森田正馬の名、「正馬」の呼称(読み方)について─「しょうま」と「まさたけ」─

2016/02/15

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 昨年は高知にご縁ができました。発足したばかりの「森田正馬生家保存を願う会」に入会し、秋には倉敷での森田療法学会に参加したその足で、高知県の森田正馬の生家を初めて訪問しました。そのとき、「生家保存を願う会」の事務局長で森田正馬のご親族の森田敬子様にお目にかかることができました。12月には高知市内で開催された日本精神障害者リハビリテーション学会に呼ばれて、森田正馬についての話をしましたが、その会場に森田敬子様もおいで下さり、さらに翌日には、野市町で開かれた森田療法セミナーに出席しました。おかげでご縁ができて、ご親族のこのお方と交流させて頂くようになりました。お会いしたり、また通信もさせて頂いた中で、森田様はご親族の立場から、当然なのでしょうが、「正馬」の名前は長年「しょうま」と呼ばれてきたのに、近年「まさたけ」と言われることが多く、呼称(読み方)の混乱が起こっていることを憂慮しておられることを知りました。
 確かに呼称の不統一は、あまねく混乱を招きます。そこでこのことを少し考えてみることにします。

 
 

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1.1年前に、出版社から「正馬」のふりがなを求められたこと
 
 私自身は以前から、「しょうま」という読み方しかしていず、したがってあまり問題意識を持っていなかったのでした。ところが、1年前のこと、たまたま小著を上梓するにあたり、出版社の編集部の方と「正馬」の読み方について、やりとりをする機会が生じました。その出版社では、有名無名を問わず、人名については本の中の初出の箇所で必ずふりがなを打つ方針にしておられたのです。校正刷りを見たら、「まさたけ」とふりがながつけられていました。出生以来幼い頃は「まさたけ」だったという話はあるにせよ、その後はずっと「しょうま」で通ってきたのだから、ことさらに「まさたけ」とふりがなを打つのは不適切だと思いました。
 そこで、ふりがなをつけるならば、「しょうま」にしてほしい旨を、私は出版社に伝えました。しかし出版界では「まさたけ」と読むことになっているとの回答を頂きました。それに対して私は、「しょうま」と音読するのが無難であるという見解を伝えたのです。とりあえずそのときの折衷案として、正馬にはふりがなを付さないということで落着したのですが、その代わりに、そのページの余白に、読み方についての私の見解なるものを急遽記入するように要請されたのでした。
 私の見解というのは、人名、とくに男性の名前の読み方(呼び方)についての、常識的と言ってよいであろう一般論です。そもそも戸籍謄本には、名前のふりがなはつけられていません。それがひとつの混乱のもとですが、それに先立つ問題として、森田正馬が出生した明治の初期に、戸籍謄本がすでに存在したかどうかという疑問もあります。
 ともあれ、戸籍謄本があっても、そこに名前のふりがなは付されないというわが国の事情を踏まえて、私は人名の読みについて二通りの見解を持っています。
 まず第一は、訓読と音読のどちらも可能だろうということです。日本語の語感として、訓読の方が柔らかみがあるので、子どもに対しては訓読みで呼ぶ方が優しい。けれど大人であれば、名を音読する方が、風格ある響きが出る。さらにデリケートなことを言えば、大人でも近親者や親しい人から、訓読みで呼ばれると、心理的距離の近さが確認されるし、一方大人同士の間柄では、音読で呼ぶと距離感が読めないが、無難な呼び方になる。
 要するに、まず言いたいことは、名前には訓読と音読の二通りがあって、使い分けがなされているということなのです。公的な文書の上では、訓読か音読かひとつの名前を一貫して使用せざるを得ませんが、だからと言って、片方の名前が簡単に消滅するわけではありません。このように私の持論としての第一の見解は、人名の「訓読・音読二通り説」なのです。
 今日においても、一部の森田療法研究者や出版関係者から「まさたけ」と呼ばれて(読まれて)いますが、それは、出生時に「まさたけ」という訓読みでの届けがなされたらしいから、二者択一的にそれを正式な名とみなすという、蓋然性に依っています。仮に届け出が史実であったとしても、訓読は概して子ども向けに相当するので、それを避けて、大人用の音読である「しょうま」を採るのがよいとするのが、私のこの第一の「音訓両読説」です。
 次に、第二の視点からの見解があります。大人の名は音読する方が無難であるという意味のことを、上述しましたが、そのような世間的常識とも関連します。敬意を表して相手の名を呼ぶ(読む、書く)場合には、その名を音読するのが古くからのわが国のしきたりです。つまり尊称として音読するのです。知人であってもなくても、また著名人であってもなくても、当該人物への敬意を、その名の呼び方(読み方、書き方)に込めて音読するという美風が従来よりわが国にあるのです。
 これが私の第二の見解、「音読尊称説」です。森田正馬のような偉大な人物に対しては、呼称に尊称を用いるべきです。その見地から、音読で「しょうま」と呼ぶのが適切だと思うのです。
 小著の中で「まさたけ」のふりがなを避けた理由は以上の通りでしたが、校正時には余白のスペースに簡単なコメントしか書けませんでした。そのため、ここにやや詳しく、自分の見解を述べました。
 以上の私見を補うため、次に、森田正馬が生まれた時代に戸籍の制度はどうなっており、正馬は地元で実際にどう呼ばれていたか、さらに医師になった森田がどう呼ばれ、没後に後世の人たちは彼をどう呼んできたかということについて、若干のことを記しておきます。

 
 

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2.古い資料の調査による命名確認の可能性と、ご親族らの見解について
 
 まず森田正馬自身が、昭和11年の第五十八回形外会で、次のように語った記録があります(『森田正馬全集』第五巻)。
 「私の名は、本当は正馬(ショウマ)ではなく、マサタケと読みます。馬の一字名もあるが、その時はタケシと読みます。」
 「本当はショウマではなく」ということは、実際には「ショウマ」で通っているということを意味しています。しかし「本当は…マサタケ」だという陳述にこだわる人たちもいて、呼称の混乱が起こることになりました。
 森田正馬についての伝記の代表的な著作、『森田正馬評伝』(野村章恒 著)では、正馬の名前にふりがなはつけられていず、読み方についての言及は一切されていません。そして同書に次のような記載があります。
 「明治十年末に戸籍法ができ届出をした戸主は祖父の森田正直であった。」 この野村氏の一文では、戸籍や届出に触れられているが、説明が尽くされていないので、明治初期の戸籍について、少し調べたことを書き留めます。
 

 明治4年に初めて戸籍法が制定され、翌明治5年に最初の戸籍(壬申戸籍)が編製された。しかしこの戸籍は江戸時代の人別帳を踏襲しており、戸口調査を目的とするもので、戸長に管理が委ねられていた。
 地域の行政面では、明治11年に制定された郡区町村編制法が、高知県で翌明治12年より施行されたことにより、森田の生家のある富家村を含んで、行政区画としての香美郡が発足し、郡役所が赤岡村に設置された。したがって、この明治12年以降は、戸籍も郡役場の管理下に置かれて、郡役場へ戸籍内容の届け出がおこなわれることになった。しかし戸籍と言っても、中身は旧態依然とした壬申戸籍であった。その後明治19年の戸籍法で、出生・死亡の届け出の強化が規定された。さらに明治31年の戸籍法では、民事身分を登録する戸籍へと、戸籍の性質の改善がはかられた。
 

 このような明治の戸籍制度の歴史の中で、高知県の香美郡において、出生に関する届け出が役所に出されるようになったのは、明治12年以降のことで、最も早い場合で明治12年であり、まして名前の傍訓(ふりがな)の記入が求められた、もしくはその記入が可能であったとは、当時の戸籍の性質からして想定し難いと思われます。
 したがって、先に引用した野村章恒氏の、戸籍法や届け出についての記述は、正確さを欠いているように思えます。「明治十年末に戸籍法ができ」という記載は理解し難く、正確を期すなら、明治11年に郡区町村編制法が公布され、翌12年に行政区画としての郡が発足して郡役場ができて、以後、戸籍の届け出が始まった、とすべきです。そして、もし明治12年に祖父が戸籍の届け出をしたとしても、明治7年に生まれた正馬はそのとき満5歳、数え年なら6歳であり、幼名の光(みつ)が使われていたであろう年齢です。これを逆に考えれば、この届け出を機に戸籍上の名を「正馬」と固定したと見ることもできます。しかし戸籍は壬申戸籍を原型としており、名前に傍訓を付すべき趣旨のものではなかったのです。
 ちなみに時代が下って昭和の戦後になると、新しい戸籍法により出生届の手続きが定められました。その届においては名前の傍訓の記入を希望すれば記入可能となり、傍訓が住民基本台帳に移記されるようになりました。しかし、依然として戸籍謄本に傍訓は記入されません。いずれにせよそれは戦後の制度であり、明治時代には出生届そのものがなかったのです。
 そのようなわけで、戸籍に関連する公的な古い資料を調査して、正馬の幻の傍訓を見つけ出すという可能性は、まずないということがわかったのです。

 

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 ところで、高知県で地域の文芸誌「文芸香美」が刊行されており、平成20年度の第33号から3回にわたって「森田正馬特集」が組まれました。この中に、徳弘 博氏による「森田正馬博士のことなど」と題する連載稿があります。この稿において徳弘氏は、正馬の読み方について自身で言及することを保留しておられます。ただし、連載稿の冒頭の箇所に、広辞苑に出ている「森田正馬(もりたまさたけ)」という、ふりがなつきの項目見出しと説明文が、引用の形でそのまま掲げられています。また連載の最終回の稿の巻末に森田正馬年譜が付されており、その最初の項には次のような記述があります。
 「…幼名 光(みつ)と呼ばれた。父22歳、母26歳(明治10年戸籍法施行により祖父正直が光を正馬(まさたけ)と届出)」。
 このように戸籍に関して、先に引用した野村章恒氏の記述に酷似した、届出についての短文が、括弧に入れて添えられています。しかもここでは、野村氏の文にはなかった「まさたけ」というふりがなが登場します。徳弘氏のこのような記述はどんな根拠に基づいているのか、不明です。広辞苑にまで「まさたけ」というふりがなが現れて、地元の人たちにも呼称の混乱が波及した現象が、少なくともその背景にあるように思われます。

 

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 届出の史実への言及はどうしても信憑性の問題がつきまといます。実際に家族から、親族から、地元の人たちから、どのように呼ばれていたのかという事実こそ重んじられねばなりません。
 森田と同じく高知の出身で、昭和8年に東大医学部に入った、森田の後輩にあたる、坂本 昭なる人物がいました。
 この人は東大の学生時代に、対人恐怖や赤面恐怖に悩み、森田の形外会に参加しながら、その指導を受け、「森田家の学僕」(自称)となりました。精神科でなく内科を専攻しましたが、その後高知市長になったほどの人物です。この坂本 昭氏が「森田正馬先生のことども」という随筆(注1)の冒頭で、正馬の呼称について述べておられるので、そのくだりを次に引用します。
 「正馬をショウマと呼ぶかマサタケと読むかは、慈恵大精神科教室のみならず、多くの関係者の問題であった。土佐には動物名の多いことはよく知られている。(…)正馬の名も馬をもとにしてつけられている。正確を期するならマサタケであろうが、普通一般にはショウマで通ってしまった。御存命中の母上が、ショウマと呼んでいたことから、呼び名はショウマでよかろうと思う。」
 あっさりとした文章ですが、「御存命中の母上が」と書かれているところから、母親の亀はその晩年に至るまで、正馬をショウマと呼び続けていたことが窺われます。
 しかし、これを本人の幼少期にまで遡って推測してみれば、幼名の「光(みつ)」から本名の「正馬」へと昇格した頃には、過渡的に「まさたけ」と呼ばれていたとしても決しておかしくはないのです。長じるとともに「しょうま」になったと考えておくのが、むしろ自然です。
 ご家族のみならず、かつて地元で同時代の人たちからどう呼ばれていたのでしょうか。これについて、確たるものではありませんが、ある程度の証言があります。
 野市町の生家の近くにお住まいで、かつ「現代の古老」にあたる世代の小松亮氏は、平成3年6月に地元の有線放送で、森田正馬についての話を提供され、その原稿は翌年「生活の発見」誌(注2)に掲載されました。その稿の末尾に森田正馬の呼称についての簡単な言及があります。「兎田の古老は博士(ハカセ)さん博士(ハカセ)さんと申して遺徳を偲んでおられました。(…)今は地元でもショウマさんショウマさんと呼んでいます…。」
 また、森田正馬の治療を受けた後、その高弟として、森田療法の生き証人になっておられた井上常七氏が正馬の呼称に言及なさった記録もあります。平成8年の京都の三省会における井上氏の講演の記録が、「生活の発見」誌の平成21年4月号から連載(転載)されており(注3)、その中に呼称のことが述べられています。「「まさたけ」なんて奥さんからも聞いたことがないし、森田のお母さんの亀さんからは、しょうまをよろしく頼むよと私に言うんですね」。 また「わが子が野次馬になったら困ると思って親父がつけた名前だと森田が言うのです。…『野次馬にならざれかしと親心 特につけけんわが名正馬と』こういう歌があるんです」。井上氏はまた、自身の土佐訪問時のこと(その時期は不明)にふれて「私が土佐に行った時も土佐の人たちから決して「まさたけ」とは聞いたことはないのです。村の人はしょうまさんと言うんですよ」。井上氏は以上のように述べて、全面的に「しょうま」の呼称の正当性を支持しておられます。
 このように、家族から「しょうま」と呼ばれ、またかくも偉大な人物が郷土から輩出したことを誇りとする地元の人たちは、古くから敬愛の念を込めて「しょうまさん」と呼び慣わしてきたようです。先般、ご親族の森田敬子様からも、そのようなお話を伺いました。「しょうま」という呼称や読み方で統一されることを願っておられる所以なのです。
 

