森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第3回)―療法に組み込まれた治療者の奇行―

2022/08/13

 

乳母車の森田正馬

 

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1. 前説

 

対談形式をとった本稿のシリーズ第2回の掲載から、久しく時間が経過しました。第2回までにおいて、森田正馬自身の生涯に発達障害、とりわけADHDの特徴が認められたことを指摘し、それが療法の創造に関わったことを述べたのでした。
私たちは、森田を過大評価も過小評価もしたくありません。従来の評価のしかたの中にあった問題に疑問をもち、それを洗い直した上で再評価したいのです。森田の教えの中核の部分の秀逸さを否定するのではなく、従来いたずらに森田を盲信し神格化して虚像を見ているところがあったようなので、それを見直しています。実像は、人間愛に加えて、奇行と無頓着な面のある人だったのであり、その奇行と無頓着さの由来するところは、発達障害、とりわけADHDであった、ということが第2回までの到達点でした。
大原健士郎氏の説では、森田の神経質を部分的に否定しながら、その置き換えの診断を欠いているところがあり、そこを埋めるのが私たちの作業だったのです。

森田は自称神経質で、神経質の治療に関心を持ちました。しかし、その行動は、石橋を叩いても渡らないような神経質者のそれではなく、ADHDに特有の探究と執念によって、療法を創造したのです。
このような森田療法の創造者、森田は、療法を創った森田と療法を使った森田に一応分けることができて、第2回までに取り上げたのは、療法を創った森田の方でした。一方、使った森田、つまり療法の構造の中に自らを組み入れ、治療者として療法を推進した森田がいました。それは療法の創案という地平を超えて、療法の構造の中にいて生身の治療者として患者と関わった森田です。この治療者、森田の場合においても、実にこのADHDらしき奇人ぶりと、独特の奇行が治療的効果を上げたのではないかと考えられるのです。

 

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私たちの対談原稿を第3回にまで延長したのは、そのためです。森田正馬という人の性格や愛すべき人間味のすべてが、発達障害に彩られているなどと、もちろん私たちは思っていません。しかし、奇矯な言動や風変わりだった挙措など、ADHDと考えると腑に落ちるところが多々あり、しかも、それが神経質の治療に役立ったことを凝視してみようと思うのです。こうして、森田のADHDの特質は、療法の創始に貢献したのみならず、その奇人ぶりが神経質の治療に適合したことを明らかにすれば、森田正馬の病跡にダブルの結論が出るのではないかという見方をしています。
このダブルの後半への着想は、対談者のふたりのうちの杉本二郎様に負うところ大で、杉本様に対談を引っ張ってもらおうとしたのでした。それで、対談原稿を準備するため、水面下で大いに熱のこもったメール交換を2カ月ほど続けましたが、そこで両人は、やや燃え尽きました。討論し過ぎた感あり、対談の形を留めて圧縮するのが難しく、要約化して、岡本の文責で文章化することになりました。対談の成果であることに変わりはありません。

 

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2. 猫を殺した少年M

 

話は遡ります。
私は、中学生のときに猫を殺してその解剖をした人物を3人知っています。ひとりは、誰しも知っている神戸の少年Aです。いまひとりは、かなり以前に勤務していた精神科病院の外来で診察した、当時中学1年だった少年です。小学生のとき、学校の理科室の戸棚に保管されていた青酸カリを持ち出し、校庭の池に撒いたら鯉が全部死んでしまったという。学校の劇薬管理のずさんさに驚いたが、とにかく動物を殺害する行為はその後エスカレートし、最近は猫の生体解剖をしたというのでした。外見はニコニコして可愛い少年でした。入院させたら、激しい幻聴と独語が起こり、統合失調症と診断しました。軽快退院したが、十年後に自ら命を断ってしまいました。
もうひとりは、誰あろう、明治時代に中学生だった高知の少年M、森田正馬の十代のときのエピソードです。

 

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私たちがここに掲載している森田正馬の病跡の記事を、南條幸弘先生がお読みくださって、ご自身のブログ「神経質礼賛 1988 神経質? 無頓着? (森田正馬 ADHD説)」にコメントをお出しいただいています。南條先生もADHD説を肯定的にとらえて、中学生時代に森田が猫を撲殺して解剖した挿話を追加的に紹介なさっているのです。
南條先生のブログ文の一部を紹介します。

「現代の精神医学からすれば、森田先生ADHD説は有力な考え方になるだろうと思う。私が森田正馬全集の中で気になったのは、第4巻・通信指導の中にある次の記述である。」

