三聖病院の「日日是好日」―原法を守り続けて80年―(再掲)

2014/10/27

author : Okamoto

 

入院森田療法の施設が減少している現代的状況の中で、禅的森田療法の伝統を墨守して、今なお生き残りを続けている病院が京都にあります。東福寺の傍らに立地する三聖病院がそれで、私はここに非常勤ながら長年にわたって勤続してきました。外部からは、この病院は、神秘のベールに包まれているかのように映っています。

 

何年か前、学会で森田療法の源流をたずねるシンポジウムが開催されました。その折、三聖病院についての紹介的な報告をお引き受けしたことがあります。

公的に発表したものですので、当時のその抄録を、ご参考までにここに紹介します。

なお、この小文は主に病院の歴史的流れを、数年前に記したものであり、病院の現在についての情報を提供するものではありません。

 


三聖病院の「日日是好日」
―原法を守り続けて80年―

 
 

はじめに

 

 京都にある医療法人三聖病院は,森田療法の草創期に,禅僧にして医師であった宇佐玄雄の志によって東福寺の山内に創設された由緒ある病院である。開設以来80有余年,今日に至るまで,ここでは禅的色彩の濃い入院原法の診療が継続維持されている。三聖病院の「日日是好日」の歴史がそこにある。報告者は,約30年来非常勤医師として病院に関わっているので,その立場から本院における原法の診療の流れについて,できるだけ客観的に描写し,さらに若干の検討をつけ加えることにしたい。

 
 

本院の成立と沿革

 

 三聖病院の成立と沿革については,学会誌上に現院長宇佐晋一先生による紹介1)2)があるので,詳細はそれに譲り,ここでは補足すべき必要なことだけを少し述べる。大正8年に東京慈恵会医学専門学校を卒業した宇佐玄雄先生は,森田正馬教授との数奇な出会いに恵まれた。森田の教えを早速生かすべく,診療施設の設立を志した玄雄先生は,大正10年に東福寺にその設立の趣意書を提出した。その文中には「大本山の事業として理想的な救療院の設立を」と訴える下りがあった。東福寺の立地は,京都駅の南東の方向にある。市街の成立を歴史的に見ると,駅の南側は都の中心部から少し外れた地域で,その一帯に庶民の町が広がりを見せている。東福寺はその地域の東側に隣接しており,「救療院の設立」が趣意書に謳われたことは,このような立地条件と無関係ではなかったと思われる。かくして大正11年に東福寺の塔頭を利用して三聖医院が開設され,昭和2年に三聖病院となったが,本院は当初より救療院としての使命を負ったのであった。言わば,仏教的な“悲田院・施薬院”のような機能を求められつつ,その上で禅的森田療法の実施を意図する二重構造を有することになったのであった。

 

 

本院の診療について

 

1.二代の院長像と診療の流れ

 さてその二重構造を前提としつつも,森田の療法の忠実な再現を目指した玄雄先生は,実際には対象を神経質にもとづく神経症とその周辺にもっぱら限定して,入院原法を実践された。昭和32年に玄雄先生は院長生活35年の実績を残して他界され,晋一先生が二代目院長となって,現在まで50年間,院長の任務をまっとうしておられる。現院長の代に至り,療法の適応の対象枠はゆるやかになった。本院は国内では入院原法の専門施設として位置づけられているが,地域に向けては森田療法を積極的に標榜していない。外来入院ともに対象を原則として神経症圏に限りつつ,実際には来る者を拒まず寛容に受け入れている。病院の開設当初の趣旨であった“救療院”的な機能が,現院長の代になって,生かされるようになったと言えよう。しかし精神障害全般へと受容枠が拡大化すると,症状が重ければ,森田療法を適用できる水準にまで引き上げねばならない。そのために投薬やECT(電気けいれん療法)が日常的に実施されている。

