【寄稿】: 「森田正馬とウィリアム・ジェイムズ 雑感」 高頭直樹

2023/02/13

 

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【寄稿】

 

森田正馬とウィリアム・ジェイムズ 雑感

 

 

高頭 直樹

 

 森田正馬の著作には当時の欧米の最新の思想への言及が散見される。ベルクソンやウィリアム・ジェイムズなどである。こうした人々への関心は当時の知識人には共通していたともいえる。哲学者の西田幾多郎、作家の夏目漱石などにも特にこの二人の思想への言及が認められる。
 ジェイムズに関して言えば、西田や漱石が『心理学原理』に興味を示したのに対し、精神医学の専門家である森田の著作『迷信と妄想』をみると、『プラグマティズム』からの引用しか見当たらないのは不思議な気もする。また森田の関心からすれば、当時すでに邦訳も出版されていた『宗教的経験の諸相』への言及があってもよさそうに思うが、それも見当たらない。森田にとっては、ジェイムズの思想そのものには特に興味を惹かれるものではなかったのかもしれない。いずれにしろその経緯はわからない。事実として言えることは、森田がジェイムズの『プラグマティズム』からの引用を自説の展開に利用しているということであり、森田がジェイムズに「何らか」の関心をよせたということであろう。
 ところで、『プラグマティズム』は、ジェイムズの著作の中でも、特異な、というか厄介な問題を引き起こす結果となった。確かにこの著作は思想後進国であったアメリカの生んだ最初の独自の思想、プラグマティズムを世界に広め、プラグマティズムの第一人としてのジェイムズの名声を不動のものとした。その一方、「プラグマティズム」という名称の生みの親でもあり、ジェイムズに少なからぬ影響を与えた盟友パースとの決別をもたらすこととなった。単純にいえば、パースにとって、ジェイムズの『プラグマティズム』はあまりに「通俗化」された議論に成り下がってしまっているということであろう。パースはその後自分の立場を、ジェイムズとの違いを強調して、あえてプラグマティシズムという別の名で呼ぶようになる。
 「通俗化」の代表として指摘されるのは、ジェイムズの「真理論」だといわれる。バートランド・ラッセルなどは、その考えは滑稽だとさえ言って批判している(といって、ラッセルが全面的にジェイムズを否定したわけではないが)。その「真理論」というのがどういうものかというと、これも通俗的な言い換えになるが、「われわれにとって真理だということは、われわれにとってそれが有用だということだ」ということになる。これは哲学の伝統的考え方からすれば、とんでもないことだと受け止められた。「真理」とは、およそわれわれにとってとか、われわれがどのように考えるなどという「主観的」問題とは、まったく関係のない概念だと考えられて来たからである。それゆえ、ラッセルにいわせれば「滑稽」ということになったわけである。
 ちょっとまどろっこしくなるかもしれないが、ジェイムズの名誉のために言っておくと、この問題について彼自身が言っていることをこのような単純な形に言い換えること自体がそもそも問題だということが、近年の議論では盛んに指摘されており、むしろジェイムズの議論を積極的に評価する立場も多くなっている。特に彼の「保証された主張可能性」という概念は、パースの「究極的な意見の収斂」と共に、プラグマティズムの真理論の核心をなしている。いかなる判断もその可謬性を受け入れ、十分な時間をかけて議論の結果受け入れられるものこそが、「当面」(なぜなら、それもまた誤っている可能性を持っているわけであるから)の「真理」として主張可能だというのである。それゆえ、ジェイムズは別のところで真理とは「思考の運命」だとも呼んでいるのである。
 ただ、確かにジェイムズの議論の中には、「真理」とは「有用性」なり、と言っているように受け止められかねない側面もある。これは、ジェイムズ自身ある意味では意識的に、それまでの伝統的哲学への挑戦として、『プラグマティズム』を発表したからである。彼にとって、哲学に本来期待されることは、単なる知的な抽象的議論だけではなく、「われわれの限りある人生というこの現実世界に何らかの積極的関連」を持ちうることに他ならなかった。「知的な抽象的議論」と「経験的世界の具体的行動」とか、さらには科学と宗教とかを対立させる二元的発想に対し、ジェイムズはその連関を強調する「全体論」的考えを主張している。それゆえこの著作の副題には「ある古い考え方(哲学)のための新しい名前」と記されているのである。『プラグマティズム』の中で、特に森田の興味を引いたのもこうした「連続性」や「全体性」、あるいは直面する現実的経験での有用性を真理とするジェイムズの議論だったのであろう。森田がジェイムズの議論を正確に理解し得ていたかどうかは分からない。ただ、この著作の中に二人が出会う「何らか」のものがあったのであろう。
 蛇足ながら付け加えれば、ジェイムズは精神の不安定に悩み苦しみながら生涯を送った。特に青年時代、そのために一時学業を休止せざるを得ない事態にも陥っている。そうした苦しみからの解放を求めてか、あるいは神秘思想家スウェーデンボルグの信奉者であった父、ヘンリー・ジェイムズ・シニアの影響か、超常現象、神秘的体験などにも強い関心を示した。森田はジェイムズの著作に接したとき、ジェイムズのそうした苦しみや趣向に相通ずる「何らか」を、ジェイムズのそうした問題を扱った著作を読むまでもなく、直感したのかもしれない。ただこれはあくまで、私の「妄想」である。

