2019年の今年は「森田療法創始百周年」か―森田療法考現学(5)― <その一>

2019/04/05




 

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2019年の今年は「森田療法創始百年か」<その一>


 
  森田正馬が自称した「神経質に対する余の特殊療法」、つまり森田療法は、いつ、どのようにして出来上がったのだろうか。
 
1. 森田療法の創始ということについて
 
  今から10年前、雑誌「臨床精神医学」の2009年3月号で、「森田療法の発展と課題」という特集が組まれており、その巻頭に北西憲二先生による「創始90周年を迎えた森田療法」という論文が掲載された。論文のキーワードのひとつとして、「森田療法創始90周年(the ninety anniversary of Morita therapy)」が挙げられ、本文では、冒頭に次のように記されている。
 
 「森田が試行錯誤の末に、入院森田療法という治療システムを作り上げたのが、1919年4月、46歳のときであった。今でいうパニック障害を1915年に1回の面接で治癒に導き、いち早く感情への認識と行動の関わりの重要性を見抜いた森田であったが、強迫性恐怖を呈するいわゆる対人恐怖にはほとほと手を焼いたらしい。それを臥褥から始まる治療システムによって治癒させることができたのである。この1919年を以て森田療法が創始された時期とすると、2009年はちょうど90年が経ったということになる。」
 
  明快な記載であり、これに従えば、2019年の今年は、まさに「森田療法創始百周年」にあたることになる。
 

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  しかし、歴史的に見て、入院森田療法の治療システムが1919年4月に作り上げられたのかどうかという点について、今少し検証が必要かもしれない。実際、森田療法は1919年(大正8年)に出来上がったとするのが従来より通説となってはいたが、一方で、森田が療法を創って実施を重ね、世に問うた過程があったことを視野に入れて、1919年だけに焦点化することを避ける見方もある。便宜上、1919年を“anniversary”としてもよいのだろうが、療法が出来上がったプロセスを見ることが必要である。
 
  たまたま「高良興生院・森田療法関連資料保存会」の、2019年「春の心の健康講座」の案内チラシに目をやったところ、「森田療法とは?」というコラムがあって、そこには次のように書かれている。
 「森田療法とは、西暦1920年頃、森田正馬(元・慈恵医大名誉教授)が生み出した、わが国が世界に誇るべき神経症の治療法である(以下略)。(当会パンフレット「森田療法とは」から抜粋)」。
 
  このように、歴史的視点を重んじる「保存会」(略称)では、森田療法は1920年頃に生み出されたという含みのある表記をしている。
 
  ともあれ、森田は、一朝一夕にして療法を作りえたのではなく、苦心と工夫を重ねて療法を編み出したのであった。それがいよいよ出来上がりに達していったのが、1919年(大正8年)からの数年間である。
  療法が出来上がっていったその数年間の過程について、以下に要点を見直しておきたい。
 

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2. 1919年(大正8年)のこと
 
  この年のことについて、野村章恒は『森田正馬評伝』に書いている。
 「大正八年は、正馬は四十六歳になり、精神科医として円熟期にはいった年で、自宅入院患者に対しても熱心に精神療法をほどこし、森田式神経質療法を確立した記念すべき年であった。」(以上、本文129ページ)。
  野村は、著書巻末の森田正馬の年譜においても、大正8年についてほぼ同様のことを記している。
 「神経質者の下宿通院療法を家庭入院にきりかえ、精神病恐怖、赤面恐怖、ヒポコンドリーの治験によって、神経衰弱および強迫観念の森田療法の理論と実際を確立した」と。
  いずれも、療法を確立したと記されているけれども、その断定的な表現ゆえに、かえって実証性が伝わってこない。年譜の方の記載では、治験によって確立したとしている点に、やや具体性が見えるが、不明点が残る。
 

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  さて当の森田正馬自身は、『我が家の記録』の同年4月12日のところに次のように記している。
 「此月、永松看護婦長ノ久シク神経衰弱ニ悩メルヲ余ノ家ニ静養セシメテ軽快ス。従来余ハ神経質患者ヲ近隣ニ下宿セシメテ之ヲ治療セルガ、此事アリテヨリ自宅ニ神経質ヲ治療スルノ便ヲ知リ、次第ニ入院ヲ許シ、此年十人ノ入院患者アリタリ。」
 