 父子二代の院長像を見ると,宇佐玄雄・初代院長は,患者と共に入浴したり,余興を披露したり,厨房で田楽の作り方を実地に教えたりする庶民性と,「一殺多生」の禅語を呈示したりする厳しさを兼ね備えておられた。その人間像は森田正馬に近似する。宇佐晋一・現院長は,考古学に深い造詣を有しておられるが,尊父によって敷かれた森田療法の道をひたすら歩んでおられる。その実践躬行の姿に患者さん達は心を打たれる。たとえば「院長先生がお父さんだったらいい」と慕う人や,院長の肖像画を熱心に描く人がいる。患者さん達にとっての院長像がそこに如実に表れている。

 

2.不問をめぐって

 院長を中心に進められる診療に一貫して流れている特徴は不問である。

 病院の玄関口を上がった所に,「説了也」(説きおわれるなり)と大書された横額が掲げられている。「話はありませんぞ」という意味であり,病院の入り口でいきなり「不問」が示唆されているのである。

 長年来,外来は症状が聴取される予診と,院長の本診の二段階になっており,院長は本診でただ頷いて聴く。その際院長は,禅の「喫茶去」(唐代の禅僧趙州従諗が誰にでも「一服お上がり」と茶を出したという故事)さながらに,みずからお茶を淹れて患者さんを接待する。「喫茶去」の深意は,「茶を一服喫して目を覚まして出直されよ」というあたりにあるが,大方の人は茶の深意を知らぬまま院長の丁重なもてなしに感謝する。

 入院すると,治療者から一層徹底した不問で処遇される。粛然とした治療環境の中で,第1期,第2期,第3期と進む過程を通じて,終始孤独な集団生活を身をもって体験することになる。定床数は50床だが,最近は入院が減少して,20人前後で構成される集団になっている。この人数では入退院の動きにより,集団の自律性は不安定になりかねない。ところが適応の拡大により,統合失調症の軽症者も受け入れられる中で,その社会的入院の人達が集団の要として機能し,新入院の人達をうまく指導して,組織の維持に貢献している面があることも見逃せない。ともあれ集団の中では各自が役割を果たし合い,共に励む修養的な生活があるばかりである。「話しかける人には答えないのが親切」という院長の書きものが院内に貼られているが,当事者同士も不問を守って,いたずらに和合せずに努力せよという教えである。

 このような入院生活において,院長との個人面談の機会はいくら待っても訪れない。講話と日記だけが,院長との限られた接点となる。講話への出席は,院長の姿に接し,ただ聴くだけの作業なのである。講話では,たとえば「不可思議」というキー・ワードが示され,心は思議する対象たりえないから,心を治そうとするのをやめると,ただ今坐っているその坐布団の上でインスタントに全治する,というようなことが述べられる。症状に悩む人にとっては,俄かには腑に落ちないことである。ところが一方,この話はわからないでよろしい,とも述べられる。講話をしている院長の背後には「わからずに居る」という言葉も掲げられていて,知的理解に走ることを制しているのだが,それにしても講話を聴きなさい,しかしわからないでいなさいという,一見矛盾したメッセージによって,聴き手は言わばダブル・バインド(二重拘束)の状況に追い込まれることになる。そこで生じる心の混乱をせめて日記で訴えたい気持に駆られるが,日記には「見たものとした事」だけを書くよう指示されており,心のことを記しても取り合ってもらえず,対話は成立しない。けれども生活における精進の跡が日記に見られれば,「よろしい」などと赤ペンでのコメントによって院長から承認される。このコメントの鮮やかな赤の達筆の文字が神通力を帯びて,書き手を励ましてくれるのである。院内には「努力即幸福」という森田の直筆文字の横額や,玄雄先生の「照顧脚下」の文字などが掲げられている。そこにはおのずから身が引き締まり,理屈抜きに作業に励む場の雰囲気があって,いつしか生活にただ打ち込むのみの三昧の境地に移行していく。治療者は「暖簾に腕押し」を地で行きながら,「困らせる」ことを技法として,「窮すれば通ず」を待っていたのである。

 