注1: 坂本 昭 「森田先生のことども」『坂本 昭 エッセイ集 自由と民権』土佐芸術村叢書、 土佐芸術村出版局 刊、 1974
注2: 小松 亮 「わが郷土の人 森田正馬(その二)」、生活の発見、平成4年10月号。
注3: 井上常七「形なきものに事実を観る」(一、二)、生活の発見、平成21年4月号および5月号(「三省会報」第66号、〈1996年7月発行〉より転載)。

 
 

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3.医師としての「正馬」の呼称
 
 森田がみずから形外会で「本当は…マサタケ」だと言ったエピソードは、事実無根であるとは考え難いですが、自称他称ともに「しょうま」であることを前提に、宴会で隠し芸を披露するかのように、昔話を持ち出したほどのものではなかったでしょうか。
 また、森田正馬の愛弟子であり、かつ弟子の最後の存命者であった瀬戸行子様のお世話を、他界される2011年までしておられた吉田恵子様によれば、瀬戸様は、「森田正馬先生は『しょうま』であり、『まさたけ』なんて聞いたことがない」 と証言なさっていたそうです。そのことについては、2012年の第30回日本森田療法学会で、吉田恵子様(高良興生院・森田療法関係資料保存会)らが発表されました(注4)。また南條幸弘先生もご自身のブログ「神経質礼賛」(注5)で、正馬の呼称の問題を取り上げて、井上常七氏が「生活の発見」誌(注3に同じ)において、「しょうま」の呼称を重視しておられたことを指摘なさっています。そして井上氏が「マサタケなんて聞いたことがない。完全な誤りです。皆さんはショウマと言ってください」と言ったくだりを引用なさっています。同時に師であった大原健士郎先生は「まさたけ」という読み方を採っておられたことにも事実として言及しておられます。
 ともあれ、医師である森田が、「しょうま」の呼称で通ってきたことは、大方の証言よりして明らかだと思われます。
 

注4: 吉田恵子、織田孝正 「瀬戸行子、森田正馬(しょうま)と過ごした日々―「瀬戸さんのような人は、僕の事をずっと考えるんじゃろうのう、かわいそうじゃ」」(一般口演)、第30回日本森田療法学会(東京)、2012(学会後の抄録は、日本森田療法学会雑誌;24(1)、p 96、2013)
注5: 南條幸弘先生のブログ「神経質礼賛」420、森田マサタケかショウマか。2009年4月27日。

 
 

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4.出版物に見る「正馬」の読み方
 

4-1.日本語出版物に見る「正馬」のふりがな
 調べについては、新刊書を除き、十年以上前に刊行された森田療法関係の出版物で、手元にあったもの、数十点を対象にしました。最近の出版物では、慎重を期してか、多くのものが、ふりがなを打つことを避けています。古い出版物でも、一貫してふりがなを打たない著者(たとえば、鈴木知準先生)がおられ、ふりがなのない出版物は水面下に残しました。
 
 

4-1-1.「まさたけ」を採用したもの
 

  1)森田正馬、水谷啓二『神経質問答』白揚社、1960。
  2)水谷啓二『胆力〈度胸〉がつく本』青春出版社、1967。
  3)大原健士郎、藍沢鎮雄、岩井寛『森田療法』文光堂、1970。
  4)長谷川洋三『森田式精神健康法』ビジネス社、1974。
  5)加藤正明ら編『精神医学事典』弘文堂、1975。
  6)辻村明『私はノイローゼに勝った』ごま書房、1979。
  7)青木薫久『心配症をなおす本』KKベストセラーズ、1979。
  8)長谷川和夫、岩井寛『森田式生活術』ごま書房、1979。
  9)長谷川和夫『マイナスの心をプラスに転じる法』ごま書房、および同著者『森田療法入門』ごま書房、いずれ
 も1993。
 10)辻村明『自分と戦った人々』高木書房、1993。
 11)辻村明『体験・森田療法』ごま書房、1995。
 12)渡辺利夫『神経症の時代』TBSブリタニカ、1996。
 13)大原浩一、大原健士郎『森田療法とネオモリタセラピー』日本文化科学社、1993。
 14)大原健士郎:森田正馬の業績.雑誌「精神医学」;42(8)855-861,2000。
 15)大原健士郎『人間関係に自信がつくクスリ』三笠書房、1996、および同著者『心が強くなるクスリ』同書
 房、2000。
 16)大原健士郎著、講談社刊行の本『あるがままに生きる』1994、『とらわれる生き方、あるがままの生き
 方』1996、『神経質性格、その正常と異常』1997、『こころを楽にする生き方』1997、その他。
 17)大原健士郎『神経質性格、その正常と異常』星和書店、2007。
 18)ディヴィッド・K・レイノルズ『生活オンチにならない』白揚社、2000。
 19)増野肇『森田療法と心の自然治癒力』白揚社、2001。
 

 ざっと以上ですが、森田療法についての出版物を網羅して調べたものではありません。しかし、「まさたけ」という読み方を採る著者のお名前や、その読み方に呼応した出版社名が浮上しているのがわかります。
 

4-1-2.「しょうま」を採用したもの
 

  1)森田正馬、水谷啓二『自覚と悟りへの道』(旧版)白揚社、1959。
   ※この本の巻末の著者紹介に、「せいま」とふりがなが打たれているのです。
  2)森田正馬『神経質の本態と療法』白揚社、1960。
  3)高良武久『森田療法のすすめ』白揚社、1976。
  4)岩井寛『森田療法』講談社、1986。
  5)森田正馬『新版・神経質の本態と療法』白揚社、2004。
  6)森田正馬『神経衰弱と強迫観念の根治法』白揚社、2008。
 

 手元にあった、和洋、計約50冊ほどの森田療法の本が調べの対象ですが、およそランダムなサンプル群とみなせると思います。ここまででわかったのは、「しょうま」より「まさたけ」の方が多かったことです。
 
 

4-2.欧文出版物に見る「正馬」の表記
 

  1)『高良武久著作集』第Ⅱ巻、白揚社、1988。
高良武久による欧文論文4点(英文3点、仏文1点)が、上記の著作集に収められおり、これらにおいては、すべて Shoma の表記で統一されている。
  2)Momoshige MIURA and Shin-ichi Usa : A Psychotherapy of Neurosis, Morita Therapy. Yonago Acta medica ; 14(1),1-7, 1970
 ― Shoma と表記されている。
  3) David K.Reynolds : Morita Psychotherapy. University of California Press, Berkeley, 1976
 ― Shoma と表記されている。
  4)Chihiro Fujita : Morita Therapy. IGAKU-SHOIN, Tokyo・New York, 1986
 ― shoma(masatake) と表記されている。
  5) Shoma Morita:Shinkeishitsu. ( Traduction par Mamoru Onishi ,Nariakira Moriyama, Gilbert Vila et Hiroaki Ota). Institut Synthélabo,1997
  6)SHOMA MORITA : MORITA THERAPY AND THE TRUE NATURE OF ANXIETY-BASED DISORDERS(SHINKEISHITHU).(translated by AKIHISA KONDO,edited by PEG LE VINE), State University of New York Press, 1998
 ― Shoma と表記されている。ただし出生時の名前を、Masatake と記している。
  7)Lothar Katz,Naoki Watanabe (Hg.) : Die Morita-Therapie im Gespräch. Psychosozial-Verlag,Giessen,1999
 ― 本書では、まず編者らに Masatake(Shoma) と 単に Shoma の二通りの記載がみられる。また収められた複数の論文の著者の中で、S.Aizawa は Masatake の表記を選んでいるが、他の著者は shoma と記載している。本として不統一のため、編者は困られたものと推測される。なお本の中に出てくる文献欄で森田の著作の著者名は、すべて Morita,S.になっている。
 森田の没後にドイツの雑誌に掲載された、森田の論文なるものも、文献欄に出ているが、著者名は Morita,S.である。
 
 このように欧文では、shoma との表記が多い。
 なお、筆者自身もフランス向けの複数の論文において、常に Shoma という表記を用いてきました。
 
 

4-3.本人による名前のローマ字表記
 

 これについては、澤野啓一先生が第25回日本森田療法学会で発表されました(注6)。学会抄録には、次のように記されています。「森田が生前に公表した論文や図書などに記載した「Shoma」という英文や独文によるローマ字表記(自筆署名を含む)を供覧した。またこれにより、改めて本来の「しょうま」という「読み・呼称」に戻すことを提案した」。この学会の際に澤野先生がスライドで提示された画像資料の一部をご提供頂きました。先生のご了承を頂いて、本稿の冒頭にそれを出しています。
 

注6:澤野啓一 「 森田正馬(しょうま)の学位副論文と、瞳孔反射の研究(森田療法誕生の土壌と、森田正馬の生い立ち、及び関心事)(その7)」(一般口演),第25回日本森田療法学会(東京),2007(学会後の抄録は、日本森田療法学会雑誌;19(1),p80,2008)

 
 

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5.若干の検討
 

 「しょうま」か「まさたけ」かという、古くて新しい議論は必要なのかも知れないけれど、それはまるで神経質を地で行くだけのようで、従来私自身の関心事ではありませんでした。というより、人名の呼称や読み方については、自分なりの認識を持っていて、それで事足りると思っていたからです。それを本稿の最初の部分に書きました。それは、ものものしく言うと、「音訓両読説」および「音読尊称説」です。つまり、森田正馬のような偉大な人物の名は、音読して然るべきだと思っていたのです。高知の地元でも、敬愛の念を込めて「しょうまさん」と呼ばれてきたそうですから、矛盾しません。しかし、第五十八回形外会で森田正馬自身が、「私の名は、本当はショウマ」だと言った記録が引き金になったのか、次世代以降の多くの識者によって「マサタケ」という読み方が用いられていました。実際に出版物に見る「正馬」の呼称をざっと調べてみて、「しょうま」より「まさたけ」の方が明らかに多いようで、少し驚きました。それについては、大原健士郎先生が、講談社から一連の書物を出された中で、積極的に「まさたけ」とふりがなを打つ個人的キャンペーンをなさいましたし、同じく大原先生は雑誌「精神医学」に掲載なされた論文「森田正馬の業績」(2000)で、形外会での森田自身の発言に忠実に「まさたけ」説を積極的に推し、さらにその論文を、追って星和書店から出た『神経質性格、その正常と異常』(2007)の冒頭に再掲なさいました。しかし、「まさたけ」という読み方を採った方々は、大原先生以前に何人もおられました。大原先生はその流れの中で目立った人であったに過ぎません。また厳しい指摘になるかもしれませんが、本を手がける出版社側も、見識を求められます。「せいま」、「まさたけ」、「しょうま」と、三通りのふりがなを使ってこられた出版社もありました。人名辞典の類がバイブルではありませんし、著者との意見交換は不可欠でしょう。最近は「ふりがな」を避ける傾向があるものの、従来のふりがなは「まさたけ」の方が優勢で、そちらが主流だったのです。
 さてそうなると、人名の読み方についての私ひとりの認識をひけらかすだけでは済みません。
 そこで、敢えて重箱の隅をつついてみることにしました。出生時に「まさたけ」と正式に命名されたのならば、当時の戸籍もしくはそれに準じる文書に、そのような命名の記録があって、今日それを突き止めることは可能か否か?
 これについては、明治の戸籍制度を知ることが前提になります。明治5年に最初の戸籍(壬申戸籍)が編製されましたが、身分帳に等しく、届け出の制度もありませんでした。しかし明治12年に行政区画として郡と郡役場ができたので、それに伴い、出生や死亡の届け出の制度が開始されました。とは言え、戸籍の内容はなお壬申戸籍同然で、傍訓をも届ける権利はおそらくありませんでした。森田家としても、まずは一家の戸籍を初めて届け出たわけで、その一員として明治7年に両親の下に出生した「正馬」という長男がいるということが、正馬について届け出られたすべてであったろうと思われます。いずれにせよ、一般に当時の戸籍は、身分差別的な記載があるため、仮に残っていても、閲覧は許可されないようです。
 むしろここで考えられることは、幼名の「光(みつ)」だったものが、正式に「正馬」として届けられたということです。その後、その名はしばらくは「まさたけ」と呼ばれたことでしょう。そして年齢を重ねるほどに、いつしか「しょうま」と呼ばれるのが自然になったのだろうと思われます。「まさたけ」であれ「しょうま」であれ、戸籍に関わる文書を探索して、証拠づけることはできません。けれども、成長とともに名前が変化していく古くからの風習が、明治時代になお生きていたという見方ができます。私的な認識としての「音訓両読」および「音読尊称」とも矛盾しません。
 南條幸弘先生も、先に引用したブログに、そんなことを議論するよりも、森田療法の普及・発展に力を入れた方がよい、と記しておられます。同感ですが、議論に区切りをつけるための一助として、敢えて重箱の隅をつつきました。つついた成果は乏しいものでしたが、地元では過去も今も、「しょうま」としか呼ばれていないこと、一方学術的には欧文で「正馬」をローマ字で記載する際に不統一が起こると、人物を同定できなくなる、などを一応考慮しながら、落ち着くべきところに落ち着けばよいと思います。(了)
 


付記
 本稿は、最初、2月15日にアップロードしましたが、文献の追加挿入など若干の修正を加えて、2月29日にアップロードをし直しました。

 
 

禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【後編】

2015/12/28

 森田療法は、世に認知されている数多くの精神療法のうちで、名称に創案者の人名が冠された唯一の療法です。しかし、それは単に心を病む人たちに対する精神療法であるにとどまらず、古来よりのすべての人間の生き方そのものです。精神科医師になった森田正馬は、自身が神経衰弱の状態になって悩んだ経験を生かして、この精神療法を創りました。自分自身が、森田療法を生きた第一号のケースでした。つまり、森田療法とは、治療者である以前に、「悩んで、そして生きた当事者であった森田」によって創られた療法という意味で、森田の名がついた療法であると理解する方が自然だと思われるのです。
 そこで、森田療法の基礎事例としての森田正馬の生涯を、「十牛図」に対照しながら、挿話的に辿ってみます。

 
 

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 それは、父に反抗した青年が、やがて悩める人たちの父となった物語です。
 
 
 

