第37回日本森田療法学会・シンポジウムⅠ-3「仏教、禅の叡智と森田療法―『生老病死』の苦から『煩悩即菩提』へ―」スライド再現

2019/10/08

学会のシンポジウムで発表した全スライドに、それぞれ説明も付け加えて、以下にそれを掲載します。

 

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 画面左下の画像は、三聖病院にあった某画伯による森田正馬の肖像画(森田の写真を模して描いたもの)。正確には、その絵の写真です。

 
 



 はじめに、として画面に記したことは、仏教や禅と森田療法との関係は、論じ尽くされていない重要なことがらであり、ここで体系的に述べることは困難ながら、いくつかの問題提起をしたいという、発表の意図を示しました。

 
 



 釈尊は、生老病死の四苦を体験しました。さらに愛別離苦などの後半の四つの苦を加えて、八苦と云われます。この苦に対して原始仏教は、「苦集滅道」という四諦を教えています。煩悩に執着して苦が起こるから、執着を滅して、中道を正しく歩むということです。釈尊は長年の修行の末にそのように悟ったわけです。親鸞も白隠も、悩みを経て、同様の悟り方をしています。宇佐玄雄は森田に療法名の案を問われて、釈尊の開悟にちなんで、自覚療法という提案をしています。
 しかし仏教においては、煩悩を否定して滅すべきか、あるいは執着を問題にするのかで、方向が異なるように、煩悩への態度がさまざまに、異なります。仏教と森田療法の関係も、煩悩についての思想を抜きにしては語れません。

 
 



 真言宗と森田正馬。
 真言宗は森田の生い立ちだけでなく、療法の成立にまで、深い関わりがあると思われます。正馬は、真言宗の金剛寺の檀家に生まれ、9歳頃に寺の地獄絵を見て恐怖した話はよく知られています。中学生のとき、「理趣経」を書写。五高時代には、「般若心経秘鍵」を愛しょう。東大生のとき、金剛寺の住職の窪の協力で、自選の経文を作成。医師になってからは、大正7年10月22日より5日間、真言宗の大僧正、權田雷斧の密教講習会に参加しており、そして大正8年頃、入院療法第一期の絶対臥褥に「真言宗の煩悩即菩提」を導入しました。

 
 



 真言宗ともかなり関係しますので、療法で用いられるいくつかの言葉の再考を試みます。まず「事実唯真」という森田が作った標語の典拠ですが、従来の説として、聖徳太子の言葉、「世間は虚仮、唯仏のみこれ真」、また森田正馬の祖父の墓石の墓碑銘がありますが、これらは、理由は略しますが、典拠として適切だとは考え難いです。
 真言宗の教えの言葉で、よく出てくるものに、「即事而真(そくじにしん)」があります。「事に即してしかも真なり」。事実の中にこそ真実があると言う、真言宗の現実重視を表す言葉です。

 
 



 「即事而真」の言葉の由来ですが、現実に道を見出そうとする中国古来よりの思想を根底として、華厳思想、「摩訶止観」、「法華玄義」に、この語は既に出ています。
 ところで真言宗にとっては、『大日経』と『金剛頂経』の二つの経典が重要ですが、『大日経』の注解書である『大日経疏』に「即事而真」が出ていて、空海の継承者たちによって取り入れられ、真言密教の専売特許のような用語になったものです。この語に基づいて森田は「事実唯真」と言ったと考えるのが、字義的にも意味的にも自然だろうと思います。

 
 



 「煩悩即菩提」について。これは大乗仏教で使われますが、経典や宗派によって意味が異なります。真言宗では、『金剛頂経』に含まれる『理趣経』に出ているそのような意味の教えを、空海が取り入れて、著書『十住心論』に「生死すなはち涅槃…、煩悩すなはち菩提…」と書いています。この空海の真言宗における煩悩観は、「煩悩なくして菩提はない」と、肯定的に捉えるものです。低次元の小欲、つまり煩悩がまずあって、リビドーが昇華するように、社会に尽くそうとする大欲になっていく。それが即身成仏とされます。
 なお、煩悩即菩提に関しては、維摩経や聖徳太子では「不断煩悩入涅槃」、親鸞では「不断煩悩得涅槃」、森田は親鸞に対しても批判的になり「不断煩悩即涅槃」と言いました。

