森田正馬の病跡 をめぐって(1)― 「神経質」と「発達障害」―

2023/06/14

杉本二郎氏の近影(右)

 

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【杉本二郎氏との対談に先立って】

 

 森田療法とは、一体どんな療法なのか―。
それは、森田正馬によって創始された療法である。彼は精神療法についての研究に基づき、さまざまな試行錯誤や、工夫を重ねて、神経質に対する独自の療法を創り上げた。だから森田療法と命名された―。
 そのように理解しておけば一応は正しい。と同時に単にそのように理解するだけでは表面的に過ぎる。森田療法を記号化された療法名のレベルで理解するのみでは、療法が形骸化する。森田自身、自分の療法を、自然療法とか、体験療法とか、家庭的療法などと呼び換えてもよいとしながらも、結局神経質に対する「余の特殊療法」としか言わなかった。まれに自分の療法という意味で、みずから「森田の療法」と称したくらいであった。つまり「俺流」の療法だったのである。
 私たちがもっと理解すべきは、その「俺流」のところである。そのためには森田正馬の生涯についてもっと知りたいものである。幸い森田は日記を書き残している。また同時代の人たちによる評伝の類の資料も、多くはないが存在する。またそれらに基づく二次資料もある。しかし、それらの中で森田像は美化されて、実像が虚像になっている面もなきにしもあらずであろう。私たちはできるだけ、先人たちが触れないできた人間森田正馬の実像の、人間臭い面白いところを隠すのではなく、その覆いをはがし、そんな森田ならではの「俺流」の治療を今更ながらに味わいたい。
 人間森田については、さまざまなエピソードが知られている。庶民的で、人間愛に満ちた、飾り気のない人であった。しかしかなりの変人、奇人であったようだ。そのような森田の人間性の独自さが、評価さるべき「俺流」の療法にどうつながったのだろう。
 つまり私たちは、病跡学的視点から人間森田による療法の創造を探りたいのである。

 病跡に関連して、あるエピソードを先に紹介する。筆者(岡本)が佛教大学の現役教員だったとき、私のゼミの森田療法に関心をもつある男子学生が、森田正馬全集の第七巻を読んで言った。「この人は幼稚な人ですねえ」。森田療法の深みをまだ知らない初心者の学生だったが、学生から語り口が幼稚だと言われるような一面が確かに森田にはあると言えよう。それは10年ほど前の話である。もちろん教師である自分が、森田の性格の独特さに気づいていないわけはなかった。それよりさらに以前に、大原健士郎氏による森田正馬の病跡についての論文が出たことがあった。ここで大原氏は、森田は神経質ではなく、むしろ無頓着であったと指摘しておられた( これについては、以下の対談の中で触れるはずである )。
 森田という偉大なる人物について、病跡学という視点から論ずることはタブー視されてきたのだろうか。本格的に論じた文献には、大原以後遭遇しない。
 しかし、おそらく多くの研究者が気づいておられるであろうと想定するが、筆者の判断をあえてここに記すことにする。
知られている多くの言行から、森田正馬は発達障害の圏内の人であったと考えている。さらに絞れば、その特性はADHDに当たると思う。ここでは唐突な書きようをするが、十分に検討した上でそう見立てているつもりである。( 昨年、精神科雑誌 “Legato”8月号に「森田正馬と森田療法」という小論を寄稿させて頂いたが、その末尾に、発達障害説を一言付け加えておいた。原稿の性質上、ADHDと踏み込んで記すことは控えた )。
発達障害やADHDという診断のことについては、対談の中で論じていく。

 

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 前置きが長くなってしまった。杉本二郎様のことを述べねばならない。