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 先に、十牛図の階梯を三段階に分けて理解しましたが、それに対応するごとく、森田の生涯も、同様に三段階に分けて捉えることができると思います。
 おそらくそれは偶然ではなく、ライフステージは、大まかに三段階があるように思われるのです。我もしくは自我を獲得することが主題になる第一のステージ、思慮分別をわきまえるに至る第二のステージ、そして老成した人になる第三のステージです。
 まずは森田正馬の生涯の第一の段階です。高知県香美郡冨家村(現 香南市野市町)に出生。おとなしい無口な子で、小学校の成績は良かったとも、良くなかったとも言われるが、とにかく神童のように優秀な子ではなかった。そのため小学校教員をしたことのある父から厳しく勉学を強いられ、かえって勉強嫌いになっていった。9歳頃、村の金剛寺という真言宗の寺の地獄絵を見て恐怖を感じ、それが原体験となって、生と死の問題を考えるようになり、長じてもたびたび不安を覚えることになったという。
 夜尿があって12歳頃まで続いた。
 農業を営んでいた父は、正馬の中学校への進学にすぐには賛成しなかっので、遅れて中学校に入学。中学校時代から神経衰弱の症状が起こりだした。友人と一緒に東京へ出奔して苦学を志すが挫折して帰郷。さらに、旧制高校に入るために、高知出身の大阪の医師、大黒田龍が奨学金を出すという養子縁組に、親に無断で応募して養子になった。親に知られて、養子縁組を解消し、中学校卒業後は旧制熊本高等学校に入学。この旧制高校時代に、仏教哲学を学び、関心を深めていく。
 東大医学部に進学したが、神経衰弱症状のため勉強が手につかず、父の学資の仕送りが遅れているせいにして、父への面当てに、死んでやれと、神経衰弱の薬の服用を止め、必死で勉強したら、試験に好成績を得て、神経衰弱の症状も吹っ飛んでしまった。これは有名なエピソードで、この自身の体験が森田療法を生む契機になったと言われる。
 しかしこんな話から、当時は実にわがままな青年であったことが、よくわかる。暴れている黒牛そのものである。
 
 
 

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 生涯の第二段階。
 医師になり、初めて他者を治療する立場の人になった。仕事が人を作っていったのでしょう。
 父への感謝と尊敬の念が湧き、初めて手にした百円紙幣を父に送ったのでした。
 神経衰弱に対しては、試行錯誤の末に、大正8年、45歳で自分の療法を確立します。
 さらに大病にかかり、死を覚悟します。四十代にして、ようやく「死は恐れざるをえず」という悟ったのです。こうして、我執から離れていきました。
 白牛になり、さらに牛は消え失せる段階にまで達しました。
 
 
 

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 生涯の第三段階。
 いよいよ森田の面目躍如となります。自宅に入院させた患者と生活を共にし続け、自ら先頭に立って動き、時には叱り、常に患者を慈しみました。郷里の母校、冨家小学校に寄付を重ねて、晩年には講堂を建てました。人間愛の人、森田は「今親鸞」 と慕われたのでした。
 死の床においても、「死にたくない」と言い、また高熱にうなされて意識がなくなったとき(せん妄状態)、こんな夢を見ていたと、周りにいる人たちに身をもって教える死の臨床講義をしたのでした。本物のデス・エデュケーシです。教えるも、教えられるも、森田療法は死ぬまで続くものなのです。
 
 
 

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 森田正馬が患者さんたちと起居を共にした生活は、まさに「十牛図」の第十図の「入鄽垂手」に相当します。森田は禅に関心を持ちながら、無念無想に浸るようなたぐいの座禅を嫌いました。禅の修行に人工的な不自然さを見ていたようです。生活の中にある自然な禅を実践していたのでしょう。「十牛図」と対照しても、森田の生涯を考えるに当って、教本的な二次元の教えは平板で、3Dの世界に出ていく実践にその面目が、最も生き生きと見て取れます。患者と一緒に買い物に出たり、浅草へ映画を見に行ったり、熱海の観梅に出かけたりして、実際に即して指導しました。病身の森田は乳母車に乗って患者と買い物に出かけましたが、恥ずかしい格好よりも、市場の狭い通路を通るには乳母車が好都合だったからです。
 
 
 

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 弟子や従業員さんたちに囲まれている、病も篤い森田正馬です。
 
 
 

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 森田が創案し、実践した療法─森田自身は「余の療法」と呼び、没後に「森田療法」と呼ばれるようになった─は、決して特殊な療法ではありません。
 人生には必ず悩みがある。悩みは神経質な人たちに現れやすい。一方森田の療法は、すべての人たちの人生に対応するものだけれど、精神医学の立場からは、悩める神経衰弱(神経質)の人たちが、さしあたり対象になった。そのような成立の事情から、後年、森田療法は神経質(神経衰弱)の療法だという固定観念が生じたようです。
 しかし、森田は治療対象として、まずは神経質に焦点を当てたけれども、それに終始することなく、神経質の表層の心の病理の治療もさることながら、生老病死の苦と共に生き抜くことを教えているのです。そしてさらに、治療者の人間性の重要性を力説したのです。
 
 
 

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 十牛図の三段階と、森田の生涯の三段階が対応するものとして、理解したのでしたが、森田自身、修養には三段階があると言っているのです。
 学歴になぞらえるのは語弊があるのですが、スライドでは、森田の言い方に忠実にそのまま紹介しました。
 我慢すれば見返りが得られると、自己中的な功利的期待が働くのは、初級程度で、我にとらわれている。黒い牛さんの域。
 諸行無常を頭で認識する知力を持つのは中級程度で、我を捨てて無我になりましたという、分かったつもりの心境。白い牛さんの域。
 さらに苦楽をあるがままに受け入れて、生の欲望(生の躍動)になりきって、無心に生きるのが、上級程度です。無心の段階に、もはや牛はいません。
 
 
 

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 森田正馬の人間的成長の軌跡を「父親殺しpatricide」として捉えることができます。もちろんここでの「父親殺し」とは精神分析で言うような意味でです。
 心身ともに弱い子どもだった正馬は、青年になって「疾風怒涛」の反抗期を迎えます。しかし父は偉大な存在でした。父への反発は続きましたが、医師になって後、自分を一人前にしてくれた父への感謝の念がふつふつと湧きだしたのでした。父への反抗は父に及ばない子どものすることです。父に感謝し、父に盲従もせず、大きな人間になっていくのが、父を越えることになるのです。森田正馬は大きな器の治療者になり、患者に対して、厳父として慈父として、父性愛を発揮しました。
 森田療法は父性を軸とする療法であると言えます。その点では禅に似ています。内観療法や真宗において母性が重要なのと対照的です。
 
 
 

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 『臨済録』にも「父親殺し」に相当する教えがあります。仏に対しても、師に対しても、両親に対しても、感謝や尊敬を忘れてはならないが、偏愛、盲従盲信に陥ることなく、差別なく人に目を向け、広く学び、不断の努力をして前進せよと教えているのです。
 
 
 

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 森田が実際に弟子たちに教えた言葉を掲げました。自分に盲従せずに、自分を越えていけ、と教えたのです。ここに父性愛の極致を見ることができます。
 改まって教えた言葉をここに引用しましたが、日常の卑近なやりとりの中で、いつも森田は治療者に盲従することの愚を戒めました。たとえば「わしが、『三遍回ってワンと言え』と言ったら君はそうするのか」と叱って、治療者に盲従せずに、自己判断をするように諭したそうです。
 
 
 

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 森田は独自の療法を創りましたが、その技法の独自性をいたずらに誇ったのではありません。彼は治療者の人間性を重視しました。
 彼は「間接療法」が重要だと言いました。「間接療法」とは、どんな療法であれ、それを施す技法や技術より、それをおこなう治療者の人間性や人生観が間接的に隠し味として如何に重要であるかを強調したものです。まず第一に、森田の自身の療法において、治療者の自己研鑽を不可欠だとしているのです。そしてそれは、他の療法にも押し広げて言えることだとしているのです。後世において、そのような森田の治療観が忘れられがちになっているのは、残念なことです。
 
 
 

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 事例など、追加的に述べたいことを少し補足します。
 
 
 

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 事例の中身の記述部分は都合により削除しました。しかしタイトルから概要をわかって頂けるでしょう。わが息子をいとしく思う身体障害の高齢の母と、社会的生産性はないけれど、母の在宅介護をし続けた当事者の例です。二人での家庭内生活は幸せでした。これをマザコンというなかれ。親子のひきこもりというなかれ。二人三脚のどこが問題でしょう。幸せにはいろんな形があっていいのです。
 
 
 

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 「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」
 この言葉からも、森田の基本的な思想と教えがわかります。神経質や神経症の症状を治す療法だなどとは言っていません。水戸黄門の主題歌と同じなのです。そこで、それをもう一度、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 
 
 

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 最後に森田療法の本質を、短い言葉で記しました。森田療法にとらわれ、それを頑なに追求するほど、がんじがらめになって、森田療法本来の自由から遠ざかってしまうのです。ある禅の先生は、森田療法は禅と同じではないかと言ってくださったのでした。
 
 
 

                                   (後編 了)

 

 以上の講演では、先行する以下の発表が下敷きになっている。

 

1.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 森田正馬自身の生き方を基礎事例として. 第27回日本森田療法学会(一般口演),2009(同抄録:日本森田療法学会雑誌.21(1);73,2010).

 
2.A Comparison between “the Ten Ox-herding Pictures” of Zen and “the Cure” in Morita Therapy: Shoma Morita’s Life as the Basic Case. 第7回国際森田療法学会,メルボルン,2010年3月.

 
3.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 ─森田正馬自身の生き方を基礎事例として─ 京都森田療法研究所web掲載論文,2010.

 
4.禅の十牛図と森田療法 ─悟りとは?そして治癒とは?─ 第12回総合社会科学会(特別講演),2010年6月,東京.

禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【前編】

2015/12/24

 第23回日本精神障害者リハビリテーション学会(高知)で講演をおこなった際のパワーポイント・スライドを、以下に提示し(一部割愛)、適宜に説明を再現しておきます。
 長さの関係で、前編と後編に分け、ここでは先ず前編を掲載します。

 
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

01
 高知と精神医療との関係について考えると、高知は、わが国を代表する精神療法である森田療法の創始者、森田正馬が輩出した地であることを思い出します。
 
 
 

02
 香南市野市町に現在も残っている森田正馬の生家。赤壁が見える棟から右方は改築された部分にあたりますが、その左側は手を加えられていない昔のままの建物です。写真に写っていない、さらに左側には蔵があります。これらの部分は老朽化しています。文化財のようなこの建物が朽ち果てるのを防ぐことが焦眉の急となり、本年、「森田正馬生家保存を願う会」が発足しました。ご親族の森田敬子様が、会の事務局長をなさっています。
 森田療法を理解するには、森田正馬の生涯を知る必要がありますが、その生涯のルーツがここにあるのです。
 
 
 

03
 発表項目として示すごとく、用意はしたけれど、この学会でどのような視点から森田療法について述べればよいのか、迷っていました。しかし、この講演前日におこなわれた、精神医療における病院から地域への移行についてのシンポジウム(土佐弁で「地域移行て何ながよ」)を聴き、このような発想や取り組みは森田療法と同じではないか、と感じました。わが意を得たりと思いました。
 
 
 

04
 森田療法は、単に神経質や神経症の療法であるより以上に、万人の生き方に関わります。
「森田療法って、何ながよ」、「自由に生きることながよ」。ただし自由とは、放恣、放縦のことでなく。それは、ひたすら自分を尽くして生き抜くことです。その点において、森田療法は禅につながるのです。禅も「自由に生きることながよ」。
 
 
 

05
 よくある先入観は、教科書的な本に書いてありそうな説明のレベルのものです。誤っていなくても、表層的理解に流れます。症状は、流動している心のひとつの姿だから、「あるがまま」。そういうことであって、「あるがまま」は治す手段ではないのです。
専門レベルでは、認知行動療法との異同が問題になります。認知行動療法は症状を治す指向性から出発している。森田療法の森田療法たるところは、人間の存在の深い苦悩に関わるものであることです。第三世代の(認知)行動療法との違いは、森田療法はエクササイズではなく、生活そのものであることです。
 
 
 

06
 治療者が相手を薫陶する点で、パターナリズムが軸になってはいる。しかし父なる治療者を乗り越えていくのが森田療法。治療者、患者の区別なく、森田療法はみんなの自己教育。そういう大事なことが、教科書に書いていない、だから言いたいこと。
 
 
 

07
 「あるがまま」と言わざるをえないけれど、言えば頭での理解になる。歌の文句の方が、感じることができたりする。1年前には「ありのまま」と歌う「アナ雪」が流行った。今年は森進一が「あるがままに生きる」という新曲を歌っている。柳の下に二匹目のどじょうがいるかどうかは、わかりません。
 苦を苦とし、楽を楽として、逆らわずに生きるのが、あるがまま。古い「水戸黄門」の番組の歌にもありました、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 苦に遭えば苦を生き抜くほかありません。森田療法は「生きる」療法です。
 最近とくに思うことがあります。「生きる」療法を生んだ日本で、なぜ自殺が多いのか。日本人のメンタリテイは自殺に向かう閾値が低いから、森田正馬は「生きる」療法を創ったのか。とにかく自殺が多い現実を前に、私たちはどうしたらよいのかという問題がある。この場合、森田療法の専門家というものは、あまり役に立たない。ひとりの専門家より、百人の普通の人たちが、身近なところから手をつけていく方が、ずっとよい。大体、森田療法の専門家というのは奇妙なもので、それは人間の専門家というのが存在したら奇妙なのと同じです。
 
 
 

08
 森田は、自分の療法は禅から出たものではないなどと言いました。そこには、わが国の医学の西洋化の中で、自分の療法が異端視されることを避ける意図が働いていたし、また参禅したけれど、公案に透過しなかった経験による禅コンプレックスを抱えていたことがあったと思われます。実際には、仏教や禅の教えを重視し、それをたびたび引き合いに出して指導したのでした。
 
