだりの原意としては、主語があって、それが目的語に対して他動詞的に行為をおこなうという能動的関係の成立ではなく、むしろ「おのずから脱落する」ことを指していると受け取れるのです。自己の身心と他己の身心の区別もなくなり、かつそれらはおのずから脱落してしまうのです。そのように考えると、別の試訳として、再帰動詞(代名動詞)の方を用いて、さらに“laisser”を入れて、次のような文章にすればどうかと思うのです。
 
 “c’est se laisser dépouiller de son corps et de son esprit ainsi que du corps et de l’esprit de l’autre.”
 
 私の方が当然無知ですから、とんでもない勘違いをしているかも知れませんが、あえて試験の答案のつもりで書いてみました。フランス側の訳文が記された案内冊子は、その禅仏教センターとつながりのある Nyl ERB 女史から頂いたものですので、女史を通じて先方の見解を伺いたく、既に女史に伝えました。恥をかくのは私かも知れませんが、このリアルタイムのやり取りの結果は後日報告します。
 一方、臨済宗の禅は、曹洞宗に遅れてフランスに導入されました。神戸の祥福寺で修行をした妙心寺派のフランス人僧侶、太寛常慈禅師が、1975年よりヨーロッパで布教を始めました。太寛禅師は1976年に山田無文老師より臨済宗妙心寺派のヨーロッパ代表に任命され、アルデッシュ県に「碧巌山正法寺(la “Falaise Verte”,le temple Shobo-ji)」を創立しました。1989年には臨済宗の開教師となり、妙心寺との緊密な関係のもとに、正法寺の禅堂を維持し続けています。
 曹洞宗と臨済宗の違いを、とりわけ西洋人の立場から見ると、只管打坐の行を本位とする曹洞禅の方がより入り易く、片や思想的に複雑で、かつ公案を用いる臨済禅の方は、敷居が高い感じがするのではないかと思われます。
 法政大学のフィリップ・ジョルディ教授は、「フランスにおける臨済宗の受容過程での課題」というフランス語の論文(注)で、臨済宗がフランス文化に導入されるに当たっての問題を深く論じておられます。その内容の詳細についての紹介は別の機会に譲ることにして、同氏が歴史的視点から、西洋における仏教の受容の問題に言及しておられる箇所があり、示唆深いので、取り上げておきます。
 
 仏教は古代ギリシャ・ローマ時代より西方に入っており、ギリシャ仏教が、奇跡的にもクシャーナ朝やガンダーラ王国で数世紀にわたって続いたのだった。しかしその後は多様なヨーロッパ思想の中で、仏教は寸断されたり再解釈されたりして、変質することになった。ショーペンハウエルやニーチェのように、その哲学思想を部分的に仏教に拠っていた人たちに継承されたけれども、既に仏教は本来のものではなくなっていた。
 このように、過去において仏教は、西洋に無事に受容されてから後に変質を蒙った経緯があったが、逆に性急な移植によって起こるかも知れない失敗にも心しなければならない。東洋の伝統文化をいたずらに西洋に適用しようとする誘惑に駆られることは、えてして危険である。東洋の伝統文化を西洋に同化させる過程において、本質が失われては意味がない。西洋の文化的土壌に東洋の伝統文化の本質の種を蒔く。そこで新しいものが生まれる。無理な移植を強いるならば、同化されることなく、新たに生まれるはずのものは、生まれる前に死んでしまうだろう。そのような愚を避けるためには、東洋の伝統を道具化しないこと。そして西洋の文化的条件をわきまえることが必要である。
 これは西洋における禅の受容において、留意せねばならないことである。
 
 フィリップ・ジョルディ氏は、かなり辛口のコメントをしておられます。なおここでは、同氏の文意に沿って筆者なりの書き方をしました。
 禅の移植もまた、「あるがまま」がよろしいようです。
 
 注) JORDY Philippe : De quelques difficultés majeures dans la réception du Zen Rinzai en France (フランスにおける臨済宗の受容過程での課題). 法政大学国際文化・国際文化情報学会『異文化』(論文編),11;7-37,2010 .

