「五高出身者たちの社会教育」と森田療法 ―下村湖人『新風土』から水谷啓二の『生活の発見会』へ― 」(学会発表後のスライド紹介)

2017/11/30

   第35回日本森田療法学会(熊本)において、パネルディスカッションでの発表の際に提示させていただいたスライドを、以下に掲げておきます。

 

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ここに出した写真は、下村湖人の五高生のときのものである。
 
 



   発表者は禅的森田療法で知られる三聖病院に長年勤務していたが、ここでの発見会もしくは自助グループに対する批判に触れて、これはどういうことであろうかと考えてきた。その後、短期間ながら発見会の協力医にして頂いたことがあり、それを機に発見会の歴史を調べた。そして、奇しくも五高出身の人たちが担った社会教育の流れが、水谷啓二氏に合流したことを知った。これを改めて振り返ってみることは、今日的にも重要であろうと思う。
 
 



   社会教育とは、権威のある人が民衆を教化するものではない。福沢諭吉が言ったように、人間社会から学ぶということである。学校教育制度に従属せず、そこで得られないものを求め、疎外されている人たちの教育を取り戻し、個人や民衆が自治的に自分たちを高めていくことであって、それが社会教育の運動だったのである。
 
 



   まず、田沢義鋪は、佐賀県鹿島町出身で明治38年に五高を卒業しているが、小学校に早く入学したり、五高では落第したりしており、下村湖人とほぼ同級だった人である。東大法科を出て、田舎の勤労青年の自治生活の振興に寄与し、「青年団の父」と呼ばれ、さらに「壮年団」運動も興したが、政権から圧力を受けた。平和主義者で、ヒューマニストで、行動的な人だった。教育観として、「平凡道を非凡に進め」と言った。
 
 



   学生時代のエピソードだが、五高ではボート部で酒を飲んで退学処分になり、後に復学を認められたり、大相撲常陸山一行の熊本巡業の際、幕下力士に勝ったという武勇伝があったりする。下村湖人(当時の本名は、内田虎六郎)と親しい間柄だった。東大生時代には、日露戦争後の大陸を旅行して、日本人の残忍さを見て、「海外発展?それが何だ。日本は東洋のならずものになってはならない」と旅行記に書き、国民性を矯め直す必要性を痛感した。
 
 



   主な実績。東大を出て、内務省に入り、静岡県に赴任し、安倍郡の郡長になって、そこで教育から見捨てられている田舎青年たちに会い、大正3年蓮永寺という寺で、日本最初の青年団宿泊研修を実施した。また日本各地の青年団員を呼んで、明治神宮の造営を成功させた。さらに「日本青年館」を建設して、その分館である武蔵小金井の「浴恩館」に、「青年団講習所」を開設し、下村湖人を所長に招くことになった。社会教育家の任務として政治にも参与したが、「壮年団」が軍部に取られるなどの憂き目にあった。
 
 



   下村湖人(虎六郎、とらろくろう)は、佐賀県神埼郡千歳村の内田家に次男として生まれた。五高時代の親友に高田保馬と田澤義鋪がいた。下村は、名作『次郎物語』の作者として知られる文学者であった。中学生の時に、内田夕闇のペンネームで詩を書き、中央の詩壇に名を馳せていた。しかし下村の活動はさまざまな分野にわたり、東大卒業後は、郷里佐賀県や台湾で、中学校や高等学校の教員生活を体験し、挫折も味わっている。
   さらに思想家であり社会教育家であった。以下にその活動について、見ていこうとしている。青年団員の合宿指導や、「煙仲間」運動や、雑誌「新風土」による活動があったが、その前に、活動につながった言わば下村の人生の、心の「夕闇」について触れておこう。
 
 



   幼児期に里子に出されて、実家に帰っても実母に馴染めなかった体験は『次郎物語』第一部に描かれている。青年期には、家産が傾き、一家は熊本市内で酒屋を営むも、破綻。その後一家は離散に至ることになる。五高に入学したが、学資がなく、資産家の下村家から援助を受けた。五高生だった兄がいたが、精神を病み、湖人の入学と入れ違いに退学した。東大卒業後、郷里の佐賀県や台湾にも行って、長い教員生活を送ったが、学校教育の現場で葛藤や確執を経験している。その後情報を傾けた雑誌「新風土」は、戦前、戦後の時代背景もあって、二度廃刊に追い込まれた。
   悲劇の主人公のような人生であった。
 
 



 社会教育家としてのその思想について―
   学校教育は「切り花」のようなもので、雑草のように根のついた働く青年たちの教育こそ、真の教育である。教育というものは、単に自然にしておくことではなく、人為を加えて、それを新たな自然とすることである。そのような教育観を持っていた。
   「任運騰々」という良寛の禅語を引き合いに出したが、それは、運命に随順して、精一杯に自分を生かす、ということで、そのまま森田療法に通じる。また、田澤と同様に、「平凡道を非凡に歩め」と言ったのだった。
   なお、五高で漢文の野々口勝太郎教授から老荘思想を学んだことが、彼の思想に影響を与えたと、高田保馬は言っている。
 