 
 

09
 このような森田の療法は、「自然科学」ではなかったけれど、「科学」であり、固定的な対象にならない心の流動性を科学する、「心の自然」の「科学」であったと言えます。
 
 
 

10
 ここに森田が書いた色紙がある。判読しやすいように、そのまま画面に転記した。
 まず、作者不詳の禅の古い歌が引用されている。これは京の鴨の河原で座禅をしている人物が、四条や五条の大橋を往来する人たちを見上げている構図であるとみなし得る。河原に座している修行者にとって、橋上を往き来する人たちが「深山木(みやまぎ)」に見えるという境地が詠まれているが、森田はこれを痛烈に批判している。木が橋の上を歩いているわけがない。山中で座禅を組む人が河原に来てみれば、橋上を歩く人が木同然に見えるとは、いかにも臭い衒いだという、そんな批判です。それで、某禅師をもじって、「形外蝉子」と自称し上の歌を皮肉っています。「形外」はもちろん森田の雅号。人は人と見るのが自然です。
 さて俎上に載せられた禅の古歌は、二つのセットになった古歌の片方なのです。全体は同じ文句だが、最後の部分が異なり、「…深山木と見て」となっている歌と、「…そのままに見て」と言い換えている歌があるのです。後者は前者を批判しており、深山幽谷で独座しているのが本物の禅なのではない、市井で人をそのままに見る、それこそ本当の禅だという歌です。後者は、一休の作だという説もありますが、定かではありません。
 つまり、形外蝉師殿は、後者の歌を下敷きにしていて、オリジナルとは言い難く、むしろパロディですが、禅を深く学んでいなければ、こんな遊び心ある禅批判はできません。森田の禅の造詣の深さと禅観が、現れている例として提示しました。
 
 
 

11
 ここにまた古歌があります。これは森田正馬という人と直接関係しませんが、森田療法と深く関わります。生まれたばかりの赤子にそなわっている仏性が、成長とともに悪知恵がついて次第に失われていく。そういうことを嘆く歌です。赤子に生来的にある仏性とは、森田の言う「純な心」と同じものだとみなせます。生まれついたときから、本来誰しも汚れを知らない、純粋で真っ白で、すなおな心を持っているのです。ところが長じるにつれて、欲の世界にまみれつつ、我が肥大して、純な心は内面に奥深く押し込められてしまうのです。
 森田療法はこの純な心の回復を重視します。その課題は、 失った「すなおな自己」を探す心の旅である「十牛図」に通じていくのです。
 
 
 

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 禅の「十牛図」は、自分という存在者の卑小な内面で世界一周をするごとく、心の成長の過程を辿る階梯を象徴的に図示しています。中国で創られたもので、日常生活の身近にいる動物である牛を、自分(自己)になぞらえて、自分探しをする、いわゆる「己事究明」の諸相を象徴的に描いています。
 
 
 

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 「十牛図」は中国で宋代に創られました。廓庵によるものが有名で、鎌倉時代にわが国に入り、しかし廓庵の図そのものは伝わらず不明のまま、そのモチーフに従って、わが国で複数の画家により「十牛図」が描かれたものです。そのうち、代表的なものとして、周文という人によって描かれ、それが後代に伝わったもの(伝周文)がありました。一方版画による「十牛図」も発見され、天理大学に保存されています(作者不詳)。周文の図も、天理大学に保存されている版画の「十牛図」も、それぞれ一長一短があります。そこで、両者の興味を引く点を抽出し、試みにそれらの特色をひとつに合成してみたイラストを用意しました。
 この「十牛図」のイラストのシリーズには、特徴として、タネ仕掛け、ちょっとあります。分かり易いように、あらかじめそれらをバラしておきます。まず最初は黒かった牛の色が、途中から白くなること。図を囲む黒い枠が、最後の第十図では白くなること、またその第十図では初めて複数(二人)の人物が登場することです。
 
 
 

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 「十牛図」は心の成長の階梯を表していますが、一段ずつ確実に上に登れる階段のようなものではありません。双六のように逆戻りすることもあり、また双六のような、めでたし、めでたしの上がりで終わるものでもありません。上へ上昇した上がり(仏教で言う「上求菩提」)がゴールではなく、下界に戻らねばなりません(下化衆生)。調子に乗って下山すると、衆生の済度をするどころか、油断して地獄に転落するかもしれません。「十牛図」の入り口は、地獄を見た人の生き直しにも開かれています。底辺に地獄を置くと、「十牛図」は、下から出発して、時計のように(あるいは時計の逆周りに)ぐるぐるまわる周回のプロセスを示しているとみなせます。
 
 
 

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 自分のあり方に何も悩んでいない脳天気の人は、さしあたり機が熟しませんが、神経質のような内省性の強い人は、自己を模索します。「十牛図」の全体のモチーフは、見失った自分探し、つまり「己事究明」なのです。
 この十の図にわたる「己事究明」の展開は、大まかに三つの段階に分けることができるでしょう。
 第一のステージは、「自己を探す」過程です。それは、牧童がいなくなった牛を探す様になぞらえて描かれています。第一図「尋牛」がその始まりです。「十牛図」は絵だけでなく、文章も添えられていますが、第一図の序文に皮肉が込められた言葉があります。「もともと失ってもいないのに、何でまた追尋するのだろう」と。「照顧脚下」(自分の足下を見よ)ができないのが人の性(さが)で、自分探しのお遍路が始まるのです。やがて牛の足跡を見つけ(第二図)、体が見え(第三図)、ついに暴れる牛を捕獲します(第四図)。そこでは、真の自己を捕まえたという達成感が生じます。しかし真の自己は捕捉の対象たりえないものです。黒牛を捕獲した牧童は、真の自己を捕捉したと思い、悟ったつもりの第一の夢を見ているのです。そこには我の高揚があります。牧童が達したのは、「我執」の域に過ぎません。
 
 
 

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 第四図から第五図の間には、長い精進のプロセスがあったと見るべきであり、第五図「牧牛」では、牛の色は「白化」しています。この図からは、「自己を陶冶する」という第二のステージになります。白く純化した牛に乗って、心の奥底へと回帰します(第六図「騎牛帰家」)。そして白い牛の姿も昇華して消えて、人牛は一体化し、清明なる月の下に、山中の庵で独座して、高踏的な悟りの境地に至ります(第七図「忘牛存人」)。「我執」という第一の夢から覚めて、諸法無我、諸行無常を知り、無を認識しているという段階にあるのです。聖位とも言われる境地です。修行を重ねて到達する「上求菩提」の域ですが、悟り至上主義的な第二の夢の中にいるのです。
 
 
 

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 次に、第八図以降が、「真の自己を生きる」第三のステージになります。ここで、いくつかの問題があらわになっていきます。第八図「人牛倶忘」で、何も描かれていない空一円相になることは、廓庵十牛図に共通です。第七図まで連綿と継続し、聖位にまで至った展開は、ここで無へと開放的に切り替えられます。無を頭で認識していた人も姿を消し、本当の無そのものになります。無は自由そのものです。無の次に、自然の本源が現出します。森田正馬が「柳は緑、花は紅」という禅語をよく引用したごとく、主客一体の「あるがまま」の姿です。
 そして最後の第十図「入鄽垂手」に至って、ドラマチックな変化が起こります。入鄽垂手とは、市井に入り手を差し伸べて人に慈しみを向けるという意味ですが、図では二人の人物が描かれています。左には、布袋さんのような腹をしたメタボの人物が、酒のかめを手に、悠然としています。これこそ、自分の心牛を尋ね歩いた元牧童が、遍歴を経て進化を遂げた姿です。その前には、これから尋牛の旅に出るのかもしれない新たな牧童のような人が佇んでいます。元牧童は、上りつめた聖位の境での、悟りを至上とする第二の夢から覚め、下山して日常生活に戻ってきたのです。ただ者ではないただの人になりました。「下化衆生」の境位にあります。真の自己は、ここでメタボの人と一体になっていますが、眼前にいるしょぼくれた人が、他者として重要な役割を果たしています。他者がいてこそ自己が自己になる。相手が、下化衆生をさせてくれているのです。大所高所から降りてきた人が、上から目線で下界の庶民を救ってやるというニュアンスが、もし出ると、あまりいただけません。ちなみに森田療法にはパターナリズムの軸がありますが、それは硬直した軸ではありません。
 さて、この第十図では、これまで円相の図を囲んでいた周囲の枠が黒色だったのに、最後に白くなったことに気づきます。これはどういうことなのか。黒かった枠は、壁のような仕切りがあったことを意味し、図が展開した円相は、円窓だったのではないか。壁の内側に引きこもっている自分がいて、壁に開けられた円い窓から、外で展開する自分劇場を眺めていたのではないか。第十図で、内側と外側を隔てていた壁は消えて、ひきこもりの自分は外へ出た。自分劇場を見ていた自分も同時に布袋さんになったのです。あるいは右側の牧童になったとみなしてもよいでしょう。この「十牛図」は、複雑な3Dの構造になっていたのです。
 
 
 

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 3Dの構造は、第十図において劇的に明らかにされました。暗い部屋に引きこもって、円い窓からおずおずと外を覗き、自分劇場に見入っていた自分が布袋になってしまいました。布袋さんは元神経衰弱の引きこもりだった。新たな牧童にも、また繰り返す自分探しの出発が予示されています。神経衰弱は治ったり再発したり。それが人生、セ・ラ・ヴィ です。
 

                                   (前編 了)

三聖病院が存在したことの歴史的意義について ─平成26年末の閉院を受けて─

2015/10/19

 第33回日本森田療法学会(倉敷)で平成27年10月16日に、一般演題として発表したものを再現します。

 
 

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 私は、この三聖病院に、非常勤でしたが、昨年まで約40年間勤務した立場から、この発表をいたします。

 
 


 
 

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 森田正馬の直弟子、禅僧で精神科医の宇佐玄雄によって、禅的色彩の濃い森田療法施設として、三聖病院が大正11年に東福寺内に創設され、その後三聖病院となり、昭和32年に二代目の宇佐晋一院長に継承され、通算約90年の長きにわたって禅的な入院原法の診療が継続されました。しかし昨年末、遂にその歴史に幕を閉じたので、この機会に本院が森田療法史上に存在した意義を考えてみたいと思います。
 なお、この発表では、森田療法の中に禅的思想が含まれていることは自明と考えた上で、本院におけるその展開を顧みます。

 
 


 
 

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 初代院長の宇佐玄雄先生は、自身が神経衰弱に罹患したことを原体験とし、悩める人に一律に禅を説くだけでは不十分で、精神医学を取り入れる必要性を痛感して、慈恵医専に学びました。大正8年に卒業し、折しも療法を確立した森田との数奇な出会いに恵まれます。森田は、開業した玄雄を応援し、また玄雄から禅を学んだのでした。
 玄雄は、説き伏せる説得ではなく、接するという意味での得がよいとしましたが、この辺に、精神療法的姿勢が見えます。また、治癒への「こつ」は善光寺床下のお戒壇巡りのように暗闇を進むところにあると教えましたが、この辺は禅的です。また晩年は真宗に傾倒し、「不断煩悩得涅槃」、「自然即時入必定」といった『正信偈』の言葉をよく引用しました。禅だけでは厳し過ぎるので、包容的な面も導入したのかもしれません。

 
 


 
 

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 これは宇佐玄雄の日記指導ですが、コメントの例として、画面の左側には、「自己診断をやめて指導通りに従って居れば必ず治ります」と書いてあります。接する接得よりは、説く説得のニュアンスの方が強い感じを受けます。

 
 


 
 

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 右は、晩年の玄雄先生の写真で、左は、「一殺多生」という真宗大谷派で戦時に用いられた、ちょっと物騒な言葉ですが、これを玄雄先生が色紙に書かれたもので、厳しい面があらわれています。

 
 


 
 

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 これは、厨房で割烹着をつけて田楽の作り方を教える宇佐玄雄です。患者と共に入浴したり、行事のときには掛け合い漫才をしたりする庶民的な面も有しておられました。

 
 


 
 

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 次に宇佐晋一先生ですが、昭和32年に玄雄の逝去に伴い、30歳になる直前の29歳から院長になり、禅的色彩の濃い療法を継承されました。その一方で、その頃京大精神科で行われるようになっていたECTや薬物療法を導入されたので、精神病院としての顔も持つようになりました。
 しかし天龍寺の平田精耕老師から「禅を花とするなら森田療法は造花だ」と評されて、療法を花に近づけようと精進なさったそうで、より原理的な「禅的森田療法」へと向かいました。この療法の大きな特徴は「不問」に尽きました。“Dharma-Centered Therapy”だと仰ったこともあって、これはさすがだと思いました。しかし治療者患者関係については、人間的関係は「ない」とされるので、治療者はかえって崇拝の対象になり、理想化転移が起りがちでした。「宇佐療法」という呼称が積極的に用いられるようになったのもそのためです。

 
 


 
 

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 これは玄関を入ったところに掲げられていた扁額で、「説きおわれるなり」という禅語です。最初から説きおわっているので、話はありませんぞ、と「不問」の接遇を示しています。

 
 


 
 

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 入院での修養生活は、第1期から第3期または第4期までの入院原法が維持されていました。その中での特徴と言えば、院長の講話と美術スライドが、それぞれ週3回あり、昔かわらず古事記の音読が指示されており、日記指導は作業についての工夫と実践が評価されるものでした。心についての言語化や問答は一切ない生活です。

 
 


 
 

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 修養生と呼ばれる入院患者に向けて、このような掲示がしてありました。「たった一人の集団生活」、「しゃべる人は治りません」。これ以外に「話しかける人には答えないのが親切」という掲示もありました。

 
 


 
 

