【再掲】禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【前編】

2020/08/27

 第23回日本精神障害者リハビリテーション学会(高知)で講演をおこなった際のパワーポイント・スライドを、以下に提示し(一部割愛)、適宜に説明を再現しておきます。
 長さの関係で、前編と後編に分けて掲載します。
 

 以下は、2015年に行ったある講演のスライドですが、「十牛図」の絵のみ、今回(2020年8月23日)差し替えて、全体の構成はこのままで掲載し続けます。新たに差し替えた絵は、杉本二郎画伯に描いて頂いた貴重なものです。出版化を予定している前段階で、今からこの絵を先出しすることを、杉本画伯にご諒承いただいたものです。著作権を侵害なさらないように願います。

 
 

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01
 高知と精神医療との関係について考えると、高知は、わが国を代表する精神療法である森田療法の創始者、森田正馬が輩出した地であることを思い出します。
 
 
 

02
 香南市野市町に現在も残っている森田正馬の生家。赤壁が見える棟から右方は改築された部分にあたりますが、その左側は手を加えられていない昔のままの建物です。写真に写っていない、さらに左側には蔵があります。これらの部分は老朽化しています。文化財のようなこの建物が朽ち果てるのを防ぐことが焦眉の急となり、本年、「森田正馬生家保存を願う会」が発足しました。ご親族の森田敬子様が、会の事務局長をなさっています。
 森田療法を理解するには、森田正馬の生涯を知る必要がありますが、その生涯のルーツがここにあるのです。
 
 
 

03
 発表項目として示すごとく、用意はしたけれど、この学会でどのような視点から森田療法について述べればよいのか、迷っていました。しかし、この講演前日におこなわれた、精神医療における病院から地域への移行についてのシンポジウム(土佐弁で「地域移行て何ながよ」)を聴き、このような発想や取り組みは森田療法と同じではないか、と感じました。わが意を得たりと思いました。
 
 
 

04
 森田療法は、単に神経質や神経症の療法であるより以上に、万人の生き方に関わります。
「森田療法って、何ながよ」、「自由に生きることながよ」。ただし自由とは、放恣、放縦のことでなく。それは、ひたすら自分を尽くして生き抜くことです。その点において、森田療法は禅につながるのです。禅も「自由に生きることながよ」。
 
 
 

05
 よくある先入観は、教科書的な本に書いてありそうな説明のレベルのものです。誤っていなくても、表層的理解に流れます。症状は、流動している心のひとつの姿だから、「あるがまま」。そういうことであって、「あるがまま」は治す手段ではないのです。
専門レベルでは、認知行動療法との異同が問題になります。認知行動療法は症状を治す指向性から出発している。森田療法の森田療法たるところは、人間の存在の深い苦悩に関わるものであることです。第三世代の(認知)行動療法との違いは、森田療法はエクササイズではなく、生活そのものであることです。
 
 
 

06
 治療者が相手を薫陶する点で、パターナリズムが軸になってはいる。しかし父なる治療者を乗り越えていくのが森田療法。治療者、患者の区別なく、森田療法はみんなの自己教育。そういう大事なことが、教科書に書いていない、だから言いたいこと。
 
 
 

07
 「あるがまま」と言わざるをえないけれど、言えば頭での理解になる。歌の文句の方が、感じることができたりする。1年前には「ありのまま」と歌う「アナ雪」が流行った。今年は森進一が「あるがままに生きる」という新曲を歌っている。柳の下に二匹目のどじょうがいるかどうかは、わかりません。
 苦を苦とし、楽を楽として、逆らわずに生きるのが、あるがまま。古い「水戸黄門」の番組の歌にもありました、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 苦に遭えば苦を生き抜くほかありません。森田療法は「生きる」療法です。
 最近とくに思うことがあります。「生きる」療法を生んだ日本で、なぜ自殺が多いのか。日本人のメンタリテイは自殺に向かう閾値が低いから、森田正馬は「生きる」療法を創ったのか。とにかく自殺が多い現実を前に、私たちはどうしたらよいのかという問題がある。この場合、森田療法の専門家というものは、あまり役に立たない。ひとりの専門家より、百人の普通の人たちが、身近なところから手をつけていく方が、ずっとよい。大体、森田療法の専門家というのは奇妙なもので、それは人間の専門家というのが存在したら奇妙なのと同じです。
 
 
 

08
 森田は、自分の療法は禅から出たものではないなどと言いました。そこには、わが国の医学の西洋化の中で、自分の療法が異端視されることを避ける意図が働いていたし、また参禅したけれど、公案に透過しなかった経験による禅コンプレックスを抱えていたことがあったと思われます。実際には、仏教や禅の教えを重視し、それをたびたび引き合いに出して指導したのでした。
 
