江渕弘明(こうめい)医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―

2016/12/03

 平成28年11月26日、第34回日本森田療法学会(東京)で、表記のような題目の発表をしました。そこで提示したスライド画面をそのまま以下に再現し、発表時に述べたと同じような説明を画面の下に書き加えておきます。
 

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 写真は、江渕弘明先生、70歳の時の姿です(室戸の海岸で昭和61年に撮影されたもの)。
 
 
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 「子曰わく、故きをたずねて新しきを知る。以て師となるべし。」と『論語』にあります。その「以て師となるべし」という視点から、今回、江渕弘明医師という傑出した、知られざる森田療法家がおられたということを、紹介します。
 ご夫人は健在で、このような発表をすることについては、最初は「行に生き、行に逝った人なので、そっとしておいて」とおっしゃいましたが、私は「その存在を歴史にとどめることは、江渕先生のためではなく、森田療法のためです」と言って御願いして、この発表に応じて頂いたのでした。
 
 
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 江渕先生の本名は、建八(けんぱち)、その後、弘明(こうめい)という号を名乗られることになります。
 (小学生の時以来、神経症的体験に悩まれたことがおありで、そのことは、鈴木診療所の雑誌「今に生きる」に寄稿された文章の中にご自身で記しておられます。)
 森田正馬のところを受診して、森田の家で家庭生活を共にする経験(いわゆる家庭入院)をなさったと間接的に聞きますが、その時期を含めて確たる実証が、今のところありません。森田の診療を受けたことがあると、後進たちに言っておられたようなので、少なくとも森田医院を受診して、森田に会われたことは事実です。明らかに入院であったかどうか、またその時期は、旧制中学の頃かと推測されるものの、いつであったかについても、確たることは未だ分からず、確認中です。
 旧制高校に入学なさってまもなく、肺結核が発見され、静養に入るも、その後喉頭結核も患い、入院を経て、自宅近くで隔離療養を続けられました。このような結核の療養生活は10年に及んだ。
 (神経症もさることながら、青年期に長年月にわたって結核の病苦を味わい続けた日々の体験は、人生において神経症より以上に深いものであったと思われる。)
 長い療養を終えた後、一旦、大谷大学に入学なさるも、京都大学医学部に入り、40歳で卒業。
 学生時代より、相国寺の座禅会(智勝会)に参加されました。
 
 
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 41歳で医師となり、京大病院第三内科に入局。
 3年後、高知県土佐市に帰郷して、実家の江渕診療所や土佐市民病院に勤務された。
 この時期には、森田療法で開業することを考えておられたよしだが、実現に至らず。
 昭和43年(52歳)より、宇和島の大隆寺で2年間修行され、同45年(54歳)より、京都に来て相国寺の僧堂に入られた。ここでの修行生活は、実に約20年に及ぶこととなる。
 僧堂を拠点に、座禅会(智勝会)の後進たちを森田療法的に指導しつつ、鈴木知準先生や和田重正先生と交流、さらに名古屋における「啓心会」、「まみず会」(和田重正先生の流れ)、「生活の発見会・集談会」と交流された。
 昭和58年、67歳時に、梶谷宗忍老師より印可を受けられた。
 その後、平成の初めに僧堂を出て帰郷され、江渕診療所や他の病院にも勤務された。
 そして平成10年2月、82歳で逝去された。
 
 
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 相国寺で雲水さんたちと共に修行なさっていた江渕先生の姿。
 
 
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 江渕先生は、ほかの森田療法の人たちとの関係で、どのような場所に位置づけられるかを示す相関図。
 森田正馬の指導を受けられた、和田重正、江渕弘明、鈴木知準の3人の方々が並び、さらに名古屋の方々、関西の松田高志教授へとつながります。
 
 
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 若い頃(昭和38年?)に鈴木診療所に入院された高知のY様が、退院後に鈴木先生夫妻を高知に招待され、その際に江渕先生を鈴木先生に紹介なさったのが、お二方の最初の出会いだったとのこと(今も健在であるY氏談を、つい先日江渕先生のご夫人が教えて下さいました)。以来、禅に関心を有する森田療法家同士として、お二人は交流されることになります。
 鈴木診療所の機関誌「今に生きる」に、江渕先生は10回寄稿されており、短文ながらそれらの稿には、禅に裏打ちされた深い森田療法観が読み取れます。
 鈴木先生は、森田があまり言わなかった「遮断」ということを強調されたようで、その影響によるものか、江渕先生も「遮断」という語彙を出されましたが、意味合いは鈴木先生の場合と同じではないようです。江渕先生における「遮断」は、外的空間的遮断よりも、内面的な姿勢を意味しています。
 
