【再掲】禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【後編】

2015/12/28

 森田療法は、世に認知されている数多くの精神療法のうちで、名称に創案者の人名が冠された唯一の療法です。しかし、それは単に心を病む人たちに対する精神療法であるにとどまらず、古来よりのすべての人間の生き方そのものです。精神科医師になった森田正馬は、自身が神経衰弱の状態になって悩んだ経験を生かして、この精神療法を創りました。自分自身が、森田療法を生きた第一号のケースでした。つまり、森田療法とは、治療者である以前に、「悩んで、そして生きた当事者であった森田」によって創られた療法という意味で、森田の名がついた療法であると理解する方が自然だと思われるのです。
 そこで、森田療法の基礎事例としての森田正馬の生涯を、「十牛図」に対照しながら、挿話的に辿ってみます。

 
 

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 それは、父に反抗した青年が、やがて悩める人たちの父となった物語です。
 
 
 

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 先に、十牛図の階梯を三段階に分けて理解しましたが、それに対応するごとく、森田の生涯も、同様に三段階に分けて捉えることができると思います。
 おそらくそれは偶然ではなく、ライフステージは、大まかに三段階があるように思われるのです。我もしくは自我を獲得することが主題になる第一のステージ、思慮分別をわきまえるに至る第二のステージ、そして老成した人になる第三のステージです。
 まずは森田正馬の生涯の第一の段階です。高知県香美郡冨家村(現 香南市野市町)に出生。おとなしい無口な子で、小学校の成績は良かったとも、良くなかったとも言われるが、とにかく神童のように優秀な子ではなかった。そのため小学校教員をしたことのある父から厳しく勉学を強いられ、かえって勉強嫌いになっていった。9歳頃、村の金剛寺という真言宗の寺の地獄絵を見て恐怖を感じ、それが原体験となって、生と死の問題を考えるようになり、長じてもたびたび不安を覚えることになったという。
 夜尿があって12歳頃まで続いた。
 農業を営んでいた父は、正馬の中学校への進学にすぐには賛成しなかっので、遅れて中学校に入学。中学校時代から神経衰弱の症状が起こりだした。友人と一緒に東京へ出奔して苦学を志すが挫折して帰郷。さらに、旧制高校に入るために、高知出身の大阪の医師、大黒田龍が奨学金を出すという養子縁組に、親に無断で応募して養子になった。親に知られて、養子縁組を解消し、中学校卒業後は旧制熊本高等学校に入学。この旧制高校時代に、仏教哲学を学び、関心を深めていく。
 東大医学部に進学したが、神経衰弱症状のため勉強が手につかず、父の学資の仕送りが遅れているせいにして、父への面当てに、死んでやれと、神経衰弱の薬の服用を止め、必死で勉強したら、試験に好成績を得て、神経衰弱の症状も吹っ飛んでしまった。これは有名なエピソードで、この自身の体験が森田療法を生む契機になったと言われる。
 しかしこんな話から、当時は実にわがままな青年であったことが、よくわかる。暴れている黒牛そのものである。
 
 
 

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 生涯の第二段階。
 医師になり、初めて他者を治療する立場の人になった。仕事が人を作っていったのでしょう。
 父への感謝と尊敬の念が湧き、初めて手にした百円紙幣を父に送ったのでした。
 神経衰弱に対しては、試行錯誤の末に、大正8年、45歳で自分の療法を確立します。
 さらに大病にかかり、死を覚悟します。四十代にして、ようやく「死は恐れざるをえず」という悟ったのです。こうして、我執から離れていきました。
 白牛になり、さらに牛は消え失せる段階にまで達しました。
 
 
 

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 生涯の第三段階。
 いよいよ森田の面目躍如となります。自宅に入院させた患者と生活を共にし続け、自ら先頭に立って動き、時には叱り、常に患者を慈しみました。郷里の母校、冨家小学校に寄付を重ねて、晩年には講堂を建てました。人間愛の人、森田は「今親鸞」 と慕われたのでした。
 死の床においても、「死にたくない」と言い、また高熱にうなされて意識がなくなったとき(せん妄状態)、こんな夢を見ていたと、周りにいる人たちに身をもって教える死の臨床講義をしたのでした。本物のデス・エデュケーシです。教えるも、教えられるも、森田療法は死ぬまで続くものなのです。
 
 
 


 森田正馬が患者さんたちと起居を共にした生活は、まさに「十牛図」の第十図の「入鄽垂手」に相当します。森田は禅に関心を持ちながら、無念無想に浸るようなたぐいの座禅を嫌いました。禅の修行に人工的な不自然さを見ていたようです。生活の中にある自然な禅を実践していたのでしょう。「十牛図」と対照しても、森田の生涯を考えるに当って、教本的な二次元の教えは平板で、3Dの世界に出ていく実践にその面目が、最も生き生きと見て取れます。患者と一緒に買い物に出たり、浅草へ映画を見に行ったり、熱海の観梅に出かけたりして、実際に即して指導しました。病身の森田は乳母車に乗って患者と買い物に出かけましたが、恥ずかしい格好よりも、市場の狭い通路を通るには乳母車が好都合だったからです。
 
 
 

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 弟子や従業員さんたちに囲まれている、病も篤い森田正馬です。
 
 
 