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 次に、宇佐父子の特徴を改めて整理してみます。
 まず、森田正馬に照らして、宇佐玄雄の特徴を示します。
 治療の場と構造は、森田が自宅において家父長と内弟子のような関わりを持ったのに対して、玄雄は、禅寺風建物を場として修養的生活をさせながら、森田同様に身近な存在者として指導しました。治療関係は、森田は説得療法の限界を知って自分の療法を始めたにも拘らず、なお説得的なところがあったようですが、玄雄の場合、接する接得だと言いながら、説明し、説いてやる説得に流れていた節があります。この辺に、治療者としての二人の人柄に似たものを感じます。
 家庭的療法という面では、玄雄の場合、自宅ではなく病院ですので、森田と同じようにいかなかったのは、やむをえません。
 治療者像は、厳父でありかつ慈父であったこと、および治癒の過程は、実際生活の中で人間的な薫陶が進むところにあったことは、両者において同じでした。

 
 


 
 

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 宇佐父子の比較です。禅寺風建物の場で、禅的生活が用意されていたことは全く同じですが、玄雄の身近な指導と異なり、二代目では「不問」の徹底により、接する接得も希薄な関係性のない関係となり、従って家庭的ではない療法になっていました。治療者は、しばしば崇拝の対象になり、理想化転移の起った状態が、ひとつの治癒のタイプになっていました。また、二代目は戦後の医師でしたから、薬物やECTも導入されました。

 
 


 
 

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 これは、森田と宇佐父子の三人を、ひとつの対照表にしたものです。重複しますので、説明を略します。

 
 


 
 

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 まとめのようなことを言いますと、玄雄先生は、禅に精神医学を加えて、森田療法を継承された。晋一先生は、戦後の精神医療を取り入れつつ、一方禅を原理的に追求なさった。
 二人の治療者像は対照的だったが、三聖病院が入院原法のサバイバーとして、90年余を生き抜いた功績は大きい。

古い講義ノートより ─あるがまま/禅/森田療法─

2015/10/12

 佛教大学での過去の講義ノートの断片が古い資料の山の中から出てきました。大学院の臨床心理学専攻の学生相手に、森田療法の講義をしていた時のものです。書いた日付は2011年1月10日、東日本大震災の3ヵ月前です。ぐうたら者の私はめったに講義ノートを作りませんでした。学生への配布資料を兼ねて、講義ノート風の文を書くことはありました。これもその種の教室内公開用の講義ノート風資料で、自分の考えをまとめて学生にも配布したものでした。
 5年近く経った今、読み返すと、修正すべき点は若干ありますが、当時考えたことの骨子は多くは今につながっていますので、稚拙な点はご容赦願うとして、そのままで本欄に掲載しておきます。

 
 

   ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

 
 

あるがまま/禅/森田療法

 

Ⅰ.「あるがまま 」について
 
「如実知見」が原始仏教の根本思想らしい。
「 とらわれのない心で、ありのままに(あるがままに)事物を見る」
「ありのままに」「あるがままに」は、真理を発見する(悟りに至る)根本的態度であるとされる。
ここで「あるがままに」は副詞であることに注意したい。
構文にすれば、「主体が・あるがままに・対象(客体)を・知見する」ということになる。
そうすると「主客一如」になるというのである
しかし一気にそう言ってしまうと曖昧さがいくつか残る。
まず「如実」が「あるがままに」にあたるが、=「真実の通りに正しく」 ということで、英語に直訳すれば、correctly,rightly,exactlyになる。前提として、正常な認知機能が不可欠な必要条件になるであろう。
また「対象(客体)」とは「ものごと」などと言われるが、「ものごと」とは何か。これは「事実としての現象」あるいは「真実」と考えておこう。仏教の言葉では「法」dharmaにあたる。「法」とは、「あらゆる存在」、「真理」、「不変にして普遍的な真実の道理」 の事である。
次に「知見する」とは、たとえ認知機能に異常がなくても、単に「認知する」ということと同じではなかろう。それは体験を経た経験的な智恵でなくてはならない。
「あるがまま」の原点を原始仏教にさかのぼって捉え直せば、以上のようになる。そこには、受動と能動の区別はない。主体と客体の対立から始まって、(真実世界の中にいる)主体が、真実としての客体を、真実の通りに、認得する、その成り行きが「あるがまま」である。人間は「法(のり)」を超えて生きることはできない、と考えれば決定論になる。「法(のり)」の中で生かされて、自分らしく生きると考えることもできる。
わが国においては、自然(しぜん)= 自然(じねん=おのずから然る)と捉える日本人の伝統的思惟のフィルターのかかった「あるがまま」のニュアンスがある。まずは原始仏教における「あるがまま」に最も近い用語としての「如実知見」が、補足的 な解釈を必要としたが、加えて日本的な意味合いが入り、かつ大和言葉で言うところの「あるがまま」は、曖昧で日本的で含蓄がある難解な言葉である。ちなみに鈴木大拙は英語で、“as it is”と訳したのだった。シンプルで忠実な訳語かも知れないが、含蓄を伝えることに成功しているのかどうか、不明さを残す。
 

Ⅱ.「純な心」と「経験智」
 
 森田は「「常識」は感情である 」と言った。「感じから出発せよ 」とも言った。しかし、「感じ」あるいは「知」には、素朴な次元から、経験に裏打ちされた深い「知(智恵)」の次元まである。

1. 「前意識的認知」…①先験的、生来的にある心の働き。「純な心」(赤ん坊的な自然な感情)。②あまり意識しないで、日常何となく知っている事もこのレベルにあたる(浅い認知)。
 

2. 「認知」…通常、認知と言われるもの。Cognition である。しかし生来的にではなく、脳の記憶に照合せねばならないならば、それは主観の入る再生的な認知であり、厳密には、Recognitionと言う方 が正確であろう。
 

3. 「メタ認知」…認知を認知する機能であると言われる。絶えず自分の認知の適否をチェックしていること。セルフ・モニタリング。神経症的完全主義を認知と同時進行でやっているようなもの。コンピューターなら必要な機能である。
 

4. 「教訓帰納」…失敗をバネにして、反省し、工夫を加えて新たに努力する。神経質者は内省心があり、かつ向上心が強いので、このようにして前進することが可能である。しかし反省が過度になり、不安も加わって「石橋を叩いて渡れない」ほどになることもある(とらわれの悪循環)。七転び八起きが必要である。
 

5. 「経験智」(「暗黙智」)…知識や単なる認知によらない、体験の積み重ねを経て、つまり経験によって会得し身につけた、 言葉を介して伝え難いような、深い智恵のこと。理屈やマニュアルは無用のレベル。分別から脱却している境地であり、分別 に覆われて、その下に隠れていた「純な心 」が再び現れて発揮される。この場合は、経験に基づいて他者に共感できるような、厚みのある深い純な心の発露である。このような境地に至ることの大切さを森田は教えた。しかしその教え方が難しい。療法の型も必要だが、治療者が人間的に成熟していること、より正確には、一層の 成熟を目指して常に精進している人であることが、必要である。“Learning by Teaching”(教えることで学ぶ)と言われるが、治療者はそれを体現し続けねばならない。一日の長ある者としてである。
 
 

Ⅲ.禅の流れと禅の本質
 
森田療法と関係ありそうな要点のみを略記する。

1.禅の流れ
仏教の原点において、釈尊は人間の苦しみ(四苦八苦)をどうすれば救えるのかと悩んで苦行をしたが、苦を苦として、生きていくしか仕方がないと悟った。釈尊は坐禅をし続けたが、煩悩にとらわれがちな自己を みつめる修行だった(「観想」)。そして「自灯明、法灯明」(自らを拠り所とせよ、法を拠り所とせよ)と言った。
 達磨大師を介して中国に伝わった仏教(禅)は、唐代に、生き生きした日常生活の中の行住坐臥の禅として花開いた。この時代には修行者は農耕に従事し、自給 自足の集団生活をしていた。自己をみつめる「静」の面と、集団で切磋琢磨し合いながら作業をする「動」の面があって、バ ランスのとれた修行が成立し機能していたのである。しかし宋代になり、儒教が官僚と結びついたために、禅も変質を蒙るこ とになった。禅は主に、公案禅と黙照禅に分かれた。そしてわが国には、この二つの流れの禅が鎌倉時代に入ってきた。公案 禅は臨済宗として武家文化の中に流入し、黙照禅は曹洞宗として、山中の寺院と農民社会に受け入れられた。(中国では儒教 の流れの一つである王陽明の陽明学は、禅との接点を有し、言 わば「行動する禅」である「事上の錬磨」を教えた)。日本の禅は、その後明治末から大正時代にかけて、文化人が禅(臨済宗の禅)に関心を持った。インテリの間での禅ブームで、例えば 夏目漱石もそうだった。
 そのような背景の中で森田も禅に関心を持ったのである。
 

2.禅の本質
 禅という言葉そのものには意味がない。禅という言葉が神秘的なニュアンスを帯びてしまっているから困る。元は“dhyāna”という梵語が、漢音に置き換え られて、「禅那」となり、「那」が抜け落ちて「禅」となった。意味としては「静慮」だと言われる。つまり、静かに自己を みつめること、内観、観想(瞑想ではない)である。禅の課題は「己事究明」にあるとも言われるが、同じ意味合いである。 坐禅は神秘的な悟りを開くためにするものではない。自動車には定期的に車検が必要であるのと同じように、人間はときどき 坐禅をして、自分はこれでいいのかと自己点検するのだ、と山田無文老師は言ったという。分かり易い名言である。
 中国では、さらに唐代に日常生活の中で作務に励む、動的な修行も重んじ られた。王陽明の「事上の錬磨」もその流れと見てよい。静と動の緩急が共に大事である。自己と現実を如実に知見すれば、 当然必要な行動へと促される。「上求菩提」の折り返しで、人を慈しむ「下化衆生」も、思い上がった思いやりではなく、自 然な行為に過ぎない。禅は中国で大乗仏教になったが、原始仏教と違って、生活と禅がつながったので、他者との苦楽の共有を重んじるようになったのであろうし、また自己を突き詰めるほどに、自他の区別がなくなるのである(自他不二、自他一如)。
 こうして、生き尽くすのが禅の本質なのであろう。「随所に主となれば、立つ処皆真」と臨済義玄は言った。状況にしたがって、そこで主体になれば、どんなスタンスも本物である、というような意味。まず自分のアイデンティティありきではなく、状況に応じて自在に状況の主人公になる、それが「あるがままに」生きるということである。
 
 

Ⅳ.森田正馬と禅
 

 森田は当時の文化人がそうであったように、ご多分にもれず禅にかぶれた。鎌倉の円覚寺に何度か参禅したほどの熱の入れようであったが、公案には透過しなかった。そのための負け惜しみの可能性があるが、彼は自分の療法は禅から出たものではない、強迫観念の治療法を見つけたら、それがたまたま禅に一致するところがあっただけであると言ったのだった。森田は東西の様々な思想を取り入れて療法を創案したので、もちろん禅一色ではないのは確かであるが、その著作を紐解けば、至る所で仏教に関する引用をしており、その多くが禅の教えについての言及である。それも、神経質のとらわれの心理や、治癒機転や、治癒した姿などを示すための、 キーワードとして禅語を持ち出している。森田は禅の影響を受けたとみなすのが自然である。
 しかし禅の思想にも様々なものがあり、森田はそのような禅のすべてを無批判に受け入れたのではなかった。
 森田は正岡子規の生き方を高く評価していた。森田は子規について次のように言っている。「運命は堪え忍ぶにおよばぬ。…堪え忍んでも忍ばなくても結局は同様である。われわれはただ運命を切り開いていくべきである。正岡子規は肺結核と脊椎カリエスで、永い年数、仰臥のままであった。そして運命を堪え忍ばずに、貧乏と苦痛とに泣いた。…それでも歌や俳句や随筆を書かずにいられなかった。…それが生活の資にもなった。子規は不幸のどん底にありながら、運命を堪え忍ばずに、実に運命を切り開いていったということはできないであろうか。これが安心立命であるまいか」。この正岡子規は「禅は平気で死ぬことだと思っていたが、禅とは平気で生きることだとわかった」と言っている。「平気」という言葉は誤解を生むが、「苦しければ苦しいままに」という意味であろう。このような病床での子規の生き方が、森田に影響を与えている。
 森田は、坐禅は「無念無想」になろうとしてするものではない、「雑念即無想」でいいのだと言った。また「煩悩即菩提」 (大乗仏教の言葉)を取り上げ、意味は同じだが自分はそれを「煩悶即解脱」と言い換えたいと言った。「悟り」についても、それは高踏的な境地ではなく、日常において「火花を散らして必死で生きていくのが、悟り」であると言い、その意味で 「治癒」と「悟り」は同じものであると捉えた。どんな状況でも「生の欲望」に乗って生きるということを重んじた。また「自然服従」(「自然に服従し境遇に従順なれ」)、あるいは「事実唯真」(「事実に非ざるは真実に非ざるなり」)と教えた。これは既成の禅語ではなく森田が独自に作って用いた言葉であり、禅の本質的なところをうまく表現している。
 心というものについては「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり、流れに従って性を認得すれば無喜亦無憂なり」 (『景徳伝灯録』)をよく引用して、心の流動性を指摘し、公案のごときいたずらなる精神修養を否定して、王陽明の言うような「事上の禅」あるいは「事上の錬磨」を重視した。唐代の生活に根ざした禅や王陽明の実学的な禅が、森田による神経質の療法と軌を一にするものだったったようで ある。
 
 

Ⅴ.森田療法の中に生きている禅
 

1.修行(修養)の三形態
 A.日常生活の中での修行
 禅を知らず、森田療法も知らない人でも、実際の境遇で自分の人生を必死に生きていれば、それが本物の修行であり修養である。
 

 B.禅寺での修行
 実際の生活において煩悩や苦に耐えられない人が、一念発起し、出家し師について修行する。今日では、職業として僧侶になるために出家修行する人の方が多い、しかも禅僧になろうとする人も減っていると聞く。とにかく、禅寺は俗世間から隔離された特殊な場である。超俗的で、独善的な雰囲気なきにしもあらず。修行のために人工的にしつらえられた場所である。
 

