森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第2回)―見られるADHDの特徴―

2022/04/22

 

 

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1. 大原健士郎氏の説

 

岡本:

森田正馬の病跡に関する文献は非常に少なく、かなり以前に大原健士郎氏が、日本病跡学雑誌に「森田正馬の病跡」について書いておられたと記憶しますが、杉本様は大原氏の著書の中で森田の病跡についての論考をお読みになったそうですね。

それをご紹介くださいますでしょうか。

 

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杉本:

大原は、著書『「不安と憂うつ」の精神病理』(講談社、1996)で、森田は森田神経質であったことが定説になっていて、高弟の高良武久も「完成された森田神経質」であったと回想していると述べながら、大原は疑問を呈しています。「正馬の母親はどちらかというと、クレッチマーのいう循環気質で、何度となくうつ病を思わせる状態になったことがあること、父親は下田光造のいう執着性格だったこと、森田自身も森田神経質によく見られるいじけた点がなく(…中略…)、ユーモラスでおちゃめな面が多く、自分本位でなく、対他的配慮が目立ったことなどから森田神経質というより執着性格ないしは循環気質だった可能性も強い」と。

長い間私は、森田は当時神経衰弱と言われ、その治療法もなかった時代に、自分も神経質性格だったので、その治療法を完成させるのを生涯の目的として、あらゆる治療法を試し、ついに独創的で画期的な森田療法を発見したのだと思っていました。それがどうも違っていたようです。

こんなエピソードがあります。

館野健という方が医学生の頃森田の家に下宿していたのですね。大学卒業試験の準備をせねばならない時期に、館野は声楽の勉強をしていて、夜、庭に出て発声法の練習をしていて、二階の森田の病室( 病で臥せっていた )までとどいてしまったのです。

館野はこの大切な時期に発声練習などして叱られるのではないかと思ったら、森田は「君は声楽をやっているそうですな。僕も試験勉強中に三味線を習ったことがあります」と。

そしてまた、「何にでも手を出しなさい。僕の療法も西洋医学の療法といわず民間療法といわず、あらゆる療法に手を出してやってみた結果、自然にできたもので、はじめからつくりだそうと思ってやったことではありません」と言い、また「僕ははじめから(森田)療法を作ろうと思って努力したわけではない。何にでも手を出していろいろ興味にまかせてやっているうちに偶然(森田)療法を発見したに過ぎない」と言ったとも。

そして館野は「幸運の女神がほほえまなければ、森田先生は一介の無名の変わり者の町医者として一生を終えられたかも知れない」と述べています。(『形外先生言行録』より)

 

普通われわれ神経質者は、一流の大学へ入学したい、ぜひ弁護士になってみたいなどとある目的を持って計画を立て、綿密な予定表の通りにならなかったり、ある困難にぶつかってそのあげく煩悶したりして神経症症状を強めていくというパターンが多いのではないでしょうか。それと森田は随分違いますね。

もっとも、人の性格は一色にすべて仕分けできるものではなく、いろいろな要素が絡みあっているでしょうし、成長するにつれ各要素の消長も出てくると思われますが、森田のエピソードや行動をみていくと、森田は神経質性格だけではなく、何か強烈な変わった性格の持ち主だったと考えざるを得ませんね。

 

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岡本:

大原健士郎の著書『「不安とうつ」の精神病理』に出ている森田の病跡について紹介して頂きました。まず森田の父は「執着性格」で母は「循環気質」であり、森田は神経質というより執着性格ないし循環気質だった可能性があるという大原氏の説ですね。そろそろ森田の病跡を本格的に論じていきたいと思います。森田は自分の若い頃、試験前でも三味線の練習をしたことがあるから、何にでも関心を持ちなさいと館野氏に言ったというエピソードも出してくださいましたが、この話の読み方は難しいです。病跡学的な検証はまず良し悪しの価値観をまじえない客観的分析から始めねばなりません。ここでは森田を讃えている館野氏の発言の中で、若き日の森田はさまざまなことに好奇心を持って手を出した人だったというエピソードを頂いておきます。

さて、森田の病跡学に関する文献としては、同じ大原氏によるものがいくつか出てきます。そこで、大原氏によるそのような文献をまず以下に列挙して、次に説明を加えることにします。

 

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① 「人間「森田正馬」と森田療法」. 『森田療法―理論と実際―』, 精神科 MOOK No.19. 金剛出版, 1987

② 「森田正馬の病跡(Ⅰ)―森田の性格特徴と森田療法の起源―.日本病跡学雑誌 37号,1989

③ 「森田正馬の病跡(Ⅱ)―土佐の女性(はちきん)と家庭的療法―. 日本病跡学雑誌 37号,1989

④「森田正馬の人と業績」.『森田療法』,目でみる精神医学シリーズ―3,世界保健通信社,1990

⑤「森田正馬の病跡―その生き方と治療論―」,日本病跡学雑誌, 46号,1993

⑥『「不安と憂うつ」の精神病理』,講談社, 1996

⑦『神経質性格、その正常と異常―森田療法の科学』, 講談社, 1997

⑧『神経質性格、その正常と異常―森田療法入門』,星和書店,2007

 

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このように大原氏による、森田正馬の人物誌や病跡についての著作がいくつも見られます。ただし、内容は重なり合っている部分が多いので、それをざっとまとめる形で紹介します。

まず大原氏は、正馬の両親について、性格特徴を明らかにしようとしています。

正馬の母の亀は、結婚歴があり、別れて森田家に戻っていましたが、父の正文は21歳のときに、地元の郷士、塩井家から入り婿として来て、4歳年上で再婚の亀と結婚しました。婿として来るまでの20年間のことは、「我が家の記録」にも一切記されていませんが、正文は森田家に来て、慣れない農作業に独力で従事しました。誠実な正直者で、独立独歩の精神が旺盛でした。井戸を掘ったが水が出ないので、かなり遠くの丘の麓に清水の溜池をつくり、そこから家まで土管を敷き、7年をかけて水を導入したという逸話があります。熱中したらそれ一筋になるようでした。養蚕をしていて、病んだ蚕を観察し出したら、他の作業も忘れてしまうほどだったと言われます。小学校の代理教員もしており、自宅では正馬に厳しい教育をしました。

