古い講義ノートより ─あるがまま/禅/森田療法─

2015/10/12

 佛教大学での過去の講義ノートの断片が古い資料の山の中から出てきました。大学院の臨床心理学専攻の学生相手に、森田療法の講義をしていた時のものです。書いた日付は2011年1月10日、東日本大震災の3ヵ月前です。ぐうたら者の私はめったに講義ノートを作りませんでした。学生への配布資料を兼ねて、講義ノート風の文を書くことはありました。これもその種の教室内公開用の講義ノート風資料で、自分の考えをまとめて学生にも配布したものでした。
 5年近く経った今、読み返すと、修正すべき点は若干ありますが、当時考えたことの骨子は多くは今につながっていますので、稚拙な点はご容赦願うとして、そのままで本欄に掲載しておきます。

 
 

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あるがまま/禅/森田療法

 

Ⅰ.「あるがまま 」について
 
「如実知見」が原始仏教の根本思想らしい。
「 とらわれのない心で、ありのままに(あるがままに)事物を見る」
「ありのままに」「あるがままに」は、真理を発見する(悟りに至る)根本的態度であるとされる。
ここで「あるがままに」は副詞であることに注意したい。
構文にすれば、「主体が・あるがままに・対象(客体)を・知見する」ということになる。
そうすると「主客一如」になるというのである
しかし一気にそう言ってしまうと曖昧さがいくつか残る。
まず「如実」が「あるがままに」にあたるが、=「真実の通りに正しく」 ということで、英語に直訳すれば、correctly,rightly,exactlyになる。前提として、正常な認知機能が不可欠な必要条件になるであろう。
また「対象(客体)」とは「ものごと」などと言われるが、「ものごと」とは何か。これは「事実としての現象」あるいは「真実」と考えておこう。仏教の言葉では「法」dharmaにあたる。「法」とは、「あらゆる存在」、「真理」、「不変にして普遍的な真実の道理」 の事である。
次に「知見する」とは、たとえ認知機能に異常がなくても、単に「認知する」ということと同じではなかろう。それは体験を経た経験的な智恵でなくてはならない。
「あるがまま」の原点を原始仏教にさかのぼって捉え直せば、以上のようになる。そこには、受動と能動の区別はない。主体と客体の対立から始まって、(真実世界の中にいる)主体が、真実としての客体を、真実の通りに、認得する、その成り行きが「あるがまま」である。人間は「法(のり)」を超えて生きることはできない、と考えれば決定論になる。「法(のり)」の中で生かされて、自分らしく生きると考えることもできる。
わが国においては、自然(しぜん)= 自然(じねん=おのずから然る)と捉える日本人の伝統的思惟のフィルターのかかった「あるがまま」のニュアンスがある。まずは原始仏教における「あるがまま」に最も近い用語としての「如実知見」が、補足的 な解釈を必要としたが、加えて日本的な意味合いが入り、かつ大和言葉で言うところの「あるがまま」は、曖昧で日本的で含蓄がある難解な言葉である。ちなみに鈴木大拙は英語で、“as it is”と訳したのだった。シンプルで忠実な訳語かも知れないが、含蓄を伝えることに成功しているのかどうか、不明さを残す。
 

Ⅱ.「純な心」と「経験智」
 
 森田は「「常識」は感情である 」と言った。「感じから出発せよ 」とも言った。しかし、「感じ」あるいは「知」には、素朴な次元から、経験に裏打ちされた深い「知(智恵)」の次元まである。

1. 「前意識的認知」…①先験的、生来的にある心の働き。「純な心」(赤ん坊的な自然な感情)。②あまり意識しないで、日常何となく知っている事もこのレベルにあたる(浅い認知)。
 

2. 「認知」…通常、認知と言われるもの。Cognition である。しかし生来的にではなく、脳の記憶に照合せねばならないならば、それは主観の入る再生的な認知であり、厳密には、Recognitionと言う方 が正確であろう。
 

3. 「メタ認知」…認知を認知する機能であると言われる。絶えず自分の認知の適否をチェックしていること。セルフ・モニタリング。神経症的完全主義を認知と同時進行でやっているようなもの。コンピューターなら必要な機能である。
 

4. 「教訓帰納」…失敗をバネにして、反省し、工夫を加えて新たに努力する。神経質者は内省心があり、かつ向上心が強いので、このようにして前進することが可能である。しかし反省が過度になり、不安も加わって「石橋を叩いて渡れない」ほどになることもある(とらわれの悪循環)。七転び八起きが必要である。
 

5. 「経験智」(「暗黙智」)…知識や単なる認知によらない、体験の積み重ねを経て、つまり経験によって会得し身につけた、 言葉を介して伝え難いような、深い智恵のこと。理屈やマニュアルは無用のレベル。分別から脱却している境地であり、分別 に覆われて、その下に隠れていた「純な心 」が再び現れて発揮される。この場合は、経験に基づいて他者に共感できるような、厚みのある深い純な心の発露である。このような境地に至ることの大切さを森田は教えた。しかしその教え方が難しい。療法の型も必要だが、治療者が人間的に成熟していること、より正確には、一層の 成熟を目指して常に精進している人であることが、必要である。“Learning by Teaching”(教えることで学ぶ)と言われるが、治療者はそれを体現し続けねばならない。一日の長ある者としてである。
 
 

Ⅲ.禅の流れと禅の本質
 
森田療法と関係ありそうな要点のみを略記する。

1.禅の流れ
仏教の原点において、釈尊は人間の苦しみ(四苦八苦)をどうすれば救えるのかと悩んで苦行をしたが、苦を苦として、生きていくしか仕方がないと悟った。釈尊は坐禅をし続けたが、煩悩にとらわれがちな自己を みつめる修行だった(「観想」)。そして「自灯明、法灯明」(自らを拠り所とせよ、法を拠り所とせよ)と言った。
 達磨大師を介して中国に伝わった仏教(禅)は、唐代に、生き生きした日常生活の中の行住坐臥の禅として花開いた。この時代には修行者は農耕に従事し、自給 自足の集団生活をしていた。自己をみつめる「静」の面と、集団で切磋琢磨し合いながら作業をする「動」の面があって、バ ランスのとれた修行が成立し機能していたのである。しかし宋代になり、儒教が官僚と結びついたために、禅も変質を蒙るこ とになった。禅は主に、公案禅と黙照禅に分かれた。そしてわが国には、この二つの流れの禅が鎌倉時代に入ってきた。公案 禅は臨済宗として武家文化の中に流入し、黙照禅は曹洞宗として、山中の寺院と農民社会に受け入れられた。(中国では儒教 の流れの一つである王陽明の陽明学は、禅との接点を有し、言 わば「行動する禅」である「事上の錬磨」を教えた)。日本の禅は、その後明治末から大正時代にかけて、文化人が禅(臨済宗の禅)に関心を持った。インテリの間での禅ブームで、例えば 夏目漱石もそうだった。
 そのような背景の中で森田も禅に関心を持ったのである。
 

