「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」(学会で発表したスライド紹介)

2017/11/16

   上記のテーマについて、第35回日本森田療法学会で発表したスライドに、簡単な説明も再現してつけ加えておきます。




   最初に出しています画像は、釈宗活老師の写真です。
 
 



   森田療法が成立した歴史の中で、森田の参禅の体験は重要な意味を持つと思われますが、不明な点が多いままでした。
まず、いつ、どこへ参禅したのかについては、鎌倉の円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説があります。森田自身は、谷中の両忘会の釈宗活老師に参禅したと、形外会で言ったり、日記に書いたりしています。また、参禅した老師の人物や参禅体験はどうであったかも、重要です。
   これらについて調べたことは、当研究所のホームページ上に、詳しく掲載しましたが、ここではそれを要約して述べます。一方、今回の抄録の提出後に新たに判明したことも追加して述べます。
 
 



   鈴木知準氏は、森田正馬が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説を、確信的に、繰り返し述べられました。『現代の森田療法』という本の中などや、また三聖病院での特別講演においても、そう語られたのでした。しかし、調べてみても、その根拠を見いだすことはできなかったので、この説の採用は保留します。
 
 



   ここに出したのは、第22回形外会での発言ですが、ここだけでなく、森田は形外会で、複数回にわたって、自分は釈宗活老師に参禅して、「父母未生以前、自己本来の面目如何」という公案をもらったけれど、公案を透過しなかった、だから自分は禅の門外漢である、ということを述べているのです。
 
 



   これは、参禅のことを記した森田の日記の抜粋です。
   「明治四十三年二月五日、藤根氏に勧められ、両忘会に入会し、云々」
「六日、谷中初音町両忘会に参じ、云々、午後2時に天龍院で釈宗活師の提唱を聴いた、云々」とあります。両忘会の場所は、谷中初音町と書いています。
 
 



   両忘会について、説明しておきます。
   明治8年、在家の人々の禅修行の必要性、つまり在家主義を説く立場から、山岡鉄舟、中江兆民らが設立し、湯島の麟祥院に今北洪川を招いたのが発祥ですが、その後一旦途絶えていました。
   明治34年、釈宗活がその再興に関わりました。
   道場は借家で、場所を点々とします。最初は根岸、さらに日暮里。宗活の渡米を挟んで、明治43年に森田が参禅した時の所在地は、谷中初音町の二丁目であったことが、ある資料から判明しました。その後、大正4年に、谷中天王寺町に建物が新築され、「択木道場」と命名されましたが、両忘会の流れは続き、釈宗活は師家として指導を続けました。そして戦後に、宗活は引退し、「人間禅教団」となって、現在に至ります。
 
 



   谷中の、初音町という町名は、旧町名で、それは台東区の旧町名の地図に出ています。山手線の日暮里駅の裏手で、赤く塗った箇所が、その二丁目です。残念ながら、当時の両忘会の位置と環境をそれ以上に確かめることはできません。
 
 



釈宗活の生い立ちですが―
   明治4年に、東京麹町の蘭方医、入澤梅民の末子として出生。本名は入澤譲四郎であった。親は、兄たちよりも、この譲四郎を医者にして、医業を継がせようとして、厳格な教育を課した。しかし、少年期に両親は相次いで死亡した。母親は、「御身の富貴栄達は望まぬ。心を磨けよ」という遺言を残した。少年は、その遺言を胸に、苦学の道を歩んだ。また様々な芸道も身につけた。20歳で、円覚寺の今北洪川老師に入門。23歳で、「一生、寺院の住職にはならない」と、自分から条件をつけて、釈宗演老師の下で、出家得度した。得度後、塔頭の帰源院の監理を任された。そして明治34年(30歳)より、東京で、在家禅の道場である両忘会の再興に当たることになったのです。

 
 




   釈宗活の面影です。左上は、少年時代、16歳の時。右上は、50歳頃(大正10年頃)。左下は、釈宗演で、右下は、釈宗活、60歳頃の姿です。
 
 



   宗活に参禅した著名人として、夏目漱石や平塚らいてうがいました。漱石は、明治27年頃、円覚寺の釈宗演に参禅した際、釈宗活が監理している塔頭の帰源院に泊めてもらい、宗活の世話になります。その体験は、小説『門』に描かれています。釈宜道という名で登場する、修行熱心で折り目正しい若い僧侶は、釈宗活がモデルになっています。
   平塚らいてうは、明治38年から39年にかけて、両忘会に熱心に参禅しましたが、41年に、森田草平と心中未遂事件を起こして世間を騒がせ、在家の禅が批判されました。森田正馬が参禅したのは、そのような時期でした。
 
 



   ところで、新たに判明したことを、少し述べます。話は、まず森田が東大に入学した頃に遡ります。明治32年に、校医から脚気と診断されて不安になり、勉強が手に着きません。その頃、父より送金が遅れて、父への当てつけで、死んでやれと、猛勉強をしたら好成績を得たという伝説的な話があります。しかし、これで症状は雲散霧消したのではありません。その後、また心悸亢進が起こり、東大内科の脚気科の、入澤達吉教授に受診して、「神経衰弱兼脚気」と診断されたのでした。脚気への恐怖が、ヒポコンドリーを生んでいた様子が推測されます。
 
 



   森田を「神経衰弱兼脚気」と診断した、この入澤達吉教授と、森田が参禅した釈宗活こと、本名入澤譲四郎は、親族であることが判明しました。二人の家系を調べているうちに、繋がっていることがわかりました。達吉教授の父と譲四郎の父はいとこで、つまり達吉と譲四郎はいとこの子同士に当たります。
 
 



   入澤一族は、江戸時代から代々医師の家系で、特に入澤家から養子に出て、池田姓になった池田謙斎は、初代の東大医学部綜理になった重要な人物で、宗活の父の従弟に当たります。入澤達吉教授は池田謙斎の甥に当たります。
 
 



   主な人物を中心に簡略化した入澤一族の家系図です。入澤家は、江戸時代の越後の庄屋で、宗活の父、梅民は江戸の蘭学医でした。一族から、池田謙斎や、入澤達吉東大教授が出ています。
 
 



   以上、あれこれ言ったことを整理します。
・ 森田は、入澤一族の達吉教授から「神経衰弱兼脚気」と診断されたが、脚気への不安によるヒポコンドリーを暗示するような診断であった。
・ 参禅した釈宗活は、代々医者の入澤一族の人。
・ 医師になる筈だった宗活は、孤児となり、禅僧になったが、医師と同様に民衆を救おうとする使命感を持ち、寺院に入らず、在家禅の指導に専念した。芸道にも秀で、誠実な人物だった。
・ 森田が参禅した時の両忘会は、谷中初音町二丁目にあったが、それ以上の詳細はなお不明。
・ 森田は公案を透過しなかったが、宗活のような人物との出逢いは、おそらく貴重な体験であったと思われる。