スペイン風邪と森田療法(その1)—スペイン風邪に感染した森田正馬—
2021/03/11
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スペイン風邪と森田療法(その1)
—スペイン風邪に感染した森田正馬—
1.はじめに
森田正馬の創案になる森田療法は、大正8年(1919)から大正10年(1921)までくらいの間に成立したとされる。現在私たちは、療法成立百年という記念すべき時期にいる。
ところで百年前と言えば、通称スペイン風邪と呼ばれた流行性感冒が地球上でパンデミックとして大流行をした時期であった。日本でも、大正7年に上陸したスペイン風邪は、以後数年間全国に流行して、多数の犠牲者を出した。死者数は世界で数千万人、日本では数十万人を数えた。その忌まわしいスペイン風邪のパンデミックから、ちょうど百年、今また新型コロナウイルス感染症というグローバル化時代のパンデミックが地球上で猛威を振るっている。折しも、森田療法の成立百年の時期でもある。これらのシンクロニシティは奇妙な偶然だろうか、あるいは意味があるのだろうか。
だが神話的なことを言う意図はない。ただ少なくとも、百年前に森田療法を創始した森田正馬は、スペイン風邪のパンデミックの最中にいたのであり、著名人たちを含め、多くの日本人がスペイン風邪に感染したその時代に、森田正馬はスペイン風邪にどう対処していたのであろうか。人間森田がそこに見えるだろうか。
あまり知られていないが、まず森田自身がスペイン風邪に感染したのであった。野村章恒は『森田正馬評伝』中の「人間像の彫塑」1)および森田の病歴についての資料の文献2)に、森田がスペイン風邪に感染したことを簡単に記載している。森田も、スペイン風邪と言う通称は使わずに、自身が流行性感冒に罹患したことを日記3)に記している。しかし、森田本人による記載もまた詳細を知るには不十分である。
資料は少ないものの、森田は文化人として、医師として、またスペイン風邪感染者としてどのような態度を取ったのか。森田の場合、持病である難病、結核と切り離して考えることはできないが、神経質の療法を創った人間森田の生身の姿を、結核に加えてスペイン風邪との関係から、本稿でできる限りとらえてみようと試みる。
さらには、スペイン風邪と森田療法に関連して、森田と同郷の文化人や、思想的共通性が認められる文化人が浮かび上がる。このような人物についても、引き続きこのシリーズとして取り上げたい。
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2. 森田正馬のスペイン風邪感染—日記等と文献的資料—
文献的資料は、探索を試みたが、今のところ本人が残した日記等の書きものと、野村章恒が記載したものに限られる。それらを以下に紹介する。
A.森田自身による記録
A-① 日記
森田は大正10年(1921)の4月9日の日記3)に、次のように記している。
「四月九日、数日来流感ニテ発熱アリ。今朝ハ三七.五許ナリケレバ病ヲオシテ蓮光寺ニ「自欺ニ就テ」説教ス。之ヨリ再ビ発熱持続シ、自ラ右肺尖ノ笛声ヲ聴ク。病褥ニテアル事、一ヶ月許リ、其後肺尖異常ハ本ニ復セルモ、老人様咳嗽ヲ起シ今日ニ至ルモ治セズ」
当時、流感と言えばスペイン風邪のことであろうから、スペイン風邪に罹患して1カ月療養したことを、詳細さに欠けるが書いていることになる。
A-②『我が家の記録』
森田はまた、前年の大正9年(1920)には、正月に帰省した際に大患を得た。その前年末から下痢を起こしながら帰郷して、正月から血便、発熱をきたし、大病となって自宅で療養し、ようやく死線を越えた。日記には、この間の記録がないが、『我が家の記録』4)に次のように記されている。貴重な記述なので、長くなるが、その箇所の大半を引用する。
大正九年(四十七才)
一月、郷里、富家小学校ブランコ、スベリ臺ヲ寄付ス。凡百二十年圓余ナリ。
昨年暮三十日帰郷、数日前ヨリ下痢アリシモ飲酒ヲ廃セズ、一月八日ニ至リ終ニ血便アリ。臥褥スルニ至ル。後更ニ発熱持続シ、初メちふすヲ疑ヒ後腸結核ヲ恐ル、一二ノ医師ハ結核性トナセリ。長クおも湯ノミヲ食セルガタメ衰弱甚ダシク臀ノ筋モ殆ンドナクナリヌ、妻ヤ妹モ殆ンド死ヲ豫記スル所アリキ。余ハ義弟眞鉏ヲシテ参考書ニヨリ結核ノ鑑別等ヲ論議シタリ。又既ニ死ヲ免レザルモノトスレバ書キ残シタキ自己ノ思想ヲ纏メン必要ヲモ感ジタリシモ、衰弱ノ時ニハ思想モマトマラズ、書クベキ気力モナキモノナルコトヲ知リキ。或時ハ若シ死スルトスレバ生前、死ニ近ズヒテ告別式モナサン、又新聞廣告モ死前ニ別辞ヲナサン、石碑ノ銘モ自ラ之ヲ書カンナド空想スルコトアリキ。
