森田正馬の名、「正馬」の呼称(読み方)について─「しょうま」と「まさたけ」─

2016/02/15

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 昨年は高知にご縁ができました。発足したばかりの「森田正馬生家保存を願う会」に入会し、秋には倉敷での森田療法学会に参加したその足で、高知県の森田正馬の生家を初めて訪問しました。そのとき、「生家保存を願う会」の事務局長で森田正馬のご親族の森田敬子様にお目にかかることができました。12月には高知市内で開催された日本精神障害者リハビリテーション学会に呼ばれて、森田正馬についての話をしましたが、その会場に森田敬子様もおいで下さり、さらに翌日には、野市町で開かれた森田療法セミナーに出席しました。おかげでご縁ができて、ご親族のこのお方と交流させて頂くようになりました。お会いしたり、また通信もさせて頂いた中で、森田様はご親族の立場から、当然なのでしょうが、「正馬」の名前は長年「しょうま」と呼ばれてきたのに、近年「まさたけ」と言われることが多く、呼称(読み方)の混乱が起こっていることを憂慮しておられることを知りました。
 確かに呼称の不統一は、あまねく混乱を招きます。そこでこのことを少し考えてみることにします。

 
 

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1.1年前に、出版社から「正馬」のふりがなを求められたこと
 
 私自身は以前から、「しょうま」という読み方しかしていず、したがってあまり問題意識を持っていなかったのでした。ところが、1年前のこと、たまたま小著を上梓するにあたり、出版社の編集部の方と「正馬」の読み方について、やりとりをする機会が生じました。その出版社では、有名無名を問わず、人名については本の中の初出の箇所で必ずふりがなを打つ方針にしておられたのです。校正刷りを見たら、「まさたけ」とふりがながつけられていました。出生以来幼い頃は「まさたけ」だったという話はあるにせよ、その後はずっと「しょうま」で通ってきたのだから、ことさらに「まさたけ」とふりがなを打つのは不適切だと思いました。
 そこで、ふりがなをつけるならば、「しょうま」にしてほしい旨を、私は出版社に伝えました。しかし出版界では「まさたけ」と読むことになっているとの回答を頂きました。それに対して私は、「しょうま」と音読するのが無難であるという見解を伝えたのです。とりあえずそのときの折衷案として、正馬にはふりがなを付さないということで落着したのですが、その代わりに、そのページの余白に、読み方についての私の見解なるものを急遽記入するように要請されたのでした。
 私の見解というのは、人名、とくに男性の名前の読み方(呼び方)についての、常識的と言ってよいであろう一般論です。そもそも戸籍謄本には、名前のふりがなはつけられていません。それがひとつの混乱のもとですが、それに先立つ問題として、森田正馬が出生した明治の初期に、戸籍謄本がすでに存在したかどうかという疑問もあります。
 ともあれ、戸籍謄本があっても、そこに名前のふりがなは付されないというわが国の事情を踏まえて、私は人名の読みについて二通りの見解を持っています。
 まず第一は、訓読と音読のどちらも可能だろうということです。日本語の語感として、訓読の方が柔らかみがあるので、子どもに対しては訓読みで呼ぶ方が優しい。けれど大人であれば、名を音読する方が、風格ある響きが出る。さらにデリケートなことを言えば、大人でも近親者や親しい人から、訓読みで呼ばれると、心理的距離の近さが確認されるし、一方大人同士の間柄では、音読で呼ぶと距離感が読めないが、無難な呼び方になる。
 要するに、まず言いたいことは、名前には訓読と音読の二通りがあって、使い分けがなされているということなのです。公的な文書の上では、訓読か音読かひとつの名前を一貫して使用せざるを得ませんが、だからと言って、片方の名前が簡単に消滅するわけではありません。このように私の持論としての第一の見解は、人名の「訓読・音読二通り説」なのです。
 今日においても、一部の森田療法研究者や出版関係者から「まさたけ」と呼ばれて(読まれて)いますが、それは、出生時に「まさたけ」という訓読みでの届けがなされたらしいから、二者択一的にそれを正式な名とみなすという、蓋然性に依っています。仮に届け出が史実であったとしても、訓読は概して子ども向けに相当するので、それを避けて、大人用の音読である「しょうま」を採るのがよいとするのが、私のこの第一の「音訓両読説」です。
 次に、第二の視点からの見解があります。大人の名は音読する方が無難であるという意味のことを、上述しましたが、そのような世間的常識とも関連します。敬意を表して相手の名を呼ぶ(読む、書く)場合には、その名を音読するのが古くからのわが国のしきたりです。つまり尊称として音読するのです。知人であってもなくても、また著名人であってもなくても、当該人物への敬意を、その名の呼び方(読み方、書き方)に込めて音読するという美風が従来よりわが国にあるのです。
 これが私の第二の見解、「音読尊称説」です。森田正馬のような偉大な人物に対しては、呼称に尊称を用いるべきです。その見地から、音読で「しょうま」と呼ぶのが適切だと思うのです。
 小著の中で「まさたけ」のふりがなを避けた理由は以上の通りでしたが、校正時には余白のスペースに簡単なコメントしか書けませんでした。そのため、ここにやや詳しく、自分の見解を述べました。
 以上の私見を補うため、次に、森田正馬が生まれた時代に戸籍の制度はどうなっており、正馬は地元で実際にどう呼ばれていたか、さらに医師になった森田がどう呼ばれ、没後に後世の人たちは彼をどう呼んできたかということについて、若干のことを記しておきます。

