パネルディスカッション抄録

2017/10/26

パネルディスカッションのテーマ:
「五高と生活の発見会の誕生 ―― 森田療法を支えた九州男児たち ―― 」
 
司会:藤瀬 昇先生(熊本大学保健センター教授)
報告者:比嘉 千賀先生(ひがメンタルクリニック)、岡本 重慶
 
岡本の報告の抄録を以下に掲げます。
 

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題目:

五高出身者たちの社会教育と森田療法

― 下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ ―

 
 
報告者:岡本 重慶
 
報告者所属:京都森田療法研究所
 
抄録内容
 
Ⅰ. はじめに
   戦後の昭和23年より、森田生活道の伝道者、水谷啓二は、五高出身の社会教育者、下村湖人や永杉喜輔と交流していた。水谷の五高時代の友人、永杉との再会による縁であったが、五高から社会教育の分野で重要な人物が輩出した背景があった。本報告では、3人の五高出身の社会教育者たちの活動に光を当て、それが水谷の森田療法に流れ込んだ小史を述べる。
Ⅱ. 五高出身の社会教育者たち
1.田澤義鋪(1885-1944)、明治38年五高卒、同42年東大法科卒。
   田澤は官吏となって静岡県に赴任し、そこで田舎の青年たちが教育から見捨てられている現実を見た。以来、地域で青年が啓発し合う自治生活の必要性を痛感し、日本の青年団運動に貢献して、「青年の父」と呼ばれた。その指導は「平凡道を非凡に進め」と言ったことに尽きる。彼はさらに壮年団運動を興したが、官憲の圧力を受けた。
2.下村湖人(1884-1955)、明治39年五高卒、同42年東大英文科卒。
   名作『次郎物語』は自伝的小説として知られるが、作品としては家庭教育、学校教育や青年教育のあり方を世に問うた「社会教育」の書であった。森田療法の視点からとくに注目されるのは、第五部における塾風教育である。田澤に招かれて、小金井の浴恩館(青年団講習所)の所長を務めた体験がそのまま描かれており、指導者が青年たちと起居を共にする合宿生活は、入院森田療法さながらである。修養体験を日常生活に生かすことを重んじた指導も、森田療法に等しい。また田澤の壮年団教育を受けて、情操を深める自由な集団を提唱し、「葉隠」にちなんで「煙仲間」と称した。「白鳥芦花に入る」、あるいは「任運騰騰」(良寛の禅語)と教えたが、目立たず、あるがままに生きるという意であった。田澤と同様に「平凡道を非凡に歩め」と言い、下村の思想もそこに集約された。
3. 永杉喜輔(1909-2008)、昭和6年五高卒、昭和9年京大哲学科卒。
   哲学科を出た永杉は、青年団講習所の研究生として浴恩館に入った。哲学用語を乱発していた彼は、そこで下村が黙々と便所掃除をしている姿を見て、痛撃を食らう。以後下村に師事し、社会教育に情熱を傾けた。
Ⅲ. 下村湖人の「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ
   戦前の雑誌、旧「新風土」が姿を消した戦後に、下村を中心に同人が集い、群馬大学教授の永杉の編集で、昭和23年に新たに「新風土」を創刊した。「日常的任務の実践を通して念々積誠の生活を実現」する誓願を掲げた。創刊の年に水谷啓二は下村に出会って、共鳴している。下村はこの雑誌に『次郎物語 第四部』を連載したが病を得て中断し、代わって水谷が神経症の額縁商人の人生を描いた『草土記』を連載した。だが、やがて雑誌は廃刊となり、水谷は原稿を補って本にした。これを祝して下村は、主人公の生き方と作者の描写を「非凡なる平凡」として激賞した。下村の没後、水谷は「啓心会」を立ち上げ、新たな雑誌を創刊した。永杉の発案で誌名を「生活の発見」として、森田療法と社会教育の二重の意図を雑誌に込めたのであった。
Ⅳ. おわりに:「平凡の中の非凡」
   高良武久教授も墨書したこの言葉に、教育と森田療法の融合した深い人間観を見る。