よみがえる森田療法

2023/04/09

 

 

 

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1. 森田療法の過去、現在、そして未来へ

 

 

 森田療法が成立して百年の歳月が経過した。私たちはその記念すべき時期にある。しかし、来し方百年の間に、森田の原法の療法は、時代や文化や医療の 変化とともに大きく様変わりした。入院原法 を維持している医療機関は減少の一途を辿っている。森田に続いて、かつて第二世代の宇佐玄雄、高良武久、水谷啓二、鈴木知準らの方々は、森田の療法を忠実に継承して入院施設を設け、精力的に入院原法を実施なさったのであった。その第二世代の方々も今は亡いが、そこに関わった弟子筋の人たちは、既に高齢ではあるが、失われた入院原法の価値を世に伝えるべく、力を尽くしておられる。
 その一方、今日行われている森田療法の主流は 、本質を忘れているとは言わないまでも、入院原法から大胆に離れ、単なる神経質の治療に拘泥せず、活動の場を教育や福祉や家族や日常生活の中へと広げて、森田療法を生かす旺んな活動へと移り変わっている。それもまたよきかなである。
 つまり、森田療法の本質的なところにこだわり、方法としての入院原法を重視し、それを遵守することを大事とする古い世代の人たちの懐古的な流れと、いたずらに森田療法の過去に拘泥せず、森田療法ならではの良さを広く前向きに活かそうとする近年の流れとのがあるわけで、両者には相容れない距離があるのが現実である。今後それはどうなっていくのであろうか。是非の区別をするのではなく、両者の融合をはかるところに森田療法の今後の進展があるのではなかろうか。そのような視点から、森田療法の未来について少し私見を記してみたい。

 

 

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2. 古き良き森田療法への郷愁

 

 

 森田療法の名は未だ色褪せることなく、今も日本独自の代表的な精神療法として世に知られている。しかしその知られ方が、次第に浅薄になってきていることは 否めない事実である。巷間に知られているのは、森田療法は神経質や神経症のとらわれの病理に対して、あるがままを教えるもので、入院原法は4期からなっていたという程度の表面的な知識レベルのことである。これでわが国独自の森田療法が、この国でよく知られ、理解されているということにはならない。
 この森田療法の入院の4期の構造はどのようにして出来上がり、その造りはまた療法の本質にどのように関わるものであるのかと、根本的なことを考えてこそ、森田療法の真の理解になる。懐古派の人たちが、単に古き良き森田療法が失われていくと嘆いても、その慨嘆の中身こそが問われるであろう。

 

 

 そこで森田正馬が始めた入院療法はいかなるものであったのか、その特徴を少し掘り下げてみたい。
 この療法の4段階からなる構成については、第一期から始まるその過程の流れに妙味があるのだが、森田自身が十分に説明を尽くしていないこともあって、一般に理解されていないところがある。とりわけ第一期と第二期の意義への理解が乏しいようである。第一期は森田の言ったように煩悩即菩提であり、煩悩になりきって過ごすのである。第二期は第三期の作業に向けての転換期であり、森田は第一期での無聊から外界に関心が転じ作業への参加に向かう時期としているけれども、第二期には森田が説明を尽くさなかった意義がある。内なる煩悩を見つめていた第一期から起床して外界を眺めるときの感覚はみずみずしく、自分が生まれ変わったような新生の体験が起こりうる。これについては、宇佐玄雄が第一期を還元法と称したところにその鍵があると思われる。あえて精神分析的な解釈を導入すれば、第一期に赤ん坊のような状態にまで戻って、以後新たな自分に遭遇していく過程は、M.バリントの言う「良性退行」に相当するものとして理解できる。第二期以降には 「新規蒔き直し(新規巻き直し)」 の体験が進む。このように心機一転していく心的過程は重要である。
 こうして入院の前半の第一期、第二期を経て起こりうる新生の体験があってこそ、以後の作業三昧の生活へと有効につながっていく。
 以上のような第一期、第二期の深い意義については、森田自身があまり説いていない上に、自身が実施した経験について、森田は具体的な記録をあまり残していない。そのためもあって、懐古派の人たちの理解があまり及んでいなかったと思われるが、第一期から第二期へと進んでいく過程に、入院原法の重要なひとつの意義がある。