 
 

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2.古い資料の調査による命名確認の可能性と、ご親族らの見解について
 
 まず森田正馬自身が、昭和11年の第五十八回形外会で、次のように語った記録があります(『森田正馬全集』第五巻)。
 「私の名は、本当は正馬(ショウマ)ではなく、マサタケと読みます。馬の一字名もあるが、その時はタケシと読みます。」
 「本当はショウマではなく」ということは、実際には「ショウマ」で通っているということを意味しています。しかし「本当は…マサタケ」だという陳述にこだわる人たちもいて、呼称の混乱が起こることになりました。
 森田正馬についての伝記の代表的な著作、『森田正馬評伝』(野村章恒 著)では、正馬の名前にふりがなはつけられていず、読み方についての言及は一切されていません。そして同書に次のような記載があります。
 「明治十年末に戸籍法ができ届出をした戸主は祖父の森田正直であった。」 この野村氏の一文では、戸籍や届出に触れられているが、説明が尽くされていないので、明治初期の戸籍について、少し調べたことを書き留めます。
 

 明治4年に初めて戸籍法が制定され、翌明治5年に最初の戸籍(壬申戸籍)が編製された。しかしこの戸籍は江戸時代の人別帳を踏襲しており、戸口調査を目的とするもので、戸長に管理が委ねられていた。
 地域の行政面では、明治11年に制定された郡区町村編制法が、高知県で翌明治12年より施行されたことにより、森田の生家のある富家村を含んで、行政区画としての香美郡が発足し、郡役所が赤岡村に設置された。したがって、この明治12年以降は、戸籍も郡役場の管理下に置かれて、郡役場へ戸籍内容の届け出がおこなわれることになった。しかし戸籍と言っても、中身は旧態依然とした壬申戸籍であった。その後明治19年の戸籍法で、出生・死亡の届け出の強化が規定された。さらに明治31年の戸籍法では、民事身分を登録する戸籍へと、戸籍の性質の改善がはかられた。
 