 C.入院原法の森田療法による修養的療法の体験
 上記のAが最も純粋な本物の修行であることは言うまでもないのだが、誰しもしばしば苦悩に耐えられないことがある。だからと言って、そのために出家ばかりしてはいられない。そんな人たちのために、あるいはまた神経症的に苦しんでいる人たちのために、A+Bとして創案されたのが森田療法であると言えよう。
 

2.森田療法の中にある重要な禅的要素
a) 入院においては、実際の日常的生活に近い集団生活をするようになっている。その中で切磋琢磨して自分を磨く体験を する。
b) 和して同ぜず。「たった一人の集団生活」とも言われるように、個別に孤独に自己をみつめる体験をせねばならない。
c) 人間的な指導者の存在。治療者自身が人生経験を積み、なおかつ常に精進し続けている人でなければな らない。そのような人間的な治療者との師弟関係により、患者は薫陶を受けて成長のきっかけをつかむ。
d) 時が熟すことも必要である。「大疑ありて大悟あり」、あるいは「啐啄同時」と言われるように、患者自身の悩む体験があってこそ、治療者の指導が響く。小乗的体験を経て、大乗の恩恵にあずかることができる。
 
 

Ⅵ..何をどう治すのか
 

1.いわゆる神経症を治すということについて

 森田は神経症という用語を殆ど使っていない。当時、アメリカのベアードが神経衰弱という概念を提唱し、衰弱だから休養が必要だとした。これに対して森田はドイツ精神医学の影響もあったけれど、神経質の概念を唱えて、軽度の素質だが、その上に心理的とらわれの悪循環を起こしているのだから、休養を要せず、そのまま生活に努力することが大事だとした。症状を治すことを目標にしないのである。生活に励んでいるうちに、症状を治すという主観的課題が中心にならなくなる。結果として症状は治ることがあるし、治らないこともある。それだけのことだが、症状に苦しんだ体験がむしろ人間的にプラスになる。 森田療法は、症状を 治すという小さな事より、人間性を伸ばすという大きな事をする療法である。
 森田は既に神経質は身体的精神的な生来の素質はあると言っていたのだが、最近生物学的精神医学の進歩により、強迫性障害やパニック障害は生物学的要因によることが判明して、ある程度までは薬物も効果がある。もちろん二次的心理的加工も起こるので、精神療法は必要であろう。 しかしその精神療法も、精神分析や行動療法に始まって、ナンたら療法、カンたら療法が雨後の筍(たけのこ)みたいにいっぱい出てきた。皆さん競ってやればいい。患者を症状にこだわらせるばかりである。そんな現況をみて、神経症は治さずに放っておく のが一番ではなかろうかと、考える昨今である。(ちょっとキツいことを言ってるかナ)。
 悩みの種はある方がよい。アクトアウトする人はやむを得ず介入を要するが、治そうとし過ぎている風潮(患者も治療者も)への反動がいずれそのうち起こるのではなかろうか。とにかく軽い悩みの病理は治してやらないのが一番だ。
 
 
2.人生の「苦」について

 釈迦は四苦八苦からどうしたら逃れられるかと悩んで、出家して六年間苦行をした結果、苦のままに生きていくほかないと漸く悟った。人間は死ぬものだということくらい、小学生でも頭では知っている。しかしそんなことを本当に認識するに至るには、実際に悩み苦しむ体験を経なければいけないのである。そのために禅的修行や森田療法の修養的生活があるのである。森田は「釈迦は神経質の理想的大偉人だ」と言ったけれども、正確には神経症的な症状に悩んだというより、深い実存的な苦しみを体験した人であった。このような苦悩は人生につきものである。病名にすれば、神経症、うつ病、BPD、統合失調症、PTSDなどになるだろうが、そのほか障害をもつ人の悩み、障害児者の家族の悩み、グリーフワーク、ターミナルケア、自殺予防など。このような次元で森田療法はますます重要になりつつあるのである。実際には森田療法 の専門家の側には、未だこのような認識が十分に高まっているとは言えない。現状においてはフィールドでは皆さんどんな思想で「心のケア」とやらに関わっているのだろうか。ケアという視点から言えば、心の専門家より、医療に恵まれない国や地域で、必要な医療や看護に従事する一部の人たちの努力の方が、ずっと森田療法的である。
 
 

(2011年1月10日 記)

「 私が三聖病院で学んだこと、学べなかったこと 」( 発表したスライドの一部紹介 )

2015/06/29

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注)発表に用いたスライドの約半分を抜粋して、以下に提示します。

 


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注)過去の写真 ( 以下も )

 


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注)玄関の履きものを脱ぐ場所に掲げられていたが、本来は自分自身をみつめよの意。

 


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注)以下、宇佐玄雄先生のこと。

 


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注)病躯を押して。

 


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注)「 水を節約しませう 」( 玄雄先生の筆跡 )。

 


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注)ブラック・ジョークを書き込んでしまった。

 


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注)「 正( まさ )に受くるは受くるにあらず 」( 禅語 )。レジリエンスに通ず。

 


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注)「 一物も将( も )ち来たらず 」。
  そんな言い草も放ってしまえ、と趙州は言ったという禅の故事をあらわす。

 


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注)宇佐晋一先生の講話

 


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注)いつでもどこでもその場その場で立ち処に( ただちに )主となる。

 


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注)「 しゃべる人は治りません 」は、玄雄先生が説いた厳しくも暖かい言葉。
  「 たった一人の集団生活 」は、入院原法が集団精神療法ではないことを表していた。

 


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注)「 常に戦場に在り 」

 


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注)入院の治療構造は、『 注文の多い料理店 』( 宮澤賢治 )に似ている。

 


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注)「 よきひとの仰せをかぶりて(・・・)地獄は一定すみかぞかし 」のくだりを指す。

 

 


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注)このように書き連ねると、教条的になるかもしれないけれど、精神療法は他者の人生を支配してはいけない。それをわきまえるところに森田療法の味がある。

 


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国際PSYCAUSE学会(京都)で発表された内容の一部紹介(3)―「森田療法と禅―三聖病院の紹介―」

2014/12/08

岡本による発表の仏文稿と日本語のパワーポイントスライドを紹介します。

 

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1) Introduction
À propos du Zen, après ma communication, Maître Nishimura fera une conférence spéciale.
Comme j’ai dû m’occuper de ce congrès, je n’ai pas pu consacrer suffisamment de temps à la préparation de ma communication. En outre, la fermeture en décembre de cette année de l’Hôpital Sansei a été décidée comme un baisser de rideau sur une longue histoire de 92 ans.
Cela étant, dans la première partie de ma communication, je vais exposer sommairement les relations entre le Zen et la Thérapie de Morita. Et dans la seconde partie, je parlerai de l’histoire de l’Hôpital Sansei.
Cette communication reprenant pour partie le contenu de l’article que j’ai publié l’année dernière dans PSYCAUSE, je vous invite donc à le relire.
 
2) Le Zen et la Thérapie de Morita
Le mot « zen » a pour origine le sanscrit « dhyana » qui a été reproduit oralement en chinois et s’est déformé en « zen-na ». Ensuite, on a supprimé le « na » et c’est devenu « zen ». La signification originelle de « dhyana » était « pensée profonde ».
Mais à quoi pensait-on profondément ? Il s’agissait de s’examiner par introspection. La tâche principale du bouddhisme est de vivre les douleurs. Tous les individus, Orientaux comme Occidentaux, sont seuls et ne peuvent vivre en évitant les douleurs.
Par ailleurs, en poursuivant son soi, on aperçoit qu’on ne pourra pas séparer son soi du soi d’autrui : on voit donc l’importance de la coexistence en société.
Les névrosés ne sont pas les seuls à avoir tendance à oublier d’accepter les douleurs ou de vivre avec les autres, c’est notre cas à nous aussi. C’est ce que dit le bouddhisme et on peut dire que le Zen est la quintessence du bouddhisme. Morita a dit que sa thérapie était quelque chose qui se situait à l’intersection de la science, du bouddhisme et de la philosophie.
 
3) La structure de l’hospitalisation
La Thérapie de Morita a pour point de départ une forme d’hospitalisation caractéristique. Morita a accueilli des patients dans sa maison comme des membres de sa famille, et a mené la vie commune avec eux. Dans cette thérapie, le rôle paternel de Morita, thérapeute, a été très important. Mais aussi le rôle maternel tenu par sa femme a été indispensable. De même, la fraternité entre patients dans la vie en groupe, leur a permis de développer leur sociabilité.
L’hospitalisation consiste en 4 étapes :
+ La première étape est celle du coucher absolu
+ La deuxième étape est celle de l’observation du monde extérieur
+ La troisième étape est celle du travail
+ La quatrième étape est celle de la vie sociale compliquée
Les patients suivent chaque étape dans l’ordre.
Ils gardent d’abord le lit sans rien faire au cours de la première étape. Ce faisant, ils font exclusivement face à leur moi et par cette expérience, ils se libèrent de l’esclavage de l’ego et restaurent le soi pur. Prenant un nouveau départ avec cette expérience de renaissance du soi, et passant par les différentes étapes, ils accroissent leur humanité.
 
4) La guérison et l’éveil du Zen
Comme Morita était médecin, il lui incombait dans l’immédiat de guérir les symptômes de ses patients névrosés. Mais chez l’homme, l’inquiétude et le sentiment de sérénité étant comme les deux faces d’une même médaille, le désir d’éliminer la seule inquiétude d’un névrosé est impossible à réaliser et on reste dans un palais des illusions. Un traitement véritable doit extirper ce genre d’illusions. Morita a enseigné que la guérison n’était rien d’autre que de vivre jusqu’au bout avec les douleurs. Dans ce sens, il a assimilé la guérison à l’éveil.
 
5) La Thérapie de Morita à l’Hôpital Sansei
Avec ce que j’ai dit jusqu’ici, il me semble qu’il est facile de comprendre que la Thérapie de Morita elle-même est quelque chose qui correspond bien au Zen.
Et à ce propos, il y a un hôpital qui a une inspiration zen plus poussée que la thérapie effectuée par Morita. C’est l’Hôpital Sansei qui se situe à Kyoto. Le Docteur Genn-yu USA, bonze et psychiatre, était un disciple direct de Morita. En 1922, il a fondé la clinique Sansei qui est à l’origine de l’hôpital, dans l’enceinte même du temple de Tôfukuji et il y a commencé le traitement par hospitalisation de la Thérapie de Morita. Cinq ans plus tard, en 1927, cette clinique est de
 
venue officiellement un hôpital. Ainsi, le Docteur Genn-yu USA qui en a été le premier directeur, a traité les névrosés par hospitalisation dans cet établissement et il a fidèlement appliqué la thérapie de Morita, son maître. Morita est mort en 1938 mais l’Hôpital Sansei qui a hérité de la Thérapie de Morita, a continué à jouer un rôle historique important en tant qu’établissement représentatif de cette thérapie, dans notre pays. Quand, en 1957, le premier directeur, Genn-yu USA, est décédé, c’est son fils, le Docteur Shin-ichi USA qui est devenu le deuxième directeur. Et jusqu’à aujourd’hui, il a conservé la thérapie qui garde la pensée et la méthode zen mise au point par son père qui était tout à la fois bonze zen et fidèle praticien de la Thérapie de Morita.
Le deuxième directeur aura bientôt 88 ans et il a décidé tout dernièrement de cesser les consultations à la fin de décembre. Comme il fallait annoncer la fermeture aux patients, un avis a été affiché à la porte de l’hôpital mais elle n’a pas encore été annoncée officiellement à l’extérieur. Mais cette fois, vous qui assistez au Congrès de PSYCAUSE, vous aurez pu prendre part au mouvement de l’histoire en venant à Kyoto au moment important où le flambeau de la Thérapie de Morita traditionnelle est sur le point de s’éteindre. Ce n’est pas à moi d’annoncer officiellement la fermeture de l’Hôpital Sansei mais comme le hasard a voulu que ce congrès se tienne juste avant la fermeture de l’hôpital, vous en serez peut-être les derniers visiteurs étrangers. C’est en pensant à cela que je vous ai à dessein révélé la fermeture de l’hôpital. Les Japonais ici présents comprendront que je leur donne les dernières nouvelles de l’Hôpital Sansei dans le cadre de ce Congrès de PSYCAUSE.
Il va de soi que la thérapie utilisée à l’Hôpital Sansei garde la thérapie mise au point par Shoma Morita. Mais la personnalité des deux thérapeutes qui ont dirigé l’hôpital, celle du premier directeur qui était bonze et celle de l’actuel directeur, se reflète dans la Thérapie de Morita. Il faut d’ailleurs mentionner que la thérapie de Morita telle qu’elle est utilisée à l’Hôpital Sansei, porte le nom de « thérapie d’USA ».
Pour moi aussi, les particularités de l’Hôpital Sansei étaient un sujet important à traiter. Mais c’est un problème trop compliqué. De plus, ça a des liens avec la raison pour laquelle j’ai demandé à Maître Nishimura ses enseignements.
Comme j’en parlerai dans ma présentation de Maître NISHIMURA, je vais donc finir ma communication ici.
 
Résumé :
L’étymologie du mot « zen » vient du sanscrit « dhanya » qui signifie « pensée profonde ». Il s’agit de se considérer calmement soi-même, c’est donc de l’introspection. Par cette expérience, en recouvrant le « soi pur », on se libère de l’attachement à l’ego. Et on s’éveille ainsi à la vie en acceptant les douleurs. En même temps, en s’apercevant de l’indivisibilité entre soi et autrui, la coexistence s’accroît. C’est l’éveil du Zen et la guérison avec la Thérapie de Morita.
Et dans l’histoire de la Thérapie de Morita, j’ai présenté brièvement l’Hôpital Sansei qui continue de garder cette thérapie traditionnelle.
 