3.無分別の教え

 先代の玄雄先生は禅僧であったけれども,あまり禅の講釈をせず,森田の教えを祖述するために禅語を用いたのみであった。禅も森田療法も,知性や言葉によらず,体得することが重要だからである。現院長も,言葉を控えて,分別による知的理解を断つ指導に徹しておられる。ただ禅の勘所を伝えるにあたって,近年は心理学が導入されている点が目新しい。

 

4.治療者患者関係と治り方

 不問を軸とする療法は,修養的な環境を背景に,優しさを湛えた治療者の無言の君臨によって成り立っている。治療者は優しくて,かつ暖簾に腕押しの人なのである。先に講話にその例を見たが,治療者との関係において,患者は早晩,二重拘束的な不問のジレンマに遭遇する。そこにおいては,以下のような三通りの心理的展開が起こるように見てとれる。

(1) まず好ましい変化としては,神経症者の知的論理が破壊されて治癒に向かう。

(2) 治療者を神格化してしまう心理が生じる。「宇佐療法」と呼ぶ向きがあるのもその表われである。

(3) 心が引き裂かれて,治療者に不信感を抱く。

 このように,ジレンマの体験を通過させる治療過程は波乱含みであり,展開次第で陽性,陰性の転移がまれならず起こる。だが転移の問題は治療の埒外で,それに対する人工的修正は差し控えられたままとなる。

 治り方も,大まかに三様にとらえられる。

(1) 追い詰められている人は,大疑から大悟へと,かなり劇的な治り方ができる。

(2) 釈然としないままに,治療構造の中でなんとなく治る人達がいて,これも無難である。

(3) 治療者を崇拝して治る。いわゆる転移性治癒で,自己愛的な臭みの残ることがしばしばある。

 

5.職員達の機能

 不問の慣行は職務の環境にも及ぶ。看護詰所にも「真実道場」などと院長が揮毫した短冊が掲げられていて,臨機応変に立ち働くよう期待されている。森田療法への資質や経験の有無も絡むが,対話が省略される職場の状況で,看護スタッフは試練を体験している。

 院長以外の医師達は,応接間を使用して外来診療をおこなっており,患者を来客として包容しながら,同時に馴れ合わない緊張した関係の維持に努めている。またこれらの医師達は,入院中に療法から脱落しそうな人には,随時適切な対応をする役割を負う。

 

6.三省会について

 三省会は,昭和6年に東京形外会の関西支部として発足した。本会は退院した人達が切磋琢磨し合うとともに,先輩の立場から入院中の後進を導くという重要な役割を担っている。自助組織と言うより,病院の外郭にある共同体として,長年にわたり相互補完的に機能し続けている実績は高く評価される。けれども近年は,入会者が漸減して会員の高齢化が進み,今後に向けて問題を抱えている。また定期的に開かれる総会は,禅的森田療法を論じ合う場になっている印象を受ける。若者を惹きつける魅力ある会であってほしいと,一部の人達は切望しているのである。

 

 

「禅的森田療法」の特色と問題

 

 「禅的森田療法」をもって知られる三聖病院は,神秘的な病院だと思われがちである。それはなぜであろうか。以上に描写したことを踏まえて,“神秘のベール”の中にある特色と問題を整理してみたい。

 

1.病院の歴史的使命

 東福寺の肝入りで地域への救療院として開設された本院は,現代の“悲田院・施薬院”としての機能を守りながら,その上で禅的森田療法を推進するという二重性を有している。しかし小規模の病院での両機能の追求は容易ではなく,常に矛盾や葛藤を孕んでいる。

 

2.治療の場

 僧堂さながらの古い木造建造物の中で,修養的な生活を送る治療環境が提供されている。世俗を離れてここで規律ある生活を送り,緊張感漂う雰囲気を味わうと,良き暗示効果も働き,作業三昧の境地に没入することができる。共感的感情は程よく抑制され,自律的な集団の一員になることで社会性が培われる。

 

