森田正馬が参禅した老師、釈宗活―その人物と生涯―【修正版】(下)

2021/12/19

 

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(承前)

 

5.「粋(いき)」を究めた人、釈宗活

宗活は、幼少より、父から書画などの芸術を含む幅広い情操教育を受けて育った。禅に関心が傾いて今北洪川に弟子入りしたが、もともと芸術家として身を立てようとしていて、その頃、東京美術学校の学生であった(両忘会に参禅して宗活の弟子になり、出家して京都の大徳寺の管長になった後藤瑞巖の伝記、島崎義孝の著作による)。円覚寺に入ってからは、鎌倉彫の仏教彫刻を身につけた。参禅した夏目漱石に、三味線を引いて大道ちょぼくれを歌って聞かせたという。
西山松之助という江戸文化の研究者がいた。西山氏は、釈宗活老師に私淑して、学生の頃に択木道場に住み込んでいた人である。自分は禅だけでなく、歌舞伎にも関心を持っていたところ、宗活老師自身が歌舞伎に通じている方であったということを、回想として著書(『ある文人歴史家の軌跡』)で、聞き役の人に対して述べている。
当時歌舞伎の女形の有名な役者がいて、それが宗活老師の親戚だったこともあって、老師は歌舞伎に詳しかった。
また、宗活老師には、恵直(えちょく)さんという素晴らしい女性がおられた。恵直さんは奥さんだったかどうかはわからないけれど、新橋の医者の娘で、若いときから河東節をやっていて、歌、三味線ができた人で、知らない曲はなかった。河東節の名取名は山彦不二子といい、NHKの音のライブラリーに吹き込んだ曲が沢山残っている。老師はこの恵直さんから河東節を教えられた。
老師は、古希になって一旦引退して、関西に移り、多田の隻履窟という住まいにいた。そこを訪れたら、昼間は老師は絵を描いていて、夜になると河東節が始まって、恵直さんが三味線を弾いて、助六を語る―。
禅と歌舞伎がこういうふうに結びついていた。枯れている禅ではない、艶っぽい禅、色っぽい禅だった、というのである。
隻履窟は、別名残夢荘で、兵庫県川辺郡多田村にあった田舎家である。現在は川西市内にあたるが、地図を見ても、人里離れた山間の地のようである。
宗活老師は、昭和15年から3年間、ここに隠棲して、書画などを制作する遊戯三昧の日々を送った。山間の自然と書画と禅と河東節が溶け合った、粋(いき)の極致であった。

 

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6.河東節の山彦不二子(禅の徳永恵直)

西山松之助氏は『ある文人歴史家の軌跡』の中では、宗活師匠の侍者のような女性のことを、しきりに「恵直さん」と言っている。それは禅子としての道号だろうと推測されたが、西山氏は河東節の山彦不二子の面ばかりを語っていたので、浄瑠璃を語るお座敷の出身の女性かとも受け取れて、人物像として不明のところがあった。
ちなみに、浄瑠璃のひとつである河東節は、代表的な江戸浄瑠璃で、歌舞伎の伴奏音楽としての地位にあったが、次第に常磐津などの他の節に人気を奪われ、お座敷で語られる浄瑠璃として、通の人たちに愛好されるようになっていた。したがって、河東節は吉原との関係が深かった。河東節のそのような背景もあり、山彦不二子(恵直さん)の経歴や宗活老師との出会いについて、ほとんどわからなかった。しかし、西山氏の別の著書『家元ものがたり』や、禅関係の文献から、この女性の人物像や老師との間柄が浮かび上がってきた。
この人は、芳紀十九歳より、父の徳永医師と一緒に釈宗演の門に入って修行をしていたという。宗活老師がインドから帰朝したときに、東京での両忘会の再興を宗活老師に請いたいという嘆願書を、宗演老師に対して出した数人の在家の居士たちがいたが、その中に徳永父娘も加わっていた。この数人は、インドに渡る前から宗活を知っており、宗活に信頼を寄せていた人たちである。夏目漱石のように、円覚寺で宗演老師に参禅しながら、塔頭の帰源院で宗活の世話になった人たちがその主要メンバーであったと考えられる。徳永父娘は、娘の方が修行の進度が優れていて、「慧直」という道号を宗演老師から授かっていた。父娘は再興後の「両忘会」に参加し、日暮里の農家の建物を道場用に買い取って寄進している。若い愛娘に河東節を習わせ、禅の修行に連れて行って、修行では娘に遅れをとりながら、道場の建物を寄進した父親も、風流な人だったように思える。
恵直は、宗活老師がサンフランシスコに布教に渡った折にも、共に渡米し、アメリカで修行を続けて印可を受け、芙蓉庵劫来慧直老大姉となった。
こうして慧直(恵直)老大姉は、両忘会内における重要な人物のひとりになるとともに、個人的には宗活老師の「常住侍者」として仕えるようになっていく。宗活と恵直は、強い信頼関係によって結ばれていた。
禅の方で老大姉になった恵直は、河東節においても、山彦栄子師匠より芸道を受け継ぎ、名取の山彦不二子となって、その分野で活躍した。
禅においては宗活が師、河東節では恵直が師で、粋な関係の二人であった。