2.禅の本質
 禅という言葉そのものには意味がない。禅という言葉が神秘的なニュアンスを帯びてしまっているから困る。元は“dhyāna”という梵語が、漢音に置き換え られて、「禅那」となり、「那」が抜け落ちて「禅」となった。意味としては「静慮」だと言われる。つまり、静かに自己を みつめること、内観、観想(瞑想ではない)である。禅の課題は「己事究明」にあるとも言われるが、同じ意味合いである。 坐禅は神秘的な悟りを開くためにするものではない。自動車には定期的に車検が必要であるのと同じように、人間はときどき 坐禅をして、自分はこれでいいのかと自己点検するのだ、と山田無文老師は言ったという。分かり易い名言である。
 中国では、さらに唐代に日常生活の中で作務に励む、動的な修行も重んじ られた。王陽明の「事上の錬磨」もその流れと見てよい。静と動の緩急が共に大事である。自己と現実を如実に知見すれば、 当然必要な行動へと促される。「上求菩提」の折り返しで、人を慈しむ「下化衆生」も、思い上がった思いやりではなく、自 然な行為に過ぎない。禅は中国で大乗仏教になったが、原始仏教と違って、生活と禅がつながったので、他者との苦楽の共有を重んじるようになったのであろうし、また自己を突き詰めるほどに、自他の区別がなくなるのである(自他不二、自他一如)。
 こうして、生き尽くすのが禅の本質なのであろう。「随所に主となれば、立つ処皆真」と臨済義玄は言った。状況にしたがって、そこで主体になれば、どんなスタンスも本物である、というような意味。まず自分のアイデンティティありきではなく、状況に応じて自在に状況の主人公になる、それが「あるがままに」生きるということである。
 
 

Ⅳ.森田正馬と禅
 

 森田は当時の文化人がそうであったように、ご多分にもれず禅にかぶれた。鎌倉の円覚寺に何度か参禅したほどの熱の入れようであったが、公案には透過しなかった。そのための負け惜しみの可能性があるが、彼は自分の療法は禅から出たものではない、強迫観念の治療法を見つけたら、それがたまたま禅に一致するところがあっただけであると言ったのだった。森田は東西の様々な思想を取り入れて療法を創案したので、もちろん禅一色ではないのは確かであるが、その著作を紐解けば、至る所で仏教に関する引用をしており、その多くが禅の教えについての言及である。それも、神経質のとらわれの心理や、治癒機転や、治癒した姿などを示すための、 キーワードとして禅語を持ち出している。森田は禅の影響を受けたとみなすのが自然である。
 しかし禅の思想にも様々なものがあり、森田はそのような禅のすべてを無批判に受け入れたのではなかった。
 森田は正岡子規の生き方を高く評価していた。森田は子規について次のように言っている。「運命は堪え忍ぶにおよばぬ。…堪え忍んでも忍ばなくても結局は同様である。われわれはただ運命を切り開いていくべきである。正岡子規は肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにいられなかった。…それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命であるまいか」。この正岡子規は「禅は平気で死ぬことだと思っていたが、禅とは平気で生きることだとわかった」と言っている。「平気」という言葉は誤解を生むが、「苦しければ苦しいままに」という意味であろう。このような病床での子規の生き方が、森田に影響を与えている。
 森田は、坐禅は「無念無想」になろうとしてするものではない、「雑念即無想」でいいのだと言った。また「煩悩即菩提」 (大乗仏教の言葉)を取り上げ、意味は同じだが自分はそれを「煩悶即解脱」と言い換えたいと言った。「悟り」についても、それは高踏的な境地ではなく、日常において「火花を散らして必死で生きていくのが、悟り」であると言い、その意味で 「治癒」と「悟り」は同じものであると捉えた。どんな状況でも「生の欲望」に乗って生きるということを重んじた。また「自然服従」(「自然に服従し境遇に従順なれ」)、あるいは「事実唯真」(「事実に非ざるは真実に非ざるなり」)と教えた。これは既成の禅語ではなく森田が独自に作って用いた言葉であり、禅の本質的なところをうまく表現している。
 心というものについては「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり、流れに従って性を認得すれば無喜亦無憂なり」 (『景徳伝灯録』)をよく引用して、心の流動性を指摘し、公案のごときいたずらなる精神修養を否定して、王陽明の言うような「事上の禅」あるいは「事上の錬磨」を重視した。唐代の生活に根ざした禅や王陽明の実学的な禅が、森田による神経質の療法と軌を一にするものだったったようで ある。
 
 

Ⅴ.森田療法の中に生きている禅
 

1.修行(修養)の三形態
 A.日常生活の中での修行
 禅を知らず、森田療法も知らない人でも、実際の境遇で自分の人生を必死に生きていれば、それが本物の修行であり修養である。
 

 B.禅寺での修行
 実際の生活において煩悩や苦に耐えられない人が、一念発起し、出家し師について修行する。今日では、職業として僧侶になるために出家修行する人の方が多い、しかも禅僧になろうとする人も減っていると聞く。とにかく、禅寺は俗世間から隔離された特殊な場である。超俗的で、独善的な雰囲気なきにしもあらず。修行のために人工的にしつらえられた場所である。
 

 C.入院原法の森田療法による修養的療法の体験
 上記のAが最も純粋な本物の修行であることは言うまでもないのだが、誰しもしばしば苦悩に耐えられないことがある。だからと言って、そのために出家ばかりしてはいられない。そんな人たちのために、あるいはまた神経症的に苦しんでいる人たちのために、A+Bとして創案されたのが森田療法であると言えよう。
 

2.森田療法の中にある重要な禅的要素
a) 入院においては、実際の日常的生活に近い集団生活をするようになっている。その中で切磋琢磨して自分を磨く体験を する。
b) 和して同ぜず。「たった一人の集団生活」とも言われるように、個別に孤独に自己をみつめる体験をせねばならない。
c) 人間的な指導者の存在。治療者自身が人生経験を積み、なおかつ常に精進し続けている人でなければな らない。そのような人間的な治療者との師弟関係により、患者は薫陶を受けて成長のきっかけをつかむ。
d) 時が熟すことも必要である。「大疑ありて大悟あり」、あるいは「啐啄同時」と言われるように、患者自身の悩む体験があってこそ、治療者の指導が響く。小乗的体験を経て、大乗の恩恵にあずかることができる。
 
 