3.老師のような治療者の存在

 治療者として信頼される院長の存在は,極めて重要である。現院長は,幼少より尊父玄雄先生から厳格に育てられ,長じても弟子のごとく父君にお仕えになったと聞く。名実ともに現院長は二世であり,加えてその温厚なお人格ゆえに,一層風格に重厚味がある。慈悲の人,不問の人であり,謙虚なカリスマとして君臨しておられるが,このような老師的な治療者の存在なくして禅的森田療法は成立しない。

 

4.禅的森田療法と不問技法

 三聖病院は森田の原法の忠実な継承を自負しているが,同時にみずから禅的森田療法をもって任じている。周知のとおり,森田の療法には禅に通じるところが確かにあったので,森田療法そのものが多少なりとも禅的であると言っても差し支えなかろう。しかるにあえて禅的と自称するところに本院の療法の特徴がある。本院では,療法の中にある禅以外の部分を捨象して,禅的部分のみをもっぱらに墨守しているので,そのために禅的森田療法を自認していると,内部でも理解している。その禅的面目は,不問の技法において躍如としている。治療者が相手の心に造作を加えずに,転回を促すのであり,そこには伸るか反るかの妙味がある。同時にリスクを伴うことも否めない。

 

5.心理学の導入

 本院では,自己を超越して他を慈しむ心理的姿勢を,治癒像として評価している。その見地から「自己意識と他者意識」の心理学が導入され,「他者意識」が推奨される。森田正馬の療法と禅が接した原点の深みを,この心理学に置換できるか,論議を呼ぶところである。さしあたり,「他者意識」の重視を治癒への補助線とみなすことは可能である。

 

6.パターナリズムの問題

 昨今,医療におけるI.C.(インフォームド・コンセント)が重んじられるようになった。しかし原法における治療者患者関係は,禅における師弟関係と同様に,パターナリズムによって成り立っており,I.C.と馴染むものではない。良き伝統の下でのパターナリズム的療法と,I.C.的人権主義との間での折り合いが求められている。

 

7.適応の拡大に関して

 既述のごとく,本院には二重の診療機能がある。これは歴史的使命とは言え,取捨選択が許容される余地もあろう。禅的森田療法の遵守も重要な責務であるし,救いを求める人達にあまねく慈しみの手を差し伸べることも,治療者側の尊い森田的実践である。二重性を抱えれば当然の結果として,禅的森田療法における適応の拡大に繋がる。入院の治療集団は異なる病理によって構成されることになり,そこで思いがけない相互成長の契機が生じたりするが,混乱が起こることの方が大きい。いずれの診療的機能を採るかは,価値観の置き方の問題である。

 

8.禅的森田療法の意義

 森田正馬の療法は,単に意識の表層の精神交互作用を断つだけでなく,人間の存在にかかわる「苦」の救済にも向けられていた。森田は釈尊を,「生老病死」の苦に悩んだ果てに悟った神経質の大偉人として讃えた。また療法を完成させるにあたって仏教の叡智を随所で摂り入れたのであった。

 

 森田自身は,「生き尽くすこと」,そして「死は恐れざるをえず」と熱く教えたが,禅的森田療法はそのような境地を教えずして教える。実存的な深い苦悩を抱える人が入院すれば何かが起こる,禅的森田療法はそんな療法である。

 

 

おわりに

 

 “関与しながらの観察者”である非常勤医師の立場から,三聖病院の禅的入院原法の営みを描写し,その特色について述べた。今日では入院患者数の減少,保険診療での経営維持の難しさ,若手医師の不在,原法の軸にあるパターナリズムの是非などの問題を抱えている。それでも禅的森田療法ならではの有用性があり,その福音を求めて訪れる人達が今日も後を断たない。生き続けて,生き尽くすことが,本療法にとっての使命である。

 
 

文      献

 

1)宇佐晋一:三聖病院.森田療法学会誌,4(1);64-65,1993.

2)宇佐晋一:三聖病院.日本森田療法学会誌,18(1);61-63,2007.

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