 
 

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 このような森田の療法は、「自然科学」ではなかったけれど、「科学」であり、固定的な対象にならない心の流動性を科学する、「心の自然」の「科学」であったと言えます。
 
 
 

10
 ここに森田が書いた色紙がある。判読しやすいように、そのまま画面に転記した。
 まず、作者不詳の禅の古い歌が引用されている。これは京の鴨の河原で座禅をしている人物が、四条や五条の大橋を往来する人たちを見上げている構図であるとみなし得る。河原に座している修行者にとって、橋上を往き来する人たちが「深山木(みやまぎ)」に見えるという境地が詠まれているが、森田はこれを痛烈に批判している。木が橋の上を歩いているわけがない。山中で座禅を組む人が河原に来てみれば、橋上を歩く人が木同然に見えるとは、いかにも臭い衒いだという、そんな批判です。それで、某禅師をもじって、「形外蝉子」と自称し上の歌を皮肉っています。「形外」はもちろん森田の雅号。人は人と見るのが自然です。
 さて俎上に載せられた禅の古歌は、二つのセットになった古歌の片方なのです。全体は同じ文句だが、最後の部分が異なり、「…深山木と見て」となっている歌と、「…そのままに見て」と言い換えている歌があるのです。後者は前者を批判しており、深山幽谷で独座しているのが本物の禅なのではない、市井で人をそのままに見る、それこそ本当の禅だという歌です。後者は、一休の作だという説もありますが、定かではありません。
 つまり、形外蝉師殿は、後者の歌を下敷きにしていて、オリジナルとは言い難く、むしろパロディですが、禅を深く学んでいなければ、こんな遊び心ある禅批判はできません。森田の禅の造詣の深さと禅観が、現れている例として提示しました。
 
 
 

11
 ここにまた古歌があります。これは森田正馬という人と直接関係しませんが、森田療法と深く関わります。生まれたばかりの赤子にそなわっている仏性が、成長とともに悪知恵がついて次第に失われていく。そういうことを嘆く歌です。赤子に生来的にある仏性とは、森田の言う「純な心」と同じものだとみなせます。生まれついたときから、本来誰しも汚れを知らない、純粋で真っ白で、すなおな心を持っているのです。ところが長じるにつれて、欲の世界にまみれつつ、我が肥大して、純な心は内面に奥深く押し込められてしまうのです。
 森田療法はこの純な心の回復を重視します。その課題は、 失った「すなおな自己」を探す心の旅である「十牛図」に通じていくのです。
 
 
 

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 禅の「十牛図」は、自分という存在者の卑小な内面で世界一周をするごとく、心の成長の過程を辿る階梯を象徴的に図示しています。中国で創られたもので、日常生活の身近にいる動物である牛を、自分(自己)になぞらえて、自分探しをする、いわゆる「己事究明」の諸相を象徴的に描いています。
 
 
 


 「十牛図」は中国で宋代に創られました。廓庵によるものが有名で、鎌倉時代にわが国に入り、しかし廓庵の図そのものは伝わらず不明のまま、そのモチーフに従って、わが国で複数の画家により「十牛図」が描かれたものです。そのうち、代表的なものとして、周文という人によって描かれ、それが後代に伝わったもの(伝周文)がありました。一方版画による「十牛図」も発見され、天理大学に保存されています(作者不詳)。周文の図も、天理大学に保存されている版画の「十牛図」も、それぞれ一長一短があります。そこで、両者の興味を引く点を抽出し、試みにそれらの特色をひとつに合成してみたイラストを用意しました。
 この「十牛図」のイラストのシリーズには、特徴として、タネ仕掛け、ちょっとあります。分かり易いように、あらかじめそれらをバラしておきます。まず最初は黒かった牛の色が、途中から白くなること。図を囲む黒い枠が、最後の第十図では白くなること、またその第十図では初めて複数(二人)の人物が登場することです。
 
 
 


 「十牛図」は心の成長の階梯を表していますが、一段ずつ確実に上に登れる階段のようなものではありません。双六のように逆戻りすることもあり、また双六のような、めでたし、めでたしの上がりで終わるものでもありません。上へ上昇した上がり(仏教で言う「上求菩提」)がゴールではなく、下界に戻らねばなりません(下化衆生)。調子に乗って下山すると、衆生の済度をするどころか、油断して地獄に転落するかもしれません。「十牛図」の入り口は、地獄を見た人の生き直しにも開かれています。底辺に地獄を置くと、「十牛図」は、下から出発して、時計のように(あるいは時計の逆周りに)ぐるぐるまわる周回のプロセスを示しているとみなせます。
 