 このような明治の戸籍制度の歴史の中で、高知県の香美郡において、出生に関する届け出が役所に出されるようになったのは、明治12年以降のことで、最も早い場合で明治12年であり、まして名前の傍訓(ふりがな)の記入が求められた、もしくはその記入が可能であったとは、当時の戸籍の性質からして想定し難いと思われます。
 したがって、先に引用した野村章恒氏の、戸籍法や届け出についての記述は、正確さを欠いているように思えます。「明治十年末に戸籍法ができ」という記載は理解し難く、正確を期すなら、明治11年に郡区町村編制法が公布され、翌12年に行政区画としての郡が発足して郡役場ができて、以後、戸籍の届け出が始まった、とすべきです。そして、もし明治12年に祖父が戸籍の届け出をしたとしても、明治7年に生まれた正馬はそのとき満5歳、数え年なら6歳であり、幼名の光(みつ)が使われていたであろう年齢です。これを逆に考えれば、この届け出を機に戸籍上の名を「正馬」と固定したと見ることもできます。しかし戸籍は壬申戸籍を原型としており、名前に傍訓を付すべき趣旨のものではなかったのです。
 ちなみに時代が下って昭和の戦後になると、新しい戸籍法により出生届の手続きが定められました。その届においては名前の傍訓の記入を希望すれば記入可能となり、傍訓が住民基本台帳に移記されるようになりました。しかし、依然として戸籍謄本に傍訓は記入されません。いずれにせよそれは戦後の制度であり、明治時代には出生届そのものがなかったのです。
 そのようなわけで、戸籍に関連する公的な古い資料を調査して、正馬の幻の傍訓を見つけ出すという可能性は、まずないということがわかったのです。

 

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 ところで、高知県で地域の文芸誌「文芸香美」が刊行されており、平成20年度の第33号から3回にわたって「森田正馬特集」が組まれました。この中に、徳弘 博氏による「森田正馬博士のことなど」と題する連載稿があります。この稿において徳弘氏は、正馬の読み方について自身で言及することを保留しておられます。ただし、連載稿の冒頭の箇所に、広辞苑に出ている「森田正馬(もりたまさたけ)」という、ふりがなつきの項目見出しと説明文が、引用の形でそのまま掲げられています。また連載の最終回の稿の巻末に森田正馬年譜が付されており、その最初の項には次のような記述があります。
 「…幼名 光(みつ)と呼ばれた。父22歳、母26歳(明治10年戸籍法施行により祖父正直が光を正馬(まさたけ)と届出)」。
 このように戸籍に関して、先に引用した野村章恒氏の記述に酷似した、届出についての短文が、括弧に入れて添えられています。しかもここでは、野村氏の文にはなかった「まさたけ」というふりがなが登場します。徳弘氏のこのような記述はどんな根拠に基づいているのか、不明です。広辞苑にまで「まさたけ」というふりがなが現れて、地元の人たちにも呼称の混乱が波及した現象が、少なくともその背景にあるように思われます。

 