そして引き続き、第4巻・通信指導の当該箇所を引用なさっていますので、南條先生の引用を再引用します。

 

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「(猫いらずで猫を毒殺して以来怨みを恐れる人からの手紙に対する森田の返事)
猫を殺すとか蛇を殺すとか言ふ事は、恐ろしさに、悩まれる事の多いものです。それは、昔から、種々の怪奇的・講談的・迷信の言伝へがあるからです。
小生も昔、中学時代に、猫を殴り殺して、解剖的研究をなし、其の後猫は祟るといふ言ひ伝へに、長い間恐怖した事があります。
常識的・或は科学的にはそんな事はあるべき筈はないけれども、迷信といふものは、中々人の心をおののかすものです。それが迷信の迷信たる所以であります。…」(森田正馬全集 第4巻 pp.420-421)

南條先生のコメントはさらに続くので、それも引用します。

「現代ならば重大事件の「少年A」と同様にみられてしまう恐れがある。当時は今ほど動物愛護の概念はなかったであろうが、猫を殴り殺して解剖するのは尋常とは言い難い。思い付きで突っ走ってしまった行動だろうか。このエピソードもADHD説で説明できるかもしれない。もっとも、ADHDであったとしても(森田)神経質は別の視点からの人間理解であり、それが否定されるわけではないし、森田先生の評価を下げるものではなく、神経質に加えてADHDも活かした人生を送られたと評価することができるかと思う。」

 

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中学生時代から「変人にして剽軽者」の特徴を発揮しだした森田だったが、猫を撲殺して解剖したのは、変人や剽軽では済されない異常な行為でした。やはりADHDとして理解せざるを得ない行動でしょう。しかし、そんな残虐な行為の経験を経て、森田は命への畏敬に目覚めていきます。療法家になった後年の森田は、医院で飼っていた兎が犬に噛み殺されたとき、言い訳をする世話係の患者に対して、殺された兎を可哀想と思わないのかと叱る、憐憫の情の厚い人でした。
思春期以降、森田の変人、奇人ぶりも成長し、変遷して、奇行が療法に溶け込んでいきます。その流れを追っていきたいと思います。

 

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3. 森田正馬における奇行―ADHDの人として、人間として―

 

『世界変人型録』(ジェイ・ロバート・ナッシュ著・小鷹信光 編訳、草思社、1984)という稀書があります。 この書には、「奇人憲章」として、奇人と認められるための六つの条件が示されています。それをざっと紹介すると次のようになります。

1) どこか人に愛され、畏怖される人間である。
2) 奇人は、生涯を通じて奇人たる人である。
3) その奇行は一時的でなく、日常的に行われる。
4) 奇人は夢見る人である。
5) 奇人は、その行為によって社会に強い衝撃を与える。
6) 奇人の行為は意図的でなく、自然体の中で遂行される。

森田正馬という人を、ここに示された奇人の6条件に照らしてみると、かなりの点で適合していると言えそうです。森田療法の世界に限らず、洋の東西を問わない文化の中で、奇人として認知されるような人間群像の中に入るかもしれません。

発達障害の臨床研究を専門となさっている岩波明医師は、ADHDの特質をそなえた人たちが、文化人類学の分野で注目されてきた「トリックスター」の役割を現実においてしばしば演じ、社会の閉塞状況を打ち破る活動をしていることを指摘しておられます。トリックスターとは、本来「道化」にあたり、世界の既成の秩序を破壊して、新しい活路を切り開く文化創造的な英雄や装置のことです。
先ほど示した奇人の6条件の中に、「社会に強い衝撃を与える」ことも挙げられていることを顧慮すると、ADHDが「トリックスター」に通じるという特徴は、奇人という見方と重なってくるのです。さらに森田正馬においては、奇人ぶりや、その奇行が、療法の中に必要な生(なま)の装置として、患者に治療的に影響を与えたと考えられます。森田のトリックスター性については、後述します。

 