 
 


 自分のあり方に何も悩んでいない脳天気の人は、さしあたり機が熟しませんが、神経質のような内省性の強い人は、自己を模索します。「十牛図」の全体のモチーフは、見失った自分探し、つまり「己事究明」なのです。
 この十の図にわたる「己事究明」の展開は、大まかに三つの段階に分けることができるでしょう。
 第一のステージは、「自己を探す」過程です。それは、牧童がいなくなった牛を探す様になぞらえて描かれています。第一図「尋牛」がその始まりです。「十牛図」は絵だけでなく、文章も添えられていますが、第一図の序文に皮肉が込められた言葉があります。「もともと失ってもいないのに、何でまた追尋するのだろう」と。「照顧脚下」(自分の足下を見よ)ができないのが人の性(さが)で、自分探しのお遍路が始まるのです。やがて牛の足跡を見つけ(第二図)、体が見え(第三図)、ついに暴れる牛を捕獲します(第四図)。そこでは、真の自己を捕まえたという達成感が生じます。しかし真の自己は捕捉の対象たりえないものです。黒牛を捕獲した牧童は、真の自己を捕捉したと思い、悟ったつもりの第一の夢を見ているのです。そこには我の高揚があります。牧童が達したのは、「我執」の域に過ぎません。
 
 
 


 第四図から第五図の間には、長い精進のプロセスがあったと見るべきであり、第五図「牧牛」では、牛の色は「白化」しています。この図からは、「自己を陶冶する」という第二のステージになります。白く純化した牛に乗って、心の奥底へと回帰します(第六図「騎牛帰家」)。そして白い牛の姿も昇華して消えて、人牛は一体化し、清明なる月の下に、山中の庵で独座して、高踏的な悟りの境地に至ります(第七図「忘牛存人」)。「我執」という第一の夢から覚めて、諸法無我、諸行無常を知り、無を認識しているという段階にあるのです。聖位とも言われる境地です。修行を重ねて到達する「上求菩提」の域ですが、悟り至上主義的な第二の夢の中にいるのです。
 
 
 


 次に、第八図以降が、「真の自己を生きる」第三のステージになります。ここで、いくつかの問題があらわになっていきます。第八図「人牛倶忘」で、何も描かれていない空一円相になることは、廓庵十牛図に共通です。第七図まで連綿と継続し、聖位にまで至った展開は、ここで無へと開放的に切り替えられます。無を頭で認識していた人も姿を消し、本当の無そのものになります。無は自由そのものです。無の次に、自然の本源が現出します。森田正馬が「柳は緑、花は紅」という禅語をよく引用したごとく、主客一体の「あるがまま」の姿です。
 そして最後の第十図「入鄽垂手」に至って、ドラマチックな変化が起こります。入鄽垂手とは、市井に入り手を差し伸べて人に慈しみを向けるという意味ですが、図では二人の人物が描かれています。左には、布袋さんのような腹をしたメタボの人物が、酒のかめを手に、悠然としています。これこそ、自分の心牛を尋ね歩いた元牧童が、遍歴を経て進化を遂げた姿です。その前には、これから尋牛の旅に出るのかもしれない新たな牧童のような人が佇んでいます。元牧童は、上りつめた聖位の境での、悟りを至上とする第二の夢から覚め、下山して日常生活に戻ってきたのです。ただ者ではないただの人になりました。「下化衆生」の境位にあります。真の自己は、ここでメタボの人と一体になっていますが、眼前にいるしょぼくれた人が、他者として重要な役割を果たしています。他者がいてこそ自己が自己になる。相手が、下化衆生をさせてくれているのです。大所高所から降りてきた人が、上から目線で下界の庶民を救ってやるというニュアンスが、もし出ると、あまりいただけません。ちなみに森田療法にはパターナリズムの軸がありますが、それは硬直した軸ではありません。
 さて、この第十図では、これまで円相の図を囲んでいた周囲の枠が黒色だったのに、最後に白くなったことに気づきます。これはどういうことなのか。黒かった枠は、壁のような仕切りがあったことを意味し、図が展開した円相は、円窓だったのではないか。壁の内側に引きこもっている自分がいて、壁に開けられた円い窓から、外で展開する自分劇場を眺めていたのではないか。第十図で、内側と外側を隔てていた壁は消えて、ひきこもりの自分は外へ出た。自分劇場を見ていた自分も同時に布袋さんになったのです。あるいは右側の牧童になったとみなしてもよいでしょう。この「十牛図」は、複雑な3Dの構造になっていたのです。
 