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 届出の史実への言及はどうしても信憑性の問題がつきまといます。実際に家族から、親族から、地元の人たちから、どのように呼ばれていたのかという事実こそ重んじられねばなりません。
 森田と同じく高知の出身で、昭和8年に東大医学部に入った、森田の後輩にあたる、坂本 昭なる人物がいました。
 この人は東大の学生時代に、対人恐怖や赤面恐怖に悩み、森田の形外会に参加しながら、その指導を受け、「森田家の学僕」(自称)となりました。精神科でなく内科を専攻しましたが、その後高知市長になったほどの人物です。この坂本 昭氏が「森田正馬先生のことども」という随筆(注1)の冒頭で、正馬の呼称について述べておられるので、そのくだりを次に引用します。
 「正馬をショウマと呼ぶかマサタケと読むかは、慈恵大精神科教室のみならず、多くの関係者の問題であった。土佐には動物名の多いことはよく知られている。(…)正馬の名も馬をもとにしてつけられている。正確を期するならマサタケであろうが、普通一般にはショウマで通ってしまった。御存命中の母上が、ショウマと呼んでいたことから、呼び名はショウマでよかろうと思う。」
 あっさりとした文章ですが、「御存命中の母上が」と書かれているところから、母親の亀はその晩年に至るまで、正馬をショウマと呼び続けていたことが窺われます。
 しかし、これを本人の幼少期にまで遡って推測してみれば、幼名の「光(みつ)」から本名の「正馬」へと昇格した頃には、過渡的に「まさたけ」と呼ばれていたとしても決しておかしくはないのです。長じるとともに「しょうま」になったと考えておくのが、むしろ自然です。
 ご家族のみならず、かつて地元で同時代の人たちからどう呼ばれていたのでしょうか。これについて、確たるものではありませんが、ある程度の証言があります。
 野市町の生家の近くにお住まいで、かつ「現代の古老」にあたる世代の小松亮氏は、平成3年6月に地元の有線放送で、森田正馬についての話を提供され、その原稿は翌年「生活の発見」誌(注2)に掲載されました。その稿の末尾に森田正馬の呼称についての簡単な言及があります。「兎田の古老は博士(ハカセ)さん博士(ハカセ)さんと申して遺徳を偲んでおられました。(…)今は地元でもショウマさんショウマさんと呼んでいます…。」
 また、森田正馬の治療を受けた後、その高弟として、森田療法の生き証人になっておられた井上常七氏が正馬の呼称に言及なさった記録もあります。平成8年の京都の三省会における井上氏の講演の記録が、「生活の発見」誌の平成21年4月号から連載(転載)されており(注3)、その中に呼称のことが述べられています。「「まさたけ」なんて奥さんからも聞いたことがないし、森田のお母さんの亀さんからは、しょうまをよろしく頼むよと私に言うんですね」。 また「わが子が野次馬になったら困ると思って親父がつけた名前だと森田が言うのです。…『野次馬にならざれかしと親心 特につけけんわが名正馬と』こういう歌があるんです」。井上氏はまた、自身の土佐訪問時のこと(その時期は不明)にふれて「私が土佐に行った時も土佐の人たちから決して「まさたけ」とは聞いたことはないのです。村の人はしょうまさんと言うんですよ」。井上氏は以上のように述べて、全面的に「しょうま」の呼称の正当性を支持しておられます。
 このように、家族から「しょうま」と呼ばれ、またかくも偉大な人物が郷土から輩出したことを誇りとする地元の人たちは、古くから敬愛の念を込めて「しょうまさん」と呼び慣わしてきたようです。先般、ご親族の森田敬子様からも、そのようなお話を伺いました。「しょうま」という呼称や読み方で統一されることを願っておられる所以なのです。
 

注1: 坂本 昭 「森田先生のことども」『坂本 昭 エッセイ集 自由と民権』土佐芸術村叢書、 土佐芸術村出版局 刊、 1974
注2: 小松 亮 「わが郷土の人 森田正馬(その二)」、生活の発見、平成4年10月号。
注3: 井上常七「形なきものに事実を観る」(一、二)、生活の発見、平成21年4月号および5月号(「三省会報」第66号、〈1996年7月発行〉より転載)。

 
 

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3.医師としての「正馬」の呼称
 
 森田がみずから形外会で「本当は…マサタケ」だと言ったエピソードは、事実無根であるとは考え難いですが、自称他称ともに「しょうま」であることを前提に、宴会で隠し芸を披露するかのように、昔話を持ち出したほどのものではなかったでしょうか。
 また、森田正馬の愛弟子であり、かつ弟子の最後の存命者であった瀬戸行子様のお世話を、他界される2011年までしておられた吉田恵子様によれば、瀬戸様は、「森田正馬先生は『しょうま』であり、『まさたけ』なんて聞いたことがない」 と証言なさっていたそうです。そのことについては、2012年の第30回日本森田療法学会で、吉田恵子様(高良興生院・森田療法関係資料保存会)らが発表されました(注4)。また南條幸弘先生もご自身のブログ「神経質礼賛」(注5)で、正馬の呼称の問題を取り上げて、井上常七氏が「生活の発見」誌(注3に同じ)において、「しょうま」の呼称を重視しておられたことを指摘なさっています。そして井上氏が「マサタケなんて聞いたことがない。完全な誤りです。皆さんはショウマと言ってください」と言ったくだりを引用なさっています。同時に師であった大原健士郎先生は「まさたけ」という読み方を採っておられたことにも事実として言及しておられます。
 ともあれ、医師である森田が、「しょうま」の呼称で通ってきたことは、大方の証言よりして明らかだと思われます。
 