 



   下村は「煙仲間」というものを提唱した。その趣旨は難解だが、実際に全国各地にそのような仲間が結成され、今から数年前まで、そのような集団は存在した。
   「煙仲間」のルーツは、軍部に乗っ取られた田澤の「壮年団」を受けて、下村が創った“地下組織”のようなものであった。佐賀の鍋島藩の「葉隠」に出ている歌の中の言葉に因んで、「煙」と命名したもので、忠節や忍ぶことを表しており、その対象は、郷土から始まって、広い人間愛にまで及ぶ。その理念の実現のためには、集団内部のメンバーの中に、指導的に動く人がいることが必要である。下村はこれを「列伍の指導者」と称した。指導者然としていない隠れた指導者であり、上下関係のない集団の中にいる任意の指導者のことである。仲間は、形のある集団の枠を超えて、超集団的にヨコに交わり、互いに情操を高め合う。
 
 



   下村のひそみにならえば、「白鳥芦下に入る」という禅語をもじった言葉が、「列伍の指導者」に代表される仲間たちの働きを象徴的に表している。「善行に轍跡なし」という老子の言葉も、煙仲間の活動の精神に触れるところがある。
   「煙仲間」を集団論的に見ると、さしあたり一種の「準拠集団」と捉え得る。さらに厳密にその集団としての特徴の把握を試みるなら、むしろ「メタ集団」と称する方が当を得ていよう。形ある集団に対する影の集団であり、集団がより良く機能するように、下部や内部から匿名的に寄与する善玉ウィルスたちのような集団である。
 
 



   下村の「煙仲間」と連動して刊行された雑誌に「新風土」があった。下村を中心に、教育その他の分野の随筆を掲載したものであったが、戦前の「新風土」(小山書店)は、昭和19年に終刊。戦後には、下村らの同人が「新風土」を再創刊したが、長く続けることはできなかった。
 
 



   さて、先述のように、下村は田澤に招かれて、小金井にある浴恩館の青年団講習所の所長になる。昭和8年からのことで、ここにも軍部からの圧力があった。
 
 



   しかし、そんな状況の中でも、青年たちと起居を共にする合宿生活は非常に有意義なものであった。
   下村は「塾風教育」と言ったが、それは『次郎物語』第五部のモデルになっている。自分たちは愉快に生きたい、そのために忍耐して、自主的に組織を創造して、建設的な生活をしようとするものである。これは入院森田療法に通じるもので、この塾風教育は圧巻だったと思われる。
   「道場至上主義」や「修養誇大妄想狂」を批判し、日常生活の真っ只中が禅教育の道場だと言っている。
   下村自身にとっても、浴恩館での塾風教育は、教員生活後の「新規蒔き直し」の体験となり、「煙仲間」を提唱する出発点になったのだった。
 
 



   小金井市に現在も残っている浴恩館の建物。現在は小金井市によって管理されている。本年6月にここを訪問した。
 
 



   浴恩館の建物の内部には、青年団の塾風教育が行われていたときの写真が展示されていた。その展示写真を撮影して学会でスライドで提示することを許可して頂いた。
   昭和8年の合宿生活風景で、これは食事風景。
 
 



   同じく、昭和8年、青年たちが剣道をしている写真。下村自身も剣道をたしなんだ。
 
 



   次に、永杉喜輔の人と業績について。
   熊本県玉名郡出身で、五高卒業後、京大の哲学科に進んだ。京大卒業後、浴恩館の青年団講習所に研究生として入った。それまで哲学用語ばかりを乱発していた永杉は、所長の下村が黙々と便所掃除をしているのを見て、痛撃を食らったのだった。以後、下村に師事して、生涯にわたり社会教育に情熱を傾けることになった。滋賀県の社会教育課長をしていた時期があったが、戦後に、進駐軍の干渉と対立した武勇伝を残して辞職。
   昭和22年から、下村と雑誌「新風土」の再創刊に携わった。昭和24 年から群馬大学の教授となり、社会教育活動を継続した。講演活動も多い。
   下村の没後は、煙仲間運動を継承している。この人の人柄の特徴は、言行一致していて、直情径行、本当のことを言う人だとして、多くの人たちから慕われたのだった。
 
 