 

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7. 在家禅(居士禅)の指導者であった釈宗活

宗活は蘭方医の息子として生まれ、医家を継ぐべく育てられたが、相次ぐ両親の死で孤独を生き、その中で禅に活路を見いだした人である。出家したが、それは世をはかなんでのことではなく、また禅寺の住職になろうとしたわけでもなかった。円覚寺でひたすら修行をし続ける過程での、通過点としての出家得度に過ぎなかった。だから宗活は、出家しても一生住職にはならぬ、と自分から釘をさして、釈宗演から得度を受けた。「御身の富貴栄達を望まぬ。心を磨けよ」と言った母の遺言を胸に秘めていた宗活は、僧侶になろうとも、仏門の階段を上り、寺に安住する生活に身を置こうとしなかったのである。宗活は本当の禅を追求し、それを人びとに伝えようとした。自分は出家をしたけれども、在家者とともにあって、在家者の禅的生き方に尽くそうとした人である。
遡れば、少年、入澤譲四郎だった頃、禅を志し、本郷の麟祥院で初めて今北洪川に出会ったのだったが、このときから両忘会との絆が生じていたと言える。両忘会は、明治8年に山岡鉄舟らが、禅の封建的体質を改め、寺院の殻を破って禅を在家者に開かれたものにしようと、麟祥院で今北洪川を師と仰いで、禅会を創設したものであった。洪川は数年後には円覚寺の管長になったが、麟祥院に指導に来ることがあったのであろう。譲四郎が麟祥院で洪川に会ったのは、明治22年のことである。洪川は明治25年に没しているので、両忘会は途切れてしまっていた。禅に関心のある一部の在家の文化人たちは、円覚寺の釈宗演老師のもとに参禅していた。徳永父娘が宗演に参禅したのも、宗活が塔頭で在家の参禅者の世話をしていたのも、その時期のことである。両忘会とも、徳永恵直とも不思議な糸で結ばれていた宗活は、こうして両忘会を再興して、在家禅の指導に尽くすことになった。
組織としての両忘会は、大正14年に財団法人両忘協会となり、昭和13年には谷中にあった本部道場は、千葉県市川市に建築された新道場に移転した。それは森田正馬が没した年のことである。昭和14年、宗教団体法が施行されたことにより、宗教団体「両忘禅協会」が立ち上げられて宗活老師の弟子の立田英山老居士が代表者になったが、宗活を代表とする「両忘協会」は宗教団体を名乗らずに、そのまま存続することになった。組織の逆転した二本立てがここに起こっている。在家禅の組織が急いで宗教団体化することについて、宗活はおそらく慎重だったのであろう。
古希を迎えた宗活は、昭和15年に関西の残夢荘(隻履窟)へと身を退き、三年を過ごした後、常住侍者の恵直とともに千葉県八幡の残夢荘(寓居)に移っていた。
組織というものが、時代の流れの中で目標を見失わずに機能し続けることは難しい。戦後の昭和21年、宗教法人法の施行で、組織は宗教法人になることを選び、立田英山老居士を主管として「宗教法人 両忘禅協会」として登記をした。しかし、翌22年に釈宗活老師はその解散を宣告したのである。老師は、在家禅の宗教団体化や、指導者のあり方に厳しい目を向けていたのであった。ここにおいて、明治以来の両忘会の流れと、それに対する宗活老師の長年にわたる指導者としての関わりは、終焉を見た。
しかし現実には大きな組織が残されていた。再び三たび立田英山老居士の主管で、新たに昭和23年に、「宗教法人 人間禅教団」が立ち上げられた。その「人間禅」は今日にまで続いている。
宗活は、弟子の大木琢堂に身を寄せて、千葉県八日市場の寓居で徳永恵直とともに最晩年を過ごし、昭和29年に遷化した。享年83歳。
西山松之助氏は、昭和30年秋に、房州のその住まいに徳永恵直(山彦不二子)を訪ねている(『家元ものがたり』)。禅の道の奥底を究め、河東節の正統の継承者であるこの人は、81歳ながら端正でキビキビしていて、江戸っ子らしいイキが感じられたという。西山氏は、「イキ」と書いているが、感じたのは、粋であり、心意気でもあったのであろう。
なお今日、千葉県茂原市に両忘禅庵があるが、これは宗活没後に大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。宗活の遺した芸術作品の多くは、ここに保管されていると聞く。