下田光造が提唱した性格特性に「執着性格」があります。大原氏は、正文はこの「執着性格」にあたると指摘しました。

下田は、「執着性格」の特徴として、仕事熱心、凝り性、徹底的、正直、几帳面などを挙げており、うつ病に親和性のある病前性格としていますが、うつ病になるとは限りません。

一方、母の亀は勝ち気、活発で男勝り、少しせっかちながら、熱心な働き者で、いわゆる土佐の「はちきん」でした。また人情にあつく、世話好きでした。大原氏は、母の亀は「循環気質」にあたる人だったとみなしています。「循環気質」とは、躁うつ病やうつ病に親和性のある気質として、クレッチマーが提唱したもので、社交的、善良、親切、活発、明朗、ユーモアなどの特徴が挙げられます。亀は実際に実母が亡くなったときなどに、うつ病になったエピソードがあります。

大原氏は森田の両親のそれぞれの性格特徴を、以上のように指摘しています。

 

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2.森田の「無頓着」な性格

 

岡本:

さらに大原氏は、森田自身の性格について独自の見解を示します。まず高良武久が森田は「完成された神経質だった」と回想していることに、疑問を投げかけています。

そして「伝説のように伝えられている森田正馬の「神経質」の性格」に疑義を呈して、神経質によくあるうじうじしたところがなく、大ざっぱで「無頓着」過ぎるところがあったという見方を展開しているのです。確かに森田の無頓着さの例は、枚挙に暇がありません。大原氏がとくに問題視しているのは、森田が自分の名前の読み方は「マサタケ」なのか「ショウマ」なのか、どちらでもよく無頓着だった点です。また原稿の執筆の際、原稿用紙の書き損じをせずに書き続けたことなど、神経質者には、とてもできない芸当です。けれども書いた原稿には、やはり中身の不統一や書き間違いがあったようで、さもありなんと思われます。持病の結核に対しては、大事をとり続けねばならないのに、療養のしかたはいい加減でした。食べ物や飲酒についても、摂生ができていません。そんな森田の無頓着さは、あちこちで見られました。

このように、森田の性格として、大原氏により「無頓着」が指摘されていますが、ほかに次のような特徴が列挙されています。

 

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1)「純な心」の人。

素直に自分の感情を表現し、自然に逆らわずに生きた人であった。

2)合理主義者

独断的で理屈っぽいが、言動はすべて建設的な姿勢で一貫していた。

3)好奇心(探求心)

幼い頃より好奇心が強く、奇術、奇蹟、迷信などにも興味を持ち、自分で手を出して確認した。遊びや芸事でも気の多さを示した。探求心の例として、高良武久によれば、ある日飼っていたニワトリが逃げたが、森田はニワトリを追うよりも、「なぜ逃げたか」に興味を抱き、しきりにトリ小屋をチェックして訝っていた。

4)負けず嫌い

しつこく、粘着的で、負け嫌いであった。

5)人間愛の人

誰に対しても人間愛を示し、森田療法の背景には、慈父としての人間愛があった。

 

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大原氏は、森田の性格特徴をこのように捉えながら、さらに「無頓着」を問題にしているのです。

ところで、高良武久が回想的に述べた「完成された神経質」という森田評については、その意味が、私たちにはわかりにくい、といううらみがあります。その「完成された神経質」という難解な像に対して、大原氏は森田像として「無頓着」の提示をはかったのです。では、森田における「無頓着」はその性格の中でどのように位置づけられるのか?

結局、大原氏は、森田のパーソナリティを考えるにあたり、両親の性格の継承として捉えています。つまり森田は父の「執着性格」と母の「循環気質」を併せ持っているとみなせます。強い探求心は父親ゆずりであり、オッチョコチョイでユーモラスで人情家だったところは母親ゆずりであったと言えます。このように、森田のパーソナリティを両親から受け継いだものとして、理解することが可能になります。

しかし、「無頓着」な性癖は、どこから来たものでしょうか? そして、それが神経質の療法の創案にどのようにつながったのかでしょうか?

「無頓着」に着目した大原氏自身、その答えを保留しておられるようです。

大原氏は最終的には、森田はわがままで、母や妻に対して依存心が強く、自分本位であったという見方を示し、神経質傾向を全否定することには慎重になっています(『神経質性格、その正常と異常―森田療法入門』、2007)。しかしそれでもなお、神経質なら考えられない「無頓着な面」があったことや、医院の玄関に「下されもの」の張り紙をしたような奇行への再注目を促し、「複雑な神経質」であったという一応の結論づけをしています。

私たちは、まず奇行への注目から、森田に対する新たな理解をはかろうと考えましたが、さらに無頓着への注目も加えると、森田理解が深まりそうです。そして、新たな理解として、発達障害、とくにADHDとの関係を考えざるをえないと思います。

つい講義調で長くなっていますが、杉本様はどうお考えですか。

 

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杉本:

森田の病跡についての、大原氏の説を詳しく解説していただいてありがとうございました。森田は神経質者であったとする従来の見方に反論し、大原氏は「無頓着」を指摘しておられたのですね。今日、なぜかこの「無頓着」説はあまり顧みられていませんね。私も初めて知りました。でも、言われて見れば、森田には無頓着なところが多々あったようです。ただ、無頓着というのは、何かに熱中していると、他のことに無頓着になってしまう傾向であるかも知れません。無頓着だけを切り離して捉えてよいのかどうかだと思います。つまり、無頓着は、態度の一面だけを見ている可能性もあるのではないでしょうか。

そう言えば、森田の父にはそんなところがあったようなエピソードが紹介されていますね。

私たちの森田の奇行への注目は、単に神経質では片付かず、無頓着に絡む病理の問題へとつながってきたのですね。それは発達障害、とくにADHDに相当するようですが、そのような私たちの見方を改めて開示して、さらに医学的視点からそれを補強してくださいますか。