注4: 吉田恵子、織田孝正 「瀬戸行子、森田正馬(しょうま)と過ごした日々―「瀬戸さんのような人は、僕の事をずっと考えるんじゃろうのう、かわいそうじゃ」」(一般口演)、第30回日本森田療法学会(東京)、2012(学会後の抄録は、日本森田療法学会雑誌;24(1)、p 96、2013)
注5: 南條幸弘先生のブログ「神経質礼賛」420、森田マサタケかショウマか。2009年4月27日。

 
 

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4.出版物に見る「正馬」の読み方
 

4-1.日本語出版物に見る「正馬」のふりがな
 調べについては、新刊書を除き、十年以上前に刊行された森田療法関係の出版物で、手元にあったもの、数十点を対象にしました。最近の出版物では、慎重を期してか、多くのものが、ふりがなを打つことを避けています。古い出版物でも、一貫してふりがなを打たない著者(たとえば、鈴木知準先生)がおられ、ふりがなのない出版物は水面下に残しました。
 
 

4-1-1.「まさたけ」を採用したもの
 

  1)森田正馬、水谷啓二『神経質問答』白揚社、1960。
  2)水谷啓二『胆力〈度胸〉がつく本』青春出版社、1967。
  3)大原健士郎、藍沢鎮雄、岩井寛『森田療法』文光堂、1970。
  4)長谷川洋三『森田式精神健康法』ビジネス社、1974。
  5)加藤正明ら編『精神医学事典』弘文堂、1975。
  6)辻村明『私はノイローゼに勝った』ごま書房、1979。
  7)青木薫久『心配症をなおす本』KKベストセラーズ、1979。
  8)長谷川和夫、岩井寛『森田式生活術』ごま書房、1979。
  9)長谷川和夫『マイナスの心をプラスに転じる法』ごま書房、および同著者『森田療法入門』ごま書房、いずれ
 も1993。
 10)辻村明『自分と戦った人々』高木書房、1993。
 11)辻村明『体験・森田療法』ごま書房、1995。
 12)渡辺利夫『神経症の時代』TBSブリタニカ、1996。
 13)大原浩一、大原健士郎『森田療法とネオモリタセラピー』日本文化科学社、1993。
 14)大原健士郎:森田正馬の業績.雑誌「精神医学」;42(8)855-861,2000。
 15)大原健士郎『人間関係に自信がつくクスリ』三笠書房、1996、および同著者『心が強くなるクスリ』同書
 房、2000。
 16)大原健士郎著、講談社刊行の本『あるがままに生きる』1994、『とらわれる生き方、あるがままの生き
 方』1996、『神経質性格、その正常と異常』1997、『こころを楽にする生き方』1997、その他。
 17)大原健士郎『神経質性格、その正常と異常』星和書店、2007。
 18)ディヴィッド・K・レイノルズ『生活オンチにならない』白揚社、2000。
 19)増野肇『森田療法と心の自然治癒力』白揚社、2001。
 

 ざっと以上ですが、森田療法についての出版物を網羅して調べたものではありません。しかし、「まさたけ」という読み方を採る著者のお名前や、その読み方に呼応した出版社名が浮上しているのがわかります。
 

4-1-2.「しょうま」を採用したもの
 

  1)森田正馬、水谷啓二『自覚と悟りへの道』(旧版)白揚社、1959。
   ※この本の巻末の著者紹介に、「せいま」とふりがなが打たれているのです。
  2)森田正馬『神経質の本態と療法』白揚社、1960。
  3)高良武久『森田療法のすすめ』白揚社、1976。
  4)岩井寛『森田療法』講談社、1986。
  5)森田正馬『新版・神経質の本態と療法』白揚社、2004。
  6)森田正馬『神経衰弱と強迫観念の根治法』白揚社、2008。
 

