「あるがまま」と「真如」―森田療法の中の仏教的神秘―【補遺】

2020/10/26



 
 

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「あるがまま」と「真如」―森田療法の中の仏教的神秘―【補遺】


 
 
 「あるがまま」について、研究ノート欄に連載稿を書き出して、前回早速そのスピンオフとして、「あるがまま」が「真如」とひとつになって、森田療法の仏教的な面をなす様相に触れようとした。
 そして宇佐玄雄の「不問不説」の療法に、『大乗起信論』の「不可説、不可念」に通じるものを見た。しかるに、宇佐晋一先生(『あるがままの生活』2020)によれば、玄雄先生における『説得療法』は、『維摩経』の「無言無説」に依拠しているとのことであった。そこで、玄雄の「不問不説」は『維摩経』に引きつけるべきか、あるいは『大乗起信論』に引きつけて理解すべきか、宇佐晋一先生におたずねしてみた。
 

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 玄雄が著書『説得療法』の「序」に書いている「不問不説」の言葉は確かに『維摩経』につながらない。しかしよく似た言葉の「無言無説」であれば、『維摩経』に出てくるのである。「入不二法門品第九」に文珠と維摩との問答があり、文珠は「無言無説、無示無識、離諸問答」が不二法門に入ることであるとしている。しかし文珠がそのように「無言無説」だと言ったことに対して、維摩は「黙念無言」、ただ黙念として言なし、なのであった。
 
 「無言無説」を鍵として、宇佐玄雄の『説得療法』と『維摩経』(入不二法門品第九)の関係を見ると、以上のようであることを、宇佐晋一先生と確認しあった。
 
 この「入不二法門」については、通常、維摩の黙の境地が絶対的な最高のものとされる。だが、別の解釈もあり、文珠の見解は「相対」で、維摩はそれを超えて「絶対」であるとするのではなく、文珠の「相対」と維摩の「絶対」の二つがあって、相対があるから絶対化もあり得るので、相対と絶対という二つを超えるところに不二法門がある、という見方もあるようである。
 
 さて、玄雄の「不問不説」については、これを『大乗起信論』の「不可説不可念」につなぐことも、やはり十分に可能である。また、禅僧として、『維摩経』にも『大乗起信論』にも通じていたはずの宇佐玄雄は、両方に通じる思想から「不問不説」と言った可能性も考えられる。とにかく、「不問不説」(玄雄)、「不可説不可念」(『起信論』)、「無言無説」(『維摩経』)が重なるところに、三者における思想の共有が見て取れる。