 

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3.森田における発達障害、とくにADHDについて

 

岡本:
それでは、昨年(令和3年)来、杉本様に伝えて、一緒に(主にオンラインで)語り合ってきた森田正馬発達障害説、さらにはADHD説について、述べます。杉本様が、森田は何か強烈な変わった性格の持ち主だったと考えざるを得ないとおっしゃることと、きっと符合していくことでしょう。
発達障害の中の、ひとつの代表的な特性群として、「ADHD(注意欠陥多動性障害)」があります。次のような主要な症状が挙げられます。

1)不注意で気が散りやすい(注意集中困難)。
2)多動で衝動的。空気を読めず、思いつくとすぐに行動してしまう。
3)過剰集中。いったんある課題に熱中すると、過剰なまでにそれに取り組む傾向。内面に好奇心がいつも生起し続けていて、そのような特性は、一時的に外部からの刺激に衝動的に反応するだけで止むことはない。興味のある課題に熱中し出すと、それについての思考が脳内をめぐり、それにしたがって課題をやり遂げるために、行動のパワーが全開になる。そのため、状況に応じた切り換えは困難になる。

以上に、ADHDの症状の特徴をおよそ三つに分けて、私なりの理解に基づいて大まかな書きようをしました。ただし、理解を求めておきたいことがあります。そもそも発達障害という概念(したがってADHDという概念も)は、生物学的医学に依拠しており、脳の性質に関わりますが、それは人間としての価値観を伴うものでは一切ないということです。
さて、このようなADHDの大まかな診断項目に森田がどこまで該当するか、決めつけることを急がず、森田正馬という人の性質について、出生から成人後まで見直す必要があります。『我が家の記録』に、簡潔な自伝が出ていますので、主にそれに基づいて、出生以後の健康状態などをたどってみます。

 

 

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『我が家の記録』の冒頭に、きわめて重要な記載があるので、それを引用転記します。

「幼児殆ンド泣ク事ナク室内ニ閉ヂ込ミ置ケバ獨リ遊ビアキテ眠リ、或ハ獨リ佛壇ノ下ノ押入ノ内ニ眠リ居タルコトナドアリタリトイフ。
塩井ノ祖母、余リ此児ノ泣カザルヲ見テ或時「此子ハ馬鹿ニアラズヤ」トイヘルヲ後ニ家ノ祖母甚シク不快ニ思ヒテ「此家ニハ決シテ馬鹿ノ出来ル事ハナイ」トテ憤リタル事アリトイフ。」

泣かずに独り遊びをして、佛壇の下の押入に入って眠っていたことなどあり、あまりにも泣かないのを見て、父方の祖母は、馬鹿の子ができたのではないかと訝ったというのです。このように幼児が人とコミュニケーションを求めず、泣くことが殆どなく、独り遊びをしている様子からは、今日的な視点からすれば、通常発達障害の存在が疑われてしかるべきでしょう。森田の時代に発達障害という概念がなかったために、森田はそのような疑いを差し挟むことを知らずに、みずから率直に記載したものと思われます。もちろんこの記載だけで断定することはできませんが、発達障害、そのうちASD(自閉症スペクトラム障害)との親和性を思わせるエピソードではあります。

 

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小学校に入学した頃は成績優秀でした。しかし、小学校教師の父はしつけや教育が厳しいので、勉強嫌い、学校嫌いになっていきます。その父は農事繁忙で教師をやめ、我が子の教育も顧みなくなりました。小学校を出て、2年間無為に過ごした後、中学校に入学します。
小児期の病歴として、夜尿があり、14歳頃になってもなお年に2、3回はあったと森田自身記しています。同じ高知出身だった坂本龍馬も夜尿があったので、森田は龍馬に親しみをおぼえたようです。ちなみに、夜尿はADHDと併存する確率が高いことが指摘されています。坂本龍馬はADHDが疑われる著名人のひとりです。

 

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関心事については、少年時代に村の寺で地獄絵を見てより、生死の問題を考え、哲学や宗教に関心を持ち、迷信、奇術、奇蹟、骨相、人相、易学などに関心が及びます。一方、実学的なことにも興味があり、中学時代は将来電気工学を学び、発明家になろうと考えていました。中学三年のとき、学資を制限する父に腹を立て、家出をして無断で友人と上京するという大胆な行動を示し、郵便電信学校に入ることを志して東京で自活生活を始めました。しかし生活に挫折して、帰郷し、中学校に復学しています。森田は発明王エジソンに憧れたようです。長じてからも森田はエジソンを高く評価して、形外会などで引き合いに出しています。われわれの完全欲や向上心は自然の勢力であり、それを持ちこたえて工夫努力することが自然への服従である。エジソンはそれをなして発明家になったと、再三教えています。

また進路について、中学三年時の家出に続いて、高等学校入学の際にも大胆な行動をしています。父は進学に賛成せず、高知出身の大阪の医者が養子になることを条件に奨学金を出すことを知り、独断で応募して奨学金を受け、熊本五高の医科に入学しました。しかし養子契約は親にばれて、契約を解消し、従妹をめとることを条件に父が学資を出すことになりました。こんな縁で結ばれた従妹の妻が、森田を支え、後に家庭的療法である療法を進めるにあたって重要な役割を果たすことになったのです。

 

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父に対する反抗と絡んで思い切った行動をしたエピソードが、もうひとつあります。東大医学部に入ってから、一学年末の定期試験を控えて準備が遅れ、試験が近づいて一層気が散り、集中困難の状態になった―。以前からあった神経衰弱の症状の再発として治療を受けていたが、この頃父からの送金が遅れていた―。そのため、父へのあてつけに死んでやれと、服薬をやめ、「必死必生」の猛勉強をした―。その結果、意外にも好成績を修めて進級でき、神経衰弱の症状も雲散霧消したというものです。しかし、このエピソードには問題があります。まずは段取りが悪く、試験の準備に取りかかるのが遅れ、そのために直前になって焦って、集中困難になったのであろうと思われます。さらに父へのあてつけの心理は幼稚であり、猛勉強をしたから間に合ったということに過ぎません。ただし、「恐怖突入」の体験をしたことは、後に療法に生かされていきました。