 手元にあった、和洋、計約50冊ほどの森田療法の本が調べの対象ですが、およそランダムなサンプル群とみなせると思います。ここまででわかったのは、「しょうま」より「まさたけ」の方が多かったことです。
 
 

4-2.欧文出版物に見る「正馬」の表記
 

  1)『高良武久著作集』第Ⅱ巻、白揚社、1988。
高良武久による欧文論文4点(英文3点、仏文1点)が、上記の著作集に収められおり、これらにおいては、すべて Shoma の表記で統一されている。
  2)Momoshige MIURA and Shin-ichi Usa : A Psychotherapy of Neurosis, Morita Therapy. Yonago Acta medica ; 14(1),1-7, 1970
 ― Shoma と表記されている。
  3) David K.Reynolds : Morita Psychotherapy. University of California Press, Berkeley, 1976
 ― Shoma と表記されている。
  4)Chihiro Fujita : Morita Therapy. IGAKU-SHOIN, Tokyo・New York, 1986
 ― shoma(masatake) と表記されている。
  5) Shoma Morita:Shinkeishitsu. ( Traduction par Mamoru Onishi ,Nariakira Moriyama, Gilbert Vila et Hiroaki Ota). Institut Synthélabo,1997
  6)SHOMA MORITA : MORITA THERAPY AND THE TRUE NATURE OF ANXIETY-BASED DISORDERS(SHINKEISHITHU).(translated by AKIHISA KONDO,edited by PEG LE VINE), State University of New York Press, 1998
 ― Shoma と表記されている。ただし出生時の名前を、Masatake と記している。
  7)Lothar Katz,Naoki Watanabe (Hg.) : Die Morita-Therapie im Gespräch. Psychosozial-Verlag,Giessen,1999
 ― 本書では、まず編者らに Masatake(Shoma) と 単に Shoma の二通りの記載がみられる。また収められた複数の論文の著者の中で、S.Aizawa は Masatake の表記を選んでいるが、他の著者は shoma と記載している。本として不統一のため、編者は困られたものと推測される。なお本の中に出てくる文献欄で森田の著作の著者名は、すべて Morita,S.になっている。
 森田の没後にドイツの雑誌に掲載された、森田の論文なるものも、文献欄に出ているが、著者名は Morita,S.である。
 
 このように欧文では、shoma との表記が多い。
 なお、筆者自身もフランス向けの複数の論文において、常に Shoma という表記を用いてきました。
 
 

4-3.本人による名前のローマ字表記
 

 これについては、澤野啓一先生が第25回日本森田療法学会で発表されました(注6)。学会抄録には、次のように記されています。「森田が生前に公表した論文や図書などに記載した「Shoma」という英文や独文によるローマ字表記(自筆署名を含む)を供覧した。またこれにより、改めて本来の「しょうま」という「読み・呼称」に戻すことを提案した」。この学会の際に澤野先生がスライドで提示された画像資料の一部をご提供頂きました。先生のご了承を頂いて、本稿の冒頭にそれを出しています。
 

注6:澤野啓一 「 森田正馬(しょうま)の学位副論文と、瞳孔反射の研究(森田療法誕生の土壌と、森田正馬の生い立ち、及び関心事)(その7)」(一般口演),第25回日本森田療法学会(東京),2007(学会後の抄録は、日本森田療法学会雑誌;19(1),p80,2008)

 
 