 
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     以下の画面は都合により、省略します。

国際PSYCAUSE学会(京都)で発表された内容の一部紹介(2)―瀬古 敬先生の発表の紹介―

2014/11/21

丹後ふるさと病院院長、瀬古 敬先生(京都森田療法研究所嘱託研究員)の御発表「あるがままに生きる―森田療法における生の哲学―」のパワーポイントスライドのシリーズを紹介します。

 

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国際PSYCAUSE学会(京都)で発表された内容の一部紹介(1)―日本人発表者の抄録―

2014/11/10

1.瀬古 敬先生の抄録

 

La Vie d’ ARUGAMAMA : la philosophie vitaliste dans la thérapie de Morita

 

  Il y a plus de 600 methodes de la psychotherapie dans le monde.
    L’efficacite de chacune est identique. Elle correspond aux caracteres des troubres psychiques. Le traitement de la Methode Morita est efficace pour le trouble evrotique. Le mecanisme de ce traitement est a enlever les “mots “qui sont trop appliques pour interpreter le monde de l’inconscient et qui, de ce fait, laissent tomber dans un cercle vicieux de l’explication conceptuelle sans fin du monde de l’inconscient.  En’eloignant de ce renversement qu’est le reve, on peut entrer dans le nirvana. Vivre modestement sans trop de pensee. C’est la facon de la vie du Zen- bouddhisme.

 
 

2.武曾惠理先生の抄録

 

Identité à femmes médecins au Japon
Eri Muso MD, PhD
Directeur du départment de néphrologie
Hôpital Kitano
Membre exécutif du conseil d’administration
Ex-chef du comité de l’ égalite de sexes de la société japonaise de néphrologie

 

Au Japon, le nombre de médecins femmes  augmente peu à peu. En 2013, 18% des médecines étaient des femmes, et surtout, 33% des étudiants diplômés d’une université départementale médicale sont des femmes,  cette année. Si elles ne continuent pas de travailler dans l’avenir, le nombre de médecins ne suffira pas pour répondre aux nécessités médicales de la société.
Au Japon  malheureusement, il y a beaucoup de femmes qui quittent leur profession après avoir eu un bébé et qui ne reviennent jamais à leur position précédente. La courbe “M” représente le caractère particulier au Japon et à la Corée par rapport aux autres pays (figure 1) et indique la diminution du nombre de femmes travaillant dans la tranche d’âge des 30-35 ans.

(Figure 1)
f1

 

La figure 2 présente la variation de la courbe ” M” au Japon de 1975 à 2012. L’âge de diminution maximum augmente de l’âge de 25 ans en 1975 à 35 ans en 2012.  Cela indique la tendance récente à se marier et à avoir des enfants plus tard.

(Figure 2)
f2

La cause de ce problème, surtout propre au Japon et en Corée, est non seulement dans l’insuffisance  du soutien de la société pour élever les enfants en bas âge, mais aussi la mentalité sociale, féodale de ces deux pays: la responsabilité d’élever les enfants incombe à la femme, et non à l’homme.

La figure 3 présente la moyenne journalière des heures consacrées au ménage par les gens mariés et qui travaillent, selon le sexe  . Le nombre d’heures des femmes âgées de 25 à 35 ans est de plus de 4,5 heures par jour, mais celui des hommes est moins de une heure, ce qui représente le maximum dans la vie. Ce résultat signifie qu’au Japon le ménage est toujours le travail réservé aux femmes et il est très difficile de demander la participation des hommes dans cette occupation. Ceci peut trouver sa cause dans la folie de travailler des hommes japonais mais aussi la mentalité d’identité de la femme comme soutien de la famille.

(Figure 3)
f3

L’autre problème des femmes qui travaillent est la diminution de la motivation à continuer de travailler, à cause de la limite de progression de la carrière. Tout le monde sait que le classement de “Gender Gap Index” du Japon est 105e sur un total de 136 pays. Le GGI est un index composé de cinq catégories  : économie, santé, enseignement, chances de recherche et technologie , et politique.

(Table 1)
t1

Au Japon, les chances en politique et dans les responsabilités sociales pour les femmes, sont très limitées et faibles dans le monde, non seulement dans les pays  surdéveloppée mais aussi  dans les pays en voie de développement.

(Figure 4)
f4

Mais une enquête sur le sentiment de satisfaction des hommes et  des femmes qui travaillent dans ce pays révèle que les femmes ne  sont pas satisfaites d’avoir des responsabilités comme chef sur leur lieu de travail mais souhaitent contribuer comme spécialistes, mais uniquement dans certains domaines . Les femmes médecins aussi tendent à présenter cette mentalité dans le milieu médical et ce genre de pensée n’encourage pas à la progression dans la carrière. Malheureusement, au Japon, non seulement les femmes mais les hommes aussi ne discutent pas souvent sur les sujets politiques. Cette tendance  éloigne les femmes d’apprendrede la gouvernance et d’ avoir des responsabilités totales dans la socété . Aussi, comme médecin, l’absence progressive de responsabilités affaiblit progressivement la motivation de continuer  leur carrière dans ces conditions peu favorables.
Récemment, le premier ministre Abe a déclaré qu’il allait augmenter jusqu’à 30% le pourcentage de femme ayant des responsabilités dans toutes les société avant 2020.  Le système social, par example le nombre de garderies, la flexibilité des horaires de travail seront améliorés. Ce genre d’innovation améliorerait sans doute la situation actuellement insuffisante des femmes qui travaillent, y compris des médecins, mais ce n’est pas l’idéal . Peut-être sera-t-il nécessaire  de réfléchir d’une autre façon au rôle de la femme et de l’homme dans la société japonaise.

3.白石 潔先生の抄録

 

「現代の日本社会とこどもの問題」
のぞえ総合心療病院
白石 潔

 

現代の日本のこども達の問題は、1980年代後半の金属バット殴打事件から考える必要性がある。この事件は、引きこもり型家庭内暴力の思春期の息子を抱える家族の父親が「この生活を続けるのは地獄だ!」と寝入った息子を金属バットで殴打し叩き殺してしまったという事件である。
1990年代に入ると男子集団でのリンチに近いいじめが原因での殺人や自殺が目立ってきており、いじめは今日に到っても後を絶たない。同時に、1990年代には親の殺害や級友の殺害など凶悪な事件が相次いでいる。さらに、「赤ちゃんポスト」が産院に設置されたり、乳幼児の虐待死が相次ぐなど社会問題化した課題が山積している。
不登校や引きこもりに関しては、家庭内暴力の有無は別にしても大人になった引きこもりを含めると100万人を超えるといわれる。文部科学省の統計では挙がってきていない不登校生徒の数は想像を絶する数だと思われる。
ゲームやアニメや漫画の普及やインターネットやラインを始めとするメディア環境の変化は、こども達のコミュニケーション・スキルのみならずライフ・スタイルをも変化させ、集団自殺や遠方の思春期の子ども達の交際でのメール心中や援助交際等が大人のみならず思春期の女子にも氾濫してしまった。さらに、最近の報道ではゲームの課金を親のクレジット・カードで決済している5才以下の幼児が100人を超えているらしく最年少者がなんと驚くべきことに2才であったと報じられた現状がある。
また、外遊びが激減したせいか、多動の子ども達が激増、対人関係・コミュニケーション・特異な関心を持つこと等を特徴とする家族・学校環境への不適応を呈する一群も激増している。
日本の政治・経済的状況も1980年代の消費の過熱したバブル期の崩壊の経験から、その事後処理、経済低迷の中での大量リストラ、IT産業の発展による勝ち組/負け組みの出現、リーマンショックの影響による経済的打撃とその後のデフレ傾向による景気の低迷などを経て、今日に到っている。
教育領域には依然と経済的な格差による差別化と偏差値偏重が見られており、全般的なこども達の学力は低下している。
この様な現状で、子ども達は疲れ果ててしまっているのが実情である。
 
 

Les pathologies et les soins des enfants et des adolescents au Japon, du point de vue psychanalytique – Approche psychothérapique et préventive pour le développement de l’enfant du couple schizophrénique

 

J’ai l’honneur de vous presenter mon point de de vue concernant sur le deveroppement de l’enfant du couple schizophrenique a l’occasion de la conference organisee par le groupe francais de Psy-cause et le Docteur Okamoto. Avant de vous en parler, je vais essayer de vous presenter brievement d’abord ce qui se passe actuellement chez les enfants et les adolescents au Japon.

Les problemes actuels concernant le psy des enfants et adolecents du Japon font evoquer obligatoirement l’evennement de l’homicide que le pere avait eu tue son fils de batton de base ball pendant le fils avait dormi a l’epoque de la fin les annes 1980. Cet evennement produit car le pere se sentait en enfer tout en continuant la vie quatidienne avec le fils enferme presentant les actes violentes a domicile notament enver sa mere. C’etait un drame tragidique.
Dans les annees 1990, on pourait definir l’epoque de l’ IJIME qui est l’ignorance et le but agrese un(ou une) eleve selectione a l’ecole par le groupe. Il y a beaucoup de victimes qui sont tues ou suicides. Et ce phenomene dans l’ecole, on le vois meme aujourd’hui, devient veritable problemes sociaux. En meme temps, il y a un phenomene de l’homicides volontaires a l’ecole envers les eleves. De plus, il y a des negrigences et maltraitance nouriciaires et meurtres des bebes et petits enfants par les parents. En raison de cela, un service de gynecho-obstetrique avait deside de poser un bebe post.
En ce qui concerne le rufus scolaire et HIKIKOMORI qui est l’enfermement volontair au domicil sans avoir des contacts socio-familiairs avec des fois les actes violentes volontairs envers les membles familiaires. D’apres le statistique inofficiel qui est hors de statistique officiel annonce par le ministaire de l’eduction nationale, on pourait comter les nombles de HIKIKOMORI tout en comtant celui des adultes inimaginairement environ plus d’un milion et eventuelement, double.
La mutation de l’environnement mediatique avait produit le phenomene sociale qui est tres inquiettant comme jeux televises, bons desines, manga, inter-net, line etc.
Cela provoquait la modification des styls de la communication et la facon de vivre.
Les suicides collectives, tentatives de suicides a deux, ijimes et les prostititions des adolescentes etantes payees financiairement par adulte. On droit ajouter ce qui avait ete imforme par le television sur le payement de jeux erectronique avec la carte de credit. Ces sujets sont a peu pres plus de 100 enfants de moins de 5 ans et ce qui etait plus jeun a 2 ans.
Comme il n’y a moin des enfants qui s’amuse au dehors, il y’a de plus en plus des enfants ayant des problemes de l’adaptation dans les mileus socio-familio-scolaires. Ce sont des enfants qui ont des traits hyper ou hypokinetique avec les problemes relationels et comunicatifs.
Sur le plan economique, le Japon a eu des crises economiques apres destructions du systemes economique de trop d’investssements par les banques aux annees 1980. Apres cet evennement economique, il y’a eu beaucoup de licenciments et changements de but economique a l’industrie informatique technologique par le systeme contorole des reseuax electroniques en faisant reordoner le plan economique. Pendant cela, il y’a des phenomenes d’iregalites socio-economiques, pour quoi il y’a des gens tres riches(Kachigumi; celui qui est gagnant) et des gens tres pauvres(Makegumi; celui qui est perdant). Et apres l’enfluence economique du choc Reiman, le Japon a eu des degats economiques importants et la tendance de la deflation continue emenant jusqu’aujourd’hui.
Sur le plan de l’education, il y’a toujours des problemes d’inegalites economiques par rapport aux resultas scolaires et d’abaissement generals de resultas scolaires.
Le Japon actuel pour les enfants est ce que je viens de vous presener et les enfants japonais sont vraiment fatigues.
 
 

4.岡本重慶の抄録

 

森田療法と禅―三聖病院の紹介―

 

禅の語源はサンスクリット語のdhyanaで、その意味は沈思である。それは静かに自己をみつめることl’introspectionである。その体験により、人間は“le soi pur”を回復して、l’ego に対するとらわれから解放され、苦を受け入れて生きることに目覚める。同時に自己と他者の不可分性に気づき、他者と共生しながら成長していくのである。これがすなわち禅の悟りであると共に、かつ森田療法による治癒でもある。
また日本の森田療法の歴史の中で、伝統的なこの療法を守り続けている三聖病院について、若干紹介した。
 
L’étymologie du mot « zen » vient du sanscrit « dhanya » qui signifie « pensée profonde ». Il s’agit de se considérer calmement soi-même, c’est donc de l’introspection. Par cette expérience, en recouvrant le « soi pur », on se libère de l’attachement à l’ego. Et on s’éveille ainsi à la vie en acceptant les douleurs. En même temps, en s’apercevant de l’indivisibilité entre soi et autrui, la coexistence s’accroît. C’est l’éveil du Zen et la guérison avec la Thérapie de Morita.
Et dans l’histoire de la Thérapie de Morita, j’ai présenté brièvement l’Hôpital Sansei qui continue de garder cette thérapie traditionnelle.