 
 


 3Dの構造は、第十図において劇的に明らかにされました。暗い部屋に引きこもって、円い窓からおずおずと外を覗き、自分劇場に見入っていた自分が布袋になってしまいました。布袋さんは元神経衰弱の引きこもりだった。新たな牧童にも、また繰り返す自分探しの出発が予示されています。神経衰弱は治ったり再発したり。それが人生、セ・ラ・ヴィ です。
 

                                   (前編 了)

【再掲】禅の「十牛図」と森田療法─正馬先生の「心牛」探しの旅─【後編】

2020/08/27


 以下は、2015年に行ったある講演のスライドですが、「十牛図」の絵のみ、今回(2020年8月23日)差し替えて、全体の構成はこのままで掲載し続けます。新たに差し替えた絵は、杉本二郎画伯に描いて頂いた貴重なものです。出版化を予定している前段階で、今からこの絵を先出しすることを、杉本画伯にご諒承いただいたものです。著作権を侵害なさらないように願います。

 
 
 森田療法は、世に認知されている数多くの精神療法のうちで、名称に創案者の人名が冠された唯一の療法です。しかし、それは単に心を病む人たちに対する精神療法であるにとどまらず、古来よりのすべての人間の生き方そのものです。精神科医師になった森田正馬は、自身が神経衰弱の状態になって悩んだ経験を生かして、この精神療法を創りました。自分自身が、森田療法を生きた第一号のケースでした。つまり、森田療法とは、治療者である以前に、「悩んで、そして生きた当事者であった森田」によって創られた療法という意味で、森田の名がついた療法であると理解する方が自然だと思われるのです。
 そこで、森田療法の基礎事例としての森田正馬の生涯を、「十牛図」に対照しながら、挿話的に辿ってみます。

 
 

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 それは、父に反抗した青年が、やがて悩める人たちの父となった物語です。
 
 
 

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 先に、十牛図の階梯を三段階に分けて理解しましたが、それに対応するごとく、森田の生涯も、同様に三段階に分けて捉えることができると思います。
 おそらくそれは偶然ではなく、ライフステージは、大まかに三段階があるように思われるのです。我もしくは自我を獲得することが主題になる第一のステージ、思慮分別をわきまえるに至る第二のステージ、そして老成した人になる第三のステージです。
 まずは森田正馬の生涯の第一の段階です。高知県香美郡冨家村(現 香南市野市町)に出生。おとなしい無口な子で、小学校の成績は良かったとも、良くなかったとも言われるが、とにかく神童のように優秀な子ではなかった。そのため小学校教員をしたことのある父から厳しく勉学を強いられ、かえって勉強嫌いになっていった。9歳頃、村の金剛寺という真言宗の寺の地獄絵を見て恐怖を感じ、それが原体験となって、生と死の問題を考えるようになり、長じてもたびたび不安を覚えることになったという。
 夜尿があって12歳頃まで続いた。
 農業を営んでいた父は、正馬の中学校への進学にすぐには賛成しなかっので、遅れて中学校に入学。中学校時代から神経衰弱の症状が起こりだした。友人と一緒に東京へ出奔して苦学を志すが挫折して帰郷。さらに、旧制高校に入るために、高知出身の大阪の医師、大黒田龍が奨学金を出すという養子縁組に、親に無断で応募して養子になった。親に知られて、養子縁組を解消し、中学校卒業後は旧制熊本高等学校に入学。この旧制高校時代に、仏教哲学を学び、関心を深めていく。
 東大医学部に進学したが、神経衰弱症状のため勉強が手につかず、父の学資の仕送りが遅れているせいにして、父への面当てに、死んでやれと、神経衰弱の薬の服用を止め、必死で勉強したら、試験に好成績を得て、神経衰弱の症状も吹っ飛んでしまった。これは有名なエピソードで、この自身の体験が森田療法を生む契機になったと言われる。
 しかしこんな話から、当時は実にわがままな青年であったことが、よくわかる。暴れている黒牛そのものである。
 
 
 

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 生涯の第二段階。
 医師になり、初めて他者を治療する立場の人になった。仕事が人を作っていったのでしょう。
 父への感謝と尊敬の念が湧き、初めて手にした百円紙幣を父に送ったのでした。
 神経衰弱に対しては、試行錯誤の末に、大正8年、45歳で自分の療法を確立します。
 さらに大病にかかり、死を覚悟します。四十代にして、ようやく「死は恐れざるをえず」という悟ったのです。こうして、我執から離れていきました。
 白牛になり、さらに牛は消え失せる段階にまで達しました。
 
 
 