後、思ヒ付キテ廣瀬君ニ症状ヲ通信シタルニ二月八日同君ヨリ「結核性ニアラズ、ちふす、肋膜炎ニアラズ、反復性大腸炎ナリ」トノ診断アリ。「粥ヲ食スベシ流動食タルベカラズ」トノ事ニテ、一同愁眉ヲ開キタリ。之ヨリ後発熱時々反復セルモ次第ニ軽快ニ向ヒ、臥褥七十余日ニシテ漸ク治シ三月三十日帰京ス。
東京にいる友人の広瀬益三医師の、反復性大腸炎であり、重湯をやめて栄養をとるようにとの助言により、70日余りの臥床で回復し、3月末に帰京したことが書かれている。1月から3月までの3カ月間は日記は書けなかったと、森田はその3カ月の終わりに書き添えているが、治癒後帰京まで約半月の日数があったことを考えると、回復前後に日記を書いた可能性はある。後日森田はその部分を削除し、それをまとめ直して『我が家の記録』の方に収めたのであろう。
B. 野村章恒による記載
B-① 『森田正馬評伝』1)における記載
野村は「評伝」中の「人間像の彫塑」の章の中で、次のような短い記述をしている。
「大正九年頃には、いわゆるスペイン感冒のインフルエンザで、森田自身は重態からやっと命びろいをした」
これをその通りに読むと、野村は、大正9年の1月から3月までの森田の大患を、反復性腸炎でなくスペイン風邪であったとみなしていたと受け取れる。
B-② 【資料】「森田正馬の病歴」2)に記されていること
ここでは野村は次のように記している。
「大正10年47才の春には、当時流行したスペイン感冒の流感に森田自身も罹患し、37度5分の微熱が出て約1ヶ月病臥したが、このとき森田自身は右肺尖部にパイフェンが聴こえたと書いている」
ここでの野村の記述は、大正10年の森田の日記の転記のようだが、森田は書かなかった「スペイン風邪」という通称を野村が書き込んでいる。
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3. 森田はいつスペイン風邪に罹患したのか
以上に列挙した森田自身と野村による計4カ所の記述には、いくつかの矛盾がある。そこで、それらの矛盾について見直さねばならない。
森田自身が書いていることは、文字通りに読めば矛盾はない。彼は大正9年の1月から重症の反復性大腸炎に罹患し、70日余りの病臥で治癒した。その翌年の大正10年春には、流行性感冒に罹って1カ月間療養した、ということになるのである。
しかしながら、大正9年の血便、発熱を伴った重病については、地元の医師から腸結核を疑われたようだった。そこで東京の広瀬医師との通信の結果、結核を否定されて安堵し、栄養摂取で快方に向かった。けれども広瀬医師が告げた診断名の反復性大腸炎とはどんな腸炎なのか。潰瘍性大腸炎の別名なのかもしれないけれど、曖昧な病名である。事実上肺結核の患者であった森田は体内での結核の拡大を極度に恐れていたが、この反復性大腸炎という診断で、広瀬医師は心身両面から森田を治したのであった。優れた臨床家であったと感服する。
このときの正確な疾患名が何であったのかは不明である。腸結核を否定できなかったかもしれないし、スペイン風邪も否定できなかったと思われる。日本で流行したスペイン風邪について、内務省衛生局が出した調査報告書5)によれば、スペイン風邪は消化器系の症状を伴うことがあり、粘液血便から腸出血まで、さまざまな程度の血便が稀ならずみられたようである。したがってこの時の森田の病はスペイン風邪であった可能性も残る。ただし森田は、翌年の大正10年春に流行性感冒に罹患したと日記に書いており、スペイン風邪の再感染があり得たのだろうかと、釈然としないところがある。
一方、野村は森田の大正9年1月からの大患を、根拠を添えずにスペイン風邪であったと書いている。腸結核の疑いの余地を埋めておくのが、恩師森田への評伝作者野村の思いやりなのであろうか。
ともあれ、以上のように推測すると、森田が病んだ大正9年冬と大正10年春のいずれかはスペイン風邪であり、また可能性は少ないが、二度ともそうであったこと、なきにしもあらずということになる。