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さて、森田の奇行については、従来、エピソードとして周知されており、また治療的見地からも、意表を突くような指導の仕方として知られながら、あまり深く論じられてきませんでした。
岩田真理氏は著書『森田正馬が語る森田療法』(白揚社、2003)において森田の奇行を取り上げ、その中で述べておられます。神経質者は他者の評価や視線に沿って行動しようとするが、「彼(森田)の奇行の大部分は、他者の視線よりも自分のニーズに従うところから生まれてくるものだったろう。その意図は「先生」の思いがけない行動から受ける衝撃とともに、確実に入院生に伝わったのではないだろうか」と。それは、人からエキセントリック(奇矯)と見られようとも、自分の欲求や必要に従って素直に行動した自然な姿にほかならず、それは、非常識だったと断ずることはできません。このような奇行の例として、晩年の病身の森田が、必要に迫られて考案した身体的移動手段などがあり、言わば、当を得た奇行として理解できます。乳母車に乗ったのも、その一例です。

一方、井上常七氏によれば、「森田の指導は形式と画一を戒めたのが特色であるが、時にはその必要も認めた」のでした。「バイブルが有り難いのではない。その教えが尊いのだ。バイブルで鼻をかむこともできるが、人前ではやらない。信用を失うから。社会のきまりを無視することも出来ぬものだ。」と教えたそうです。ここには、意外感はあるものの、現実の社会的常識に従って、奇行にも節度を示した一面が窺えます。(森田正馬評伝 月報、昭和49年5月)

 

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しかしながら、説明や理解の困難な奔放さが奇行の奇行たるゆえんである、と言うこともできます。そこで、森田にみられた奇行の全容を改めて対象にして、それらの奇行の発生について、人間森田の性質とともに、ADHDとの関係も視野に入れて、便宜上類型化して、理解を試みたいと思います。

1) 天性のような奇行(ADHDとの関係が濃い)
2) 遊戯的な奇行(自身の性格+ADHD)
3) 合理的な奇行(ニーズや欲求に従う)
4) 実生活を見せた奇行(生身の治療者として)

ここでは即興的に分けてみたので、絶対的な分類と言えるかどうか、やや無責任ですが、ともあれ森田の奇行についての以上の4分類に少し説明を加えます。

 

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1) 【天性のような奇行】

これは、ADHDの表現形とみなしてよいような行動の数々です。
目立つものとして、中学時代に猫を撲殺して解剖したことや、大学生の時に、ハッピを着込み、鑑札も持たずに車夫の真似事をして東京の公道を走るというむちゃなことをしたのは、ADHDの行為でしょうが、医師になる前のことでした。その後も森田の行動は、無邪気、児戯的で、好奇心の赴くままに手を出し、ときにはむきになってはまってしまうのでしたが、そんな行動はADHDとの関係が濃厚です。たとえば、懐中時計を入手して、それを自慢にしていたエピソードはよく知られています。この時計は本郷の時計屋に見本として出してあったものでした。森田家に仕えていた田原綾氏(看護師)は、次のように書き残しています。
「(森田は)この時計がほしくて譲ってくれるよう懇願したが、これは見本だからどうしても駄目だと言うのを、何回も何回も言って求めたものです。外出の時など電車の中でゆうゆうとポケットから出して、人目につく様に見せ、車中の人が大笑いするとうれしそうにニコニコしながら、しまわれた時計です。これには、はずかしくて一緒に行くのをいやがった患者や、ついて行くのを逃げ出した人など色々エピソードがかくされています。」(三島森田病院ホームページより)
このように森田は憎めない人でしたが、短気で癇癪を起こす面もありました。何事かに耽ってしまう面と、その反面で注意が及ばない面もあったようです。病身なのにアルコールに依存気味になったり、愛児に結核を移してしまって不注意に泣く森田でしたが、そんな欠点だらけで生きている「先生」の必死さが、患者たちにじかに伝わったのでした。

森田がよく教えた自作の標語に次のような言葉があります。
「休息は仕事の中止にあらず、仕事の転換にあり。」
私は以前からこの言葉を理解しかねていました。これは森田一流のものとみなせば、わかってきます。皮肉な理解ですが、ADHD的な行動の自在さを肯定しているのかもしないし、あるいは、随時注意を転換する必要性を指摘して、ADHDを自戒しているのかもしれないのです。

 