 

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さて青年期から目立ってきたみずからの性癖について、森田は次のように記しています。「余ハ変人ニシテ剽軽者ナリキ。」
中学時代に、侠客のような格好をしたり、「心」の文字をあしらった紋付きの着物と羽織を着たら、それが学生間で流行になったと記しています。変わった服装つまり異装をする癖は、後年にも見られ、詰め襟の服装にこだわったのもその例です。
熊本五高時代には伯耆流居合術をやり、初伝を受け、真剣を手に入れ、友人たちの前で振り回して見せるのでした。何にでも好奇心を持って手を出す性癖を有し、それが森田らしいところでしたが、一貫性はありません。医師になってから女子体操学校に講義に行ったときなど、テニスやダンスまでしています。何か新しいことに手を出すとき、しばしば自身を野次馬と称しています。とにかく気の多い人でした。
しかし、自身の体験を契機に、「神経質」の療法に力を注ぐようになります。熱心さのあまり、衝動的、攻撃的な言動を示すこともありました。たとえば、強迫症状の手洗いをやめない女性患者に腹を立て、殴ったら症状が治ってしまったという話もあります。晩年になってから学会で精神分析の丸井に仕掛けた論争は、名物になりました。「神経質」の療法の追求は生涯を通じての課題になっていたのです。彼におけるその「神経質」の真贋性をわれわれは問題にしています。

 

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4. なお残る森田の神経質傾向

 

杉本:
森田の時代に発達障害という概念はなかったので、自伝を書くにあたり、そのようなことを考慮に入れなかったし、30年程度前に大原氏が森田の病跡を執筆された時期にも、なお発達障害への認識は十分に普及していなかったようで、その視点は導入されていなかったのですね。そして今日では理解が進み、ようやく発達障害も視野にいれた検討が可能になったのですね。
ADHDについての説明と、森田の自伝などから、エピソードをいくつも紹介してくださったので、それらを対照すると、森田は発達障害、とくにADHDに該当することが、改めてわかりました。
しかし、大原氏が、森田は神経質でなく、その反対の無頓着な性格だったと指摘する発言をなさったことについては感じることがあるのです。無頓着、つまり無関心になる態度は、今日的に見ると発達障害圏の、とりわけADHDの人に見られる特徴のひとつとみなしうる解釈ができるのですね。
その論旨はよくわかります。ただ、一方それでもって森田には神経質素質やそういう性格傾向はなかったのだと言ってしまうと、少し疑問が湧いてくる感じがします。発達障害は生物学的医学に依拠している脳の性質であり、人としての尊厳に関わるものではないことは当然ですから、注目されることに何の問題もありませんが、だからと言って森田が神経質でなかったと言い切れるのかどうか、私には疑問が残ります。要するに、発達障害圏内の人で神経質傾向のある人がいてもおかしくないと思うのです。
なぜ私がこのように考えるかと言うと、今まで森田の本を読んできて、とくに「形外会の記録」などから、直感的にこの人は神経質を生涯持ち続けた人だとわかります。そのように体感的にしか言えませんが、神経質のとらわれで苦しい体験を経てきた人以外に理解できないところがあるのです。
発達障害でも濃淡があるでしょうし、神経質にも深浅あり、性格も複雑に絡み合って皆一様ではありません。時代を経て神経質の特徴の消長も起こるし、ひとりひとりが多様で多彩ですから、一概に森田は神経質でなかったと言い切る見方をすると浅くなると思うのです。

 

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岡本:
ごもっともですね。
一応大原氏の発言のしかたについて補足しておくと、「神経質? 無頓着?」という疑問符つきの見出しで、慎重な書き方をしておられます。しかしやはり二者択一的な発想である印象は受けます。
最初に大原氏による森田正馬の病跡についての著書を杉本様が紹介してくださったのでしたが、大原氏の説を読み込んだら、神経質と無頓着と発達障害の三者の関係を考えざるを得なくなりました。また杉本様は、森田がたとえ発達障害であっても、彼が神経質であったことを排除することはできないという、貴重な発言をしてくださいました。そのへんのことを、もう少し述べてくださいますか。

 

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杉本:
森田のさまざまな奇行は、発達障害説によって解明され、なるほどそういうことかと納得できますが、自分として体験的には気がかりな点が残っています。とくにとらわれの最中にある神経質者同士が話し合ったり、一緒に寮生活(森田療法など)したりすると何となく「自分と同じ神経質者だ」と感じで大体わかるのですが、若き日の森田と出会うことができたら、どんな印象を持ったでしょうかね。
『神経質礼賛』を著した南條幸弘氏は自身のブログで冗談めかしてですが、相手が神経質者だと「共振回路で電圧がピークになるような感じです」とお互いにわかりあえると述べています。
森田の高弟、高良武久は森田の印象を( 老成した時期ですが )次のように語っています(『人間の性格』より)。
「人によっては全然博士とともにいることができなかった。どうしても窮屈でたまらないのである。そんな人はどちらかというと、非神経質的な人々であったように思う。神経質傾向の人はよく博士に理解され、また博士をよく理解した。そうして博士から計り知れないほどの心の糧を吸収したのである。」
結局、さまざまな奇行があった森田は、発達障害の範囲のとくにADHD傾向の人であったが、併せて神経質素質を持ち合わせていたのではないか、その多様性から森田療法を発見し、自らも人生の達人の域にまで達したのではないかということです。

 

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5. ここまでのまとめとして

 