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4 .森田正馬と結核
さて、新型コロナウイルスがパンデミックとして人類を襲っている今日、百年前のスペイン風邪に当時みずからも罹患した医師である森田が、その流行期に自他に対してどのように治療的、感染防止的に対処したのか、という関心がわれわれにある。
しかし、基本的に重要なこととして、森田は青年時代に結核に感染し、それは宿痾となって遂に全治することなく、結核患者としての人生を生き抜いていたのであった。同じく主に呼吸器系を冒すスペイン風邪と比較すると、罹患者の致死率は、結核の方が明らかに高い。スペイン風邪を主役とするなら、結核は基礎疾患に位置づけられようが、感染防止に対してすべき配慮は両者において、かなり通じるところがある。森田とスペイン風邪のことを知っておくことも必要だが、結核患者である医師森田がどのように生きたのかを、この機会に改めて考え、その生き方を見直すことが必要である。
病弱だった森田については、まず、少年時代から悩んださまざまな神経衰弱の症状が思い浮かぶ。そして中年を過ぎる頃からは、気管支喘息だと言いながら、かなり身体的に無理をしていたが、実際は肺結核であった。森田は、深刻なその疾患に対して一見無関心な様子であり、その無頓着さが奇異な印象を与えていた。それは不治の病を受け入れる精神的苦痛の抑圧、あるいは否認の機制によるものであったろうとみなしうる。しかし単なるそのような見方は、人間森田の深い内面に迫っていない。
野村1)は、「明治時代の難病と森田正馬」と題して、正馬の生涯にわたる肺結核との闘いを深く掘り下げて記している。それを参考に、森田が、外見的な行動が与えた軽率な印象と裏腹に、肺結核と闘ってこそ切り開いた人生について、少しふれる。
森田は大学を終えて巣鴨病院に入局した29歳のとき、初めて血痰を見、さらに同じ頃生命保険に加入するため保険医の診察を受けたが、肺尖カタルを指摘され、保険に加入できなかった。はじめて自分が肺結核に冒されていることを知ったのだが、その2ヶ月後には、巣鴨医局の先輩の吉川とピクニックのために徹夜で歩いて鎌倉へ行った。こんな無茶をしながら肺結核はその後あまり表面化していなかったが、やがて50歳頃、大量の血痰が繰り返し出て、また喀血もした。さらに咽頭痛をきたし、親しい内科医の広瀬医師に方針の決定を頼ったが、明快な答えを得られなかった。そのとき森田は、広瀬医師に依存して進取の姿勢に欠けていた自分に気づく。こうして新たに生じた心境について、森田は述べている。
「広瀬君とて神様ではない。…このときに私の深刻なつきつめた思考は次のように、人生観を生きる意味に結論づけさせた。…それ活動は生命なり。活動なくして、そこに生命はない。…自分のなすべきことを成し遂げて、それによって、あと半年しか生きられないとしても、安静臥床によって三年ぐらいは生きのびると言われた場合は、私は前者を選ぶ。歳月の長短は私自身にとって同じ価値である。ノイローゼの患者は、人生の生きていることの意味を第一義として処するという決心がつかないで、徒らに症状にとらわれ将来のことを取越苦労し恐怖しているものが多い」6)
森田が結核との闘病を経て、このような人生観に到達し、それが同時に森田療法の深化にもつながったことを野村は指摘している。そして野村は、結核に罹患していた著名人の生き方として、次の三つのタイプを挙げている。すなわち、自己隔離のストイックな療養生活を送った人たち、療養所に入って生産的な執筆活動をした人たち、そして宗教的布教家の賀川豊彦のように講壇からおりずに大衆に呼びかけ続けた人たちがあり、森田はさしづめ布教家タイプに属するとしている。
九州大学の放射線教授で同大学の総長もつとめた入江英雄は、医学生時代の昭和6年に森田の診療所に入院したが、思い出として「森田自身、結核について無関心であったことを不思議に感じていた」と述べていたというが1)、先述のように、森田自身は50歳にしてみずからの結核を深く自覚して前向きに生きていたのである。
昭和5年には、愛児の正一郎を結核で失っており、それは愛児の子どもの頃に正馬が結核を移した結果であった。悲しい巡り合わせである。森田はそれを悔やんで泣いた。そしてそれでも、前へ前へと進んだのである。