   「煙仲間」は永杉も関わっているので、改めてその集団の成立事情を見ておきたい。戦前における下村の提唱と関連するものとしては、下村の提唱に呼応して結成されたものと、地域の既存の活動が「煙仲間」に相当すると評価されたものとがあった。後者については、外部からはわからない地域の人たちの輪が、無数にあったであろうと推測される。そう考えると、下村による「煙仲間」の理念と名称が高尚であるけれども、事実上、あちこちの地域には、そのように機能している普通の仲間たちがいたのであろうと思われるのである。
   戦後に下村の再提唱で結成されたものもある。昭和23年、下村と出会った水谷啓二は横浜で「戸塚懇話会」を創っている。
   永杉の影響によるものとしては、静岡県で山梨通夫氏らによって結成された「煙仲間」なるものがあり、その会報は、昭和55年6月から平成23年5月(349号)まで発行された。写真は、平成20年の永杉喜輔追悼特集号である。
 
 



   下村によって命名された「煙仲間」の「煙」にはメタファーが込められているので、今一度、理解し直したい。戦後には、軍部の弾圧を避けて「忍ぶ」必要はなくなり、自由や友愛を大切にする人たちの仲間という性格の集団になった。永杉は、そのような集団の性質を「友情の組織化」と言ったのだった。
 
 



   以上の特徴をさらに言い換えるなら、「煙仲間」とは「「純な心」を持って、平凡に生きている非凡な人たちの友愛の絆」、あるいは、その人たちの友の会と理解できるのではなかろうか。
   久田邦明氏は、「煙仲間」は「組織を批判する組織」であるという意味で、「メタ組織」と捉えているが、「純な心でつながりつつ、機に臨んで純な心を効力的に発揮する、ゆるやかな集団」という意味で、「メタ集団」と捉えたいと思う。
 
 



   ここで、全体に通底する思想として、平凡と非凡を取り上げる。
   下村湖人は、まず五高時代、弱冠21歳のときに「龍南会雑誌」に「凡夫」と題する論説文を書いている。その後、昭和9年6月に、随筆を集めた著書『凡人道』を上梓しているが、この中に「凡人道」という稿があり、そこで下村は次のように述べている。「凡人の道を丹念に修めれば、偉人になれる」と。
   一方、森田正馬は、「凡人主義」と称し、昭和9年7月15日の形外会で、次のように言っている。「凡人の修養されて偉くなったのが偉人である」と。下村が『凡人道』を出版した直後のことであり、発言が非常に似通っているので、森田は下村の本を読んで、その影響を受けた可能性があると推測される。参考までに、昭和11年に森田が書いた色紙には、「偉人は凡にして、天才は奇なり」とある。
   高良武久先生による「平凡の中の非凡」という墨跡もあり、これは、下村湖人や水谷啓二の思想を取り入れて書かれたものと思われる。
 
 



   下村、永杉から水谷へという流れを、整理してみる。水谷には、療法は人間の再教育だと言った森田から既に薫陶を受けていた下地があった。そして戦後に五高時代の友人、永杉と再会し、下村との出逢いにも恵まれた。水谷にとっては、森田生活道イコール社会教育だったのであろう。水谷は横浜で「戸塚懇話会」と称する煙仲間を結成した。また「新風土」にたびたび寄稿し、連載後に本になった『草土記』に対して、下村は「非凡なる平凡」と絶賛した。
   永杉は、京大の二年の時より森田正馬の著書を読んでいたという理解者であった。
   布留武郎という、京大での永杉の友人もいて、布留は元形外会会員であり、「新風土」のグループにも入っている人物だった。
   こうして、森田の教えと下村の教えが継承されてひとつになり、「生活の発見」誌が創刊されるに至る。
 
 



   昭和32年の、「生活の発見」誌の創刊のための趣意文に水谷は、森田の教えを継ぎ、下村の教えも継いで、雑誌「新風土」の伝統を守りたいということを述べている。
   また創刊号の編集後記に、永杉は、「水谷氏を中心とした『啓心会』と、湖人先生を記念する『新風土』会の人が協力して、この雑誌を出すことになった」と記している。なお創刊号の奥付には、発行者は、水谷啓二方「生活の発見会」となっている。
 
 



   「生活の発見」の100号を記念する昭和43年12月号に、永杉は、「生活の発見」の命名の由来を記すとともに、その文を次のように結んでいる。「読者諸兄姉よ、どうか本誌を広めて下さい。(云々)日本に一灯を掲げ、一隅を照らすもの、それが「生活の発見」である。」
   これが昭和43年の時点での永杉の、この雑誌への期待であったことがわかる。
 
 



   「煙仲間」に対応する機関誌または雑誌は、「新風土」であり、「生活の発見会」に対応する機関誌は「生活の発見」であったが、それらを時期にわけて一覧で示した。
 
 



   ここで「禅的集団」も取り上げて、「煙仲間」、「禅的集団」、「生活の発見会」という各集団を比較しようと試みて、記入できるところは記入してみたが、「生活の発見会」について記入するのは、私の力の及ばないところである。
 
 



   下村が逝去した前後あたりまでを、自分の発表の領域と考えたので、それ以後の動きについては疎いものの、多少知ったことを断片的に記した。
 
 



   ここまで述べてきたことより、以上のような知見や論点が導き出された。