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2) 【遊戯的な奇行】

これは日常的によく見られたもので、遊び心に富む森田の性格をベースに、ADHD的傾向も加わって、ユーモラスな味わいのある様々なエピソードが生じました。
医院の玄関に貼った「下されもの」の壁紙はその一例で、気の利かない神経質者への端的な教えとして合理的でしたが、一種の遊びだったと思われます。「下されもの」の貼り紙には内容の異なるいくつかのバージョンが用意されていたようで、その中には、「貰って困るもの、一、鮮魚、…」と書かれていたものがありました。鮮魚は有り難迷惑の筆頭です。笑ってこれを読み、応用を利かせることが必要なのです。この鮮魚バージョンの続きには、「貰って結構なもの、一、現金、…」とあり、医院の外来を受診した患者さんがこの貼り紙を見てうんざりしたという話が伝えられています(高橋毅一郎「閑話休題」、日本医事新報、第2190号、昭和40年4月16日)。森田劇場に入って来た外来者が、玄関の貼り紙を見て度肝を抜かれたのも、笑い話のうちです。
ちなみに、写真として残されている「下されもの」の記載は、やはり遊び心で書いたに相違なく、内容に矛盾があります。対談者の杉本二郎様も、その点を指摘しておられます。
「困るもののうちに果物があり、困らぬもののうちに「りんご」が入っている。うれしきものの中にチョコレートが入っているが、これは困るものの菓子ではないのか。女中に反物などは、商品券を使って購入できるので、商品券も必ずしも困りものではないはず。要するに書いてあることがバラバラで本気で人に伝える目的で掲げたのではないと思う。ブラックユーモアになっている。」と。
形外会で、率先して余興を披露して、自分が楽しみ、かつ一同を喜ばせたことなども、この種の奇行ですし、ひいては、精神分析の丸井清泰と論争を展開して学会を森田劇場にしてしまったのも、スケールの大きな奇行でした。

 

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3)【合理的な奇行】

森田の奇行は、自己の欲求に素直に従った行動として理解できるものが多く、その点は岩田氏のご指摘があるので、既に紹介しました。そのような奇行は、合目的的な行動であり、動機の合理性への注目があります。付け加えるなら、人目には恥ずかしくても、恥ずかしいままに異様と見える行為をなした、その自然服従的な態度に、弟子たちは教えられたのです。

 

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4)【実生活を見せた奇行】

森田は、生身の姿で身をもって弟子に教える治療者でした。
昭和12年に森田が悪性大腸炎になり、慈恵付属病院に入院したとき、見舞いに行った「最後の弟子」中川四郎氏は、森田が洗腸を受けるところに出くわしたのでした。急いで病室を出ようとするのを森田は呼び止めて、勉強のために見ておけと言ったのです。中川氏は、「私はただ恐縮して、古閑先生が洗腸される森田先生

の臀部をくい入るように眺めていた」と記しています。(『形外先生言行録』)。さらに中川氏は書き加えています。「先生のお宅の治療的雰囲気は森田療法の何たるかを教えてくれたとともに、先生が身をもって示して下さった学問の厳しさは、その後の私の一生をたえることなく鞭打っているのを覚える」と。(同書)。弟子の勉強のために自分の洗腸を見せたという、これほど厳粛な奇行があるでしょうか。

また、森田は自宅で入院患者と共に生活をしながら、風呂焚きや飯炊きのみならず、便所の肥汲みもみずからおこないました。水谷啓二氏は、入院中の日記に、掃除や風呂焚きをしていた森田が話してくれたことを書きとめています。「自分は君等に手本を示すためにゴミを整理して燃やしているのではない。気になって、掃除せずにいられないからやっているのである。之が最良の手本になる。手本を示す事を目的として、事をなせば、必ず本当の手本にはならない」との言葉に、水谷はなるほどと頷けたと記しています。(「入院患者の日記から(二)」、森田正馬全集 第4巻、p.157)。
森田が患者たちの目の前で、本物の夫婦喧嘩をして、「どちらが正しいか言え」とその場にいる人たちに迫ったという挿話もあり、手本を示したのではないという意味では最も説得力があります。
そして死期が近づいたとき、森田は「死にたくない」と言って泣き、「凡人の死をよく見ておきなさい」と悲痛な態度で言い、自分の死に方をも弟子たちに見せながら逝ったのです。

 

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奇行は、奇人と言われる人の行動を部分的に切り取ったものです。そこで森田の奇行をさしあたり類型化して諸相を描写し、それらが患者に対する直接指導において、ときには意外で、ときには感動的で、大きな効用があったことを示しました。それらを見れば、森田自身の奇行が療法の中におのずから組み込まれていたことがわかります。つまり、生身の治療者の存在が暗黙のうちに仕込まれており、だから「森田療法」なのかもしれません。人間森田への興味が尽きないところです。
その森田は、自宅を開放して治療をおこなっていたので、私生活と療法はつながっているひとつのものでした。ですから、生活者であり治療者であった森田のことは、多くの人たちによって知られ、そして語られてきました。とは言え、その大半において森田を伝説化する語りの側面や、オマージュとしての讃辞の側面があります。素顔に肉迫する資料が必ずしも出揃っているわけではありません。