 
 



 「あるがまま」も仏教語ですので、再考しておきます。森田は、神経質は矯正の努力が強すぎるので、方便として「あるがまま」であれと教えるが、この語を哲学的に論じては言葉尻の争いに堕す、と言っています。
 しかし、療法のキーワードのようなこの語について、一応知っておきたいと思います。サンスクリットで、「そのようなもの」を意味するタタータという語が、漢語で「如」、さらに「真如」 となり、和語で「あるがまま」になりました。「真如」はよく使う言葉ですが、意味は難解です。「如」が問題になりますが、ここでは、これ以上論じません。

 
 



 森田療法の成立に関することを、少し述べます。森田は井上円了から影響を受けています。仏教周辺の民間療法に関心を持ち、破邪顕正を経て、自然良能を生かすことを学び取りました。また円了による、心理療法としての禅の有用性についての指摘からも、森田は示唆を得たものと思われます。また大正5年に、呉秀三が精神療法について西洋の知見も記述した『精神療法』という著書が出版されました。森田はこの本から、臥褥、作業、不問など、多くを学び、仏教的な思想と融合させていきました。

 
 



 入院第一期の絶対臥褥について、です。森田の郷里の土佐では、嫁姑の間にいざこざが起こると、どちらかが三、四日、臥褥をしたという習慣があって、森田はそれをヒントにしたという話があって、『形外先生言行録』にある人が書いています。これは本当かもしれませんが、隔離された環境で臥褥をすれば、感情が静まるという感情の法則のレベルのことに過ぎないと思われます。
 それよりも絶対臥褥の目的として、第三番目に森田は「真言宗の煩悩即菩提」を取り入れ、精神的煩悶苦悩の根本的破壊を図ることが、本療法の眼目だとしました。これが実際にどのように成果を上げたのかが問題であり、十分に検証されたのかどうか、気になります。

 
 



 森田療法と禅の関係ですが、両者は似ているが全く同じではありません。なのに、その関係について黒白をつけねばならないかのような論議がなされてきたのは奇妙なことでした。かねてより禅に関心を持っていた森田は、神経衰弱の外来診療を始めてから、強迫観念の治療に難渋し、明治42年の論文で、それを「ケロケツ」に喩えて、禅の方からの治療的助言を求めています。そして翌年の明治43年に、自ら釈宗活老師に参禅したのです。
 森田は、寺院の中でなく、生活の中に生かす禅を求めていたので、宗活老師の在家禅は願うところでしたが、参禅は長続きしませんでした。また、作務が重視され、説得より体得に重きが置かれる、禅の修養は、入院の治療構造にうまく生かされたと言えます。

 
 



 さて、釈宗活老師ですが、私はこの人に関心を持ち、調べ得る限りのことを調べました。これは別途に発表したく思っていますし、また一昨年の本学会の一般演題で、あらましを報告しました。残念ながら釈宗活、そして宇佐玄雄についても、今回は簡略な紹介にとどめます。
 釈宗活は、円覚寺で今北洪川の下で修行をした人で、釈宗演の弟分に当たります。しかし釈宗演と異なり、封建的な禅の叢林を嫌い、一生寺の住職にはならないという信念を持ち、在家禅の道場である「両忘会」の指導に一生を貫いたのです。

 
 



 写真は、五十歳頃の釈宗活老師です。森田が明治43年に参禅したときの両忘会は、谷中初音町二丁目にありました。森田は「父母未生以前の本来の面目如何」という公案を課され、透過できず、数ヶ月でやめました。宗活の人柄は、厳しく、優しく、また風流をたしなむ粋な人でした。このような禅の指導者との交流が続かなかったことは、森田にとって大変惜しまれます。

