歴史は考現学である。―森田療法考現学(4)―

2019/02/21

< 最初におわび >
  「森田療法考現学」と題する文章を昨年から連載方式で掲載し始めましたが、続きを途切らせていました。書き続けたいことは多いのですが、他の記事と交錯しますので、整理をはかっているところです。
  森田療法考現学に該当する文章は今後、「研究ノート」欄に移動します。ブログ欄にも出す方がよいと判断する場合のみ、ブログ欄にも併載します。今回からのいくつかは、併載を予定する記事になります。ご了承下さい。
 

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<歴史と考現学の関係について>
  過去はひとつである。あるいは複雑であろうとも、同一のシリーズであった筈である。しかし、化石ひとつが発掘されたら歴史が変わる。化石なら化け物ではなくて、まあ確かな代物であるから、歴史を変えるかもしれない。ところが今日は、氾濫する情報によって歴史が変わる、あるいは変えられてしまう。遠慮がちに現れていた貴重な情報が、他の情報群の圧力に抑えられて再び闇に葬られる。
  最近気になっているものとして、ウィキペディアがある。たとえば、ウィキペディアの編集のしかたひとつで歴史が変わる。誤情報を出すのは可能だし、出さなくても、瑣末な情報でいっぱいにすれば、貴重な情報は出る余地を失う。
  もともと情報の少なかった史実については、それをどう読みとるかによって歴史が大きく変わる。低次元の意図的な書き替えや読み替えばかりを言っているのではない。歴史をどう読み、どう書くかは、現代人の慎重で柔軟な良識にかかっている。
  歴史とは考現学である。考現学のフィルターを経ずして、歴史を捉え得ない。
 
  以上に記したことは、とくに森田療法の分野に向けてのことではない。歴史というものに必ず含まれる考現学的要因に注意を促そうとした。
 

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  今回の記述はこれだけで打ち切り、次回より、森田療法の歴史について述べる。