 

 

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【著者について】高頭 直樹(たかとう なおき)、哲学
兵庫県立大学名誉教授、京都森田療法研究所客員研究員

 

 

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【解説】

 当研究所では、哲学界の重鎮である高頭直樹先生を、以前から客員研究員としてお迎えしています。東西の哲学について、その歴史から現在までに広く深い造詣を有しておられます。森田療法についてもその過去、そして現在を、東西の両視点から哲学的なメスで捌いてみせてくれる最適の学者なのです。森田療法については、「森田正馬の雅号『形外』の意味について」の学会発表を連名でおこなったことがあります。
 また、高頭先生がこれまで関わってこられたいくつもの研究対象のひとつにウィリアム・ジェイムズがあります。森田正馬は、ウィリアム・ジェイムズをたびたび引用していますが、森田とジェイムズについての本格的な論考は、調べた限り見当たりません。そこで、森田正馬とウィリアム・ジェイムズの関係について論じてほしいと依頼しました。そしたら、重い腰を上げて起草してくださったのです。しかし、「森田とジェイムズについて書いてくださったこの一文は、注目されるところとなります」と私が言った途端に、「注目されると困る」とおっしゃり、カタツムリが角を引っ込めるように、文章を削ってしまわれたのです。残念なことに、ここに公表できたのは削られた鉛筆の芯のような部分のみです。削っていかれる途中で私にくださったメール文の中に書かれた、削る人の弁が残っています。そこで、高頭先生には事後承諾をお願いするとして、それを以下に引いておきます。ただしこれは、森田とジェイムズについて私が持ち出した拙い問題提起に対するご意見でもあります。

 

 「ジェイムズの例の二分割(軟心と硬心)は、彼なりの伝統的思想の整理という文脈で読めます。その整理には細かいところで、いろいろ問題はあると思いますが、ともかく彼はこうした二分割では駄目だと議論を進めているのだと思います。
 正直、ジェイムズの議論を簡単に説明するのは私には無理です。せいぜい真理論をどう解釈するかと言うような問題を、まとめるくらいです。それも、「理想」に書いたように、パトナムの議論を借りながらぐらいです。
 パースとなると、また大変です。ほとんどは未発表の原稿のようなものですし、個人的にもジェイムズ以上に変人でしたから!
 パースの中には、すべてが語られているとも言えますが、手を出したらきりがないということにもなると言われています。」

 

 ジェイムズに対する森田の思想は、二元論の暫定的受容や二元論から離れていく主客未分の一元論になったりする点で、ジェイムズと異なりもし、一致もするのではないかという私の問いがありました。また「真理論」については、森田が多分に依拠した仏教思想における真理との異同について述べて頂きたいとも願いました。しかし、高頭先生はこれらについて深入りするには慎重な態度を取られました。ジェイムズの哲学の側から先頭を切って森田の思想を論ずることを控えようとなさったように思います。
 諸賢におかれましては、ご意見を高頭先生にぶつけて、高頭先生の森田-ジェイムズ論をもっと引き出して下さい。
(解説 : 岡本 重慶 記)