Ⅵ..何をどう治すのか
 

1.いわゆる神経症を治すということについて

 森田は神経症という用語を殆ど使っていない。当時、アメリカのベアードが神経衰弱という概念を提唱し、衰弱だから休養が必要だとした。これに対して森田はドイツ精神医学の影響もあったけれど、神経質の概念を唱えて、軽度の素質だが、その上に心理的とらわれの悪循環を起こしているのだから、休養を要せず、そのまま生活に努力することが大事だとした。症状を治すことを目標にしないのである。生活に励んでいるうちに、症状を治すという主観的課題が中心にならなくなる。結果として症状は治ることがあるし、治らないこともある。それだけのことだが、症状に苦しんだ体験がむしろ人間的にプラスになる。 森田療法は、症状を 治すという小さな事より、人間性を伸ばすという大きな事をする療法である。
 森田は既に神経質は身体的精神的な生来の素質はあると言っていたのだが、最近生物学的精神医学の進歩により、強迫性障害やパニック障害は生物学的要因によることが判明して、ある程度までは薬物も効果がある。もちろん二次的心理的加工も起こるので、精神療法は必要であろう。 しかしその精神療法も、精神分析や行動療法に始まって、ナンたら療法、カンたら療法が雨後の筍(たけのこ)みたいにいっぱい出てきた。皆さん競ってやればいい。患者を症状にこだわらせるばかりである。そんな現況をみて、神経症は治さずに放っておく のが一番ではなかろうかと、考える昨今である。(ちょっとキツいことを言ってるかナ)。
 悩みの種はある方がよい。アクトアウトする人はやむを得ず介入を要するが、治そうとし過ぎている風潮(患者も治療者も)への反動がいずれそのうち起こるのではなかろうか。とにかく軽い悩みの病理は治してやらないのが一番だ。
 
 
2.人生の「苦」について

 釈迦は四苦八苦からどうしたら逃れられるかと悩んで、出家して六年間苦行をした結果、苦のままに生きていくほかないと漸く悟った。人間は死ぬものだということくらい、小学生でも頭では知っている。しかしそんなことを本当に認識するに至るには、実際に悩み苦しむ体験を経なければいけないのである。そのために禅的修行や森田療法の修養的生活があるのである。森田は「釈迦は神経質の理想的大偉人だ」と言ったけれども、正確には神経症的な症状に悩んだというより、深い実存的な苦しみを体験した人であった。このような苦悩は人生につきものである。病名にすれば、神経症、うつ病、BPD、統合失調症、PTSDなどになるだろうが、そのほか障害をもつ人の悩み、障害児者の家族の悩み、グリーフワーク、ターミナルケア、自殺予防など。このような次元で森田療法はますます重要になりつつあるのである。実際には森田療法 の専門家の側には、未だこのような認識が十分に高まっているとは言えない。現状においてはフィールドでは皆さんどんな思想で「心のケア」とやらに関わっているのだろうか。ケアという視点から言えば、心の専門家より、医療に恵まれない国や地域で、必要な医療や看護に従事する一部の人たちの努力の方が、ずっと森田療法的である。
 
 

(2011年1月10日 記)

「 私が三聖病院で学んだこと、学べなかったこと 」( 発表したスライドの一部紹介 )

2015/06/29

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注)発表に用いたスライドの約半分を抜粋して、以下に提示します。

 


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注)過去の写真 ( 以下も )

 


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注)玄関の履きものを脱ぐ場所に掲げられていたが、本来は自分自身をみつめよの意。

 


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注)以下、宇佐玄雄先生のこと。

 


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注)病躯を押して。

 


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注)「 水を節約しませう 」( 玄雄先生の筆跡 )。

 


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注)ブラック・ジョークを書き込んでしまった。

 


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注)「 正( まさ )に受くるは受くるにあらず 」( 禅語 )。レジリエンスに通ず。

 


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注)「 一物も将( も )ち来たらず 」。
  そんな言い草も放ってしまえ、と趙州は言ったという禅の故事をあらわす。

 


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注)宇佐晋一先生の講話

 


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注)いつでもどこでもその場その場で立ち処に( ただちに )主となる。

 


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注)「 しゃべる人は治りません 」は、玄雄先生が説いた厳しくも暖かい言葉。
  「 たった一人の集団生活 」は、入院原法が集団精神療法ではないことを表していた。

 


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注)「 常に戦場に在り 」

 


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注)入院の治療構造は、『 注文の多い料理店 』( 宮澤賢治 )に似ている。

 


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注)「 よきひとの仰せをかぶりて(・・・)地獄は一定すみかぞかし 」のくだりを指す。

 

 


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注)このように書き連ねると、教条的になるかもしれないけれど、精神療法は他者の人生を支配してはいけない。それをわきまえるところに森田療法の味がある。

 


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国際PSYCAUSE学会(京都)で発表された内容の一部紹介(3)―「森田療法と禅―三聖病院の紹介―」

2014/12/08

岡本による発表の仏文稿と日本語のパワーポイントスライドを紹介します。

 

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1) Introduction
À propos du Zen, après ma communication, Maître Nishimura fera une conférence spéciale.
Comme j’ai dû m’occuper de ce congrès, je n’ai pas pu consacrer suffisamment de temps à la préparation de ma communication. En outre, la fermeture en décembre de cette année de l’Hôpital Sansei a été décidée comme un baisser de rideau sur une longue histoire de 92 ans.
Cela étant, dans la première partie de ma communication, je vais exposer sommairement les relations entre le Zen et la Thérapie de Morita. Et dans la seconde partie, je parlerai de l’histoire de l’Hôpital Sansei.
Cette communication reprenant pour partie le contenu de l’article que j’ai publié l’année dernière dans PSYCAUSE, je vous invite donc à le relire.
 
2) Le Zen et la Thérapie de Morita
Le mot « zen » a pour origine le sanscrit « dhyana » qui a été reproduit oralement en chinois et s’est déformé en « zen-na ». Ensuite, on a supprimé le « na » et c’est devenu « zen ». La signification originelle de « dhyana » était « pensée profonde ».
Mais à quoi pensait-on profondément ? Il s’agissait de s’examiner par introspection. La tâche principale du bouddhisme est de vivre les douleurs. Tous les individus, Orientaux comme Occidentaux, sont seuls et ne peuvent vivre en évitant les douleurs.
Par ailleurs, en poursuivant son soi, on aperçoit qu’on ne pourra pas séparer son soi du soi d’autrui : on voit donc l’importance de la coexistence en société.
Les névrosés ne sont pas les seuls à avoir tendance à oublier d’accepter les douleurs ou de vivre avec les autres, c’est notre cas à nous aussi. C’est ce que dit le bouddhisme et on peut dire que le Zen est la quintessence du bouddhisme. Morita a dit que sa thérapie était quelque chose qui se situait à l’intersection de la science, du bouddhisme et de la philosophie.
 