 
 
france zen文書

ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ている道元の言葉のフランス語訳。
 
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1-2.アメリカにおける禅への関心
 
 西洋でも、アメリカにおける仏教や禅の受容の流れはフランスの場合と若干違いますので、対比のためにアメリカのことにも少しふれておきます。
 アメリカ合衆国の独立100周年 (1876年)を記念して、自由の女神像がフランスからアメリカに1886年に贈られました。フランス語で “Statue de la Liberté”と呼ばれる像で、したがって英語では “Statue of Liberty”と命名されました。フランス生まれの “Liberty”という名の女神が、高く差し上げる松明で世界を照らしているのですが、それは以後のアメリカの行方を暗示していたかのごとくです。
 禅の課題もまた「自由」にあると言えます。ただし漢字としての「自由」は含蓄が深く、“Liberty”がそれにあたるとは思えません。フランス語の “Liberté”は束縛、拘束、抑圧などからの“解放”を意味します。英語には、それと同じ “Liberty”の他に、「自由」を意味する語として “Freedom”があります。“Liberty”は「~から解放される」という受動的な自由であるに対して、“Freedom”は、より能動的なニュアンスを帯びた自由を表す言葉です。この “Freedom”の方が、禅における「己事究明」の果ての「自由」につながるように思われます。アメリカ人は、自由の女神像のことを “Miss Freedom”という愛称で呼ぶこともあるようですが、フリーダム嬢の松明に照らされて、アメリカでは比較的自由に禅が広がっていきました。
 1893年にシカゴで万国宗教会議が開催され、鎌倉円覚寺の釈宗演率いる日本の仏教団が、そこに参加しました。年譜的には、これは日本仏教、とくに禅が、アメリカの公的な場にはじめてお目見えする機会を得たイベントでした。釈宗演はこの会議で、アメリカの宗教研究者、ポール・ケーラス Paul Carusと知り合います。ポール・ケーラスの著作のひとつ『カルマ Karma』は、釈宗演の弟子の鈴木大拙によって邦訳され、『因果の小車』の題で出版されました。それは芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を書く題材となったものです。そして鈴木大拙は、釈宗演の推薦により、渡米してポール・ケーラスのもとに行き、彼の出版社で編集に携わることになります。
 他に釈宗演の門下の僧侶や、釈宗活 (森田正馬が参加した「両忘会」を主宰していた人物) の門弟も、活動の足跡を残しています。このようにアメリカでは、臨済禅の方が曹洞禅より早く上陸しましたが、独特の公案禅をアメリカにどのように馴染ませようとしたのか、詳らかではありません。
 ところで鈴木大拙は、僧侶ではないため、禅の実践的な普及に関わることはなかったものの、戦前および戦後の二度にわたり、長期間アメリカに滞在し、主に哲学的な立場から禅思想についての英文の著作を出し、講演活動も行いました。この大拙を通じて、いわば神秘的な日本の禅思想や文化に関心を深めた人たちは少なくなかったのです。大拙の影響による禅的なものへの関心を伏線として、戦後の50年代から60年代にかけて、社会体制を否定し人間性の解放を求めたビート世代は、仏教に惹かれ、続いて若者たちの間に広がったカウンターカルチャーの中で、日本の禅や東洋の瞑想が彼らの心を捉えました。実地の禅を示さなかった鈴木大拙に代わって、ヒッピーたちが実験的に禅的行動をしてみせたと言っても、過言ではないでしょう。難解で神秘的な思想を伝えて、アメリカ人に合うような修行の実際を十分に示さなかった点に、臨済宗の問題が露呈したように見えます。
 禅の普及については、臨済宗に遅れて北米に進出した曹洞宗の着実な活動に、むしろその成果を見ることができます。1959年に、曹洞宗の鈴木俊隆老師が、サンフランシスコの日本人街にある桑港寺に、住職として着任しました。折しも、続いていた反体制運動の波は、日系アメリカ人のための桑港寺にも届き、座禅をしにやってくる非日系のアメリカ人たちが増えて、混乱が生じるほどになりました。鈴木大拙に比して、「リトル・スズキ」と自称したという謙虚な鈴木俊隆師でしたが、座禅に来る非日系人に厳しい規矩を課して只管打座を命じ、混乱を収拾します。その一方で現地の参禅者向けに修行の場を用意する必要性を感じ、桑港寺の近くに「発心寺」を開き、さらに1967年には、タサハラに建設した本格的な修行道場としての「禅心寺」を中心に、「サンフランシスコ禅センター」を創設しました。こうしてアメリカにおける禅は、1960年代より、理論から実践へと移行していきました。