 
 



 両忘会があった谷中の初音町二丁目というのは、旧町名ですが、現在地はおよそ特定されます。山の手線の日暮里駅の西側の尾根の通りに面しており、谷中の墓地の近くです。参禅後も森田は弟子の佐藤政治と夜中に谷中墓地界隈を散策しながら、神経衰弱の治療について語りあったようです。

 
 



 学会のシンポジウムにおいては、時間の制約があるため、このスライドは提示を略したものです。森田が東大入学後に東大内科を受診して、入澤達吉教授から「神経衰弱兼脚気」と診断されましたが、この入澤達吉教授と、釈宗活老師(本名は入澤譲四郎)とは、いとこの子同士で、蘭方医が何人も出た新潟の入澤一族に属する関係にあったのです。

 
 



 森田正馬と宇佐玄雄の交流について。
 宇佐玄雄の略歴を紹介します。三重県に生まれ、幼くして東福寺派の寺院の山渓寺の養子になり、中学生の頃より神経衰弱を経験。早稲田大学文学科を出て、一旦帰省し、大徳寺で修行の後、檀家の反対を押し切って慈恵医専に入学し、大正8年に卒業。奇しくもこれは、森田療法が誕生する年に当りました。
 宇佐は、慈恵医専の最終学年の大正7年より森田療法の成立を見守り、また一方では禅僧として森田に影響を与え始めました。宇佐は東大の呉の教室に入局後、大正11年より、東福寺内で三聖医院を開業、昭和2年に三聖病院になりました。森田は度々三聖病院に立ち寄り、宇佐との交流が続きました。なお宇佐は晩年には真宗思想に傾斜していったようです。

 
 



 これは禅僧としての宇佐玄雄先生の姿です。

 
 



 昭和8年4月に京都で神経学会があったとき、多くの人たちが三聖病院を訪れた際の、集合写真の一部です。学会で、精神分析と森田との論争が続いていた時期のことです。中央左から、幼少の宇佐晋一と母上、1人置いて野村章恒、宇佐玄雄、森田正馬の各先生です。

 
 



 禅語が禅のすべてではありませんけれども、参考までに宇佐玄雄が使った主な禅語を列挙してみました。そのうち、厳密ではないものの、森田が踏襲した言葉を青で表示しました。宇佐が使用した禅語の半数以上を森田が宇佐に倣って使っているので、禅に関して森田は宇佐に多くを学んだことがわかります。
 宇佐の特徴のひとつとして、沢庵禅師の『不動智神妙録』の剣禅一如の教えを重んじて、「心の置き所なし」や「無心」を説いています。『不動智神妙録』は、沢庵が柳生宗矩のために書いたものであり、伊賀出身の宇佐玄雄は、地理的に近い柳生の里にいた柳生一族に親近感を抱いていたのかもしれません。

 
 