岡本:
従来、森田は本人が神経質であったという根強い見方があるとともに、森田に奇行が見られたことは周知のこととして、伝説化してきました。そして、奇行は微笑ましいとともに、実は療法として合理的な教えに富むものであったとして、評価されてきました。そこにおいて、神経質と奇行の関係を深く問題にされることはなかったと言えるでしょう。
神経質者は、森田のように社会的に目立つ奇行をするものなのだろうか。あるいは、平気で奇行をする人は神経質に該当するだろうか。私たちはまずそのへんに疑問を持ちました。
一方、大原健士郎氏は、人間愛の人であったと森田の性格特徴を評価した上で、森田は神経質ではなく、無頓着な人であったと指摘しました。大原氏は、最終的には、森田には神経質な面もあって、複雑な神経質であったと自説を修正しているようですが、森田は無頓着な性格であったという見方を撤回したのではありません。
かくして、森田における「奇行」と「無頓着」をどう捉えるかが、問題になりました。そして「奇行」と「無頓着」について理解する鍵として、私たちは森田に、発達障害、とりわけADHDの特徴を見たのです。
安易に、いたずらに診断的な見方をしてはならないし、理解するためにあえて診断的な見方をする場合でも、慎重でなくてはならないと思います。また臆断が入ってもいけないと思います。そのようなことを自問自答しつつ、森田における「奇行」と「無頓着」を理解しうる鍵となりそうな見方として、私たちはやはり、発達障害、とくにADHDであった可能性を考えざるを得ません。
先に、発達障害のうちのADHDについて、基本的なことを記述し、さらに森田正馬の自伝などからその個性を窺い知ることのできる挿話のいくつかを書き記しました。両者を対照するとき、多くの点で森田にADHDの特徴が見られたことがわかります。より具体的に、それを簡単に整理して、以下に付け加えておきます。

 

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<ADHDがプラスに働いた面>
・ ADHDで旺盛な好奇心を持ち、さまざまなことに関心を向け、みずから手を出して実証し、「破邪顕正」を経て療法を創始した。
・ 過剰集中の継続の成果で、療法ができた。
・ 神経質者と反対に、空気を読めず(読まず)、自由奔放な行動をして見せ(多動)、自分の感情や関心に従って素直に行動するように促した。そのような森田の行動は奇行となることもあった。
・ 何事にも関心、研究心を持って、工夫しながら取り組むことで創造が生まれることを実際に則して教えた(好奇心、多動から創造へ)。ADHDであったエジソンを評価した。
・ 過剰集中の反面には無頓着があった。しかし、無頓着はおおらかさにも通じ、とらわれのない姿でもあった。

<ADHDがマイナスに働いた面>
・ 気が多く、持続力がなく、集中できなくなって、みずからを窮地に追い込んだ体験―
① 大学一年のとき、期末試験の準備の勉強に集中できなくなってしまったこと。
② 両忘会の釈宗活老師のもとに参禅したが、長続きせずにやめてしまったこと。公案を透過できなかったと言うが、問答以前の持続性の問題であったろう。

 

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【付記 : 無頓着の意味について】
「無頓着」という言葉は、今日、「無関心、気にかけない」という意味で、「神経質」の対語として用いられています。しかし「無頓着」の言葉の語源は元は仏教語の「貪著」にあります。それは貪欲に執着することを意味します。そして「貪著」を否定する言葉が「無貪著(無頓着)」なのです。大原氏は、神経質の対語として、無関心の意味で無頓着と言われたものでしょうが、仏教語として用いる場合は、執着から離れる境地を表す言葉になります。従って、療法として考えるとき、「無頓着」は別の重要な意味をも帯びることになりえます。

 

(第2回 了)

 

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【後記】
第2回を終えた後で、対談者のふたりは、なお討論を続けています。
結局、森田のADHDという本人の自覚しない異常性が患者に対して治療的に働いて、森田ならではの療法となったと考えられる、ということについてです。つまり、治療者のADHDが治療的要素となって、療法の土壌ができたと考えることができるのか。そういった病跡学的な評価に関してです。このことについて、次回に更に取り上げたいと思います。森田療法が生まれた土壌について、深い思索を重ねておられる杉本様に主導して頂く予定です(岡本 記)

 

森田正馬の病跡をめぐる杉本二郎氏との対談(第1回)―「神経質」と「発達障害」―

2022/04/19

杉本二郎氏の近影(右)

 

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【杉本二郎氏との対談に先立って】

 

森田療法とは、一体どんな療法なのか―。
それは、森田正馬によって創始された療法である。彼は精神療法についての研究に基づき、さまざまな試行錯誤や、工夫を重ねて、神経質に対する独自の療法を創り上げた。だから森田療法と命名された―。
そのように理解しておけば一応は正しい。と同時に単にそのように理解するだけでは表面的に過ぎる。森田療法を記号化された療法名のレベルで理解するのみでは、療法が形骸化する。森田自身、自分の療法を、自然療法とか、体験療法とか、家庭的療法などと呼び換えてもよいとしながらも、結局神経質に対する「余の特殊療法」としか言わなかった。まれに自分の療法という意味で、みずから「森田の療法」と称したくらいであった。つまり「俺流」の療法だったのである。
私たちがもっと理解すべきは、その「俺流」のところである。そのためには森田正馬の生涯についてもっと知りたいものである。幸い森田は日記を書き残している。また同時代の人たちによる評伝の類の資料も、多くはないが存在する。またそれらに基づく二次資料もある。しかし、それらの中で森田像は美化されて、実像が虚像になっている面もなきにしもあらずであろう。私たちはできるだけ、先人たちが触れないできた人間森田正馬の実像の、人間臭い面白いところを隠すのではなく、その覆いをはがし、そんな森田ならではの「俺流」の治療を今更ながらに味わいたい。
人間森田については、さまざまなエピソードが知られている。庶民的で、人間愛に満ちた、飾り気のない人であった。しかしかなりの変人、奇人であったようだ。そのような森田の人間性の独自さが、評価さるべき「俺流」の療法にどうつながったのだろう。
つまり私たちは、病跡学的視点から人間森田による療法の創造を探りたいのである。

