仏教界の未解決事件、「大乗起信論」パッチワーク説に新たな動き―森田療法の立場から見る―

2020/09/18




 
 

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 まず言っておくと、私はもともと仏教とその雰囲気を生理的に好かない、仏教の門外漢である。仏教にみずから興味を持って学んできた経験に乏しく、仏教学の動向に感想を述べる資格とてはない。元は田舎の村落の出身で、残念ながら、そこでの檀家制度や葬式仏教の土着的な地域の文化には暗い思い出がつきまとっている。だから仏教嫌いになっていたのに、何の因果か人生後半になって森田療法につかまった。それも禅の色濃い病院に勤務した経験から、禅思想が身近になり、その延長で花園大学で少し学ばせて頂いた。さらに、因果なことに佛教大学に奉職して、昔の田舎のお寺の記憶に引き戻された。それで仏教コンプレックスに陥った次第である。
 
 いきなりくどく書いたけれど、仏教コンプレックスの中でも、仏教の根本思想は自分の人生観に摂り入れられた。少なくとも、そのことは言っておきたい。一方、難解な仏教の用語や思想にはついていけない。ただし、森田療法との関わりを有している者として、ややこしい仏教思想も知らないでは済まされない。そんな面倒な立場から、仏教を見ている。たとえば「真如」という神秘的で難解な言葉の意味や概念が、どのようであろうと、個人としての私には何の関係もない。

 

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 森田療法は、禅、真言宗、真宗などの複数の宗派にわたって仏教と接している。また仏教との接点を掘り下げるなら、インドや中国における仏教思想を歴史的に知らねばならない。森田正馬に影響を与えた井上円了を含み、井上哲次郎ら、明治期の仏教哲学者たちは「大乗起信論」を受け入れ、それに依拠していた。「大乗起信論」は、インドの仏教哲学者、馬鳴(メミョウ)の作であり、それが漢訳されたものとみなされ、中国のみならず日本の仏教思想にも大きな影響を与えてきた典籍である。ところが以前より、その成立事情について疑問が投げかけられていた。そして最近、3年前に、「大乗起信論」は漢文仏教文献をつなぎ合わせたパッチワークであることを明らかにした、大竹晋氏による研究成果が公表された。
 それは次の文献である。
 
 大竹 晋 : 大乗起信論成立問題の研究―『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク. 国書刊行会. 2017
 
 

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 著者、大竹氏によれば、「大乗起信論」の内容は、インド語を知らない中国人が中国語で書かれた文献だけを使って切り貼りして、自分の考えも書き加えて編纂したものであり、さらにその人物は自分の名前を出さず、作者名を古代インドの馬鳴に仮託して、「大乗起信論」を世に出したのである。それなりに、当時の中国仏教思想の書として意味なくはないが、しかし「大乗起信論」は古代インドに発する大乗仏教の真髄を伝える書とされてきた位置づけから、外される事態になりそうだ。このような研究結果を出し得たのは、ふたつの鍵に恵まれたからだと言う。ひとつは、コンピューターの発達により、検索機能を使えば「大乗起信論」の中の用語を他の中国文献に見つけることができるようになった―。またもうひとつは、敦煌で見つかった仏教文献が近年利用可能になったことがある―、と言う。ともあれ、このようにして出された研究結果は客観的であり、揺るがし難いデータである。それをどのように判定するかで、今後議論が湧き上がるであろう。揺らぐのは仏教の方かもしれない。
 
 「大乗起信論」とインド大乗仏教は、かくして別のものになった。そこで、大竹氏自身、両者の思想を比較しておられる。上の著書の中には、「『大乗起信論』における奇説」という一章がもうけられていて、その中ではとくに「あらゆる諸法を真如と見なす説」という一節があることに注目したい。大竹氏の指摘のひとつは、インド大乗仏教においては、法に内在する属性が真如なのに、「大乗起信論」においては、あらゆる法が真如なのである、という矛盾である。

 

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 私は先に書いたようなバチアタリ者で、「真如」がどうであれ、私には関係はないと言ったが、そうもいかない。森田療法の立場から、仏教語としての「あるがまま」について考えている昨今である。するとどうしても「真如」という難儀な言葉に遭遇する。tathatā からの系譜の「如(真如)」は属性ではなかったのか? 手にする仏教書によって、「真如」の説明は一致していない。そのため、ますます「真如」に手を焼いていたとき、一週間前に大竹氏のパッチワーク説の書に接した。それにしても、「真如」という言葉そのものが中国で発明されたものではなかったか…。そしてさらに思う。「法」と「真如」の曖昧な関係は、なぜこれまで識者によって問題にされなかったのか。これは「大乗起信論パッチワーク説」に先立つ問題ではなかったのだろうか。
 
 兎にも角にも「大乗起信論」に対する果敢な「パッチワーク」説は、仏教界に一石を投じたようだ。周囲はまだ静観しているようだが、佐々木閑氏は、自著(『大乗仏教』NHK出版新書、2019)の最終章で大竹氏の「パッチワーク」説を肯定的に論じておわれる。
 
 「あるがまま」と「真如」は、面倒な言葉の双璧である。