 名古屋に、森田療法に深く精通なさっている杉本二郎様というお方がいらっしゃる。森田療法の分野での深いご経験を有し、長年後進を指導なさり、さらに絶えざるご研鑽をお続けになっている。正知会の会員でいらっしゃるが、経験者にして実に賢者である。かつては名古屋啓心会で指導者をなさり、東京の東映映画会社本社勤務、名古屋のラジオ放送局勤務をご経験なさり、その傍ら、森田療法に関わり続けてこられた。杉本様は、吉川英治作の『新平家物語』の挿し絵などで知られる著名な画家、杉本健吉画伯の甥ご様である。ご自身も絵筆を振るわれ、名古屋のチャーチル会の指導的立場におられる。この杉本様と数年前にご縁を得て、お付き合い頂いている。私は森田療法でわからないことがあると、つい杉本様に甘えて尋ね、教えて頂くというわがままな癖がついてしまった。これは慎まねばならないことだが、昨年来、森田正馬発達障害説をお伝えして、メールを交わし、やりとりを続けてきた。そのオンライン上の対談的な交流は、このところ密になってきた。
 そこで、最近のやりとりを少し巻き戻してホームページ上に再現しておきましょう、ということになった。それがリアルタイムのやりとりに追いついて、つながっていくか。予測はできないところがあるが、杉本氏とのオンライン対談の記録を、まずは現在より少し遡った辺から再スタートすることにする。

 

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1. 俺流のふたり―森田正馬と落合博満

 

杉本:
 私は初期の名古屋啓心会活動をしたり、またそのあとは森田療法を受けたりして、気がついたら半世紀以上経ってしまいました。その間多くの神経質の仲間、そして森田先生から指導を受けられた先輩達と逢いました。老年になって今思うことは、森田先生の全集など事あるごとに開いては読み、先生の評伝も新旧のものを繰り返し手にとっていますが、私達と森田正馬先生とは少し性格が異なるのではないかという疑問をもちました。
 無論、森田療法は神経症の素晴らしい画期的治療法であることは疑う余地はないと思っています。
 ただ「俺流」というのはどうでしょう。森田療法自体は、さまざまな試行錯誤の上、科学的知見に基づいて構造的に組み立てられた普遍的な療法じゃないでしょうか。
 それから、なんと言っても、先生の奇行の数々はどうとらえたらいいのかということがあります。長い間気になっています。天才にはありがちなものでむしろ微笑ましいのですが、私の出会った神経質性格の仲間たちでこのような奇行や、興味の対象をくるくる変える人に出会ったことがないからです。
 仲間達と何回か集団で、雑談会に出たり、一緒に生活したりしましたが、会が盛り上がって、そのあと例えば東京音頭を踊りだすといったような神経質者に出会ったことがないですね。
 果たして森田先生は純粋の神経質者だったかどうか、どの部類に属する性格の持ち主だったのか知りたいところです。たしかに、心悸亢進など私たちと同じ症状を持っておられたことはご著書でよくわかりますが、もっと天才的な通常とはことなる複雑な性格の持ち主なのではないかということを考えるのです。

 神経質で色んなタイプの人がいます。ちなみに私は不安神経症だと鈴木先生に診断を受け、そして治していただきました。先生から「君は強迫観念が理解できないかもしれないな」と言われましたが、ごく普通の森田神経質性格だと思っています。

 