 これは、三聖病院における「入院第一期療法中の注意」 書です。中身は森田正馬が宇佐玄雄にそっくり伝えたものでした。注意したいのは、(還元法)と書いてあることです。これは森田と宇佐のどちらの発想で書かれたものかわかりませんが、ともかく両者の合意によることは確かです。還元法ということは、赤ん坊のような無心に返ることを意味します。勤務医だった私たちも、院長に倣って、新しい入院患者さんが第一期の生活を始める際に、この注意書を示しながら、「症状に対して、手も足も出ない赤ん坊のような状態で臥褥の生活をして下さい」と指導していました。赤ん坊のような状態になるということは、一旦良性の退行をして無心の純な心を原点として、バリントの言うような「新規蒔き直し」(新規巻き直し)」を始めるのです。(第二期は外界へ向けての再出発になります)。
 ところで、このような赤ん坊のような状態に還元されるということは、森田が最初に入院療法を成立させたときに、絶対臥褥において、真言宗の煩悩即菩提で苦悩を破壊すると言った趣旨と異なります。赤ん坊のような無心にならざるを得ないことの方が、絶対臥褥ならではの重要な趣旨なのではないでしょうか。絶対臥褥の趣旨が進化していったと考えることができます。最初に多分森田が考えたような、絶対臥褥での煩悩破壊、即身成仏はかなり難しいだろうし、第二期、第三期の生活にもそれぞれの意義があります。また転回を体験する時期は、個々の人によって違います。
 森田はさらに、晩年になって、親鸞の「不断煩悩得涅槃」を「不断煩悩即涅槃」と言い換えました。不断煩悩のままで、涅槃が得られるという二段論法でなく、禅的な相即の一段論法にしてしまったのです。

 
 



 自力と他力について。森田正馬は道元について言及していませんが、鈴木知準先生が倉田百三から親鸞や道元の他力の教えを聞いたことをきっかけに、やがて自身の療法に道元を導入なさることになった、というエピソードの紹介です。
 鈴木は、昭和2年、17歳のとき、森田の下に入院中に、倉田が森田と会話しているのを一生懸命に聞き耳を立てて聞いていた。そして倉田が「もようされて生きる態度」とよく 言っていたことを思い出す、と『形外先生言行録』に書いています。鈴木はこの倉田の言葉にかなり強いインパクトを受け、後に道元の『正法眼蔵』を考究し、それを森田療法に生かすことになったのです。
 なお、倉田は『法然と親鸞の信仰』という著書(昭和9年)でも、「催されて生きる態度」と題して、「彼方より行われて」と道元が禅の立場から他力にふれたということを書いています。
 倉田は森田に対して、熱心に道元の禅における他力について述べたのに、森田はそれに反応した形跡がなく、倉田の言うことに聞き耳を立てていた若き鈴木知準がその影響を受けたのでした。

 
 



 禅でありながら、道元において、他力の思想が含まれていたことは、一般に知られているところです。とくに「わが身をも心をも、はなちわすれて、…」という『正法眼蔵』生死、に出ている言葉はよく知られているくだりです。それ以外にも、「法性の施為(もよおし)」というような言葉も『正法眼蔵』には出ています。禅と森田療法の関係を考えるに当たっては、森田が言及しなかったにせよ、道元禅も含めて考えるべきであり、森田療法は自力と他力が融合しているものであると思います。

 
 



 倉田は森田の治療を受け、「治らずして治った」という心境に達し、「運命を耐え忍ぼう」と言いますが、森田からは、まだ不十分であるとして批判されたのでした。それ後の倉田は一層煩悶を経て、右翼思想に走りました。そのような倉田が辿った悲劇を、森田療法の立場から考えることも必要です。発表では、このスライドについては省略しました。

 
 



 かつて、詩人のキーツが言ったネガティブ・ケイパビリティが、今日的視点から再注目されています。それは、苦を生きる智恵としての仏教や、さらには森田療法の中核にある智恵と同じであると、つくづく思います。
 スライド画面にそのことを簡潔に文章にして書きました。

 
 



 かつて三聖病院の床の間に掛けられていた、森田の墨跡です。
 「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」
 煩悩即菩提に通じる味わい深い言葉です。

 
 



 本発表では、全体として体系的なことを述べることはできなかったが、仏教、禅、森田療法に関して、明らかにされていなかったいろいろな問題について、考える糸口を提供しました。
 森田が、当初、真言宗の思想に則して絶対臥褥に「煩悩即菩提」を導入した意図は、どのように生かされたのか、その変遷について、少し考えてみましたが、この絶対臥褥の意義については、再検討をする必要があると思います。衰退しつつある入院森田療法を見直すために、絶対臥褥の意義を明らかにすることは不可欠なことでしょう。