病跡に関連して、あるエピソードを先に紹介する。筆者(岡本)が佛教大学の現役教員だったとき、私のゼミの森田療法に関心をもつある男子学生が、森田正馬全集の第七巻を読んで言った。「この人は幼稚な人ですねえ」。森田療法の深みをまだ知らない初心者の学生だったが、学生から語り口が幼稚だと言われるような一面が確かに森田にはあると言えよう。それは10年ほど前の話である。もちろん教師である自分が、森田の性格の独特さに気づいていないわけはなかった。それよりさらに以前に、大原健士郎氏による森田正馬の病跡についての論文が出たことがあった。ここで大原氏は、森田は神経質ではなく、むしろ無頓着であったと指摘しておられた( これについては、以下の対談の中で触れるはずである )。
森田という偉大なる人物について、病跡学という視点から論ずることはタブー視されてきたのだろうか。本格的に論じた文献には、大原以後遭遇しない。
しかし、おそらく多くの研究者が気づいておられるであろうと想定するが、筆者の判断をあえてここに記すことにする。
知られている多くの言行から、森田正馬は発達障害の圏内の人であったと考えている。さらに絞れば、その特性はADHDに当たると思う。ここでは唐突な書きようをするが、十分に検討した上でそう見立てているつもりである。( 昨年、精神科雑誌 “Legato”8月号に「森田正馬と森田療法」という小論を寄稿させて頂いたが、その末尾に、発達障害説を一言付け加えておいた。原稿の性質上、ADHDと踏み込んで記すことは控えた )。
発達障害やADHDという診断のことについては、対談の中で論じていく。

 

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前置きが長くなってしまった。杉本二郎様のことを述べねばならない。

名古屋に、森田療法に深く精通なさっている杉本二郎様というお方がいらっしゃる。森田療法の分野での深いご経験を有し、長年後進を指導なさり、さらに絶えざるご研鑽をお続けになっている。正知会の会員でいらっしゃるが、経験者にして実に賢者である。かつては名古屋啓心会で指導者をなさり、東京の東映映画会社本社勤務、名古屋のラジオ放送局勤務をご経験なさり、その傍ら、森田療法に関わり続けてこられた。杉本様は、吉川英治作の『新平家物語』の挿し絵などで知られる著名な画家、杉本健吉画伯の甥ご様である。ご自身も絵筆を振るわれ、名古屋のチャーチル会の指導的立場におられる。この杉本様と数年前にご縁を得て、お付き合い頂いている。私は森田療法でわからないことがあると、つい杉本様に甘えて尋ね、教えて頂くというわがままな癖がついてしまった。これは慎まねばならないことだが、昨年来、森田正馬発達障害説をお伝えして、メールを交わし、やりとりを続けてきた。そのオンライン上の対談的な交流は、このところ密になってきた。
そこで、最近のやりとりを少し巻き戻してホームページ上に再現しておきましょう、ということになった。それがリアルタイムのやりとりに追いついて、つながっていくか。予測はできないところがあるが、杉本氏とのオンライン対談の記録を、まずは現在より少し遡った辺から再スタートすることにする。

 

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1. 俺流のふたり―森田正馬と落合博満

 

杉本:
私は初期の名古屋啓心会活動をしたり、またそのあとは森田療法を受けたりして、気がついたら半世紀以上経ってしまいました。その間多くの神経質の仲間、そして森田先生から指導を受けられた先輩達と逢いました。老年になって今思うことは、森田先生の全集など事あるごとに開いては読み、先生の評伝も新旧のものを繰り返し手にとっていますが、私達と森田正馬先生とは少し性格が異なるのではないかという疑問をもちました。
無論、森田療法は神経症の素晴らしい画期的治療法であることは疑う余地はないと思っています。
ただ「俺流」というのはどうでしょう。森田療法自体は、さまざまな試行錯誤の上、科学的知見に基づいて構造的に組み立てられた普遍的な療法じゃないでしょうか。
それから、なんと言っても、先生の奇行の数々はどうとらえたらいいのかということがあります。長い間気になっています。天才にはありがちなものでむしろ微笑ましいのですが、私の出会った神経質性格の仲間たちでこのような奇行や、興味の対象をくるくる変える人に出会ったことがないからです。
仲間達と何回か集団で、雑談会に出たり、一緒に生活したりしましたが、会が盛り上がって、そのあと例えば東京音頭を踊りだすといったような神経質者に出会ったことがないですね。
果たして森田先生は純粋の神経質者だったかどうか、どの部類に属する性格の持ち主だったのか知りたいところです。たしかに、心悸亢進など私たちと同じ症状を持っておられたことはご著書でよくわかりますが、もっと天才的な通常とはことなる複雑な性格の持ち主なのではないかということを考えるのです。

神経質で色んなタイプの人がいます。ちなみに私は不安神経症だと鈴木先生に診断を受け、そして治していただきました。先生から「君は強迫観念が理解できないかもしれないな」と言われましたが、ごく普通の森田神経質性格だと思っています。

 