 鈴木俊隆師の他にも、日本から派遣された前角大山なる曹洞宗の老師もいて、このような初代の日本人指導者のもとで育成されたアメリカ人の禅僧が、アメリカに固有の禅を創造していきます。
 たとえば、アメリカ人のローリー大道老師によってニューヨーク郊外に「マウンテン禅院」が創設されましたが、大道老師は過去に臨済禅との接点を有し、前角老師から曹洞禅を継承し、さらにチベット仏教の影響も受けているのです。また、日本では曹洞、臨済の双方を取り入れた原田祖岳を受け継いで、安谷白雲が鎌倉に設立した三宝教団がありますが、その安谷師は1960年代にアメリカに渡ります。ハワイ、そしてロサンゼルスへと入り、伝統にとらわれない禅を伝えました。アメリカ人のニーズに合った安谷師の指導により、その流れを継ぐ弟子たちが育ち、彼らが指導者となって今では国内に複数の拠点ができ、アメリカ人在家者が馴染みやすい禅として、多くの人たちに受け入れられています。三宝教団は、日本で既に伝統の垣根を越境していた禅が、国境を越えて自由の国アメリカで活路を開いた例でもあります。
 近年、カリフォルニア州のシリコンバレーに集まっているIT企業の従事者を中心に、アメリカ人の禅への関心はますます高まっていると言われています。決まって引き合いに出されるのは、2011年に早逝した、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズのことです。ジョブズは友人とアップル社を設立したものの、1985年に会社を追われて失意に陥り、以前から知っていたロスアルトス市の乙川弘文老師の指導を仰ぎます。乙川老師は、鈴木俊隆老師がサンフランシスコ禅センターを創設した際に、日本から呼び寄せられた曹洞宗の僧侶ですが、その後はロスアルトス市内の「俳句禅堂」の住職をしていて、ジョブズはそこに出入りしていたのです。乙川師の下でジョブズがどのような修行をして、どのような境地を得たのか分かり難い点はありますが、彼は新たに立ち上げたネクスト社に戻り、再びIT開発の最前線に立ちます。
 ジョブズは、少年時代より高い知能と独自の発想ができ、その非凡な能力によりITの開発をして、若き成功者になりました。しかし性格的には、かなり問題を有していたようです。彼は「シンプルであることは、複雑であることより難しい」ということを、改めて禅から学び直したと見ることもできます。しかし挫折したときの彼は、禅によって自分をみつめる体験に恵まれたのではないでしょうか。乙川師自身も風変わりな人だったと言われますから、波長が合ったのかもしれず、師の理解を得て、ジョブズは自分を矯めていったのではないかと推測します。
 シリコンバレーのIT企業では、社員たちに向けて、瞑想 (メディテーション) やマインドフルネスが導入されていると聞きます。高度な知的作業をするに当たって、無駄な思考は省き、必要な思考に集中することは必要ですから、思考の効率化を図るエクササイズとしては、瞑想もマインドフルネスも有用でしょう。しかしそれらと禅は同義ではなく、自分の人生を見つめ尽くして、それを今に収斂させるのが禅ではないかと思うのです。ITと禅を一挙に結びつけるのは、短絡的ではないでしょうか。
 アメリカにおける禅の流れを大まかに記してきましたが、その中に見られる特徴を以下に改めて略記しておきます。
 伝統のない自由の国、アメリカでは、禅は自由に受け入れられ、自由な展開を示しました。臨済宗、曹洞宗という宗派を超えることはタブーではなくなり、むしろ自由な融合が起こっています。
 鈴木大拙による東洋の神秘のような教えだけでは飽きたらず、当然のこととしてプラクティスが求められるようになりました。ただそこには、実際を重視するアメリカ人の気風が見て取れます。そんなアメリカ人を惹きつけたのは、神秘性を残しつつ、同時に実用的でもある瞑想(メディテーション)だったのです。アメリカにおける瞑想には、禅、チベット仏教、東南アジアの仏教の三つの流れが合流しています。しかし宗教色のない実用的な瞑想として受け入れられたのは、マインドフルネス瞑想でした。それは脳科学的にも有効性があるとされ、禅とは一線を画して仕事や生活の中で活用されているようです。
 このような流れの中に、伝統から解放されてフリーダムの道を歩むアメリカを見ることができます。
 奇妙なことに、森田療法のアメリカへの導入は低調であるように見受けます。森田療法のすべてが禅であるとは言いませんが、アメリカで禅に関わっている人たちは、森田療法をどう捉えているのか、気になるところです。

