森田療法のディープな世界(10)―森田療法の「影」の部分としての「共感」、「共苦」―
2025/05/12
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1. はじめに
森田療法の神髄に相当する領域にある問題として、四苦八苦に向き合うことを、繰り返し取り上げてきた。それは、苦悩を訴える患者に対する、治療者の対処の仕方を問うたのではなく、森田療法に則って、人は皆、苦をどう生きるのかという問いかけをしたものであった。人は孤独な存在者であるが、共に生きる生活者でもある。共に生きる関係性の中で、人と喜びや悲しみを共有し、共感しあって生きる生き方がある。共感は、他者の苦しみに向けられたものになれば、それは共苦というものになる。
そこで、森田療法における共感や共苦について、今一度整理して、つけ加えておきたい。
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2 . 「共感」という用語について
最初に、「共感」という言葉の意味に曖昧さが生じるのを防ぐため、その言葉が使われてきた事情について、少し述べておく。
「共感」は英語の‘empathy ’とほぼ同義の用語で、他者の視点に立ち、その経験を理解し、感じる能力であるとされる。‘empathy’の語の由来については、まず哲学者のリップスによって、1903年にドイツ語の美学用語 ‘Einfühlung’ (感情移入)が心理学に適用され、さらに心理学者のティチェナーにより1909年に、‘Einfühlung’ の英語訳として ‘empathy’ の語が造り出されたものである。 わが国での「共感」という概念は、‘empathy’ と同義に、相手の立場に立って、相手の気持ちを想像するという意味合いで使われている。一方、類似した用語に ‘sympathy’(共感、同情) があり、この語は悲痛や困難な体験など、ネガティブな状況にある他者への心配の感情に限定して用いられる場合が多い。一般に同情や思いやりなどと言われるものに当たるが、自分の立場から相手に共感することを意味しており、‘empathy’ の意味での共感とはニュアンスを異にする。
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岡田顕宏の「「共感」という語の起源と歴史について」という論文があり、この文字通りのことについて、詳細はこの文献に譲るが、わが国における「共感」という語の使用の歴史について述べているので、この点のみを紹介する。
「共感」は19世紀後半に ‘sympathy’ の訳語として造られたが普及せず、続いて20世紀初頭に文学の領域で使用された時期があった。日常的な言葉として浸透し、使用されるようになったのは、1930年代中盤以降のことである、と言う。
森田正馬は1938年に没したので、森田は生前には「共感」という語の日常的使用には接していず、従って当然のことながら、療法の指導にあたり、「共感」という用語いることはなかったはずである。ちなみに、森田の著作や形外会での発言の記録を洗い出しても、「共感」という言葉を見つけられない。では森田は「共感」に相当する心理作用をどのように表現していたのか、あるいはそのような心理作用を重視しなかったのか。われわれはその問題に遭遇した。その辺を探ることがこの拙稿の意図するところである。
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3. 森田正馬が重んじた「純な心」
森田正馬は、人間に本来的に内在する「純な心」を重んじた。
それは、人間の「本然の感情」で、「余は此治療中に、患者をして純なる心、自己本来の性状、自ら欺かざる心とかいふものを知らせるやうに導く」と言っている。また「純な心」は自然本能的の衝動としての自発的活動欲であるとして、モンテッソーリの幼児教育におけるように、自発的活動の増進をはかることを必要視した。さらに森田は、理想主義や気分本位から脱して、そのままの心から出発するところに自己が切り開かれていくと教えた。そして入院による隔離生活で、理想や価値観への拘泥のない自分自身になったときに、純な心が体験され、療法の進行中に、次第次第に、「純な心」で生きることが会得されると森田は述べて、療法における「純な心」の会得の重要性を強調している。
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この稿では、森田療法における「共感」を問題にしているが、「共感」は他者との関係の中で「純な心」が発露して起こるものと理解できる。そこで、まず「純な心」について見直しておくべく、以上に、森田が重視した「純な心」について、肝要なところを略記した。
さて、既に記したが、注目すべきことに、宇佐玄雄は、「惻隠の情」を「純な心」と同一視し、森田は、犬に噛み殺された兎への憐憫の情が「純な心」であると教えたのである。憐憫が深ければ「共苦」にもなる。つまり「共感」あるいは「共苦」の感情が、「純な心」の重要な特徴をなすと捉えたのであった。それを受けて、以下で、「純な心」と「共感や共苦」との関係に、できるだけ分け入る試みをしてみたい。
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4. 「純な心」としての「共感」