3) La structure de l’hospitalisation
La Thérapie de Morita a pour point de départ une forme d’hospitalisation caractéristique. Morita a accueilli des patients dans sa maison comme des membres de sa famille, et a mené la vie commune avec eux. Dans cette thérapie, le rôle paternel de Morita, thérapeute, a été très important. Mais aussi le rôle maternel tenu par sa femme a été indispensable. De même, la fraternité entre patients dans la vie en groupe, leur a permis de développer leur sociabilité.
L’hospitalisation consiste en 4 étapes :
+ La première étape est celle du coucher absolu
+ La deuxième étape est celle de l’observation du monde extérieur
+ La troisième étape est celle du travail
+ La quatrième étape est celle de la vie sociale compliquée
Les patients suivent chaque étape dans l’ordre.
Ils gardent d’abord le lit sans rien faire au cours de la première étape. Ce faisant, ils font exclusivement face à leur moi et par cette expérience, ils se libèrent de l’esclavage de l’ego et restaurent le soi pur. Prenant un nouveau départ avec cette expérience de renaissance du soi, et passant par les différentes étapes, ils accroissent leur humanité.
 
4) La guérison et l’éveil du Zen
Comme Morita était médecin, il lui incombait dans l’immédiat de guérir les symptômes de ses patients névrosés. Mais chez l’homme, l’inquiétude et le sentiment de sérénité étant comme les deux faces d’une même médaille, le désir d’éliminer la seule inquiétude d’un névrosé est impossible à réaliser et on reste dans un palais des illusions. Un traitement véritable doit extirper ce genre d’illusions. Morita a enseigné que la guérison n’était rien d’autre que de vivre jusqu’au bout avec les douleurs. Dans ce sens, il a assimilé la guérison à l’éveil.
 
5) La Thérapie de Morita à l’Hôpital Sansei
Avec ce que j’ai dit jusqu’ici, il me semble qu’il est facile de comprendre que la Thérapie de Morita elle-même est quelque chose qui correspond bien au Zen.
Et à ce propos, il y a un hôpital qui a une inspiration zen plus poussée que la thérapie effectuée par Morita. C’est l’Hôpital Sansei qui se situe à Kyoto. Le Docteur Genn-yu USA, bonze et psychiatre, était un disciple direct de Morita. En 1922, il a fondé la clinique Sansei qui est à l’origine de l’hôpital, dans l’enceinte même du temple de Tôfukuji et il y a commencé le traitement par hospitalisation de la Thérapie de Morita. Cinq ans plus tard, en 1927, cette clinique est de
 
venue officiellement un hôpital. Ainsi, le Docteur Genn-yu USA qui en a été le premier directeur, a traité les névrosés par hospitalisation dans cet établissement et il a fidèlement appliqué la thérapie de Morita, son maître. Morita est mort en 1938 mais l’Hôpital Sansei qui a hérité de la Thérapie de Morita, a continué à jouer un rôle historique important en tant qu’établissement représentatif de cette thérapie, dans notre pays. Quand, en 1957, le premier directeur, Genn-yu USA, est décédé, c’est son fils, le Docteur Shin-ichi USA qui est devenu le deuxième directeur. Et jusqu’à aujourd’hui, il a conservé la thérapie qui garde la pensée et la méthode zen mise au point par son père qui était tout à la fois bonze zen et fidèle praticien de la Thérapie de Morita.
Le deuxième directeur aura bientôt 88 ans et il a décidé tout dernièrement de cesser les consultations à la fin de décembre. Comme il fallait annoncer la fermeture aux patients, un avis a été affiché à la porte de l’hôpital mais elle n’a pas encore été annoncée officiellement à l’extérieur. Mais cette fois, vous qui assistez au Congrès de PSYCAUSE, vous aurez pu prendre part au mouvement de l’histoire en venant à Kyoto au moment important où le flambeau de la Thérapie de Morita traditionnelle est sur le point de s’éteindre. Ce n’est pas à moi d’annoncer officiellement la fermeture de l’Hôpital Sansei mais comme le hasard a voulu que ce congrès se tienne juste avant la fermeture de l’hôpital, vous en serez peut-être les derniers visiteurs étrangers. C’est en pensant à cela que je vous ai à dessein révélé la fermeture de l’hôpital. Les Japonais ici présents comprendront que je leur donne les dernières nouvelles de l’Hôpital Sansei dans le cadre de ce Congrès de PSYCAUSE.
Il va de soi que la thérapie utilisée à l’Hôpital Sansei garde la thérapie mise au point par Shoma Morita. Mais la personnalité des deux thérapeutes qui ont dirigé l’hôpital, celle du premier directeur qui était bonze et celle de l’actuel directeur, se reflète dans la Thérapie de Morita. Il faut d’ailleurs mentionner que la thérapie de Morita telle qu’elle est utilisée à l’Hôpital Sansei, porte le nom de « thérapie d’USA ».
Pour moi aussi, les particularités de l’Hôpital Sansei étaient un sujet important à traiter. Mais c’est un problème trop compliqué. De plus, ça a des liens avec la raison pour laquelle j’ai demandé à Maître Nishimura ses enseignements.
Comme j’en parlerai dans ma présentation de Maître NISHIMURA, je vais donc finir ma communication ici.
 
Résumé :
L’étymologie du mot « zen » vient du sanscrit « dhanya » qui signifie « pensée profonde ». Il s’agit de se considérer calmement soi-même, c’est donc de l’introspection. Par cette expérience, en recouvrant le « soi pur », on se libère de l’attachement à l’ego. Et on s’éveille ainsi à la vie en acceptant les douleurs. En même temps, en s’apercevant de l’indivisibilité entre soi et autrui, la coexistence s’accroît. C’est l’éveil du Zen et la guérison avec la Thérapie de Morita.
Et dans l’histoire de la Thérapie de Morita, j’ai présenté brièvement l’Hôpital Sansei qui continue de garder cette thérapie traditionnelle.
 
 
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     以下の画面は都合により、省略します。

国際PSYCAUSE学会(京都)で発表された内容の一部紹介(2)―瀬古 敬先生の発表の紹介―

2014/11/21

丹後ふるさと病院院長、瀬古 敬先生(京都森田療法研究所嘱託研究員)の御発表「あるがままに生きる―森田療法における生の哲学―」のパワーポイントスライドのシリーズを紹介します。

 

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国際PSYCAUSE学会(京都)で発表された内容の一部紹介(1)―日本人発表者の抄録―

2014/11/10

1.瀬古 敬先生の抄録

 

La Vie d’ ARUGAMAMA : la philosophie vitaliste dans la thérapie de Morita

 

  Il y a plus de 600 methodes de la psychotherapie dans le monde.
    L’efficacite de chacune est identique. Elle correspond aux caracteres des troubres psychiques. Le traitement de la Methode Morita est efficace pour le trouble evrotique. Le mecanisme de ce traitement est a enlever les “mots “qui sont trop appliques pour interpreter le monde de l’inconscient et qui, de ce fait, laissent tomber dans un cercle vicieux de l’explication conceptuelle sans fin du monde de l’inconscient.  En’eloignant de ce renversement qu’est le reve, on peut entrer dans le nirvana. Vivre modestement sans trop de pensee. C’est la facon de la vie du Zen- bouddhisme.