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岡本 :
森田正馬は神経質だったと言われるが、本当にそうだったのかという彼自身の性格のことについて、また奇行が目立つ人であったことをどう考えればよいかという点について問題提起を頂きました。これらは、話し合いの核心になる重要な問題ですから、このあと、ご自身のご意見も自由に披露してください。
その前に、私は「余の特殊療法」は、いわば「俺流」の療法だったと言いましたが、森田は科学的知見に基づいて普遍化できる療法を組み立てたのだから、「俺流」と言って然るべきか、その適否について、指摘を頂きました。軽口でそう言ったのは過去の発言の再現ではなく、この場が初めてですが、これについて説明責任を果たします。
「俺流」とは、プロ野球の中日ドラゴンズの球団に、選手として、また後に監督として在籍してその名を馳せた名古屋ゆかりの偉大なる野球人、落合博満氏の代名詞になっている言葉です。だから、まずは名古屋方面の方に対するリップサービスとして持ち出したのでした。しかしそれは、ゆえなしとしません。落合氏は、球界では変人として通った人で、その点森田正馬に似ています。変人ぶりは両者に共通であったかどうかは一概には言えませんが。
落合氏の特徴は、簡単に言うと、プロとしての自覚に基づき、野球を勉強し、研究し、野球における科学を追求し、野球に科学を持ち込んだ第一人者でした。そして科学の限界を知って現実に直面し、自分の道を切り拓いた人でした。
指揮官になってからは、球界の悪弊を排し、管理野球を嫌い、選手たちの自由を重んじました。そして科学的な取り組みを教えながらも、その先は選手が体得するように、言葉少なに促したのです。プロの世界は結果がすべてで、それは本番でやるしかなく、グラウンドでは賭けに出ざるをえません。リスクがつきものですが、責任の大半は起用する監督の自分が負ってやるという温情の人でした。しかし、選手自身は現実を見極めねばなりません。その意味で冷徹な指揮官でもありました。立場上、人前ではポーカーフェイスのようなところがあったけれど、別の場では、抑えきれない感情が堰を切り、大声で泣くこともあったそうです。
選手時代の落合氏は三冠王を3度取得しており、3度目に取った三十代はじめに、『なんと言われようとオレ流さ』という本(講談社、1986)を出しています。落合式では、「オレ流」と書くようです。この「オレ流」の人は、自分が特別な指導者に恵まれたわけではありません。学生野球をしていた頃には、野球部内の体罰の横行などむなしい体験をして、それが反面教師になり、孤独な努力を経てプロ野球への入団にこぎつけました。
スポーツでは、よく「心技体」の調和の必要性が言われます。このうち技術や体力は、かなり資質や素質によるところがありますが、「心」の部分がどんなスポーツでも問われます。優れた指導者に恵まれれば幸いですが、まずは自分が、今で言われる「やる気、本気、根気」を持つ必要性があります。そうすれば、おのずから研究心が湧いてくるでしょう。師がいたとしても、頼れるのは自分だけです。いや、その自分さえ頼れません。スポーツの場合、自分の体は研究や管理の重要な対象になります。自分の体に合わせて、どのように練習をするか、方法を見つけねばなりません。そこに「オレ流」の研ぎ澄まされた「心」の働きが生かされているのです。「心、技、体」はつながって結果を生みます。「心」はおのずから働いてしかるべきで、本来切り離して扱うものではありません。それに徹するのが、おそらく「オレ流」なのでしょう。
不安をどうするかというような、心を対象化する課題が入り込む余地はありません。ですから、「オレ流」は、困ったときに、たとえば「禅頼み」をするような取り組みとは無縁です。しかし、「オレ流」は自他に責任があります。「オレ流」をチェックしている「オレ」が必要です。そんな落合氏を助けていたのが、姉さん女房の夫人だったようです。森田正馬には治療の協力者だった妻、久亥がいました。
そう考えると、落合氏の「オレ流(俺流)」と森田の「余の特殊療法」の間に、決定的な違いはあるでしょうか。むしろ両者はかなり通じ合うものであるように思えるのです。
ちなみに、落合氏が口にした普通の発言の中に、森田療法の立場から名言と受け取れるものがありました。それをいくつか、引用しておきます。

・「何でもできる人はいない」
・「いいんじゃない、うんと苦しめば。そんな簡単な世界じゃないよ」
・「信じて投げて打たれるのはいい。…一番いけないのは、やる前から打たれたらどうしようと考えること」
・「『まあ、しょうがない』と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう」

 

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以上が私の説明ですが、やりとりの最初からいきなり脱線してしまいました。軌道修正をお願いいたします。

 

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杉本:
いやぁ。ドラゴンズを話題に引っ張り出していただいて嬉しいですね。
そういう独自の探求を成し遂げた「オレ流」なら森田先生と落合博満氏の共通点は、たしかに感じます。単なる自分勝手なだけのオレ流ではないのですね。
私も、選手でドラゴンズにやってきた落合博満氏は最初から変わった人だなと感じました。
まず最初に打撃フォーム。振り幅のコンパクトな所謂「神主打法」、あれは相当な強い体幹と腕力がなければ出来ないし、バットにボールを当てる確率はそれでグンとあがりますよね。それを人に見せることなく陰でコツコツ積み上げたものだと聞いています。相当な試行錯誤があったのでしょう。
それと一番変わった人だと感じたのは、落合氏が監督になってからの采配です。
2007年、ドラゴンズがリーグ優勝し、日本シリーズの対日本ハム戦でのことでした。ドラゴンズが日本一に王手をかけた第5戦。ドラゴンズの山井大介投手は8回までパーフェクトピッチング。1ー0 であと9回表の3人を打ち取れば完全試合達成です。その時落合監督は、なんと山井に代えて押さえの岩瀬投手に登板させたのです。
落合監督の采配に球場全体が唖然とし、そして呆然となったのをテレビで観ていて感じました。
今まで日本シリーズで完全試合が達成されたことはないのです。また今まで完全試合を前にその投手を交代させた監督もいない。
それは勝つという一点だけ見据えれば、クローザーの岩瀬投手を出した方が確率が高いことは間違いない。その落合監督の勝ちへのこだわり、執着心に一般とは変わった性格をみるのです。まさに冷徹な指導者です。
この件には「理解出来ない」と言う野球人が多かったのも事実です。
私が名古屋のラジオ局時代、仕事の関係で元ドラゴンズの選手、谷澤健一氏(当時野球評論家)と知り合いだったのですが、彼も「あれはないよな」と言っていました。
もっとも、落合監督の後の談話では「山井は指の血豆が潰れ、自分から交代を求めた」とのことでしたが、山井投手は最初は「いけます」とコーチに告げているのです。
完全試合を前にした投手に血豆が潰れたぐらいで「どうだ調子は?」と訊くこと自体おかしなことではないでしょうか。
山井投手は、これは代えられるなと直感的に思ったのでしょう。
余談ですが、マウンドに向かった岩瀬投手は顔面蒼白だったそうです。予期不安の大きい神経質者はプロ野球選手には向かないかもしれませんね。