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 生涯の第三段階。
 いよいよ森田の面目躍如となります。自宅に入院させた患者と生活を共にし続け、自ら先頭に立って動き、時には叱り、常に患者を慈しみました。郷里の母校、冨家小学校に寄付を重ねて、晩年には講堂を建てました。人間愛の人、森田は「今親鸞」 と慕われたのでした。
 死の床においても、「死にたくない」と言い、また高熱にうなされて意識がなくなったとき(せん妄状態)、こんな夢を見ていたと、周りにいる人たちに身をもって教える死の臨床講義をしたのでした。本物のデス・エデュケーシです。教えるも、教えられるも、森田療法は死ぬまで続くものなのです。
 
 
 


 森田正馬が患者さんたちと起居を共にした生活は、まさに「十牛図」の第十図の「入鄽垂手」に相当します。森田は禅に関心を持ちながら、無念無想に浸るようなたぐいの座禅を嫌いました。禅の修行に人工的な不自然さを見ていたようです。生活の中にある自然な禅を実践していたのでしょう。「十牛図」と対照しても、森田の生涯を考えるに当って、教本的な二次元の教えは平板で、3Dの世界に出ていく実践にその面目が、最も生き生きと見て取れます。患者と一緒に買い物に出たり、浅草へ映画を見に行ったり、熱海の観梅に出かけたりして、実際に即して指導しました。病身の森田は乳母車に乗って患者と買い物に出かけましたが、恥ずかしい格好よりも、市場の狭い通路を通るには乳母車が好都合だったからです。
 
 
 

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 弟子や従業員さんたちに囲まれている、病も篤い森田正馬です。
 
 
 

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 森田が創案し、実践した療法─森田自身は「余の療法」と呼び、没後に「森田療法」と呼ばれるようになった─は、決して特殊な療法ではありません。
 人生には必ず悩みがある。悩みは神経質な人たちに現れやすい。一方森田の療法は、すべての人たちの人生に対応するものだけれど、精神医学の立場からは、悩める神経衰弱(神経質)の人たちが、さしあたり対象になった。そのような成立の事情から、後年、森田療法は神経質(神経衰弱)の療法だという固定観念が生じたようです。
 しかし、森田は治療対象として、まずは神経質に焦点を当てたけれども、それに終始することなく、神経質の表層の心の病理の治療もさることながら、生老病死の苦と共に生き抜くことを教えているのです。そしてさらに、治療者の人間性の重要性を力説したのです。
 
 
 

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 十牛図の三段階と、森田の生涯の三段階が対応するものとして、理解したのでしたが、森田自身、修養には三段階があると言っているのです。
 学歴になぞらえるのは語弊があるのですが、スライドでは、森田の言い方に忠実にそのまま紹介しました。
 我慢すれば見返りが得られると、自己中的な功利的期待が働くのは、初級程度で、我にとらわれている。黒い牛さんの域。
 諸行無常を頭で認識する知力を持つのは中級程度で、我を捨てて無我になりましたという、分かったつもりの心境。白い牛さんの域。
 さらに苦楽をあるがままに受け入れて、生の欲望(生の躍動)になりきって、無心に生きるのが、上級程度です。無心の段階に、もはや牛はいません。
 
 
 

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 森田正馬の人間的成長の軌跡を「父親殺しpatricide」として捉えることができます。もちろんここでの「父親殺し」とは精神分析で言うような意味でです。
 心身ともに弱い子どもだった正馬は、青年になって「疾風怒涛」の反抗期を迎えます。しかし父は偉大な存在でした。父への反発は続きましたが、医師になって後、自分を一人前にしてくれた父への感謝の念がふつふつと湧きだしたのでした。父への反抗は父に及ばない子どものすることです。父に感謝し、父に盲従もせず、大きな人間になっていくのが、父を越えることになるのです。森田正馬は大きな器の治療者になり、患者に対して、厳父として慈父として、父性愛を発揮しました。
 森田療法は父性を軸とする療法であると言えます。その点では禅に似ています。内観療法や真宗において母性が重要なのと対照的です。
 
 
 

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 『臨済録』にも「父親殺し」に相当する教えがあります。仏に対しても、師に対しても、両親に対しても、感謝や尊敬を忘れてはならないが、偏愛、盲従盲信に陥ることなく、差別なく人に目を向け、広く学び、不断の努力をして前進せよと教えているのです。
 
 
 

39
 森田が実際に弟子たちに教えた言葉を掲げました。自分に盲従せずに、自分を越えていけ、と教えたのです。ここに父性愛の極致を見ることができます。
 改まって教えた言葉をここに引用しましたが、日常の卑近なやりとりの中で、いつも森田は治療者に盲従することの愚を戒めました。たとえば「わしが、『三遍回ってワンと言え』と言ったら君はそうするのか」と叱って、治療者に盲従せずに、自己判断をするように諭したそうです。
 