 

 

 ところで、森田はその療法を言い換えて、自然療法、体験療法、家庭的療法などと称したのであるが、まず、自然療法とは療法の基本をなす「あるがまま」に生きることを表すものであろう。療法の構造としては、「家庭的療法」であることが重要である。「家庭的療法」 の中に師の父性とおかみさんの母性があり、そこで見守られながら第一期から第二期を過ごして、作業の体験的生活へと向かう。これがこの療法の重要なポイントである。懐古派の人たちが大切にすべきは、森田療法のこのような造りであるはずである。第三期の作業三昧の生活も重要で、そこで師弟の関係が一層展開されるが、強いて言えば森田療法の核心は家庭的療法であるところであると考えられる。
 以上が、古き良き森田療法の特徴である。

 

 

 ただしつけ加えるなら、森田の療法を受けに来た人たちは、主に当時のインテリたちであり、森田の著書をあらかじめ読んでいて、この医師による治療を直接受けてみたいと望んで入院したのであった。こうして人間森田に出会う機会に恵まれたのであった。これは幸運なことであったが、逆に言えば読書療法の延長に入院があったのであり、神経質さを思い知らせて入院に導くという、露骨な表現を引くなら、マッチポンプのごとき道筋が敷かれていたとも言えるので、その点は気になるところである。ちなみに、第二世代の森田療法家が行った入院療法も、読書による予備知識が前提になっていたようで、入院原法には神経質の悩みを知的に深めさせてから受け入れるという手法のもとで実施されていたのであれば、そこに少し不自然な感じが残るのである。

 

 

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3. 特化と拡散の間で

 

 古き良き入院原法の伝統を重んじ、その完全に近い復活を期待する人たちがおられることは述べた通りである。その周辺には、原法を重視しながらも、今日それを厳格に再現することの困難さを受けて、現実で可能な限り原法に近い療法を実践しようと努める療法家も少なくない。その試行錯誤の努力は評価されるべきである。ただ、そこにおける成否は療法の勘所をどこまて押さえるかにかかっている。当然のことだけれども、森田療法は根本的に自然療法である。外界の山川草木の自然のことではなく、「おのずからしかある」自然であり、「あるがまま」にある様態である。それを要諦として、森田による療法は、家庭的療法というかたちをとって進められた。その家庭的療法の中に、作業への打ち込みや師弟関係での直接的な指導など、体験療法があったのである。原法に近い療法を行うにあたっては、今日ではさまざまな制約がある。その中で、原法のどこを割愛し、どこを生かし続けるか、難しい問題だが、可能性を追求することはできるだろう。
 以上のように、頑なであれ柔軟であれ、森田療法の原法を基準とする立場においては、神経質・神経症の治療は森田療法こそが純一なものであり、森田療法の対象は神経質・神経症を専一とするという、療法と対象を相互に特化する捉え方が根底にある。そこではこだわり過ぎる努力は要らず、原法の真価を見失わないことが重要なのである。
 
 これに対して、今日では森田療法をさほど厳格には規定せず、しかし森田療法のカテゴリーの中で自由な活動を行う流れが広がっている。
 それは、まず精神科領域においては、神経質・神経症に限らず、それ以外の疾患や病理にも森田療法を適用し、医療では他の診療科でも療法が生かされるようになった。もちろん心理臨床や福祉の分野でも、森田療法が生かされつつある。さらに森田療法は本来教育と深く関わっているから、教育のさまざまな面で森田療法が活かされている。このように多方面へと森田療法は広がっているが、こうなると入院原法はその跡をとどめず、療法のエッセンスが部分的に抽出され、それぞれの場に生かされているのである。それは貴重な実用的活動であるが、療法のエッセンスの捉え方の深浅が問われうる。森田療法の深みが忘れられてはならないであろう。

 