三聖病院の「日日是好日」―原法を守り続けて80年―(再掲)

2014/10/27

author : Okamoto

 

入院森田療法の施設が減少している現代的状況の中で、禅的森田療法の伝統を墨守して、今なお生き残りを続けている病院が京都にあります。東福寺の傍らに立地する三聖病院がそれで、私はここに非常勤ながら長年にわたって勤続してきました。外部からは、この病院は、神秘のベールに包まれているかのように映っています。

 

何年か前、学会で森田療法の源流をたずねるシンポジウムが開催されました。その折、三聖病院についての紹介的な報告をお引き受けしたことがあります。

公的に発表したものですので、当時のその抄録を、ご参考までにここに紹介します。

なお、この小文は主に病院の歴史的流れを、数年前に記したものであり、病院の現在についての情報を提供するものではありません。

 


三聖病院の「日日是好日」
―原法を守り続けて80年―

 
 

はじめに

 

 京都にある医療法人三聖病院は,森田療法の草創期に,禅僧にして医師であった宇佐玄雄の志によって東福寺の山内に創設された由緒ある病院である。開設以来80有余年,今日に至るまで,ここでは禅的色彩の濃い入院原法の診療が継続維持されている。三聖病院の「日日是好日」の歴史がそこにある。報告者は,約30年来非常勤医師として病院に関わっているので,その立場から本院における原法の診療の流れについて,できるだけ客観的に描写し,さらに若干の検討をつけ加えることにしたい。

 
 

本院の成立と沿革

 

 三聖病院の成立と沿革については,学会誌上に現院長宇佐晋一先生による紹介1)2)があるので,詳細はそれに譲り,ここでは補足すべき必要なことだけを少し述べる。大正8年に東京慈恵会医学専門学校を卒業した宇佐玄雄先生は,森田正馬教授との数奇な出会いに恵まれた。森田の教えを早速生かすべく,診療施設の設立を志した玄雄先生は,大正10年に東福寺にその設立の趣意書を提出した。その文中には「大本山の事業として理想的な救療院の設立を」と訴える下りがあった。東福寺の立地は,京都駅の南東の方向にある。市街の成立を歴史的に見ると,駅の南側は都の中心部から少し外れた地域で,その一帯に庶民の町が広がりを見せている。東福寺はその地域の東側に隣接しており,「救療院の設立」が趣意書に謳われたことは,このような立地条件と無関係ではなかったと思われる。かくして大正11年に東福寺の塔頭を利用して三聖医院が開設され,昭和2年に三聖病院となったが,本院は当初より救療院としての使命を負ったのであった。言わば,仏教的な“悲田院・施薬院”のような機能を求められつつ,その上で禅的森田療法の実施を意図する二重構造を有することになったのであった。

 

 

本院の診療について

 

1.二代の院長像と診療の流れ

 さてその二重構造を前提としつつも,森田の療法の忠実な再現を目指した玄雄先生は,実際には対象を神経質にもとづく神経症とその周辺にもっぱら限定して,入院原法を実践された。昭和32年に玄雄先生は院長生活35年の実績を残して他界され,晋一先生が二代目院長となって,現在まで50年間,院長の任務をまっとうしておられる。現院長の代に至り,療法の適応の対象枠はゆるやかになった。本院は国内では入院原法の専門施設として位置づけられているが,地域に向けては森田療法を積極的に標榜していない。外来入院ともに対象を原則として神経症圏に限りつつ,実際には来る者を拒まず寛容に受け入れている。病院の開設当初の趣旨であった“救療院”的な機能が,現院長の代になって,生かされるようになったと言えよう。しかし精神障害全般へと受容枠が拡大化すると,症状が重ければ,森田療法を適用できる水準にまで引き上げねばならない。そのために投薬やECT(電気けいれん療法)が日常的に実施されている。

 父子二代の院長像を見ると,宇佐玄雄・初代院長は,患者と共に入浴したり,余興を披露したり,厨房で田楽の作り方を実地に教えたりする庶民性と,「一殺多生」の禅語を呈示したりする厳しさを兼ね備えておられた。その人間像は森田正馬に近似する。宇佐晋一・現院長は,考古学に深い造詣を有しておられるが,尊父によって敷かれた森田療法の道をひたすら歩んでおられる。その実践躬行の姿に患者さん達は心を打たれる。たとえば「院長先生がお父さんだったらいい」と慕う人や,院長の肖像画を熱心に描く人がいる。患者さん達にとっての院長像がそこに如実に表れている。

 

2.不問をめぐって

 院長を中心に進められる診療に一貫して流れている特徴は不問である。

 病院の玄関口を上がった所に,「説了也」(説きおわれるなり)と大書された横額が掲げられている。「話はありませんぞ」という意味であり,病院の入り口でいきなり「不問」が示唆されているのである。

 長年来,外来は症状が聴取される予診と,院長の本診の二段階になっており,院長は本診でただ頷いて聴く。その際院長は,禅の「喫茶去」(唐代の禅僧趙州従諗が誰にでも「一服お上がり」と茶を出したという故事)さながらに,みずからお茶を淹れて患者さんを接待する。「喫茶去」の深意は,「茶を一服喫して目を覚まして出直されよ」というあたりにあるが,大方の人は茶の深意を知らぬまま院長の丁重なもてなしに感謝する。

 入院すると,治療者から一層徹底した不問で処遇される。粛然とした治療環境の中で,第1期,第2期,第3期と進む過程を通じて,終始孤独な集団生活を身をもって体験することになる。定床数は50床だが,最近は入院が減少して,20人前後で構成される集団になっている。この人数では入退院の動きにより,集団の自律性は不安定になりかねない。ところが適応の拡大により,統合失調症の軽症者も受け入れられる中で,その社会的入院の人達が集団の要として機能し,新入院の人達をうまく指導して,組織の維持に貢献している面があることも見逃せない。ともあれ集団の中では各自が役割を果たし合い,共に励む修養的な生活があるばかりである。「話しかける人には答えないのが親切」という院長の書きものが院内に貼られているが,当事者同士も不問を守って,いたずらに和合せずに努力せよという教えである。

 このような入院生活において,院長との個人面談の機会はいくら待っても訪れない。講話と日記だけが,院長との限られた接点となる。講話への出席は,院長の姿に接し,ただ聴くだけの作業なのである。講話では,たとえば「不可思議」というキー・ワードが示され,心は思議する対象たりえないから,心を治そうとするのをやめると,ただ今坐っているその坐布団の上でインスタントに全治する,というようなことが述べられる。症状に悩む人にとっては,俄かには腑に落ちないことである。ところが一方,この話はわからないでよろしい,とも述べられる。講話をしている院長の背後には「わからずに居る」という言葉も掲げられていて,知的理解に走ることを制しているのだが,それにしても講話を聴きなさい,しかしわからないでいなさいという,一見矛盾したメッセージによって,聴き手は言わばダブル・バインド(二重拘束)の状況に追い込まれることになる。そこで生じる心の混乱をせめて日記で訴えたい気持に駆られるが,日記には「見たものとした事」だけを書くよう指示されており,心のことを記しても取り合ってもらえず,対話は成立しない。けれども生活における精進の跡が日記に見られれば,「よろしい」などと赤ペンでのコメントによって院長から承認される。このコメントの鮮やかな赤の達筆の文字が神通力を帯びて,書き手を励ましてくれるのである。院内には「努力即幸福」という森田の直筆文字の横額や,玄雄先生の「照顧脚下」の文字などが掲げられている。そこにはおのずから身が引き締まり,理屈抜きに作業に励む場の雰囲気があって,いつしか生活にただ打ち込むのみの三昧の境地に移行していく。治療者は「暖簾に腕押し」を地で行きながら,「困らせる」ことを技法として,「窮すれば通ず」を待っていたのである。

 

3.無分別の教え

 先代の玄雄先生は禅僧であったけれども,あまり禅の講釈をせず,森田の教えを祖述するために禅語を用いたのみであった。禅も森田療法も,知性や言葉によらず,体得することが重要だからである。現院長も,言葉を控えて,分別による知的理解を断つ指導に徹しておられる。ただ禅の勘所を伝えるにあたって,近年は心理学が導入されている点が目新しい。

 

4.治療者患者関係と治り方

 不問を軸とする療法は,修養的な環境を背景に,優しさを湛えた治療者の無言の君臨によって成り立っている。治療者は優しくて,かつ暖簾に腕押しの人なのである。先に講話にその例を見たが,治療者との関係において,患者は早晩,二重拘束的な不問のジレンマに遭遇する。そこにおいては,以下のような三通りの心理的展開が起こるように見てとれる。

(1) まず好ましい変化としては,神経症者の知的論理が破壊されて治癒に向かう。

(2) 治療者を神格化してしまう心理が生じる。「宇佐療法」と呼ぶ向きがあるのもその表われである。

(3) 心が引き裂かれて,治療者に不信感を抱く。

 このように,ジレンマの体験を通過させる治療過程は波乱含みであり,展開次第で陽性,陰性の転移がまれならず起こる。だが転移の問題は治療の埒外で,それに対する人工的修正は差し控えられたままとなる。

 治り方も,大まかに三様にとらえられる。

(1) 追い詰められている人は,大疑から大悟へと,かなり劇的な治り方ができる。

(2) 釈然としないままに,治療構造の中でなんとなく治る人達がいて,これも無難である。

(3) 治療者を崇拝して治る。いわゆる転移性治癒で,自己愛的な臭みの残ることがしばしばある。

 

5.職員達の機能

 不問の慣行は職務の環境にも及ぶ。看護詰所にも「真実道場」などと院長が揮毫した短冊が掲げられていて,臨機応変に立ち働くよう期待されている。森田療法への資質や経験の有無も絡むが,対話が省略される職場の状況で,看護スタッフは試練を体験している。

 院長以外の医師達は,応接間を使用して外来診療をおこなっており,患者を来客として包容しながら,同時に馴れ合わない緊張した関係の維持に努めている。またこれらの医師達は,入院中に療法から脱落しそうな人には,随時適切な対応をする役割を負う。

 

6.三省会について

 三省会は,昭和6年に東京形外会の関西支部として発足した。本会は退院した人達が切磋琢磨し合うとともに,先輩の立場から入院中の後進を導くという重要な役割を担っている。自助組織と言うより,病院の外郭にある共同体として,長年にわたり相互補完的に機能し続けている実績は高く評価される。けれども近年は,入会者が漸減して会員の高齢化が進み,今後に向けて問題を抱えている。また定期的に開かれる総会は,禅的森田療法を論じ合う場になっている印象を受ける。若者を惹きつける魅力ある会であってほしいと,一部の人達は切望しているのである。

 

 

「禅的森田療法」の特色と問題

 

 「禅的森田療法」をもって知られる三聖病院は,神秘的な病院だと思われがちである。それはなぜであろうか。以上に描写したことを踏まえて,“神秘のベール”の中にある特色と問題を整理してみたい。

 

1.病院の歴史的使命

 東福寺の肝入りで地域への救療院として開設された本院は,現代の“悲田院・施薬院”としての機能を守りながら,その上で禅的森田療法を推進するという二重性を有している。しかし小規模の病院での両機能の追求は容易ではなく,常に矛盾や葛藤を孕んでいる。

 

2.治療の場

 僧堂さながらの古い木造建造物の中で,修養的な生活を送る治療環境が提供されている。世俗を離れてここで規律ある生活を送り,緊張感漂う雰囲気を味わうと,良き暗示効果も働き,作業三昧の境地に没入することができる。共感的感情は程よく抑制され,自律的な集団の一員になることで社会性が培われる。

 

3.老師のような治療者の存在

 治療者として信頼される院長の存在は,極めて重要である。現院長は,幼少より尊父玄雄先生から厳格に育てられ,長じても弟子のごとく父君にお仕えになったと聞く。名実ともに現院長は二世であり,加えてその温厚なお人格ゆえに,一層風格に重厚味がある。慈悲の人,不問の人であり,謙虚なカリスマとして君臨しておられるが,このような老師的な治療者の存在なくして禅的森田療法は成立しない。

 

4.禅的森田療法と不問技法

 三聖病院は森田の原法の忠実な継承を自負しているが,同時にみずから禅的森田療法をもって任じている。周知のとおり,森田の療法には禅に通じるところが確かにあったので,森田療法そのものが多少なりとも禅的であると言っても差し支えなかろう。しかるにあえて禅的と自称するところに本院の療法の特徴がある。本院では,療法の中にある禅以外の部分を捨象して,禅的部分のみをもっぱらに墨守しているので,そのために禅的森田療法を自認していると,内部でも理解している。その禅的面目は,不問の技法において躍如としている。治療者が相手の心に造作を加えずに,転回を促すのであり,そこには伸るか反るかの妙味がある。同時にリスクを伴うことも否めない。

 

5.心理学の導入

 本院では,自己を超越して他を慈しむ心理的姿勢を,治癒像として評価している。その見地から「自己意識と他者意識」の心理学が導入され,「他者意識」が推奨される。森田正馬の療法と禅が接した原点の深みを,この心理学に置換できるか,論議を呼ぶところである。さしあたり,「他者意識」の重視を治癒への補助線とみなすことは可能である。

 

6.パターナリズムの問題

 昨今,医療におけるI.C.(インフォームド・コンセント)が重んじられるようになった。しかし原法における治療者患者関係は,禅における師弟関係と同様に,パターナリズムによって成り立っており,I.C.と馴染むものではない。良き伝統の下でのパターナリズム的療法と,I.C.的人権主義との間での折り合いが求められている。

 

7.適応の拡大に関して

 既述のごとく,本院には二重の診療機能がある。これは歴史的使命とは言え,取捨選択が許容される余地もあろう。禅的森田療法の遵守も重要な責務であるし,救いを求める人達にあまねく慈しみの手を差し伸べることも,治療者側の尊い森田的実践である。二重性を抱えれば当然の結果として,禅的森田療法における適応の拡大に繋がる。入院の治療集団は異なる病理によって構成されることになり,そこで思いがけない相互成長の契機が生じたりするが,混乱が起こることの方が大きい。いずれの診療的機能を採るかは,価値観の置き方の問題である。

 

8.禅的森田療法の意義

 森田正馬の療法は,単に意識の表層の精神交互作用を断つだけでなく,人間の存在にかかわる「苦」の救済にも向けられていた。森田は釈尊を,「生老病死」の苦に悩んだ果てに悟った神経質の大偉人として讃えた。また療法を完成させるにあたって仏教の叡智を随所で摂り入れたのであった。

 

 森田自身は,「生き尽くすこと」,そして「死は恐れざるをえず」と熱く教えたが,禅的森田療法はそのような境地を教えずして教える。実存的な深い苦悩を抱える人が入院すれば何かが起こる,禅的森田療法はそんな療法である。

 

 

おわりに

 

 “関与しながらの観察者”である非常勤医師の立場から,三聖病院の禅的入院原法の営みを描写し,その特色について述べた。今日では入院患者数の減少,保険診療での経営維持の難しさ,若手医師の不在,原法の軸にあるパターナリズムの是非などの問題を抱えている。それでも禅的森田療法ならではの有用性があり,その福音を求めて訪れる人達が今日も後を断たない。生き続けて,生き尽くすことが,本療法にとっての使命である。

 
 

文      献

 

1)宇佐晋一:三聖病院.森田療法学会誌,4(1);64-65,1993.

2)宇佐晋一:三聖病院.日本森田療法学会誌,18(1);61-63,2007.

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