森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について(抄録)

2017/10/26

第35回日本森田療法学会(熊本)で、一般演題として表記の題目で発表する内容の抄録を以下に掲げます。
 

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森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について
  
【はじめに】
   森田正馬は、明治43年に東京谷中の「両忘会」の釈宗活老師の下に参禅した。日記などから明らかな事実である。森田はここで公案を透過できなかった。しかし、そのような体験は、かえって貴重なものだったかも知れない。そこで「両忘会」と、釈宗活老師について調べたので報告する。
【森田の参禅についての鈴木知準氏の説】
   釈宗活は釈宗演と混同されやすい。宗活は鎌倉円覚寺の今北洪川の下で修行をしたが、兄弟子に宗演がいて、宗演は後に円覚寺管長になった。鈴木知準氏は、森田は釈宗演老師に参禅したと再三述べられたが、文献的根拠に乏しいので、その説は留保する。
【「両忘会」とは】
   明治8年、山岡鉄舟、中江兆民らの有志が、寺院の殻を破り在家禅を振興すべく、円覚寺の今北洪川老師を東京に招いて、その指導を受ける集いを開いた。これを「両忘会」と称したのが、その発祥である。この会は一旦途絶えていたが、明治34年、釈宗活老師が「両忘会」を再興した。宗活老師は、最初は根岸に草庵をもうけ、更に日暮里で借家を利用して道場とした(この時期に平塚らいてうが参禅している)。宗活老師は明治39年から42年まで布教のため渡米し、帰国後、谷中初音町の借家で道場を再開した。森田は明治43年2月の日記に「谷中初音町両忘會ニ参シ…」と記している。なおその後、資産家が谷中の墓地近くに新たな道場を寄進して、擇木道場と命名された。これは人間禅道場として現存している。
【釈宗活老師について】
   明治3年、東京の開業医の四男として出生。11歳のとき母が病死したが、母は「御身の富貴栄達は望まぬ。心を磨けよ」と言い遺した。翌年父も逝去し、孤児となった少年は母の遺言を胸に苦学の道を歩んだ。20歳で円覚寺の今北洪川老師に入門、23歳で「一生出世や寺院に住職することを望まぬ」と条件をつけて、宗演老師の下で出家した。塔頭、帰源院の監理を命じられ、摂心に来る人たちを宿泊させ、世話をして修行を助けた。ここで座禅をした夏目漱石も、小説『門』で宗活の人物像を描いている。宗活にとって、帰源院で宿泊者たちと法の兄弟の如くに過ごした体験が、後に「両忘会」で在家禅の師家をする自然な因縁となった。宗活は優しくかつ厳しい人物で、終生寺の住職になることはなかった。昭和29年帰寂。
【結び】
   たとえ公案を透過しなくても、釈宗活老師の下への森田の参禅は、無駄な体験ではなかったと思われる。

パネルディスカッション抄録

2017/10/26

パネルディスカッションのテーマ:
「五高と生活の発見会の誕生 ―― 森田療法を支えた九州男児たち ―― 」
 
司会:藤瀬 昇先生(熊本大学保健センター教授)
報告者:比嘉 千賀先生(ひがメンタルクリニック)、岡本 重慶
 
岡本の報告の抄録を以下に掲げます。
 

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題目:

五高出身者たちの社会教育と森田療法

― 下村湖人らの「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ ―

 
 
報告者:岡本 重慶
 
報告者所属:京都森田療法研究所
 
抄録内容
 
Ⅰ. はじめに
   戦後の昭和23年より、森田生活道の伝道者、水谷啓二は、五高出身の社会教育者、下村湖人や永杉喜輔と交流していた。水谷の五高時代の友人、永杉との再会による縁であったが、五高から社会教育の分野で重要な人物が輩出した背景があった。本報告では、3人の五高出身の社会教育者たちの活動に光を当て、それが水谷の森田療法に流れ込んだ小史を述べる。
Ⅱ. 五高出身の社会教育者たち
1.田澤義鋪(1885-1944)、明治38年五高卒、同42年東大法科卒。
   田澤は官吏となって静岡県に赴任し、そこで田舎の青年たちが教育から見捨てられている現実を見た。以来、地域で青年が啓発し合う自治生活の必要性を痛感し、日本の青年団運動に貢献して、「青年の父」と呼ばれた。その指導は「平凡道を非凡に進め」と言ったことに尽きる。彼はさらに壮年団運動を興したが、官憲の圧力を受けた。
2.下村湖人(1884-1955)、明治39年五高卒、同42年東大英文科卒。
   名作『次郎物語』は自伝的小説として知られるが、作品としては家庭教育、学校教育や青年教育のあり方を世に問うた「社会教育」の書であった。森田療法の視点からとくに注目されるのは、第五部における塾風教育である。田澤に招かれて、小金井の浴恩館(青年団講習所)の所長を務めた体験がそのまま描かれており、指導者が青年たちと起居を共にする合宿生活は、入院森田療法さながらである。修養体験を日常生活に生かすことを重んじた指導も、森田療法に等しい。また田澤の壮年団教育を受けて、情操を深める自由な集団を提唱し、「葉隠」にちなんで「煙仲間」と称した。「白鳥芦花に入る」、あるいは「任運騰騰」(良寛の禅語)と教えたが、目立たず、あるがままに生きるという意であった。田澤と同様に「平凡道を非凡に歩め」と言い、下村の思想もそこに集約された。
3. 永杉喜輔(1909-2008)、昭和6年五高卒、昭和9年京大哲学科卒。
   哲学科を出た永杉は、青年団講習所の研究生として浴恩館に入った。哲学用語を乱発していた彼は、そこで下村が黙々と便所掃除をしている姿を見て、痛撃を食らう。以後下村に師事し、社会教育に情熱を傾けた。
Ⅲ. 下村湖人の「新風土」から水谷啓二の「生活の発見」へ
   戦前の雑誌、旧「新風土」が姿を消した戦後に、下村を中心に同人が集い、群馬大学教授の永杉の編集で、昭和23年に新たに「新風土」を創刊した。「日常的任務の実践を通して念々積誠の生活を実現」する誓願を掲げた。創刊の年に水谷啓二は下村に出会って、共鳴している。下村はこの雑誌に『次郎物語 第四部』を連載したが病を得て中断し、代わって水谷が神経症の額縁商人の人生を描いた『草土記』を連載した。だが、やがて雑誌は廃刊となり、水谷は原稿を補って本にした。これを祝して下村は、主人公の生き方と作者の描写を「非凡なる平凡」として激賞した。下村の没後、水谷は「啓心会」を立ち上げ、新たな雑誌を創刊した。永杉の発案で誌名を「生活の発見」として、森田療法と社会教育の二重の意図を雑誌に込めたのであった。
Ⅳ. おわりに:「平凡の中の非凡」
   高良武久教授も墨書したこの言葉に、教育と森田療法の融合した深い人間観を見る。