 
 

2.武曾惠理先生の抄録

 

Identité à femmes médecins au Japon
Eri Muso MD, PhD
Directeur du départment de néphrologie
Hôpital Kitano
Membre exécutif du conseil d’administration
Ex-chef du comité de l’ égalite de sexes de la société japonaise de néphrologie

 

Au Japon, le nombre de médecins femmes  augmente peu à peu. En 2013, 18% des médecines étaient des femmes, et surtout, 33% des étudiants diplômés d’une université départementale médicale sont des femmes,  cette année. Si elles ne continuent pas de travailler dans l’avenir, le nombre de médecins ne suffira pas pour répondre aux nécessités médicales de la société.
Au Japon  malheureusement, il y a beaucoup de femmes qui quittent leur profession après avoir eu un bébé et qui ne reviennent jamais à leur position précédente. La courbe “M” représente le caractère particulier au Japon et à la Corée par rapport aux autres pays (figure 1) et indique la diminution du nombre de femmes travaillant dans la tranche d’âge des 30-35 ans.

(Figure 1)
f1

 

La figure 2 présente la variation de la courbe ” M” au Japon de 1975 à 2012. L’âge de diminution maximum augmente de l’âge de 25 ans en 1975 à 35 ans en 2012.  Cela indique la tendance récente à se marier et à avoir des enfants plus tard.

(Figure 2)
f2

La cause de ce problème, surtout propre au Japon et en Corée, est non seulement dans l’insuffisance  du soutien de la société pour élever les enfants en bas âge, mais aussi la mentalité sociale, féodale de ces deux pays: la responsabilité d’élever les enfants incombe à la femme, et non à l’homme.

La figure 3 présente la moyenne journalière des heures consacrées au ménage par les gens mariés et qui travaillent, selon le sexe  . Le nombre d’heures des femmes âgées de 25 à 35 ans est de plus de 4,5 heures par jour, mais celui des hommes est moins de une heure, ce qui représente le maximum dans la vie. Ce résultat signifie qu’au Japon le ménage est toujours le travail réservé aux femmes et il est très difficile de demander la participation des hommes dans cette occupation. Ceci peut trouver sa cause dans la folie de travailler des hommes japonais mais aussi la mentalité d’identité de la femme comme soutien de la famille.

(Figure 3)
f3

L’autre problème des femmes qui travaillent est la diminution de la motivation à continuer de travailler, à cause de la limite de progression de la carrière. Tout le monde sait que le classement de “Gender Gap Index” du Japon est 105e sur un total de 136 pays. Le GGI est un index composé de cinq catégories  : économie, santé, enseignement, chances de recherche et technologie , et politique.

(Table 1)
t1

Au Japon, les chances en politique et dans les responsabilités sociales pour les femmes, sont très limitées et faibles dans le monde, non seulement dans les pays  surdéveloppée mais aussi  dans les pays en voie de développement.

(Figure 4)
f4

Mais une enquête sur le sentiment de satisfaction des hommes et  des femmes qui travaillent dans ce pays révèle que les femmes ne  sont pas satisfaites d’avoir des responsabilités comme chef sur leur lieu de travail mais souhaitent contribuer comme spécialistes, mais uniquement dans certains domaines . Les femmes médecins aussi tendent à présenter cette mentalité dans le milieu médical et ce genre de pensée n’encourage pas à la progression dans la carrière. Malheureusement, au Japon, non seulement les femmes mais les hommes aussi ne discutent pas souvent sur les sujets politiques. Cette tendance  éloigne les femmes d’apprendrede la gouvernance et d’ avoir des responsabilités totales dans la socété . Aussi, comme médecin, l’absence progressive de responsabilités affaiblit progressivement la motivation de continuer  leur carrière dans ces conditions peu favorables.
Récemment, le premier ministre Abe a déclaré qu’il allait augmenter jusqu’à 30% le pourcentage de femme ayant des responsabilités dans toutes les société avant 2020.  Le système social, par example le nombre de garderies, la flexibilité des horaires de travail seront améliorés. Ce genre d’innovation améliorerait sans doute la situation actuellement insuffisante des femmes qui travaillent, y compris des médecins, mais ce n’est pas l’idéal . Peut-être sera-t-il nécessaire  de réfléchir d’une autre façon au rôle de la femme et de l’homme dans la société japonaise.

3.白石 潔先生の抄録

 

「現代の日本社会とこどもの問題」
のぞえ総合心療病院
白石 潔

 

現代の日本のこども達の問題は、1980年代後半の金属バット殴打事件から考える必要性がある。この事件は、引きこもり型家庭内暴力の思春期の息子を抱える家族の父親が「この生活を続けるのは地獄だ!」と寝入った息子を金属バットで殴打し叩き殺してしまったという事件である。
1990年代に入ると男子集団でのリンチに近いいじめが原因での殺人や自殺が目立ってきており、いじめは今日に到っても後を絶たない。同時に、1990年代には親の殺害や級友の殺害など凶悪な事件が相次いでいる。さらに、「赤ちゃんポスト」が産院に設置されたり、乳幼児の虐待死が相次ぐなど社会問題化した課題が山積している。
不登校や引きこもりに関しては、家庭内暴力の有無は別にしても大人になった引きこもりを含めると100万人を超えるといわれる。文部科学省の統計では挙がってきていない不登校生徒の数は想像を絶する数だと思われる。
ゲームやアニメや漫画の普及やインターネットやラインを始めとするメディア環境の変化は、こども達のコミュニケーション・スキルのみならずライフ・スタイルをも変化させ、集団自殺や遠方の思春期の子ども達の交際でのメール心中や援助交際等が大人のみならず思春期の女子にも氾濫してしまった。さらに、最近の報道ではゲームの課金を親のクレジット・カードで決済している5才以下の幼児が100人を超えているらしく最年少者がなんと驚くべきことに2才であったと報じられた現状がある。
また、外遊びが激減したせいか、多動の子ども達が激増、対人関係・コミュニケーション・特異な関心を持つこと等を特徴とする家族・学校環境への不適応を呈する一群も激増している。
日本の政治・経済的状況も1980年代の消費の過熱したバブル期の崩壊の経験から、その事後処理、経済低迷の中での大量リストラ、IT産業の発展による勝ち組/負け組みの出現、リーマンショックの影響による経済的打撃とその後のデフレ傾向による景気の低迷などを経て、今日に到っている。
教育領域には依然と経済的な格差による差別化と偏差値偏重が見られており、全般的なこども達の学力は低下している。
この様な現状で、子ども達は疲れ果ててしまっているのが実情である。
 
 

Les pathologies et les soins des enfants et des adolescents au Japon, du point de vue psychanalytique – Approche psychothérapique et préventive pour le développement de l’enfant du couple schizophrénique

 

J’ai l’honneur de vous presenter mon point de de vue concernant sur le deveroppement de l’enfant du couple schizophrenique a l’occasion de la conference organisee par le groupe francais de Psy-cause et le Docteur Okamoto. Avant de vous en parler, je vais essayer de vous presenter brievement d’abord ce qui se passe actuellement chez les enfants et les adolescents au Japon.