 参考文献
1.ケネス・タナカ : アメリカ仏教―仏教も変わる、アメリカも変わる― . 武蔵野大学出版会, 2010.
2.石井清純,角田泰隆 : 禅と林檎― スティーブ・ジョブズという生き方―. ミヤオビパブリッシング, 2012.
3.岩本明美 : アメリカ禅の誕生―ローリー大道老師のマウンテン禅院―. 東アジア文化交渉研究別冊 6,11-31,2010.

 
 
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2.禅の「悟り」と森田療法における「治癒」への理解の問題

 
 最後に、またフランス側の森田療法理解の問題に戻ります。
 このシリーズ稿で、先にニル・エルブNyl ERB 女史が森田療法の治癒状態を禅と重ねつつ、「アタラクシー」に似た境地として理解していたことについて述べました。何をか言わんや、ですが、彼ら彼女らにとっては、禅や森田療法についての情報と体験が少なくて、そのような理解のしかたが精一杯のところだったのです。まして、京都の三聖病院の禅的森田療法、つまり宇佐療法からの入門を経由して、本物の森田療法を理解するという課題は必要でしたが、フランス人にとっては容易なことではなかったようです。Nyl ERB 女史も三聖病院という鬼門を入り、魔境に陥ってしまったのです。
 そこで私は、アタラクシーとの比較対比が可能な、ひとつの禅の境地として、快川和尚の放ったと言われる言葉、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」(正確には、後述するように「火も自ずから涼し」)を引用し、このような高踏的境地を指し示すことの非妥当性を、あえて指摘しておいたのでした。そして最後にその問題に立ち戻らねばならないと思って、ここまで保留してきたというわけです。
 宇佐玄雄も森田正馬も、治癒の境地を示すために禅で言う「無寒暑」を引き合いに出しています。『碧巌録』第四十三則の「洞山寒暑廻避」の「本則」に、ある僧と洞山良价との次のようなやり取りがあります。
 僧「寒暑到来せば如何にか廻避せん」。
 洞山「何ぞ寒暑無き処にゆかざる」。
 僧「如何なるか是れ寒暑無き処」。
 洞山「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は闍黎を熱殺す」。
 読みやすいように一部表記を改めましたが、以上のような洞山良价の教えが出ているのです。「闍黎」とは、僧のことで「あなた自身を」というような意味であり、また「殺」は表現の誇張であって、「なりきってしまえ」と言っているのです。短く言えば「寒時寒殺、熱時熱殺」で、「熱い時は熱さになりきり、寒い時は寒さになりきれ」ということです。(禅は誇張した言葉で、持って回ったことを言います。「言うは易く行うは難し」ということにならないように、わざわざ難解な表現をするのだろうか、と言いたくなりますが…)。ともかく、これは森田も常に教えていた「なりきる」ということを言っています。
 さらに「本則」の次の「評唱」に、「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という洞山の教えの句が出てくるのです。火刑にされる前に、快川和尚は脳裏に浮かんだ『碧巌録』のこの句を言ったという伝説のような話です。猛暑の到来と火刑とはわけが違いますが、禅の寓意を理解するほかありません。
 森田正馬は、禅でいう「悟り」をなるたけ平易に理解して、その限りにおいて、療法における治癒と禅における悟りとを同一視しました。森田は、禅の難解さを嫌い、悟りを素朴に捉えて、「すべての行動が自由自在で、最も適切に働く時の状態」が「悟り」の境地だとみなして、これを治癒と同等視しました。「自由自在」が放恣を意味するのではないことは、言うまでもありません。「随所に主となれば立処皆真なり」(臨済義玄)というような自由を生きることなのでしょう。
 フランス人にとっての自由、アメリカ人にとっての自由、日本人にとっての自由、これらの差異を理解しながら、建設的に対話を続けていくことが必要です。
 
 付記
 本稿では、森田療法へのフランス人の反応として、雑誌 PSYCAUSE に現れた Nyl ERB女史らの発表を取り上げましたが、フランス人たちからの森田療法への反響は、以前からさまざまありました。中でも面白かったのは、ディディエ・ブルジョア Didier BOURGEOIS という精神科医師は、「日本の森田療法はエグザイルEXILEだ。『正常病』だ」という、事実上筆者に向けた批判をしてくれました。このような毒舌の方が、おめでたい「アタラクシー」より、はるかに面白いのです。この毒の利いた語りは、小著『忘れられた森田療法』で紹介したことがあります。この毒舌精神科医は、最近沈黙しています。高齢で、焼きが回ったのでしょうか。
 フランスから、もっと毒矢が飛んでくることを期待しているのです。

 
 

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無心(RYUMON-JI 龍門寺の猫)