三聖病院が存在したことの歴史的意義について ─平成26年末の閉院を受けて─

2015/10/19

 第33回日本森田療法学会(倉敷)で平成27年10月16日に、一般演題として発表したものを再現します。

 
 

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 私は、この三聖病院に、非常勤でしたが、昨年まで約40年間勤務した立場から、この発表をいたします。

 
 


 
 

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 森田正馬の直弟子、禅僧で精神科医の宇佐玄雄によって、禅的色彩の濃い森田療法施設として、三聖病院が大正11年に東福寺内に創設され、その後三聖病院となり、昭和32年に二代目の宇佐晋一院長に継承され、通算約90年の長きにわたって禅的な入院原法の診療が継続されました。しかし昨年末、遂にその歴史に幕を閉じたので、この機会に本院が森田療法史上に存在した意義を考えてみたいと思います。
 なお、この発表では、森田療法の中に禅的思想が含まれていることは自明と考えた上で、本院におけるその展開を顧みます。

 
 


 
 

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 初代院長の宇佐玄雄先生は、自身が神経衰弱に罹患したことを原体験とし、悩める人に一律に禅を説くだけでは不十分で、精神医学を取り入れる必要性を痛感して、慈恵医専に学びました。大正8年に卒業し、折しも療法を確立した森田との数奇な出会いに恵まれます。森田は、開業した玄雄を応援し、また玄雄から禅を学んだのでした。
 玄雄は、説き伏せる説得ではなく、接するという意味での得がよいとしましたが、この辺に、精神療法的姿勢が見えます。また、治癒への「こつ」は善光寺床下のお戒壇巡りのように暗闇を進むところにあると教えましたが、この辺は禅的です。また晩年は真宗に傾倒し、「不断煩悩得涅槃」、「自然即時入必定」といった『正信偈』の言葉をよく引用しました。禅だけでは厳し過ぎるので、包容的な面も導入したのかもしれません。

 
 


 
 

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 これは宇佐玄雄の日記指導ですが、コメントの例として、画面の左側には、「自己診断をやめて指導通りに従って居れば必ず治ります」と書いてあります。接する接得よりは、説く説得のニュアンスの方が強い感じを受けます。

 
 


 
 

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 右は、晩年の玄雄先生の写真で、左は、「一殺多生」という真宗大谷派で戦時に用いられた、ちょっと物騒な言葉ですが、これを玄雄先生が色紙に書かれたもので、厳しい面があらわれています。

 
 


 
 

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 これは、厨房で割烹着をつけて田楽の作り方を教える宇佐玄雄です。患者と共に入浴したり、行事のときには掛け合い漫才をしたりする庶民的な面も有しておられました。

 
 


 
 

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 次に宇佐晋一先生ですが、昭和32年に玄雄の逝去に伴い、30歳になる直前の29歳から院長になり、禅的色彩の濃い療法を継承されました。その一方で、その頃京大精神科で行われるようになっていたECTや薬物療法を導入されたので、精神病院としての顔も持つようになりました。
 しかし天龍寺の平田精耕老師から「禅を花とするなら森田療法は造花だ」と評されて、療法を花に近づけようと精進なさったそうで、より原理的な「禅的森田療法」へと向かいました。この療法の大きな特徴は「不問」に尽きました。“Dharma-Centered Therapy”だと仰ったこともあって、これはさすがだと思いました。しかし治療者患者関係については、人間的関係は「ない」とされるので、治療者はかえって崇拝の対象になり、理想化転移が起りがちでした。「宇佐療法」という呼称が積極的に用いられるようになったのもそのためです。

 
 


 
 

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 これは玄関を入ったところに掲げられていた扁額で、「説きおわれるなり」という禅語です。最初から説きおわっているので、話はありませんぞ、と「不問」の接遇を示しています。

 
 


 
 

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 入院での修養生活は、第1期から第3期または第4期までの入院原法が維持されていました。その中での特徴と言えば、院長の講話と美術スライドが、それぞれ週3回あり、昔かわらず古事記の音読が指示されており、日記指導は作業についての工夫と実践が評価されるものでした。心についての言語化や問答は一切ない生活です。

 
 


 
 

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 修養生と呼ばれる入院患者に向けて、このような掲示がしてありました。「たった一人の集団生活」、「しゃべる人は治りません」。これ以外に「話しかける人には答えないのが親切」という掲示もありました。

 
 


 
 

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 次に、宇佐父子の特徴を改めて整理してみます。
 まず、森田正馬に照らして、宇佐玄雄の特徴を示します。
 治療の場と構造は、森田が自宅において家父長と内弟子のような関わりを持ったのに対して、玄雄は、禅寺風建物を場として修養的生活をさせながら、森田同様に身近な存在者として指導しました。治療関係は、森田は説得療法の限界を知って自分の療法を始めたにも拘らず、なお説得的なところがあったようですが、玄雄の場合、接する接得だと言いながら、説明し、説いてやる説得に流れていた節があります。この辺に、治療者としての二人の人柄に似たものを感じます。
 家庭的療法という面では、玄雄の場合、自宅ではなく病院ですので、森田と同じようにいかなかったのは、やむをえません。
 治療者像は、厳父でありかつ慈父であったこと、および治癒の過程は、実際生活の中で人間的な薫陶が進むところにあったことは、両者において同じでした。

 
 


 
 

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 宇佐父子の比較です。禅寺風建物の場で、禅的生活が用意されていたことは全く同じですが、玄雄の身近な指導と異なり、二代目では「不問」の徹底により、接する接得も希薄な関係性のない関係となり、従って家庭的ではない療法になっていました。治療者は、しばしば崇拝の対象になり、理想化転移の起った状態が、ひとつの治癒のタイプになっていました。また、二代目は戦後の医師でしたから、薬物やECTも導入されました。

 
 


 
 

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 これは、森田と宇佐父子の三人を、ひとつの対照表にしたものです。重複しますので、説明を略します。

 
 


 
 

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 まとめのようなことを言いますと、玄雄先生は、禅に精神医学を加えて、森田療法を継承された。晋一先生は、戦後の精神医療を取り入れつつ、一方禅を原理的に追求なさった。
 二人の治療者像は対照的だったが、三聖病院が入院原法のサバイバーとして、90年余を生き抜いた功績は大きい。