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岡本 :
 森田正馬は神経質だったと言われるが、本当にそうだったのかという彼自身の性格のことについて、また奇行が目立つ人であったことをどう考えればよいかという点について問題提起を頂きました。これらは、話し合いの核心になる重要な問題ですから、このあと、ご自身のご意見も自由に披露してください。
 その前に、私は「余の特殊療法」は、いわば「俺流」の療法だったと言いましたが、森田は科学的知見に基づいて普遍化できる療法を組み立てたのだから、「俺流」と言って然るべきか、その適否について、指摘を頂きました。軽口でそう言ったのは過去の発言の再現ではなく、この場が初めてですが、これについて説明責任を果たします。
 「俺流」とは、プロ野球の中日ドラゴンズの球団に、選手として、また後に監督として在籍してその名を馳せた名古屋ゆかりの偉大なる野球人、落合博満氏の代名詞になっている言葉です。だから、まずは名古屋方面の方に対するリップサービスとして持ち出したのでした。しかしそれは、ゆえなしとしません。落合氏は、球界では変人として通った人で、その点森田正馬に似ています。変人ぶりは両者に共通であったかどうかは一概には言えませんが。
 落合氏の特徴は、簡単に言うと、プロとしての自覚に基づき、野球を勉強し、研究し、野球における科学を追求し、野球に科学を持ち込んだ第一人者でした。そして科学の限界を知って現実に直面し、自分の道を切り拓いた人でした。
指揮官になってからは、球界の悪弊を排し、管理野球を嫌い、選手たちの自由を重んじました。そして科学的な取り組みを教えながらも、その先は選手が体得するように、言葉少なに促したのです。プロの世界は結果がすべてで、それは本番でやるしかなく、グラウンドでは賭けに出ざるをえません。リスクがつきものですが、責任の大半は起用する監督の自分が負ってやるという温情の人でした。しかし、選手自身は現実を見極めねばなりません。その意味で冷徹な指揮官でもありました。立場上、人前ではポーカーフェイスのようなところがあったけれど、別の場では、抑えきれない感情が堰を切り、大声で泣くこともあったそうです。
 選手時代の落合氏は三冠王を3度取得しており、3度目に取った三十代はじめに、『なんと言われようとオレ流さ』という本(講談社、1986)を出しています。落合式では、「オレ流」と書くようです。この「オレ流」の人は、自分が特別な指導者に恵まれたわけではありません。学生野球をしていた頃には、野球部内の体罰の横行などむなしい体験をして、それが反面教師になり、孤独な努力を経てプロ野球への入団にこぎつけました。
 スポーツでは、よく「心技体」の調和の必要性が言われます。このうち技術や体力は、かなり資質や素質によるところがありますが、「心」の部分がどんなスポーツでも問われます。優れた指導者に恵まれれば幸いですが、まずは自分が、今で言われる「やる気、本気、根気」を持つ必要性があります。そうすれば、おのずから研究心が湧いてくるでしょう。師がいたとしても、頼れるのは自分だけです。いや、その自分さえ頼れません。スポーツの場合、自分の体は研究や管理の重要な対象になります。自分の体に合わせて、どのように練習をするか、方法を見つけねばなりません。そこに「オレ流」の研ぎ澄まされた「心」の働きが生かされているのです。「心、技、体」はつながって結果を生みます。「心」はおのずから働いてしかるべきで、本来切り離して扱うものではありません。それに徹するのが、おそらく「オレ流」なのでしょう。
 不安をどうするかというような、心を対象化する課題が入り込む余地はありません。ですから、「オレ流」は、困ったときに、たとえば「禅頼み」をするような取り組みとは無縁です。しかし、「オレ流」は自他に責任があります。「オレ流」をチェックしている「オレ」が必要です。そんな落合氏を助けていたのが、姉さん女房の夫人だったようです。森田正馬には治療の協力者だった妻、久亥がいました。
 そう考えると、落合氏の「オレ流(俺流)」と森田の「余の特殊療法」の間に、決定的な違いはあるでしょうか。むしろ両者はかなり通じ合うものであるように思えるのです。
 ちなみに、落合氏が口にした普通の発言の中に、森田療法の立場から名言と受け取れるものがありました。それをいくつか、引用しておきます。

・「何でもできる人はいない」
・「いいんじゃない、うんと苦しめば。そんな簡単な世界じゃないよ」
・「信じて投げて打たれるのはいい。…一番いけないのは、やる前から打たれたらどうしようと考えること」
・「『まあ、しょうがない』と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう」

 

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 以上が私の説明ですが、やりとりの最初からいきなり脱線してしまいました。軌道修正をお願いいたします。

 