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5. 森田正馬と社会
森田はこよなく郷土を愛した。生まれ育った野市の土地と親族や友達、小学校とお寺、近くにある田畑や山や川、そして学んだ中学校や高知の町。森田は熊本五高を経て、上京後は、遠路東京と高知を往復したが、彼にとって東京と高知は心理的にも家族的にも分かちがたい場所とて、つながっていた。蓬莱町の森田医院の従業員の多くは森田の親族であったらしい。
故郷に錦を飾ると言えばものものしいが、郷里の小学校に大小の寄付をすることを、森田は無上の喜びとした。
そんな森田であったから、東京にいても高知の動向に無関心であったはずはない。ただ日記には、郷里の動静や、また時局のことはあまり書いていない。日記は自身の日々の行動や知人との交流の記録に限定されていたようである。彼は人間が営む社会の出来事にいつも関心を寄せ、必要なら誰にでも手を差し伸べる人間愛の人であった。そのような人間像は、彼を知る他の人たちによって、記され語り継がれてきた。
スペイン風邪の襲来時に森田はどうしていたかは、百年後の今湧いてきた関心事であり、調べてみたが、彼自身が感染して患者になっていたことが判明した。彼自身が無防備であったのかも知れず、笑うに笑えない。感染予防に万全を期すことをできなかったのであろう。彼は感染者にして医者だったが、開院当初の森田の診療所では、年間を通じての入院患者は10人程度であったから、集団感染を起こすような懸念はありえなかった。ちなみに森田診療所は、昭和2年に4床の有床診療所として届け出をしている7)。
さてスペイン風邪は、郷里の高知でも猛威を振るった。その惨状は、宮尾登美子の小説『櫂』8)に事実がそのまま描写されている。およそウイルスから身を護れるような環境ではない貧民街に住み、今日食べる米もない人たちが次々と亡骸になっていった。森田が金剛寺でみた地獄絵ならぬ、高知の裏町にこの世の地獄のような実態があったことを森田は知っていたかどうかわからない。人間愛の人といえど、帰郷してみずから大病に呻吟していた森田と、高知の貧民街との間に、残念ながら接点はできなかった。
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6. おわりに
森田正馬はスペイン風邪に罹患していたと言えば、トピックになるけれど、興味本位では軽々しい。ではその事実から何を読み取れるかと言うと、それはあまりはっきりしない。森田は感染したことを隠したわけではないが、積極的に公表もしていない。アメリカのベアードやヨーロッパのフロイトに反発していた森田は、西洋渡来のスペイン風邪を意識はしたろうが、無視したかったのではなかろうか。森田はスペイン風邪などという名称を使っていないし、表立って関心を向けた節もない。森田診療所は立ち上げたばかりで入院者は少なく、森田が不名誉な感染源になったこともなかったようだ。
それよりも、森田の人生は結核との闘病の歴史であり、結核をみずからの宿命の病と自覚して、道を切り開いていった過程で、森田療法は深められていった。スペイン風邪の感染について調べてみて、結核と共に生き抜いた森田の姿が再照射されたのであった。
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<文 献>
1) 野村章恒 : 人間像の彫塑. 森田正馬評伝 ; 255-334, 白揚社, 1974
2) 野村章恒 【資料】森田正馬の病歴. 精神療法研究(神経質改題); 1 (1),1969
3) 森田正馬 : 大正十年四月九日の日記. 我が家の記録. 高良武久ら編 : 森田正馬全集 第七巻, 白揚社,1975
4) 森田正馬 : 我が家の記録. 高良武久ら編 : 森田正馬全集 第七巻, 白揚社, 1975
5) 内務省衛生局(編) : 流行性感冒―「スペイン風邪」大流行の記録. 平凡社, 2008
6) 文献1)で野村章恒が引用している森田の文の一部を再引用。
7) 野村章恒 : 森田療法普及宣伝時代. 森田正馬評伝; 176-241, 白揚社, 1974
8) 宮尾登美子 : 櫂. 中央公論社, 1974