 

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4. 方程式のない療法―「旧形外会人の座談会」より―

 

森田医院に入院した経験者(旧形外会会員)の人たちが、森田のことを語った座談会の記録があります。
昭和43年12月1日に「第41回東京雑談会」が鈴木診療所で開催されました。出席者の大半は鈴木診療所の関係者、つまり元入院生(鈴木学校OB)や当時の入院生らでしたが、外部から旧形外会会員の方々が数人参加されました。「東京雑談会」の終了後、当日来席した数人の旧形外会会員を囲んで、鈴木学校OBとともに忘年会が開かれました。旧形外会のメンバーは、山野井房一郎、林要一郎、河原宗次郎、亀谷勇、中原武夫の5人だった模様で、この人たちが多く発言した部分が、鈴木診療所発行の「今に生きる」誌の翌、昭和44年4月号に、「旧形外会人の座談会」と題して掲載されたのです。少人数ながら、旧形外会人が自由に回想を語っておられるので、非常に貴重な記録になっています。

まず山野井氏がこう述べています。「先生は、わしは目下の者には強くあたる。これはと思う目上の人とか、利害関係の強い人にはへつらうと言われたそうです。そこで日高さんが、それでは道徳に反するじゃありませんかと質問したところ、「お前はまだ分からんか、そんな風だから治らないのだ」と一喝されたそうです。…「これがわしの本当の気持だ」とこう言ってお教えになったというわけなんです。」 山野井氏が紹介したこのような話は、教えの真髄に触れていますが、形外会での説教的な指導と軌を一にしています。
この座談会の、より重要なところは、森田の指導が自分たちに与えた強力なインパクトが、出席者たちからそれぞれ直截に語られていることです。亀谷氏の発言に、「森田の指導には方程式というものがない」という表現があり、一言にすれば、「方程式のない療法」だったと言えるのでしょう。以下、森田の指導についての出席者たちの主な発言を、抜粋して紹介します。

 

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亀谷 :
先生は弟子を指導される時には、お医者さんであろうが、われわれ一般患者であろうが区別なくその場で指導されたですね。
山野井 :
時と処と人とを問わず、森田先生は教えられましたね。
中原
亀谷さん、森田先生の旅のお伴をして帰ったら、病気になって寝込んだというのは。
亀谷 :
それは気が疲れますからね。
鈴木知準 :
とても細かく意識が動くんです。追いつかないんだ、われわれが。
亀谷 :
どこで先生に叱られるか分からないんですよ。汽車の中で言うし、自動車の中で言うし、或いは店先でも言うし、もうへまなことをするとすぐその場で叱られるんです。
鈴木 :
亀谷君が叱られやすかったことは、それは非常に先生が亀谷君に親しかったからですよ。遠慮する人には言わんですね。
亀谷 :
先生はやはり自分の側の者で叱りやすい者と叱りにくい者とがあるということを、ちゃんと計算していましたね。
林(発言要約) :
先生は非常に人の心の機微をみておられた。病人を見舞いに行っても、正直に言いながら、細かい心遣いをせよと教えられた。それじゃどうするんですかという質問は禁句だった。その時々の感じから出発するということだった。
亀谷 :
煎じ詰めれば、その感じから出発したことが、いわゆる小笠原流なりその礼法に叶うということですね。
林(発言要約) :
細かいというか、鋭いというか、難しい顔をして所かまわず叱った。一緒に作業している時にぽかっと言う、食事をしている時にぽかっと言う。受ける方にも機会があるので、それを聞いて掴んでおくと得をする。
鈴木 :
先生は、その時聞き入れられるような人に対して言っているんで、言ったって感じないような人には言わないですよ。
亀谷 :
森田の指導には方程式というものがないわけです。
林 :
ごちゃごちゃ引っ張り廻されるという感じが非常にしましたね。
鈴木 :
変わるというのは場合によって変わるんですから、つかみにくいんです。先生はテンポが早くて入院生の方はわかりませんね。
亀谷 :
森田先生の教えってのは、是非、善悪、正邪、そういうものから超越しているでしょう。ですから結局、何がなんだか分からない時もありますね。
鈴木 :
親鸞あたりにしても、道元にしても、宗教者ってのは皆そうですね。
林 :
作業療法には、先生は最も重点をおかれて気合いが充実していましたね。
山野井 :
昭和四年、私どもが入院した時は、肥汲みをなさいましたものね。