宗活は出家者でありながら、寺に入ることなく、また出家者であるがゆえに在家の生活に甘んじることなく、家を持たず、正式に家族を持たず、みずから禅に生きた人であった。在家者に対する禅指導を使命として、いわば非僧非俗、あるいはむしろ僧と俗のはざまに生きて、一方に偏することがなかった人であった。人柄は温かく、しかし禅の指導者となって人の上に立つ者に対しては、厳格に接した。
宗活自身自分に厳しく、かつ自由に、無所得、無一物を生きたのである。

森田正馬がかつて参禅した老師は、こんな人生を送ったのである。実に森田療法的な人生だったと言えるのではなかろうか。

 

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8.釈宗活と森田正馬の再会

森田正馬は、明治43年の両忘会への参禅から20年近くを経た昭和3年の11月18日(日)の日記に、次のように記載している。
「古閑君ト共ニ上野両忘会記念会ニ出席、来賓総代トシテ祝辞ヲ読サル」
両忘会は、居士禅として独自に歩むため、大正14年には財団法人となり、名称を「両忘協会」にしている。法人化が成されて、一層多忙を極めていた宗活は、体調を崩し、千葉県市川市八幡に新築された「残夢荘」という庵に昭和2年に転居した。東京の擇木道場にも来て指導を続けたが、千葉と東京の二重生活となった。昭和3年の両忘会記念会とは、東京での活動の歴史を懐古しての集いであったろうか。森田が招かれたのには意味があったのである。来賓の総代として、祝辞を依頼されており、宗活老師に参禅歴のある慈恵医大教授として、老師から重要人物と目されたのである。ちなみに「我家の記録」によれば、森田は大正15年3月に釈宗活老師の『臨済録講話』を読んでおり、さらに昭和3年に、記念会への出席との前後関係は不明ながら、自著2冊、『神経質の本態及療法』と『神経衰弱及強迫観念の根治法』を宗活老師に贈っている。かつて明治43年に森田に参禅を勧めたのは、富士川游のもとに共に出入りして知り合った藤根常吉であったが、藤根はその後も両忘会に参禅し続け、会の幹部のひとりになっており、昭和3年の記念会への森田の招待も、藤根と宗活の合意によるものだったろう。森田は、昔自分は釈宗活老師に参禅して公案を通らなかったという話を形外会で数回持ち出しているが、それはこの記念会に招かれて以後のことであり、来賓という公的な出席だったとは言え、参禅した記憶を反芻する機会を与えられたに違いない。宗活とて、かつて参禅してくれた医師が教授として大成した姿に接して、感慨を覚えたことであろう。しかし、この記念会は、宗活が東京での生活に区切りをつけた時のことであり、ふたりにとって再会であるとともに、別れの始まりでもあった。
かくして、両人にとって、記念会での出会いはあったが、新たなドラマが展開されることはなかった。たとえそれでも、宗活の生き方には、森田正馬が目指したものがあるように思われ、そのような関心から、宗活の生涯をここまでたどってきた。

 

【 付記 】

 

1. 「釈宗活」についてのウィキペディア Wikipediaの情報について。
ウィキペディア Wikipediaの「釈宗活」の項に出ている情報には、誤謬が多い。「両忘会」は、何度も場所が変わったが、その場所と期間についての記載が正確ではない。数年前から、編集履歴を見守ってきたが、誤謬が繰り返され、「両忘会」が居を定めていた場所と期間を意図的に改竄しようとしているとさえ思われかねない編集ぶりであることを指摘しておく。

 

2. 谷中初音町二丁目における、森田が参禅した両忘会があった場所の特定について。
これについては、国民国会図書館のデジタルコレクションの中の、当時の東京市の地籍別の地図より、初音町二丁目の各地籍が判明した。しかし、両忘会があった土地の番地も地主名も不明のため、最終的な特定はできなかった。
そのため、まず千葉県茂原市に現存する両忘禅庵に問い合わせてみた。宗活が晩年に身を寄せた大木琢堂の子孫により開設された禅道場である。現在のご住職から返信をいただいたが、初音町二丁目における番地などにつながる情報に触れることはできなかった。一方、当時の両忘会の建物の写真があるとのことであったが、残念ながらその写真画像をいただくまでには至らなかった。今後の研究者がもし関心を持たれたら、この両忘禅庵に、森田が参禅した両忘庵の建物の写真が所蔵されていることに留意されるとよい。そのことをここに伝えておく。
もう一カ所、谷中の天龍院にも、かつての谷中初音町二丁目にあった両忘庵の場所の特定について、問い合わせた。天龍院は、全生庵の向かい側にある妙心寺派の禅寺で、両忘庵での接心の日の午後に宗活老師が提唱をおこなったという寺である。現在の住職が調べてくださったが、初音町二丁目に存在した両忘会についての情報は、天龍院にはなく、またご厚意で他の関係者にも尋ねてくださったが、一切不明とのことであった。