 
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 和田重正先生は、在野の教育家として知られる。十代より人生問題に悩み、森田正馬のもとに入院された。しかし入院で解決を得たのではなく、煩悶を抱き続けておられた。戦後、小田原で青少年向けに「はじめ塾」を、さらに山北町で寄宿生活塾「一心寮」を開き、家庭教育を重んじて「くだかけ会」や「家庭教育を見直す会」の活動を進め、子どもたちと同行(どうぎょう)する「同行教育」や、かくあるべしというような道徳教育を批判して、人生や生活を重んじる「人生科」の教育を、提唱、実践されたのだった。
 また小田原の近くの曹洞宗の最乗寺の余語翠巖老師と交流なさっていた。
 さらに、和田先生の思想の普及をはかる「まみず会」があって、和田先生の教育に関心を持たれた江渕先生は、ご自身の方からこの「まみず会」に近づかれたように思われますが、最初の接点はなお不明です。
 
 
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 昭和51年に、江渕先生は前述の高知のY様と共に、一心寮に和田先生をたずねて行かれました。
 翌年、和田先生は高知を訪問され、江渕家にも宿泊されたのです。
 
 
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 和田重正先生の教育は、江渕先生の媒介によって、関西の教育学者、松田高志先生に継承されました。神戸女学院大学の松田先生は、京都大学学生の時に、相国寺の座禅会(智勝会)で江渕先生より森田療法の指導を受け、かつ江渕先生から和田先生に引き合わされ、以後和田先生の教育を受け継いで、関西における「くだかけ会」の中心人物として活動されて、今日に至ります。
 和田重正先生の父上の本家は奈良県御所市にあり、松田先生は、その和田家の農地を借りて、「関西くだかけ農園」の活動を続けてこられました。
 
 
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 奈良県御所市の「関西くだかけ農園」の活動のひとコマ。教育学者の松田先生は、学生を連れて、このように野に出る活動をしておられたのです。
 
 
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 さて、あまり知られていないエピソードのひとつとして、名古屋の森田療法の関係者の方々と江渕先生の交流がありました。名古屋には、「名古屋くだかけ会」や「東海まみず会」があり、今飯田保氏がそれらの会の運営を引き受けておられました。江渕先生は、まずここに関わっておられたのです。
 また昭和40年代初めより、水谷啓二先生の「生活の発見」誌を読んで勉強する「名古屋啓心会」があり、杉本二郎氏、椛島武雄氏らがその中におられました。しかし水谷先生の急逝により、長谷川洋三先生の意を受けて、昭和46年に「生活の発見会」の「名古屋集談会」が立ち上げられることになり、杉本氏、椛島氏らが世話人になられたのでした。そして杉本二郎氏が、江渕弘明先生に、講師や助言の依頼をなさり、昭和60年頃まで指導に来てもらっていたそうです。杉本二郎氏は健在で、お会いして親しくお話を伺うことができました。
 江渕先生は控え目なお方で、ひけらかすような講演や講話をなさることは少なく、個々の質問に対しては、的確で具体的な助言をして下さったとのことです。
 
 
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 名古屋集談会の三周年の記念写真。中央に長谷川洋三先生、左横に江渕弘明先生、右後方に杉本二郎氏がおられます。
 
 
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 江渕弘明先生がお書きになったものの中から、その思想の一端を拾って紹介しておきます。
 「森田曰ク、能動ハ迷イ、受け身ハ真」。この言葉は度々おっしゃっています。「自然服従」、「あるがまま」という意味だと思われます。
 世間は「ウラ」で、世が「モト」だから、「世間事ハ捨テオキ」、「キョロツクナ」(人為でやりくりしようとするな、の意)。「ナムアミダブツ ト ブチカマス」。「なむあみだぶつ ハ 一切ノ行ヲ摂ス」。これらはすべて「遮断」を意味するものです。あるいは「不問」とも言えるでしょう。あるいは「大死一番」に当たるでしょう。
 森田療法は「モト」を培う療法であるとされます。
 禅の究極は「なむあみだぶつ」に通じ、それは「森田道」と同じだとされます。
 
 

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 相国寺の理解ある梶谷宗忍老師のもとで、長年修行を続けられた江渕先生は、老師より印可を受けられます。出家はなさらず居士のままでした。その後たまたま昭和61年に、老師代理として、慰霊祭の導師を務められました。当時雲水で後輩格だった、ある禅師様によれば、金襴の袈裟衣を着て式典に臨むことになった江渕先生は、「わしは、恥ずかしい。猿回しの猿のようじゃ。断ろうか」と言われたそうです。それに対して後輩だった禅師様は、「常日頃人にはあるがまま、恥ずかしいままとか、なりきるとか、思いきるとか、キョロつかないとか言って、自分こそ思いきったら」と言ったら、「うーん、そうじゃな」と言って、この慰霊祭に行かれたのだそうです。このような話から、江渕先生の人間味が伝わってきます。
 

 
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 江渕弘明先生は、「禅、森田道、本質全く一なり」と言って、生涯を修行に打ち込まれました。73歳で僧堂を出て、帰郷されてからは、残りの人生は医師としての診療に従事されました。82歳で逝かれますが、その最晩年に、先生は「ナムアミダブツ、ウチコム」と紙片に書かれていたそうです。
 
※後記
 以上、各画面について、学会で限られた短時間内に発表した際よりも、やや詳しく説明を加えました。