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杉本:
 いやぁ。ドラゴンズを話題に引っ張り出していただいて嬉しいですね。
 そういう独自の探求を成し遂げた「オレ流」なら森田先生と落合博満氏の共通点は、たしかに感じます。単なる自分勝手なだけのオレ流ではないのですね。
 私も、選手でドラゴンズにやってきた落合博満氏は最初から変わった人だなと感じました。
 まず最初に打撃フォーム。振り幅のコンパクトな所謂「神主打法」、あれは相当な強い体幹と腕力がなければ出来ないし、バットにボールを当てる確率はそれでグンとあがりますよね。それを人に見せることなく陰でコツコツ積み上げたものだと聞いています。相当な試行錯誤があったのでしょう。
それと一番変わった人だと感じたのは、落合氏が監督になってからの采配です。
 2007年、ドラゴンズがセ・リーグで勝ち上がり、日本シリーズの対日本ハム戦でのことでした。ドラゴンズが日本一に王手をかけた第5戦。ドラゴンズの山井大介投手は8回までパーフェクトピッチング。1ー0 であと9回表の3人を打ち取れば完全試合達成です。その時落合監督は、なんと山井に代えて押さえの岩瀬投手に登板させたのです。
 落合監督の采配に球場全体が唖然とし、そして呆然となったのをテレビで観ていて感じました。
 今まで日本シリーズで完全試合が達成されたことはないのです。また今まで完全試合を前にその投手を交代させた監督もいない。
 それは勝つという一点だけ見据えれば、クローザーの岩瀬投手を出した方が確率が高いことは間違いない。その落合監督の勝ちへのこだわり、執着心に一般とは変わった性格をみるのです。まさに冷徹な指導者です。
 この件には「理解出来ない」と言う野球人が多かったのも事実です。
 私が名古屋のラジオ局時代、仕事の関係で元ドラゴンズの選手、谷澤健一氏(当時野球評論家)と知り合いだったのですが、彼も「あれはないよな」と言っていました。
 もっとも、落合監督の後の談話では「山井は指の血豆が潰れ、自分から交代を求めた」とのことでしたが、山井投手は最初は「いけます」とコーチに告げているのです。
 完全試合を前にした投手に血豆が潰れたぐらいで「どうだ調子は?」と訊くこと自体おかしなことではないでしょうか。
 山井投手は、これは代えられるなと直感的に思ったのでしょう。
 余談ですが、マウンドに向かった岩瀬投手は顔面蒼白だったそうです。予期不安の大きい神経質者はプロ野球選手には向かないかもしれませんね。

 長くなりましたが、天才落合氏には、少なくとも森田先生と共通する「変わった人」だなという認識があります。
ただ森田先生の行動には時により愛嬌があります。落合氏の私生活はわかりませんので、なんとも言えませんが。
物事に対する大変なこだわりはお互いに共通するものがあるとはいえ、森田先生には、例えば電車の中で、わざと見せびらかすように大きな懐中時計を出して見みたりして、なんともご愛嬌です。
 冗談ですが、落合氏の場合は「かあちゃん」(妻)が大きな役割を果たしていたのかもしれないけど。

 

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岡本:
 森田正馬先生と落合博満氏というふたりの偉大な人物を、時代を超えて変人という視点から取り上げました。落合氏についても興味はつきませんが、ここでは落合論はさておいて、森田のことを掘り下げましょう。すでにご指摘くださったように、森田の変人、奇人ぶりは巷間よく知られていました。その森田は自身が神経質者であったと言い、かつ神経質概念を提唱した人でもありました。両者は入れ子の構造になりますから、森田が純粋な神経質者であったかどうかについて、彼自身の言説から検証するのは困難です。引っ込み思案になりがちな神経質者にはとてもできないような奇抜な行動をする人でしたから、典型的な神経質者であったとみなすには無理があります。では森田のパーソナリティの特徴はと考えるとき、おっしゃるように、やはり変人、奇人の面に手がかりがあると思われます。
 さまざまなエピソードがあります。たとえば、見舞いの贈り物のしかたついて書き記した「下されもの」の張り紙を玄関に掲示したことはよく知られています。こんな示し方は一見非常識だけれど、気がつかない神経症者に対する合理的な教えであったとして、今日でも森田を讃えるために引き合いに出されます。しかしそれは本当に適切な指導だったのでしょうか。考えてみれば、このような露骨な掲示は、社会的に見て異様だったと言わざるを得ませんね。
 先入観を持たずに、森田の言行をもっと洗い直して、人間森田を貶めようとするのではなく、再評価したいものですね。

 

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2. 奇行は神経質の特徴なのか?