 

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旧形外会人らの発言から伝わってくるのは、彼らは入院して森田の生活態度に学び、森田から直接指導を受ける体験をしたいという念願を動機として入院したということです。そのためもあるのか、発言は治療者としての森田の言動についてのことが中心になっています。森田の家庭生活のことはほとんど触れられていませんが、ひとつだけエピソードが語られているので、紹介しておきます。

「亀谷 :
先生と奥さんとが一緒に出るときにはタイミングが合わないで大変だったですね。車が玄関へ来てるでしょ。先生は帽子をかぶってステッキを持って、一生懸命、玄関で貧乏ゆすりをしているんですよ。奥さんは車が来てからお茶漬けを一杯食べてそれから出るんですね。そういう時はこっちは中に入って気が気じゃなかったですね。」

貧乏ゆすりと言えば、ADHDの人によく見られる動作ですが、いちいちそのように結びつけなくともよいでしょう。森田らしい姿が目に浮かんできます。

 

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さて対談者らが口を揃えて語っているのは、森田はその指導において、叱る人であり、その叱り方がいかに厳しかったかということです。療法の中では森田の独特の奇行が機能していたことを、私たちは知りましたが、奇行の主たる奇人の深い人格描写をこの対談の中に見ようとすると、その期待は外れます。患者とともに遊戯三昧を楽しんだ森田と厳格だった森田は同一人なのですが、座談会は厳しかった森田の方を語る雰囲気に流れてしまっているのです。
ともあれ、いつでも、どこでも、何かにつけて弟子たちに対して、事細かく、せわしく、口やかましく叱りました。言わば叱り魔です。どうやらこれ自体、一種の奇行であり、奇人の所行だったのではないでしょうか。
しかし森田は、厳しいながらも叱れば感じ取るような相手には言うが、言っても無駄な人には言わないというふうに、案外人を見て叱っていたところがありました。釈尊は人を見て法を説きましたが、森田の場合もそのような姿勢での「対機説法」だったのです。厳し過ぎるところに持ち前の短気も重なった叱りをされるとたまりませんけれども、厳父森田の中には慈父森田も潜んでいたのです。基本的に人間好きであり、神経質者をいとおしみながら、体験させる療法を熱心に推し進めていました。その中での叱り魔ぶりは、森田の裏返しの人間愛だったと言えるでしょう。

 

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ここに掲げた対談とは別に、杉本二郎様から聞いた話を付け加えおきます。それは堀滋美氏が入院なさっていたときのエピソードです。
「大学の講義について行くとき、堀滋美氏がハイヤーを呼びにやらされ、この堀氏は吃音恐怖でなかなか言葉を先方に出せなかった。そこで水谷啓二氏に頼んで呼んでもらった。すかさず森田は堀氏を外し大学の講義に連れていかなかった。裂帛の気合いです。一秒もかからず「君、もういい」です。堀氏は二階に駆け上がり泣いたといいます。そして、それを機に心が開けてきた、と言っています。」
こういう叱り方を、森田はごく自然にできる人だったのです。厳しいが冷たいとは言えない、心の転回へと相手を導く叱り方でした。

 

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【第3回もなお未完で、次回に続くの弁】

神経質を自認していながら奇行の人であった森田の病跡に私たちは注目して、ADHD圏の人であったということを、本稿のシリーズの前半で指摘しました。しかしADHDという診断をもって森田の病跡は完結されるべきものではありません。森田ならではのADHD的な奇行は、治療者自身の生身のかかわりとして、入院療法の構造の中に組み込まれていた事実に目を向けるところに森田の病跡学の第二の意義があると捉えています。そして、それについて述べつつありますが、まだ論じ尽くせていません。
ただ、念のためここで少し述べておけば、奇行を治療構造の一要因とみなす時点で、われわれは奇行を病理として差別化する思想を超えています。病理性を認めながら、病理性を問題にしません。奇行が、もしくはADHDが神経質の療法の中の必要な要因へと、如何に止揚されていったのか、そのことが問題です。それをもう少し考えねばなりません。

そこで、この第3回で一旦ポーズをおき、さらに次回(第4回)を設けて、「ADHDが森田療法になるとき」について論じて、このシリーズの終止符をそこまで延ばしたいと思います。

 

(第3回 了)