 
 

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 森田は独自の療法を創りましたが、その技法の独自性をいたずらに誇ったのではありません。彼は治療者の人間性を重視しました。
 彼は「間接療法」が重要だと言いました。「間接療法」とは、どんな療法であれ、それを施す技法や技術より、それをおこなう治療者の人間性や人生観が間接的に隠し味として如何に重要であるかを強調したものです。まず第一に、森田の自身の療法において、治療者の自己研鑽を不可欠だとしているのです。そしてそれは、他の療法にも押し広げて言えることだとしているのです。後世において、そのような森田の治療観が忘れられがちになっているのは、残念なことです。
 
 
 

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 事例など、追加的に述べたいことを少し補足します。
 
 
 

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 事例の中身の記述部分は都合により削除しました。しかしタイトルから概要をわかって頂けるでしょう。わが息子をいとしく思う身体障害の高齢の母と、社会的生産性はないけれど、母の在宅介護をし続けた当事者の例です。二人での家庭内生活は幸せでした。これをマザコンというなかれ。親子のひきこもりというなかれ。二人三脚のどこが問題でしょう。幸せにはいろんな形があっていいのです。
 
 
 

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 「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す 之を苦楽超然といふ」
 この言葉からも、森田の基本的な思想と教えがわかります。神経質や神経症の症状を治す療法だなどとは言っていません。水戸黄門の主題歌と同じなのです。そこで、それをもう一度、「人生 楽ありゃ苦もあるさ」。
 
 
 

44
 最後に森田療法の本質を、短い言葉で記しました。森田療法にとらわれ、それを頑なに追求するほど、がんじがらめになって、森田療法本来の自由から遠ざかってしまうのです。ある禅の先生は、森田療法は禅と同じではないかと言ってくださったのでした。
 
 
 

                                   (後編 了)

 

 以上の講演では、先行する以下の発表が下敷きになっている。

 

1.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 森田正馬自身の生き方を基礎事例として. 第27回日本森田療法学会(一般口演),2009(同抄録:日本森田療法学会雑誌.21(1);73,2010).

 
2.A Comparison between “the Ten Ox-herding Pictures” of Zen and “the Cure” in Morita Therapy: Shoma Morita’s Life as the Basic Case. 第7回国際森田療法学会,メルボルン,2010年3月.

 
3.禅の「十牛図」と森田療法における治癒過程の比較検討 ─森田正馬自身の生き方を基礎事例として─ 京都森田療法研究所web掲載論文,2010.

 
4.禅の十牛図と森田療法 ─悟りとは?そして治癒とは?─ 第12回総合社会科学会(特別講演),2010年6月,東京.

PRESENTATION DU MONASTERE RYUMON JI, TEMPLE ZEN (禅寺 龍門寺の紹介)

2020/08/25



 

 


 

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 森田療法に関心を有しておられるフランス人精神分析家(ラカン派)のニル・エルブ Nyl ERB 女史から、メールが届きました。PSYCAUSE というフランス語圏の国際学会の開催を6年前に京都で引き受けたことがありましたが、女史はそのときの参加者のひとりで、以来継続的な交流をしています。2年前、高知で森田正馬没後80年記念祭が開催された折り、その3ヶ月前にフランス人仲間と来日して高知に行き、大阪にも立ち寄られて、会いました。
 親日家で、森田療法や森田が調査をした土佐の犬神憑きにも、文化人類学的に関心を示しておられます。
 しかし、こと森田療法というものは、日本の文化的背景や治療理論に通じ、かつその臨床的経験なくして、わかるものではありません。そのため模索を続けてこられました。今年はまた、別のフランス人と一緒に日本に来られる予定だったのですが、COVID-19 のパンデミックのために、来日できなくなりました。
 女史は、「自分はこれまで自己分析を続けてきたが、その結果として自己分析をやめるのがよいという結論に達した。そのため、自分はこの機会にフランス国内の禅寺に入って禅体験をすることにする。そしてその後で、改めて森田療法に体験的に接近をはかりたいと思う」とメールで伝えてこられたのです。私は、これに対して大いに賛同の意を表しました。
 女史が在住しているコルマールはアルザスの一都市ですが、同じアルザスのストラスブールの郊外に、曹洞宗の RYUMON JI(龍門寺)という僧院があります。弟子丸泰仙老師の弟子に当たる禅僧が責任者を務めておられます。
 
 ニル女史は、自分が修行を予定している、この RYUMON JI 龍門寺の視聴覚的な紹介のドキュメントを送ってくれましたので、以下にリンクをつけておきます。是非開いてご覧下さい。動画もついています。フランス語の不得手な方でも、視覚的にこの禅寺の修行の模様がわかります。
 「オンライン禅」までありますから驚きます。新型コロナの感染防止のために急遽「オンライン禅」を始めたのではないようです。フランスでは、かなり以前から、学会でもスカイプを駆使していました。フランスはそんなオンライン大国なのです。
 そのうちにフランスで、オンライン入院森田療法ができるかもしれません!!
 