  以上を要するに、森田はそれまで神経質患者を近隣に下宿させて、通院療法を行っていて、十分な成果を上げてはいなかっが、大正8年4月に、神経衰弱だった巣鴨病院の永松婦長を自宅に住まわせて、家庭的療法を試みたところ、それが奏効したので、他の患者も順次自宅への入院療法に切り替えて、一定の成果を得だした、ということなのである。
  時が熟した偶然の到来であり、いわばセレンディピティが起こったのであった。ただし、永松婦長を自宅に同居させて、家事などの作業をさせたようだが、絶対臥褥から始めたかどうかはわからない。また他の患者についても、第一期から始まる構造化された入院療法を、どの程度適用したのかという問題が残る。そもそも、余の特殊療法と称した入院療法は、どのようにして創案されたものだったのか。
 

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3. 構造化された入院療法の創案と実施 ― 当時のいくつかの著作より―
 
  入院療法の創案と実施については、その当時の森田の著作から窺い知ることができる。
 
1)「神経質ノ療法」(成医会雑誌、第四五二号、大正八年十二月掲載)
 
  神経質者を自宅に入院させて、より本格的に特殊療法を開始した大正八年に、森田は早速リアルタイムで自身の療法について表記のような論文を書いている。
  これは「森田正馬全集」第一巻にも掲載されている(96-108ページ)。 入院森田療法が創案された時期に書かれたものとして重要な論文なので、この内容を以下にやや丁寧に紹介する。森田の論述の仕方に倣いつつ、要約的に述べる。
 
  まず神経質の療法は安静療法と訓練療法が根本療法であって、場合に応じて両者を選択加減するのである。それを前提として、余の考按せる特殊療法がある。
  自分は、多年種々の機会に種々の患者に応用をして、次第に療法の系統を作って、今日に至った。その方法は、一見平凡通俗で、次の通りである。
 

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  第一週(第一期)、絶対臥褥、
  第二週(第二期)、徐々に軽き作業、
  第三週(第三期)、稍重き身体的・精神的労作、
  第四週(第四期)、不規則生活による訓練、
 

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  以上であって、適応症は慢性神経衰弱症が主で、場合によっては強迫観念症にも用いる。
  この精神療法は、ヅボア(Duboisデュボア)氏の説得療法と大いに趣を異にする。ヅボア氏のように論理の力によって説破するというような困難なものではなく、事実を体験し、理屈を離れたる体得をさせるのである。フロイトのように精神分析によって原因を探るなどの手数も要さず、神経質という診断がつけばよいだけである。
 
  第一期の絶対臥褥は、単純に臥褥せしむるのみで、薬剤などの治療法を取り上げ、内部に起こってくるヒポコンドリーとか強迫観念による苦悶、不安を破壊しようとすることなく耐え忍び、経過に任せる。不快の連想に対して自らこれを破壊せんと努力することは、禅の語に「一波を以て一波を消さんと欲す、千波万漂交々起る」と言っているように、我心に我が心で対抗するようなものであるから、其の心は益々錯雑する。苦悩から逃れず、武術の奥義の「必死、必生」、兵法の「背水の陣」によって、仏教で言う「煩悩即菩提」に至る。それをもじって「煩悶即解脱」と自分は言う。神経質の患者は、苦痛を予期恐怖するから二倍の苦痛を覚え、さらにそれを恐怖すまじと煩悶するから、苦痛は三倍となる。煩悩を断ずるのでなく、煩悩の中に飛び込めば、煩悩が安楽となり解脱となる。
 
  第二期では、室外に出て外気にふれる生活をさせるが、まだ積極的に仕事を課すことはしない。活動が制限された状態に置くことで、身心の自発的活動を徴発する。モンテッソリー女史が幼児教育において、児童の自発的活動の生起を重んじたことと似ている。こうして仕事に興味が生じ、それからそれへと為さずにいられなくなる。そして第三期の本格的な作業につながっていく。
  要するに、最初は絶対臥褥により、煩悶を破壊し、次に作業療法により身心機能の自発的活動を促し、これを助長善導するという、いわゆる「自然療法」なのである。
 