 ひとつの例を挙げる。森田療法の原法には日記指導があった。だが森田自身は日記について、「これにより患者の精神的の状態を知るの頼りとす」と述べている程度で、日記に重要な治療意義を置いていなかったようである。日記が療法により生かされるようになったのは、第二世代の療法家が講話において入院者の日記の記載を題材として取り上げて、論評を加えるしきたりを作ったからであった。この流れにより、後年外来森田療法において、便法として日記指導が活用されるようになった。そしてそれはCBT(認知行動療法)が精神科診療に積極的に導入されるようになって、日記指導はCBTと軌を一にしていることが明らかになっていった。これは、原法で重んじられていなかったものが、日記療法と呼ばれて近年の森田療法のひとつの方法として拡大された一例である。もちろん日記指導の中に療法の本質が含まれているだろうとは思うが、体験そのものてはなく、言葉によって認知を促す療法となっている。ここでは、森田から離れてなお、療法の本質が忘れられずに保持されているかどうか。療法の一部が拡大されたり、療法が拡散したりしていくとき、本質の保持は必ずや問われるであろう。

 

 このように見てくると、森田療法の原法を守り、特化をはかり続ける流れと、森田療法の拡大的な活用をはかり、従って拡散を招く流れには、まずそれぞれの内部に問題が潜んでいることがわかる。そしてそれゆえに両者が融和して補い合って進む必要があると思われるのである。

 

 

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4. ユニバーサルで、そしてパーソナルなもの

 

 

 私の知人に外科系の医師がいて、彼がこう言った。医療はユニバーサルな方向へと進んでいるが、病む患者はみなパーソナルな存在であり、医療のユニバーサル化によって患者は置き去りにされていると思うと。この彼の意見に呼応して、森田療法の視点から少し述べておきたいと思う。
 医学が進歩し、それによって医療の質が高まれば、患者はその恩恵を受けることができる。しかし医者も患者もパーソナルな人間である。医師が患者に渡すのは、単なる技術的な「もの」や「こと」だけてはなく、治療者の人間性が、巧まず意図せずして言外に患者に伝わる。医学が人間の生と死を扱うものである以上、医学が進歩しようとも、医学で解決できないことはあまりにも多い。その医学の限界をわきまえて、医師は謙虚であらねばならない。このような医師患者関係の中に森田療法が生かされるとよい。森田療法という名称など知らなくても、医師自身が森田療法的に生きていることが重要である。森田療法は神経質・神経症の療法を超えて、精神科に限らず、すべての診療科における医師患者関係のあり方へ、そして医療の枠を出て周辺のすべての分野で生かされてしかるべきものである。知人の医師の発言と同様に、自分も日頃から感じていることを記した。

 

 

 では森田療法とは。ここで改めて森田療法の本質にかかわることに触れておきたい。それは、将来へ向けて、古きものと新しきもの、そして特化と拡散というふたつの方向性が、融和していくにあたって顧慮されるべき素朴な原点である。
 人間本来の原点としてのあるがままの姿を思い起こしてみる。赤ん坊は丸裸の虚飾のない姿で汚れなき心を持って生まれてくる。いわば赤ん坊は仏のような存在である。
 その乳児にもさまざまな能力がそなわっているが、満1歳頃に見られる「やりもらい動作」は特に注目に値する。この頃になると相手を意識し、おいしいおやつを自分で独占せず、相手(母)の口に入れに行き、相手が喜ぶとそれを見て嬉しがり、今度は相手(母)が赤ん坊の口におやつをあてがうと、赤ん坊はさらに喜び、喜びの共有が相乗的に起こる。このシーンは実に感動的であり、「やりもらい動作」と言われ、発達過程の初期に見られる人間同士の素朴な共感、共生の原点のような姿である。それは森田療法で言う「純な心」に相当し、仏教的に言うなら仏性に通じるであろう。それを失わず、初心を忘れずに生きていくことが貴重なことである。しかし大人たちの人間社会は残念ながら汚れて、赤ん坊以下に堕落しており、欲望や競争や攻撃性といったみにくい行動が渦巻いているのが現実である。
 古歌にもあるとおりである。「生まれ子の次第次第に知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」。
 そんな大人社会のみにくい現実を事実として認めざるをえず(森田の言う「事実唯真」)、その中で人と苦楽を共にして生きるほかないのである。日本の社会で、かつて古老たちは教えた。「困っている人を見たら助けてやれ」、「弱い者いじめをするな」、「人に迷惑をかけるな」と。これは倫理とか道徳を説く説教ではない。人を生かすことで自分も生かされる。そういう喜びを人生経験の豊かな老人が知恵として伝えたのであった。それは森田療法と重なる。森田療法の叡知とか真髄などと、ことさらに難しく言う必要もない。古老に教えられて自分の足元を見て気づく。それが森田療法である。禅で「脚下照顧」と言うが、自分の生き方はこれでよいのだろうか、大事なことを忘れていないだろうかと、おのれを見つめ直すことが必要である。単に「あるがまま」と言うだけでは、地に足がつかない生き方になることを私個人は危惧している。