Les problemes actuels concernant le psy des enfants et adolecents du Japon font evoquer obligatoirement l’evennement de l’homicide que le pere avait eu tue son fils de batton de base ball pendant le fils avait dormi a l’epoque de la fin les annes 1980. Cet evennement produit car le pere se sentait en enfer tout en continuant la vie quatidienne avec le fils enferme presentant les actes violentes a domicile notament enver sa mere. C’etait un drame tragidique.
Dans les annees 1990, on pourait definir l’epoque de l’ IJIME qui est l’ignorance et le but agrese un(ou une) eleve selectione a l’ecole par le groupe. Il y a beaucoup de victimes qui sont tues ou suicides. Et ce phenomene dans l’ecole, on le vois meme aujourd’hui, devient veritable problemes sociaux. En meme temps, il y a un phenomene de l’homicides volontaires a l’ecole envers les eleves. De plus, il y a des negrigences et maltraitance nouriciaires et meurtres des bebes et petits enfants par les parents. En raison de cela, un service de gynecho-obstetrique avait deside de poser un bebe post.
En ce qui concerne le rufus scolaire et HIKIKOMORI qui est l’enfermement volontair au domicil sans avoir des contacts socio-familiairs avec des fois les actes violentes volontairs envers les membles familiaires. D’apres le statistique inofficiel qui est hors de statistique officiel annonce par le ministaire de l’eduction nationale, on pourait comter les nombles de HIKIKOMORI tout en comtant celui des adultes inimaginairement environ plus d’un milion et eventuelement, double.
La mutation de l’environnement mediatique avait produit le phenomene sociale qui est tres inquiettant comme jeux televises, bons desines, manga, inter-net, line etc.
Cela provoquait la modification des styls de la communication et la facon de vivre.
Les suicides collectives, tentatives de suicides a deux, ijimes et les prostititions des adolescentes etantes payees financiairement par adulte. On droit ajouter ce qui avait ete imforme par le television sur le payement de jeux erectronique avec la carte de credit. Ces sujets sont a peu pres plus de 100 enfants de moins de 5 ans et ce qui etait plus jeun a 2 ans.
Comme il n’y a moin des enfants qui s’amuse au dehors, il y’a de plus en plus des enfants ayant des problemes de l’adaptation dans les mileus socio-familio-scolaires. Ce sont des enfants qui ont des traits hyper ou hypokinetique avec les problemes relationels et comunicatifs.
Sur le plan economique, le Japon a eu des crises economiques apres destructions du systemes economique de trop d’investssements par les banques aux annees 1980. Apres cet evennement economique, il y’a eu beaucoup de licenciments et changements de but economique a l’industrie informatique technologique par le systeme contorole des reseuax electroniques en faisant reordoner le plan economique. Pendant cela, il y’a des phenomenes d’iregalites socio-economiques, pour quoi il y’a des gens tres riches(Kachigumi; celui qui est gagnant) et des gens tres pauvres(Makegumi; celui qui est perdant). Et apres l’enfluence economique du choc Reiman, le Japon a eu des degats economiques importants et la tendance de la deflation continue emenant jusqu’aujourd’hui.
Sur le plan de l’education, il y’a toujours des problemes d’inegalites economiques par rapport aux resultas scolaires et d’abaissement generals de resultas scolaires.
Le Japon actuel pour les enfants est ce que je viens de vous presener et les enfants japonais sont vraiment fatigues.
 
 

4.岡本重慶の抄録

 

森田療法と禅―三聖病院の紹介―

 

禅の語源はサンスクリット語のdhyanaで、その意味は沈思である。それは静かに自己をみつめることl’introspectionである。その体験により、人間は“le soi pur”を回復して、l’ego に対するとらわれから解放され、苦を受け入れて生きることに目覚める。同時に自己と他者の不可分性に気づき、他者と共生しながら成長していくのである。これがすなわち禅の悟りであると共に、かつ森田療法による治癒でもある。
また日本の森田療法の歴史の中で、伝統的なこの療法を守り続けている三聖病院について、若干紹介した。
 
L’étymologie du mot « zen » vient du sanscrit « dhanya » qui signifie « pensée profonde ». Il s’agit de se considérer calmement soi-même, c’est donc de l’introspection. Par cette expérience, en recouvrant le « soi pur », on se libère de l’attachement à l’ego. Et on s’éveille ainsi à la vie en acceptant les douleurs. En même temps, en s’apercevant de l’indivisibilité entre soi et autrui, la coexistence s’accroît. C’est l’éveil du Zen et la guérison avec la Thérapie de Morita.
Et dans l’histoire de la Thérapie de Morita, j’ai présenté brièvement l’Hôpital Sansei qui continue de garder cette thérapie traditionnelle.

三聖病院の「日日是好日」―原法を守り続けて80年―(再掲)

2014/10/27

author : Okamoto

 

入院森田療法の施設が減少している現代的状況の中で、禅的森田療法の伝統を墨守して、今なお生き残りを続けている病院が京都にあります。東福寺の傍らに立地する三聖病院がそれで、私はここに非常勤ながら長年にわたって勤続してきました。外部からは、この病院は、神秘のベールに包まれているかのように映っています。

 

何年か前、学会で森田療法の源流をたずねるシンポジウムが開催されました。その折、三聖病院についての紹介的な報告をお引き受けしたことがあります。

公的に発表したものですので、当時のその抄録を、ご参考までにここに紹介します。

なお、この小文は主に病院の歴史的流れを、数年前に記したものであり、病院の現在についての情報を提供するものではありません。

 


三聖病院の「日日是好日」
―原法を守り続けて80年―

 
 

はじめに

 

 京都にある医療法人三聖病院は,森田療法の草創期に,禅僧にして医師であった宇佐玄雄の志によって東福寺の山内に創設された由緒ある病院である。開設以来80有余年,今日に至るまで,ここでは禅的色彩の濃い入院原法の診療が継続維持されている。三聖病院の「日日是好日」の歴史がそこにある。報告者は,約30年来非常勤医師として病院に関わっているので,その立場から本院における原法の診療の流れについて,できるだけ客観的に描写し,さらに若干の検討をつけ加えることにしたい。

 
 

本院の成立と沿革

 