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 森田が創案し、実践した療法─森田自身は「余の療法」と呼び、没後に「森田療法」と呼ばれるようになった─は、決して特殊な療法ではありません。
 人生には必ず悩みがある。悩みは神経質な人たちに現れやすい。一方森田の療法は、すべての人たちの人生に対応するものだけれど、精神医学の立場からは、悩める神経衰弱(神経質)の人たちが、さしあたり対象になった。そのような成立の事情から、後年、森田療法は神経質(神経衰弱)の療法だという固定観念が生じたようです。
 しかし、森田は治療対象として、まずは神経質に焦点を当てたけれども、それに終始することなく、神経質の表層の心の病理の治療もさることながら、生老病死の苦と共に生き抜くことを教えているのです。そしてさらに、治療者の人間性の重要性を力説したのです。
 
 
 

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 十牛図の三段階と、森田の生涯の三段階が対応するものとして、理解したのでしたが、森田自身、修養には三段階があると言っているのです。
 学歴になぞらえるのは語弊があるのですが、スライドでは、森田の言い方に忠実にそのまま紹介しました。
 我慢すれば見返りが得られると、自己中的な功利的期待が働くのは、初級程度で、我にとらわれている。黒い牛さんの域。
 諸行無常を頭で認識する知力を持つのは中級程度で、我を捨てて無我になりましたという、分かったつもりの心境。白い牛さんの域。
 さらに苦楽をあるがままに受け入れて、生の欲望(生の躍動)になりきって、無心に生きるのが、上級程度です。無心の段階に、もはや牛はいません。
 
 
 

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 森田正馬の人間的成長の軌跡を「父親殺しpatricide」として捉えることができます。もちろんここでの「父親殺し」とは精神分析で言うような意味でです。
 心身ともに弱い子どもだった正馬は、青年になって「疾風怒涛」の反抗期を迎えます。しかし父は偉大な存在でした。父への反発は続きましたが、医師になって後、自分を一人前にしてくれた父への感謝の念がふつふつと湧きだしたのでした。父への反抗は父に及ばない子どものすることです。父に感謝し、父に盲従もせず、大きな人間になっていくのが、父を越えることになるのです。森田正馬は大きな器の治療者になり、患者に対して、厳父として慈父として、父性愛を発揮しました。
 森田療法は父性を軸とする療法であると言えます。その点では禅に似ています。内観療法や真宗において母性が重要なのと対照的です。
 
 
 

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 『臨済録』にも「父親殺し」に相当する教えがあります。仏に対しても、師に対しても、両親に対しても、感謝や尊敬を忘れてはならないが、偏愛、盲従盲信に陥ることなく、差別なく人に目を向け、広く学び、不断の努力をして前進せよと教えているのです。
 
 
 

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 森田が実際に弟子たちに教えた言葉を掲げました。自分に盲従せずに、自分を越えていけ、と教えたのです。ここに父性愛の極致を見ることができます。
 改まって教えた言葉をここに引用しましたが、日常の卑近なやりとりの中で、いつも森田は治療者に盲従することの愚を戒めました。たとえば「わしが、『三遍回ってワンと言え』と言ったら君はそうするのか」と叱って、治療者に盲従せずに、自己判断をするように諭したそうです。
 
 
 

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 森田は独自の療法を創りましたが、その技法の独自性をいたずらに誇ったのではありません。彼は治療者の人間性を重視しました。
 彼は「間接療法」が重要だと言いました。「間接療法」とは、どんな療法であれ、それを施す技法や技術より、それをおこなう治療者の人間性や人生観が間接的に隠し味として如何に重要であるかを強調したものです。まず第一に、森田の自身の療法において、治療者の自己研鑽を不可欠だとしているのです。そしてそれは、他の療法にも押し広げて言えることだとしているのです。後世において、そのような森田の治療観が忘れられがちになっているのは、残念なことです。
 
 
 

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 事例など、追加的に述べたいことを少し補足します。
 
 
 

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 事例の中身の記述部分は都合により削除しました。しかしタイトルから概要をわかって頂けるでしょう。わが息子をいとしく思う身体障害の高齢の母と、社会的生産性はないけれど、母の在宅介護をし続けた当事者の例です。二人での家庭内生活は幸せでした。これをマザコンというなかれ。親子のひきこもりというなかれ。二人三脚のどこが問題でしょう。幸せにはいろんな形があっていいのです。
 
 
 

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 「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」
 この言葉からも、森田の基本的な思想と教えがわかります。神経質や神経症の症状を治す療法だなどとは言っていません。水戸黄門の主題歌と同じなのです。そこで、それをもう一度、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 
 
 

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 最後に森田療法の本質を、短い言葉で記しました。森田療法にとらわれ、それを頑なに追求するほど、がんじがらめになって、森田療法本来の自由から遠ざかってしまうのです。ある禅の先生は、森田療法は禅と同じではないかと言ってくださったのでした。
 
 
 

                                   (後編 了)

 

 以上の講演では、先行する以下の発表が下敷きになっている。

 

1.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 森田正馬自身の生き方を基礎事例として. 第27回日本森田療法学会(一般口演),2009(同抄録:日本森田療法学会雑誌.21(1);73,2010).

 
2.A Comparison between “the Ten Ox-herding Pictures” of Zen and “the Cure” in Morita Therapy: Shoma Morita’s Life as the Basic Case. 第7回国際森田療法学会,メルボルン,2010年3月.

 
3.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 ─森田正馬自身の生き方を基礎事例として─ 京都森田療法研究所web掲載論文,2010.

 
4.禅の十牛図と森田療法 ─悟りとは?そして治癒とは?─ 第12回総合社会科学会(特別講演),2010年6月,東京.