 リンク(RYUMON JI 龍門寺の紹介)
 
 
 さらに、このホームページの中に、6年前にニル・エルブ女史ら、フランス人が京都での学会に来たときの記事や、2年前に大阪で会ったときの記事がありますので、以下にそれらへのリンクもつけておきます。
 
 リンク(2018年、大阪)
 
 リンク(2016年、京都)

下村湖人がつくった「煙仲間」について

2020/08/23



 
 
下村湖人がつくった「煙仲間」について

 
 比嘉千賀先生が「生活の発見会」50周年記念講演の中で、下村湖人が社会教育活動の中でつくった「煙仲間」についてお話しになりました。この「煙仲間」については、私(岡本)自身、下村らの社会教育活動の流れをたどって報告をして来た中で述べたものですので、この「煙仲間」とはどのようなものであったか、責任上少し説明を加えることにします。
 
 「煙仲間」の由来は、戦前に田澤義鋪がつくった「壮年団」という、青年団を卒業した二十代後半以上の人たちが共に活動する集団に発する。戦時下で、自由と社会的良心を守ろうとしたこの活動は官憲に抑圧され、翼賛会に乗っ取られたために、下村湖人が協力して名称を変えて、この壮年団運動を引き継ぎ、存続させたのだった。
 下村湖人は、佐賀藩の「葉隠」の中にある歌から「煙」という文字を取って、集団の名称を「煙仲間」とし、活動の中身が見えないようにしたのである。その中身とは、軍国主義に反対し、人間の自由を尊重し、良心を持って地域や社会に貢献しようとしたものだった。
 
 敗戦で一旦潰えた「煙仲間」を、下村らは戦後に再び復活させた。新たな「煙仲間」も社会の良心、人間の自由と尊厳を守ろうとする点で戦前と同じ趣旨を貫いていた。ただ、戦前においては、右翼や戦争に走ろうとする軍部へのレジスタンス的な地下活動の色彩が濃かったが、戦後は逆転して、自由放逸、エログロの退廃的風潮に対して、道徳や倫理の回復、教化をはかろうとするものであった。「煙仲間」の拠り所は、常に社会の良心、人間の自由で、社会の精神がブレたらそれを真ん中へと正そうとするものであった。戦後においては、戦前のような弾圧はなくなっていたので、地下組織である必要もなくなった。しかし、履き違えられた自由の奔流を正す活動は時流に敗れて、活動は消滅していったのだった。
 
 そこで、改めて「煙仲間」とは、集団として如何なるものであったのか―。
 社会学や社会心理学の概念として、「準拠集団」というものがあり、「煙仲間」はひとつの準拠集団に当たるというのが私の見方である。「準拠集団」は “Reference Group” で、個人が集団の特質、規範、価値観などに refer し、それを自分の拠り所として摂取し、共有する、そんな集団のことである。「準拠集団」は「所属集団」に相対する概念である。「所属集団」とは、個人がある集団の静的な成員であるという、固定的な概念であるが、それに対して、集団の特徴や機能と個人が有機的関係で結ばれるのが、「準拠集団」である。
 所属集団は準拠集団と別であったり、同じであったり、部分的に重なったりする。例えば、大学や学校の学生、生徒は基本的に大学・学校という所属集団の一員である。校内の部活をしていれば、所属集団内のサブ集団が準拠集団である。学校外の暴走族に憧れ、そこに入っていたら、それが準拠集団である。
 