 三聖病院の成立と沿革については,学会誌上に現院長宇佐晋一先生による紹介1)2)があるので,詳細はそれに譲り,ここでは補足すべき必要なことだけを少し述べる。大正8年に東京慈恵会医学専門学校を卒業した宇佐玄雄先生は,森田正馬教授との数奇な出会いに恵まれた。森田の教えを早速生かすべく,診療施設の設立を志した玄雄先生は,大正10年に東福寺にその設立の趣意書を提出した。その文中には「大本山の事業として理想的な救療院の設立を」と訴える下りがあった。東福寺の立地は,京都駅の南東の方向にある。市街の成立を歴史的に見ると,駅の南側は都の中心部から少し外れた地域で,その一帯に庶民の町が広がりを見せている。東福寺はその地域の東側に隣接しており,「救療院の設立」が趣意書に謳われたことは,このような立地条件と無関係ではなかったと思われる。かくして大正11年に東福寺の塔頭を利用して三聖医院が開設され,昭和2年に三聖病院となったが,本院は当初より救療院としての使命を負ったのであった。言わば,仏教的な“悲田院・施薬院”のような機能を求められつつ,その上で禅的森田療法の実施を意図する二重構造を有することになったのであった。

 

 

本院の診療について

 

1.二代の院長像と診療の流れ

 さてその二重構造を前提としつつも,森田の療法の忠実な再現を目指した玄雄先生は,実際には対象を神経質にもとづく神経症とその周辺にもっぱら限定して,入院原法を実践された。昭和32年に玄雄先生は院長生活35年の実績を残して他界され,晋一先生が二代目院長となって,現在まで50年間,院長の任務をまっとうしておられる。現院長の代に至り,療法の適応の対象枠はゆるやかになった。本院は国内では入院原法の専門施設として位置づけられているが,地域に向けては森田療法を積極的に標榜していない。外来入院ともに対象を原則として神経症圏に限りつつ,実際には来る者を拒まず寛容に受け入れている。病院の開設当初の趣旨であった“救療院”的な機能が,現院長の代になって,生かされるようになったと言えよう。しかし精神障害全般へと受容枠が拡大化すると,症状が重ければ,森田療法を適用できる水準にまで引き上げねばならない。そのために投薬やECT(電気けいれん療法)が日常的に実施されている。

 父子二代の院長像を見ると,宇佐玄雄・初代院長は,患者と共に入浴したり,余興を披露したり,厨房で田楽の作り方を実地に教えたりする庶民性と,「一殺多生」の禅語を呈示したりする厳しさを兼ね備えておられた。その人間像は森田正馬に近似する。宇佐晋一・現院長は,考古学に深い造詣を有しておられるが,尊父によって敷かれた森田療法の道をひたすら歩んでおられる。その実践躬行の姿に患者さん達は心を打たれる。たとえば「院長先生がお父さんだったらいい」と慕う人や,院長の肖像画を熱心に描く人がいる。患者さん達にとっての院長像がそこに如実に表れている。

 

2.不問をめぐって

 院長を中心に進められる診療に一貫して流れている特徴は不問である。

 病院の玄関口を上がった所に,「説了也」(説きおわれるなり)と大書された横額が掲げられている。「話はありませんぞ」という意味であり,病院の入り口でいきなり「不問」が示唆されているのである。

 長年来,外来は症状が聴取される予診と,院長の本診の二段階になっており,院長は本診でただ頷いて聴く。その際院長は,禅の「喫茶去」(唐代の禅僧趙州従諗が誰にでも「一服お上がり」と茶を出したという故事)さながらに,みずからお茶を淹れて患者さんを接待する。「喫茶去」の深意は,「茶を一服喫して目を覚まして出直されよ」というあたりにあるが,大方の人は茶の深意を知らぬまま院長の丁重なもてなしに感謝する。

 入院すると,治療者から一層徹底した不問で処遇される。粛然とした治療環境の中で,第1期,第2期,第3期と進む過程を通じて,終始孤独な集団生活を身をもって体験することになる。定床数は50床だが,最近は入院が減少して,20人前後で構成される集団になっている。この人数では入退院の動きにより,集団の自律性は不安定になりかねない。ところが適応の拡大により,統合失調症の軽症者も受け入れられる中で,その社会的入院の人達が集団の要として機能し,新入院の人達をうまく指導して,組織の維持に貢献している面があることも見逃せない。ともあれ集団の中では各自が役割を果たし合い,共に励む修養的な生活があるばかりである。「話しかける人には答えないのが親切」という院長の書きものが院内に貼られているが,当事者同士も不問を守って,いたずらに和合せずに努力せよという教えである。

 このような入院生活において,院長との個人面談の機会はいくら待っても訪れない。講話と日記だけが,院長との限られた接点となる。講話への出席は,院長の姿に接し,ただ聴くだけの作業なのである。講話では,たとえば「不可思議」というキー・ワードが示され,心は思議する対象たりえないから,心を治そうとするのをやめると,ただ今坐っているその坐布団の上でインスタントに全治する,というようなことが述べられる。症状に悩む人にとっては,俄かには腑に落ちないことである。ところが一方,この話はわからないでよろしい,とも述べられる。講話をしている院長の背後には「わからずに居る」という言葉も掲げられていて,知的理解に走ることを制しているのだが,それにしても講話を聴きなさい,しかしわからないでいなさいという,一見矛盾したメッセージによって,聴き手は言わばダブル・バインド(二重拘束)の状況に追い込まれることになる。そこで生じる心の混乱をせめて日記で訴えたい気持に駆られるが,日記には「見たものとした事」だけを書くよう指示されており,心のことを記しても取り合ってもらえず,対話は成立しない。けれども生活における精進の跡が日記に見られれば,「よろしい」などと赤ペンでのコメントによって院長から承認される。このコメントの鮮やかな赤の達筆の文字が神通力を帯びて,書き手を励ましてくれるのである。院内には「努力即幸福」という森田の直筆文字の横額や,玄雄先生の「照顧脚下」の文字などが掲げられている。そこにはおのずから身が引き締まり,理屈抜きに作業に励む場の雰囲気があって,いつしか生活にただ打ち込むのみの三昧の境地に移行していく。治療者は「暖簾に腕押し」を地で行きながら,「困らせる」ことを技法として,「窮すれば通ず」を待っていたのである。

 

3.無分別の教え

 先代の玄雄先生は禅僧であったけれども,あまり禅の講釈をせず,森田の教えを祖述するために禅語を用いたのみであった。禅も森田療法も,知性や言葉によらず,体得することが重要だからである。現院長も,言葉を控えて,分別による知的理解を断つ指導に徹しておられる。ただ禅の勘所を伝えるにあたって,近年は心理学が導入されている点が目新しい。

 

4.治療者患者関係と治り方

 不問を軸とする療法は,修養的な環境を背景に,優しさを湛えた治療者の無言の君臨によって成り立っている。治療者は優しくて,かつ暖簾に腕押しの人なのである。先に講話にその例を見たが,治療者との関係において,患者は早晩,二重拘束的な不問のジレンマに遭遇する。そこにおいては,以下のような三通りの心理的展開が起こるように見てとれる。