長くなりましたが、天才落合氏には、少なくとも森田先生と共通する「変わった人」だなという認識があります。
ただ森田先生の行動には時により愛嬌があります。落合氏の私生活はわかりませんので、なんとも言えませんが。
物事に対する大変なこだわりはお互いに共通するものがあるとはいえ、森田先生には、例えば電車の中で、わざと見せびらかすように大きな懐中時計を出して見みたりして、なんともご愛嬌です。
冗談ですが、落合氏の場合は「かあちゃん」(妻)が大きな役割を果たしていたのかもしれないけど。

 

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岡本:
森田正馬先生と落合博満氏というふたりの偉大な人物を、時代を超えて変人という視点から取り上げました。落合氏についても興味はつきませんが、ここでは落合論はさておいて、森田のことを掘り下げましょう。すでにご指摘くださったように、森田の変人、奇人ぶりは巷間よく知られていました。その森田は自身が神経質者であったと言い、かつ神経質概念を提唱した人でもありました。両者は入れ子の構造になりますから、森田が純粋な神経質者であったかどうかについて、彼自身の言説から検証するのは困難です。引っ込み思案になりがちな神経質者にはとてもできないような奇抜な行動をする人でしたから、典型的な神経質者であったとみなすには無理があります。では森田のパーソナリティの特徴はと考えるとき、おっしゃるように、やはり変人、奇人の面に手がかりがあると思われます。
さまざまなエピソードがあります。たとえば、見舞いの贈り物のしかたついて書き記した「下されもの」の張り紙を玄関に掲示したことはよく知られています。こんな示し方は一見非常識だけれど、気がつかない神経症者に対する合理的な教えであったとして、今日でも森田を讃えるために引き合いに出されます。しかしそれは本当に適切な指導だったのでしょうか。考えてみれば、このような露骨な掲示は、社会的に見て異様だったと言わざるを得ませんね。
先入観を持たずに、森田の言行をもっと洗い直して、人間森田を貶めようとするのではなく、再評価したいものですね。

 

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2. 奇行は神経質の特徴なのか?

 

杉本:
森田の好奇心からの奇行というか、変わった行動については、多々伝えられていますが、私が驚いたことがありますので、述べてみます。
正知会会長の畑野文夫氏が大著『森田療法の誕生』であるエピソードを紹介しています。同氏は「さして重要ではないが正馬の一面がうかがえる」と前置きして、森田の日記の一部を引用しながらその「奇行」を披露なさっています。
妻、久亥との東京での生活が始まった頃の1901年(明治34年)、森田は大学4年の学生でした。そこへ同郷で藤次という男が法律を学びたいと森田を頼って上京してきたのです。
まず職探しをしてやったが、書生の口が見つかりません。そこで車夫にさせようと警察へ同行して鑑札を取得させました。
そして稽古です。藤次は森田を乗せて上野へ行きます。運よく客が見つかり藤次は車夫として客を乗せました。そこまでは、森田は面倒見の良い人という感じです。
その3日後のこと、森田は自らハッピを被り車夫の格好で藤次を乗せて上野へ行くのです。何と森田は車夫になりきっています。上野ではあいにく客が見つからず、こともあろうに大学の赤門前で客待ちをするのです。客は見つからず、自分が車夫になって、藤次を乗せてスタコラと帰宅しました。車夫になりきって車を走らせるこの行為は奇行と言うか、何と言うか、驚きそのものです。
私は、学生時代にあの近くに下宿していましたので、多少は地形が分かりますが、かなりの坂道があったように記憶します。初めて車を引くとなると、バランスを取って上がったり下がったりして走り、かなりの力と技術がいると思われ、難しいのとまた危険な行為でもあると考えられます。しかし、それ以上に問題なのは、鑑札を持っていない森田が市中で車夫の真似をしたことで、幸い客は乗りませんでしたが、遊び心も度が過ぎて、この行為は常軌を逸していたと言わざるを得ません。
畑野氏は「当時のエリート、東京帝国大学の学生で車引きをした者が果たして他にいただろうか…」と述べておられます。

その頃の森田の日記の原文が手元にありますので、この日(明治34年12月29日)のことを書いたくだりを以下に引用掲載しておきます。

 

「十二月二十九日(土)、夜、余ハハッピヲ被リ車夫ノ出立ニテ藤次ヲ乗セテ上野ニ行キ、後余ハ車ヲヒキ藤次ハ後ヨリ従ヒテ客ヲ求メタレドモ得ズ、上野ニ藤次ト共ニ牛めしヲ食ヒ少シク酒ヲ傾ケ更ニ出テ客ヲ求タレドモ得ズ、再ビ大学赤門辺ヨリ藤次ヲ乗セ他ノ車夫ニ劣ラズ走リテ藤次ヲ驚カセタリ」

 

森田のこのような行為を神経質性格とからめて理解できるのかと悩むところです。
これら奇矯とも思われる森田の行動と独特の性格は、後年に家庭的療法とも言われる治療を実施する際に大きく役立っていくのではないかと思われます。「奇行」の意外性は「余の療法」の「場」における技法の重要なエレメントになっているのではないかと思うのです。しかし、このような逆説的価値の問題は、今一挙には語れませんので、追って述べさせてください。

 

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岡本:
森田がハッピを着て車夫の真似事をしたエピソードは、森田を美化するタネにはならないから、森田を崇拝する人たちも取り上げなかったのでしょうね。杉本様は、森田の言動の特徴に神経質というより、やはり奇矯さを見ながら、それが療法の要素になったとして、逆説的に評価しようとなさいます。興味深いところですが、改めてお聴きするとして、森田は神経質であったのか否か、あるいは別のカテゴリーに入るのかという、病跡学的な診断レベルの話しを続けたいと思います。

 

(第2回に続く)