 

杉本:
 森田の好奇心からの奇行というか、変わった行動については、多々伝えられていますが、私が驚いたことがありますので、述べてみます。
 正知会会長の畑野文夫氏が大著『森田療法の誕生』であるエピソードを紹介しています。同氏は「さして重要ではないが正馬の一面がうかがえる」と前置きして、森田の日記の一部を引用しながらその「奇行」を披露なさっています。
妻、久亥との東京での生活が始まった頃の1901年(明治34年)、森田は大学4年の学生でした。そこへ同郷で藤次という男が法律を学びたいと森田を頼って上京してきたのです。
 まず職探しをしてやったが、書生の口が見つかりません。そこで車夫にさせようと警察へ同行して鑑札を取得させました。
 そして稽古です。藤次は森田を乗せて上野へ行きます。運よく客が見つかり藤次は車夫として客を乗せました。そこまでは、森田は面倒見の良い人という感じです。
 その3日後のこと、森田は自らハッピを被り車夫の格好で藤次を乗せて上野へ行くのです。何と森田は車夫になりきっています。上野ではあいにく客が見つからず、こともあろうに大学の赤門前で客待ちをするのです。客は見つからず、自分が車夫になって、藤次を乗せてスタコラと帰宅しました。車夫になりきって車を走らせるこの行為は奇行と言うか、何と言うか、驚きそのものです。
 私は、学生時代にあの近くに下宿していましたので、多少は地形が分かりますが、かなりの坂道があったように記憶します。初めて車を引くとなると、バランスを取って上がったり下がったりして走り、かなりの力と技術がいると思われ、難しいのとまた危険な行為でもあると考えられます。しかし、それ以上に問題なのは、鑑札を持っていない森田が市中で車夫の真似をしたことで、幸い客は乗りませんでしたが、遊び心も度が過ぎて、この行為は常軌を逸していたと言わざるを得ません。
 畑野氏は「当時のエリート、東京帝国大学の学生で車引きをした者が果たして他にいただろうか…」と述べておられます。

 その頃の森田の日記の原文が手元にありますので、この日(明治34年12月29日)のことを書いたくだりを以下に引用掲載しておきます。

 

 「十二月二十九日(土)、夜、余ハハッピヲ被リ車夫ノ出立ニテ藤次ヲ乗セテ上野ニ行キ、後余ハ車ヲヒキ藤次ハ後ヨリ従ヒテ客ヲ求メタレドモ得ズ、上野ニ藤次ト共ニ牛めしヲ食ヒ少シク酒ヲ傾ケ更ニ出テ客ヲ求タレドモ得ズ、再ビ大学赤門辺ヨリ藤次ヲ乗セ他ノ車夫ニ劣ラズ走リテ藤次ヲ驚カセタリ」

 

 森田のこのような行為を神経質性格とからめて理解できるのかと悩むところです。
 これら奇矯とも思われる森田の行動と独特の性格は、後年に家庭的療法とも言われる治療を実施する際に大きく役立っていくのではないかと思われます。「奇行」の意外性は「余の療法」の「場」における技法の重要なエレメントになっているのではないかと思うのです。しかし、このような逆説的価値の問題は、今一挙には語れませんので、追って述べさせてください。

 

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岡本:
 森田がハッピを着て車夫の真似事をしたエピソードは、森田を美化するタネにはならないから、森田を崇拝する人たちも取り上げなかったのでしょうね。杉本様は、森田の言動の特徴に神経質というより、やはり奇矯さを見ながら、それが療法の要素になったとして、逆説的に評価しようとなさいます。興味深いところですが、改めてお聴きするとして、森田は神経質であったのか否か、あるいは別のカテゴリーに入るのかという、病跡学的な診断レベルの話しを続けたいと思います。

 

(第2回に続く)