(1) まず好ましい変化としては,神経症者の知的論理が破壊されて治癒に向かう。

(2) 治療者を神格化してしまう心理が生じる。「宇佐療法」と呼ぶ向きがあるのもその表われである。

(3) 心が引き裂かれて,治療者に不信感を抱く。

 このように,ジレンマの体験を通過させる治療過程は波乱含みであり,展開次第で陽性,陰性の転移がまれならず起こる。だが転移の問題は治療の埒外で,それに対する人工的修正は差し控えられたままとなる。

 治り方も,大まかに三様にとらえられる。

(1) 追い詰められている人は,大疑から大悟へと,かなり劇的な治り方ができる。

(2) 釈然としないままに,治療構造の中でなんとなく治る人達がいて,これも無難である。

(3) 治療者を崇拝して治る。いわゆる転移性治癒で,自己愛的な臭みの残ることがしばしばある。

 

5.職員達の機能

 不問の慣行は職務の環境にも及ぶ。看護詰所にも「真実道場」などと院長が揮毫した短冊が掲げられていて,臨機応変に立ち働くよう期待されている。森田療法への資質や経験の有無も絡むが,対話が省略される職場の状況で,看護スタッフは試練を体験している。

 院長以外の医師達は,応接間を使用して外来診療をおこなっており,患者を来客として包容しながら,同時に馴れ合わない緊張した関係の維持に努めている。またこれらの医師達は,入院中に療法から脱落しそうな人には,随時適切な対応をする役割を負う。

 

6.三省会について

 三省会は,昭和6年に東京形外会の関西支部として発足した。本会は退院した人達が切磋琢磨し合うとともに,先輩の立場から入院中の後進を導くという重要な役割を担っている。自助組織と言うより,病院の外郭にある共同体として,長年にわたり相互補完的に機能し続けている実績は高く評価される。けれども近年は,入会者が漸減して会員の高齢化が進み,今後に向けて問題を抱えている。また定期的に開かれる総会は,禅的森田療法を論じ合う場になっている印象を受ける。若者を惹きつける魅力ある会であってほしいと,一部の人達は切望しているのである。

 

 

「禅的森田療法」の特色と問題

 

 「禅的森田療法」をもって知られる三聖病院は,神秘的な病院だと思われがちである。それはなぜであろうか。以上に描写したことを踏まえて,“神秘のベール”の中にある特色と問題を整理してみたい。

 

1.病院の歴史的使命

 東福寺の肝入りで地域への救療院として開設された本院は,現代の“悲田院・施薬院”としての機能を守りながら,その上で禅的森田療法を推進するという二重性を有している。しかし小規模の病院での両機能の追求は容易ではなく,常に矛盾や葛藤を孕んでいる。

 

2.治療の場

 僧堂さながらの古い木造建造物の中で,修養的な生活を送る治療環境が提供されている。世俗を離れてここで規律ある生活を送り,緊張感漂う雰囲気を味わうと,良き暗示効果も働き,作業三昧の境地に没入することができる。共感的感情は程よく抑制され,自律的な集団の一員になることで社会性が培われる。

 

3.老師のような治療者の存在

 治療者として信頼される院長の存在は,極めて重要である。現院長は,幼少より尊父玄雄先生から厳格に育てられ,長じても弟子のごとく父君にお仕えになったと聞く。名実ともに現院長は二世であり,加えてその温厚なお人格ゆえに,一層風格に重厚味がある。慈悲の人,不問の人であり,謙虚なカリスマとして君臨しておられるが,このような老師的な治療者の存在なくして禅的森田療法は成立しない。

 

4.禅的森田療法と不問技法

 三聖病院は森田の原法の忠実な継承を自負しているが,同時にみずから禅的森田療法をもって任じている。周知のとおり,森田の療法には禅に通じるところが確かにあったので,森田療法そのものが多少なりとも禅的であると言っても差し支えなかろう。しかるにあえて禅的と自称するところに本院の療法の特徴がある。本院では,療法の中にある禅以外の部分を捨象して,禅的部分のみをもっぱらに墨守しているので,そのために禅的森田療法を自認していると,内部でも理解している。その禅的面目は,不問の技法において躍如としている。治療者が相手の心に造作を加えずに,転回を促すのであり,そこには伸るか反るかの妙味がある。同時にリスクを伴うことも否めない。

 

5.心理学の導入

 本院では,自己を超越して他を慈しむ心理的姿勢を,治癒像として評価している。その見地から「自己意識と他者意識」の心理学が導入され,「他者意識」が推奨される。森田正馬の療法と禅が接した原点の深みを,この心理学に置換できるか,論議を呼ぶところである。さしあたり,「他者意識」の重視を治癒への補助線とみなすことは可能である。

 

6.パターナリズムの問題

 昨今,医療におけるI.C.(インフォームド・コンセント)が重んじられるようになった。しかし原法における治療者患者関係は,禅における師弟関係と同様に,パターナリズムによって成り立っており,I.C.と馴染むものではない。良き伝統の下でのパターナリズム的療法と,I.C.的人権主義との間での折り合いが求められている。

 

7.適応の拡大に関して

 既述のごとく,本院には二重の診療機能がある。これは歴史的使命とは言え,取捨選択が許容される余地もあろう。禅的森田療法の遵守も重要な責務であるし,救いを求める人達にあまねく慈しみの手を差し伸べることも,治療者側の尊い森田的実践である。二重性を抱えれば当然の結果として,禅的森田療法における適応の拡大に繋がる。入院の治療集団は異なる病理によって構成されることになり,そこで思いがけない相互成長の契機が生じたりするが,混乱が起こることの方が大きい。いずれの診療的機能を採るかは,価値観の置き方の問題である。

 

8.禅的森田療法の意義

 森田正馬の療法は,単に意識の表層の精神交互作用を断つだけでなく,人間の存在にかかわる「苦」の救済にも向けられていた。森田は釈尊を,「生老病死」の苦に悩んだ果てに悟った神経質の大偉人として讃えた。また療法を完成させるにあたって仏教の叡智を随所で摂り入れたのであった。

 

 森田自身は,「生き尽くすこと」,そして「死は恐れざるをえず」と熱く教えたが,禅的森田療法はそのような境地を教えずして教える。実存的な深い苦悩を抱える人が入院すれば何かが起こる,禅的森田療法はそんな療法である。

 

 

おわりに

 

 “関与しながらの観察者”である非常勤医師の立場から,三聖病院の禅的入院原法の営みを描写し,その特色について述べた。今日では入院患者数の減少,保険診療での経営維持の難しさ,若手医師の不在,原法の軸にあるパターナリズムの是非などの問題を抱えている。それでも禅的森田療法ならではの有用性があり,その福音を求めて訪れる人達が今日も後を断たない。生き続けて,生き尽くすことが,本療法にとっての使命である。

 
 

文      献

 

1)宇佐晋一:三聖病院.森田療法学会誌,4(1);64-65,1993.

2)宇佐晋一:三聖病院.日本森田療法学会誌,18(1);61-63,2007.

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