宇佐玄雄と三宅鑛一 ―森田正馬と宇佐玄雄の交流に関連する挿話―

2019/08/16

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊

 宇佐玄雄著、三宅鑛一校閲『精神病の看病法』昭和16年刊


 

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  慈恵医専に学んでいた禅僧、宇佐玄雄は、ちょうど森田正馬が入院療法を開始した大正8年に医専を卒業して医師になった。その年の前半は、森田のもとにたびたび通って診療を学んでいたが、同年9月に森田の好意で東大精神科助教授の三宅鑛一に紹介された。ちょうどこの時期に東大精神科の附属病院として、松沢病院が創設され、宇佐は三宅を通じて松沢病院の医員として、そこで研修や診療に携わることになった。松沢病院に通うのが建て前になったからであろうが、大正8年の秋から約一年間、宇佐は恩師の森田正馬に対しては、足が遠のきがちになっていたようである。森田の自宅で始められた「余の特殊療法」に立ち会って、直接それを見守る絶好の機会に恵まれていたにもかかわらず、殆どそれを逸している。少なくとも、森田の日記に見る限りでは、大正9年に宇佐が森田医院を訪れた回数は非常に少ない。尤も、大正9年の宇佐の来訪についての森田の記載を見落としていた箇所が、2回分あった。去る4月に提示した文章中にそれらを列記すべきところ、不手際にて漏れていたので、本日付けで、さかのぼって4月の文中に補足を加えた。しかしながら、それでもこの年には、宇佐は森田に無沙汰をしていた。見落としていた森田日記の記事の一つは、宇佐が三宅の使者として、森田に伝言を持ってきたという、次のような奇妙なものである。
 
  大正九年五月六日
  「宇佐君来り三宅君の伝言あり、余もし病のため慈恵の講義の困難ならば、一時、代り講義してもよけれど、Kl.は呉先生洋行のため三宅君が其代りをなすといふ、三宅君は之を好まずといふ、余は以前より自らKlをなさん事希望する処なり、」
 
  宇佐は三宅の使い走りのようになって、森田に会いに来ている。東大精神科医局に入局した新人医師として、三宅と自然にこのような関係になったのであろうか。あるいは宇佐は、森田が始めた特殊療法について、先輩の三宅の意見を聞く意図を持って、三宅に近づいていたのだろうか。
  ちなみに森田は、自身の療法の披露のため、大正9年末には宇佐らを自宅に招待し、大正10年末には三宅らを自宅に招待したのだった。
  宇佐は医師になった大正8年夏に、早速、円覚寺の釈宗演老師に面会し、自坊の住職を引き受けるべきか、医業をなすべきかについて助言を仰いでいる。宗演は、「寺を出なさい」と言ったという。お墨付きを得た宇佐は、医業を営む方針を決めただろうが、療法が誕生する時期に森田との出会いに恵まれて、しかしながら評価が定まっていない森田の療法を摂取すべきかどうか、大正9年の時点では慎重になっていたとすれば、それは当然のことだったとも言えよう。
  三宅鑛一との近い関係は、その後も長く続いたようで、宇佐は後年(昭和16年)に上梓した著書『精神病の看病法』の校閲を三宅に依頼している。三宅は呉の後任として、昭和11年まで東大精神科教授を務め、神経衰弱などいくつかの分野の研究で知られた人である。
  研究者としての三宅については、別途に述べたい。