 

 

 森田療法は生活の規範などと言うような教条的なものではなく、森田療法と言う名称すらことさらに必要でもなく、人間本来の自然な生き方を忘れずに大切にしようとする靜かな動きのようなものである。地下水脈と言ってもよい。地下水は広く深く、四方八方へと浸透していくのである。それは万人にとっての生き方にかかわるユニバーサルなものであり、かつ万人にとってのパーソナルな個々の教育あるいは自己教育にほかならないのである。

 

 

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5. よみがえる森田療法

 

 

 森田正馬は俗なる人であったから、みずから創始した療法を神経質に対する特殊療法として世に知らしめようとした。確かに神経質者は生きんがために「繋驢けつ」に陥るので、そこから解放して自由に生かしめるのが森田の療法なのであった。つまり生きるためのものであった。だから、本当のところは、対象を神経質に限定する必要もなければ、療法と呼ぶ必要すらもなかったのであった。森田の教えはかなり仏教に彩られている。しかしその思想は単なる仏教の受け売りではない。「事実唯真」、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」などと教えた森田自身の言葉にその思想が凝縮されている。色紙に揮毫した言葉にも、独自の教えが躍如としている。森田療法の本質とでもいうものは、その辺から容易に知ることができる。

 

 

 かつて森田のもとで直接指導を受けられた第二世代の水谷啓二氏や鈴木知準氏らは、森田の療法の再現を目指してそれを継承なさったのであった。しかし現今においては、そのような形で療法を継承することはもはや困難である。一方、宇佐玄雄は禅僧であったから、東福寺山内に三聖病院を創建させ、禅的な森田療法を実施し、それは二代目宇佐晋一医師に引き継がれて、長年にわたって診療が続けられていた。
 その宇佐晋一先生によると、かつて天龍寺の平田精耕老師は、森田療法を仏教になぞらえて、無縁の大悲だと言われたそうである。無縁の衆生に対する仏の尊い慈悲であるという意である。治療として行われる森田療法の場には、人間としての治療者が居るし、居なければならない。仏教思想を導入するのもよいが、現実の人としての治療者の存在を問題にせずして、仏という観念的なものを持ち出し、無縁の大悲の呼称に甘んじているだけでは、森田療法から逸脱するだろう。森田正馬は血の通った、人間くさい治療者であった。森田は患者と共に生きた人だった。ときには患者を厳しく叱りながらも、治療者と患者が同行二人で進んだのであった。そのような人間的な療法であったことを忘れてはなるまい。

 

 

 入院療法の場の構造が 4段階になっていたからと言って、形式的にそれを踏襲すればよいとするのは浅薄である。しかし先述したように、かつての森田療法は、内弟子制のような師弟関係を軸とする家庭的療法だったのであり、その傘下における第一期から第二期にかけての過程で、みずみずしい新生の体験をすることができた。そんなところにこの療法のひとつの妙味があった。ここに一部を書き上げてみた森田療法の肝心なところは、今後も生かされていくことが望まれる。療法の特化をはかり続ける場合には、こだわるべきことだと思う。

 

 

 療法の特化をはかる方向においても、また拡大をはかる方向においても、捨て難い粋(すい)を共有して生かしていくことが肝要であろう。逆のことを言えば、療法の形骸的な部分にはこだわらなくともよい。守るべきを守って応用をはかれば、スリムにできるところもあろう。たとえば、物々しい建物、広大な庭や敷地は不可欠ではない。森田療法における作業は、本来森田邸宅で実生活として行われたものであった。医療行政による監督も厳しい今日、森田邸での作業を模する必要はない。医療機関内から追い出され、実社会を作業の場と心得ればよいのである。否、森田療法は究極的に療法を超越するものであるから、すべての場におけるすべての生活で森田療法的に生きていけばよい。かくして療法という枠にはまった森田療法は、本物の森田療法へとよみがえっていくであろう。