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5.若干の検討
 

 「しょうま」か「まさたけ」かという、古くて新しい議論は必要なのかも知れないけれど、それはまるで神経質を地で行くだけのようで、従来私自身の関心事ではありませんでした。というより、人名の呼称や読み方については、自分なりの認識を持っていて、それで事足りると思っていたからです。それを本稿の最初の部分に書きました。それは、ものものしく言うと、「音訓両読説」および「音読尊称説」です。つまり、森田正馬のような偉大な人物の名は、音読して然るべきだと思っていたのです。高知の地元でも、敬愛の念を込めて「しょうまさん」と呼ばれてきたそうですから、矛盾しません。しかし、第五十八回形外会で森田正馬自身が、「私の名は、本当はショウマ」だと言った記録が引き金になったのか、次世代以降の多くの識者によって「マサタケ」という読み方が用いられていました。実際に出版物に見る「正馬」の呼称をざっと調べてみて、「しょうま」より「まさたけ」の方が明らかに多いようで、少し驚きました。それについては、大原健士郎先生が、講談社から一連の書物を出された中で、積極的に「まさたけ」とふりがなを打つ個人的キャンペーンをなさいましたし、同じく大原先生は雑誌「精神医学」に掲載なされた論文「森田正馬の業績」(2000)で、形外会での森田自身の発言に忠実に「まさたけ」説を積極的に推し、さらにその論文を、追って星和書店から出た『神経質性格、その正常と異常』(2007)の冒頭に再掲なさいました。しかし、「まさたけ」という読み方を採った方々は、大原先生以前に何人もおられました。大原先生はその流れの中で目立った人であったに過ぎません。また厳しい指摘になるかもしれませんが、本を手がける出版社側も、見識を求められます。「せいま」、「まさたけ」、「しょうま」と、三通りのふりがなを使ってこられた出版社もありました。人名辞典の類がバイブルではありませんし、著者との意見交換は不可欠でしょう。最近は「ふりがな」を避ける傾向があるものの、従来のふりがなは「まさたけ」の方が優勢で、そちらが主流だったのです。
 さてそうなると、人名の読み方についての私ひとりの認識をひけらかすだけでは済みません。
 そこで、敢えて重箱の隅をつついてみることにしました。出生時に「まさたけ」と正式に命名されたのならば、当時の戸籍もしくはそれに準じる文書に、そのような命名の記録があって、今日それを突き止めることは可能か否か?
 これについては、明治の戸籍制度を知ることが前提になります。明治5年に最初の戸籍(壬申戸籍)が編製されましたが、身分帳に等しく、届け出の制度もありませんでした。しかし明治12年に行政区画として郡と郡役場ができたので、それに伴い、出生や死亡の届け出の制度が開始されました。とは言え、戸籍の内容はなお壬申戸籍同然で、傍訓をも届ける権利はおそらくありませんでした。森田家としても、まずは一家の戸籍を初めて届け出たわけで、その一員として明治7年に両親の下に出生した「正馬」という長男がいるということが、正馬について届け出られたすべてであったろうと思われます。いずれにせよ、一般に当時の戸籍は、身分差別的な記載があるため、仮に残っていても、閲覧は許可されないようです。
 むしろここで考えられることは、幼名の「光(みつ)」だったものが、正式に「正馬」として届けられたということです。その後、その名はしばらくは「まさたけ」と呼ばれたことでしょう。そして年齢を重ねるほどに、いつしか「しょうま」と呼ばれるのが自然になったのだろうと思われます。「まさたけ」であれ「しょうま」であれ、戸籍に関わる文書を探索して、証拠づけることはできません。けれども、成長とともに名前が変化していく古くからの風習が、明治時代になお生きていたという見方ができます。私的な認識としての「音訓両読」および「音読尊称」とも矛盾しません。
 南條幸弘先生も、先に引用したブログに、そんなことを議論するよりも、森田療法の普及・発展に力を入れた方がよい、と記しておられます。同感ですが、議論に区切りをつけるための一助として、敢えて重箱の隅をつつきました。つついた成果は乏しいものでしたが、地元では過去も今も、「しょうま」としか呼ばれていないこと、一方学術的には欧文で「正馬」をローマ字で記載する際に不統一が起こると、人物を同定できなくなる、などを一応考慮しながら、落ち着くべきところに落ち着けばよいと思います。(了)
 


付記
 本稿は、最初、2月15日にアップロードしましたが、文献の追加挿入など若干の修正を加えて、2月29日にアップロードをし直しました。