  森田は、神経質に対する自分の特殊療法について、およそ以上のように説明している。彼自身、外来で説得的に治す方法を試みたけれども、あまり奏効しなかった苦労を経て、入院によるこのような特殊療法の創案に至ったのであった。
  療法の中核とも言うべき「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」を、入院第一期の絶対臥褥と重ね合わせているところからも、入院療法の重要性を改めて再認識させられる。
  なお、既にこの論文において、入院療法の意義や方法がかなり詳述されているが、実例は示されていない。また、自分の経験では著効を収めたと思うが、批評と教示を希望すると記している。
 

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2) 「精神療法ニ對スル著眼点ニ就テ」(医学中央雑誌、第三二九~三三〇号、大正九年七月掲載)
 
  これは森田正馬全集第一巻にも掲載されている(109-127ページ)。大正9年には、森田は年頭より反復性大腸炎の大患に罹り、病臥して、死線を越えたが、この年にこの原稿を出している。雑誌の性質もあってか、余の神経質の特殊療法については、ほとんど前著「神経質ノ療法」への参照を促していて、内容についての新たな記述は乏しい。ただ、絶対臥褥の目的として、次の三つを挙げていることは新たな記述である。すなわち診断上の補助、安静により身心の衰憊を調整すること、及び患者の精神的煩悶苦悩を根本的に破壊することである、としているのである。
 

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3)『神経質及神経衰弱症の療法』(大正十年六月刊)
 
  森田は大正9年秋より、自身の療法についてまとめる著作『神経質及神経衰弱症の療法』の執筆を開始して、翌年6月に出版した。
  この著書で森田は、2年前に書いた論文「神経質ノ療法」を下敷きにしながら、療法の趣旨や方法について、より一層、的確な記述を図っている。さらに、多くの症例を列挙していることも本書の特徴である。
  療法の「由来」については、自分は十五、六年も前より、神経質に対して催眠術と説得療法で突貫肉薄してきたけれども、うまくいかず、論理を以て感情を圧服せんとすることの矛盾を知った。そのため説得法を変化させ、絶対臥褥法を用いて著効を収めたことなどから、療法の系統を作ったのであると言う。
 
  療法の根本的意義としては、「自然療法」と「体験療法」という二つの重要な側面を示している。
  まず、「自然療法」とは、身心の自然機能を発揮させることである。療法の三期間は隔離療法として、精神の成り行きのままにして、誤想や臆断を破壊し拘泥を廃し、仏教で「心無罣礙(しんむけいげ)」(『般若心経』)と言われるような、とらわれやこだわりのない状態に置いて、身心の自然な活動を伸長させるのである。
 
  また「体験療法」は、「自然療法」と別のものではないが、とりわけ原点としての絶対臥褥の中に、「体験療法」が凝縮されている。「煩悩即菩提」、「煩悶即解脱」の体験がそうである。また森田は次のように述べている。「禅の語に『見惑頓断如破石、思惑難断如藕糸』といふ事があるが、見惑は理解で、石を破ったやうによく断定ができるが、思惑は恐れとか煩悶とか感情的のもので、之は恰も蓮の茎を折る時糸を引いて断然と断ち切る事の出来ないやうなものであるといふ意味である。」
  そして恐怖を去る方法は、恐怖を忘れ、逃れようとするのでなく、恐怖の中にそのまま飛び込むことであると言う。
  なお森田は、自分なりに説得療法の余地を残して、ヅボアは理論に重きを置くが、自分は体験に重きを置くと言い、そのような意味でも体験療法と称しているが、これについては後述する。
 
  この著作には約40例の症例が記載されている。すべてが入院療法の例とは限らず、また入院例でも、概して絶対臥褥の体験を読み取り難いといううらみを残す。
 

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4)『精神療法講義』(大正十一年一月刊)
 
  本書は精神療法全般について、主に身心同一論的立場から基礎理論を述べたもので、神経質に対する特殊療法については、わずかなページしか割いていず、新しいことは書いていない。
 
  これは大正十年に執筆されたものである。神経質に対する特殊療法は、臨床的積み重ねを課題としながら、その理論立ては、『神経質及神経衰弱症の療法』で一応のまとまりに達したものと推察される。
 

(<そのニ>に続く)          

 


Hundred years paper colorful sign over dark blue. Vector illustration.

 

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