森田は二種の「純な心」を示した。
まず、理想や理屈などの夾雑物をまじえない、人間の自然な「自発的活動欲」を「純な心」とした。そして、そのままの心で生きるとき、「純な心」が会得されると言った。これが森田の教えた第一の「純な心」である。森田はさらに、犬に噛み殺された兎への憐憫を「純な心」であると教えた。これは「共感」や「共苦」に通じる側面であり、第二の「純な心」が提唱されたのである。それにしても、第二の「純な心」を後から付け足しているのは、収まりがよくないし、またこの第二の純な心について、日常生活や療法において、どのように生かされ、体験されているかについて、森田は何もフォローするような記載をしていないのである。「共感」という言葉がまだ使われていなかった時代であるが、それに相当する憐憫や同情の心理が「純な心」に通じることを森田自身が示したのであるから、第一と第二の二つの「純な心」をまとめて、取り上げる必要があった。第一は、個人の内部から発する自然な感情であるに対して、第二は他者との関係において生じる感情である。森田はこれらをまとめる作業をせず、第二の「純な心」を提起したにとどまって、中途半端になっているのである。
その中途半端さ、曖昧さの問題は深掘りされて然るべきである。なぜなら、「共感」は森田療法にとって、必要な治療的要素であったのか、否かという確認作業につながるからである。もちろん、「共感」をおろそかにする森田療法など、あり得ないと思っているのであるが。
(空行)
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「共感」という言葉は、まず英語の‘sympathy’ の訳語として、同情のような意味合いで造られたのであったが、普及せず、その後 ‘empathy’ の訳語として、1930年台後半以降に用いられることになったようであり、戦後に登場した言葉であるとも言われる。人間同士が水平の関係で自由に共感しあうことは、戦前の日本社会ではあまり許容されなかっことであろう。「共感」という言葉が市民権を得たのは、戦後の民主的な人間関係においてであった。森田が生きて、没した時代には、上下の人間関係の中で示されるものとして、同情や憐憫という言葉や態度はあったが、「共感」という言葉や概念は存在しなかった。では「共感」に相当する心理的態度 や行動は、どのようにあり得たのであろうか。もしそれが、文化的な制約を受けて定着していなかったのであれば、治療者としての森田を理解するにあたって、そのような背景事情を考慮する必要があることになる。
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さらにまた、精神療法としての森田療法における治療者の資質としての共感性の問題がある。
これについては、従来、あまり正面から論じられてこなかったように見受けられる。なぜこのことが本格的に論じられていないのだろう。禅修行において、師弟や修行者同士の間で、共感が問題にならないように、森田療法では、共感を論外のものとしているのであろうか。しかし、実際には、森田正馬と患者たちとの間には、暖かくて人間的な交流があり、また時には、森田の厳しい叱りがあった。森田と患者たちとの間には、共感が湧く契機が多分にあった。
ただし、森田という人物は、われわれが ADHD と診断して、その病跡を論じたごとく(本ホームページ内の「ブログ」欄、および「研究ノート」欄参照)、その言動には奇矯で風変わりなところがあった。その奇矯さが、治療に予想外に組み込まれて、療法が成立したとわれわれは判断したほどであった。そんな森田であったから、患者との間には、思いがけない共感が発生したり、あるい危機的な感情が起こったりと、意想外な展開があったのではなかろうか。このように、療法の創始者の森田が人間的に独特であったから、治療者患者関係における「共感」は不安定で、客観的にわかりにくいものであったろう。ともあれ、森田は親しみやすくて、人間味があり、しかし厳格かつ権威的で、説得的な指導をする人だった。自分の療法を受けに来た患者たちであったから、愛ある態度で接しなかったはずはない。だが、十分な目配りができたかどうか、問題はあり、疎外された者もいた可能性がある。
こうして、患者たちに対する森田の「共感」には、おそらくムラかあった。そして、その「共感」の内実は、主に殺された兎に憐憫を感じるレベルの、同情や慈悲の域のものであったものと思われる。「共苦」という意味での深い「共感」は、療法にどこまで取り入れられたのであろうか。不明さが残る。
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5. ADHDの人における「共感」、「共苦」
療法の創始者、森田が示した共感性をもう少し問題にする。そのため、森田という人物を見直しておく必要がある。その独特の人物像については、多くのことが語られてきたが、われわれは病跡学的に森田をADHDと診断しているので、そのような視点から、改めて森田像を抽出してみたい。
森田に学び、かつ、交流して、森田を学界の有名人に引き上げるために貢献した人として、中村古峡がいた。その中村は、みずからも治療者として開業したが、著書『神経衰弱はどうすれば全治するか』の序文で、森田の治療のしかたを激しく批判した。曰く―「博士がその患者に課せられる療養生活なるものが、あまりに博士一流の冷たい人生観と哲学とに囚はれ過ぎてゐるためか、(…)予期の結果を見るに至らず、却て失望と煩悶とからその症状を新たにして」、患者は中村の療養所に流れ込んでくるというのであった。
森田との親交を経て、訣別することになった中村による森田の酷評である。具体性に欠けるが、森田の人生観と哲学の冷たさを指摘している点で、考えさせられるものが残る。ちなみに、森田の診療所に入院した患者の治癒率は高くなく、脱落者は意志薄弱として切り捨てられていたようであった。
一方、今村新吉は、森田正馬のことを「勉強はしていないが、カンは良い」と評したそうである(日本森田療法学会会員で森田療法史の研究者の澤野啓一先生による)。確かに、学者、研究者としての森田正馬については、全集に掲載されている学術論文を一読しても、緻密な論理性に欠けていることがわかり、秀でているとは言い難い。しかし精神療法家としての森田は、持ち前のカンのよさによる優れた着想と神経質の治療の熱心さにより、独自の療法を創始したのであった。つけ加えるならば、その療法における典型的な症例の治癒のドラマは、森田が自宅に用意した、言わば箱庭のような治療の場を超えた時空間で展開した。療法の創始者であった森田は、いつの間にか療法のドラマの中のひとりの登場人物になっていた。つまり森田は、療法を支配する権威者であったり、療法の中に患者と共に登場する人であったりしたのだった。
ところで、人間森田の生涯を遡れば、次のようなエピソードもあった。中学生のとき猫を殴り殺して、解剖をしたと、みずから回顧して記している。猫を殺したADHDの少年Mの内面で、その後、動物愛護の精神と生き物の命へ共感性が成長したのであろうか。治療者としての森田は、噛み殺された兎に憐憫の情を持つようにと諭す人になっていた。また高良武久によれば、飼っていたニワトリが逃げたとき、森田はニワトリを追わずに、なぜ逃げたかに興味を抱き、しきりにニワトリ小屋を点検していたそうである。兎が殺されたとき、飼育係の言い訳を叱った言葉と少し矛盾するようだが、そこが森田らしいところである。
このような森田であったから、患者に対するその態度にはムラがあり、共感性は不安定なものであっただろうと想像がつく。
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ところが面白いエピソードとして、森田はしばしば患者たちの前で、滑稽な余興を披露したのであった。そこで飾り気のない姿を見せて、互いに共感しあったことで、硬直しかねない治療者患者関係が円滑に進んだのである。余興には、相互に共感性が生じる点で、潤滑油のような治療効果があったものと思われる。
こうして、森田は患者たちの中に溶け込んで、生身の森田として彼らに共感したのであったが、また別の場面では、権威的な指導者の立場から、「共感」について、言葉で説得的な訓辞を垂れる森田もいたのである。兎への憐憫の垂訓がそうであったが、形外会(第5回)では、次のように語り、全快した人は後進も治るように犠牲心を発揮するようにと教えているのである。
「どうか皆様も同病相憐むほかの患者のために、自分の病症やその治るに至った成り行きを詳しく打ち明けて、後進の人のために犠牲心を発揮してもらいたいのであります。」
結局、森田が示した共感性は、上位の立場からの同情や憐憫とその教えを垂れるところにあったようであり、かつ折りに触れて、患者たちと親しく共感を交わすこともあったのであった。
究極の「共感」としての「共苦」については、他者の心の深奥にまで入っていく「共感」は森田には馴染まないものであった。その辺に、共感性から見た森田の療法の特徴が浮かび上がる。
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6 . おわりに―療法の「影」としての「共感」、「共苦」―
森田療法は愛ある療法である。療法は厳格なものであったが、根本的に大きな人間愛に発していた。治療者森田は風変わりな人物で、ADHD の特徴を有していたが、人間への関心に満ち満ちていた。そこには、人間への「共感」があった。しかし、森田の人間関係には、むら気があって、安定した共感性があったとは言い難い。とりわけ、他者に「共苦」することは、森田の苦手とするところであったろう。ときには、彼は「共感」を説く人であり、またときには、彼は余興で「共感」に興ずる人であった。垂訓と余興は、森田の療法における「共感」の特徴であった。
したがって、「共感」や「共苦」は、少なくとも療法の部分をなし、療法の表に出ない「影」のようなものであったと言える。
けれどもそれは、「シャドー」という深い意味でも、森田療法の「影」をなしていたと見ることができる。
森田療法は、「共感」や「共苦」を療法の無意識の次元に残して、過去から現在にまで引き摺ってきた。それは「シャドー」という「影」にほかならないものであろう。
そんな感想を最後に記して、この稿を閉じることにする。
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【後記】
森田療法における「共感」という問題は、古くて新しい、いささか厄介なものであった。しかし、森田療法について、深いご経験と学識を有しておられる名古屋のS氏と討論を交わす機会に恵まれ、氏から多くの示唆を与えられた。本稿のまとまりのなさや内容の不備は筆者の責任であるが、懲りずに終始毅然としたご助言をくださったS氏のご好意に対して、ここに深謝したい。