 煙仲間の場合、壮年団ないし青年団と煙仲間は、ふたつがほぼ重なっていて、所属集団と準拠集団がほとんど同じであった。
 「生活の発見会」の場合は、近年神経症の自助グループを標榜し、社会的にもそのように認知され、かつその成果を挙げ続けている集団なので、固定的な所属集団ではなく、準拠集団であるとみなすのが妥当である。ただ、自主的判断能力を欠く人が、神経症なら入会する会と考え、漫然と会員であり続けておられたら、当人にとって形だけの所属集団でしかなくなる。その辺のことは私にはわからないので、実態を云々し、生活の発見会の機能や活動についてものを言う資格は私にはない。言えることは、自助グループであれば、それはすなわち準拠集団にほかならず、準拠集団であれば、集団の質や機能や活性が、集団対会員の相互関係において、重要であり問題になるということである。一言で言えば、集団力が問われるということになろう。個人が自己向上を求めて、自分に合う準拠集団を求めているとする。そのニーズに合う集団の条件はどのようなものであろうか。準拠集団は複数あるかもしれないが、安易な意味においてではなく、自分を生かし、他者を生かし、自分たちも集団も互いに向上成長しあっていく、自由と活力のあるそのような準拠集団であることが、集団として基本的に求められる。その上に集団の特殊性が上乗せされる。そのような準拠集団が、クオリテイの高い魅力ある集団として、社会的に機能することができるであろうし、選ばれて然るべきであろう。
 
 医療としての森田療法と、生活の発見会は同じものではないでしょう。従って、生活の発見会は療法の会ではなく、生活の面において人間的に成長していこうという、つまり下村が言った「社会の良心」を共有して、社会に寄与する志を実際に生かそうとするのが、特徴であるはずではなかろうか。
 
 久田邦昭氏(教育学者)は、著書『教える思想』の中で、集団論の見地から、煙仲間は「メタ組織」だと言っている。これは、煙仲間という集団が一般社会に寄与するときの力動についての説明である。いざというときには、各人の所属集団の規範とは関係なく、発生した当面の問題の解決のために急遽、あたかも「自己組織化」して、組織を組み協力して活動し、目的を果たしたら平時に戻る。平時においては、趣味の会であれ、ボランティア仲間であれ、ゆるいつながりを持っている。それぞれが同じ所属集団にいるとは限らない。このような煙仲間は、未だ組織になっていないものだし、下村の言う社会の良心(純な心) だけは共有するが、ボーダーレスなゆるい集団と見て、私は「メタ集団」とみなしているが、「メタ組織」と呼ばれても、大きくは異ならない。
 思想、理想、感性などが関わるので、その点も難しいが、煙仲間の場合、歴史的には、社会の良心(純な心に相当するであろう)、友愛、自由、向上心、成長欲求、などを本質に置く必要があった。
 
 今日、コロナが広がっている社会で「自粛警察」が現れたが、これなどは異常な準拠集団ではなかろうか。

生活の発見会50周年記念講演(比嘉千賀先生)

2020/08/05



 

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 8月に予定されていた「生活の発見会」総会の開催が中止になりましたが、比嘉千賀先生による記念講演だけは、オンラインで配信されています。
 
 私(岡本)は以前に短期間、「生活の発見会」の協力医をさせて頂いた程度のご縁しかなかったのですが、「生活の発見会」の歴史に関心を持ち、それを拙著(「忘れられた森田療法」)に書きました。
 発見会のルーツは2つあって、ひとつは水谷啓二先生の「啓心会」の活動でしたが、もうひとつ、下村湖人らの社会教育の活動の流れもあって、これらの2つが合流して大河のようになったのが、最初に誕生した「生活の発見会」だったのです。
 社会教育の流れとは、森田正馬に10年ほど遅れて、熊本五高を卒業した、田澤義鋪、下村湖人、永杉喜輔の3人が戦前より順次関わり続けた、社会の中の教育運動でした。下村や永杉は、その活動を戦後に復活させました。永杉と水谷啓二は熊本五高での同級生でしたが、そんな折りにふたりは再会して、下村、永杉、水谷は意気投合します。こうして、社会教育と森田療法が合流して、「生活の発見会」になったのでした。
 森田正馬を筆頭に、田澤、下村、永杉、水谷の5人の人たちは、皆が旧制五高の出身者だったのです。
 
 3年前の2017年、日本森田療法学会が、熊本大学で、会長をなさった藤瀬昇教授の下で開催されました。そのとき、熊本五高出身者たちによる社会教育と森田療法の合流について、比嘉先生と岡本によるパネルディスカッションが組まれました。
 
 このたびの、生活の発見会50周年記念講演で、比嘉先生は3年前の学会でのパネルディスカッションの内容を再現する意図でお話しくださったのです。
 
 比嘉先生のオンラインでの講演は、「生活の発見会」のホームページから視聴できますが、以下にリンクをつけておきます。
 


リンク(生活の発見会ホームページへ)
 
リンク(YouTubeへ)

 
 
 さらに、熊本での学会の翌年の2018年に、熊本大学の藤瀬教授を中心に、『森田療法と熊本五高』と題する単行本を出しました。そこには、私たちがパネルディスカッション後に新たに書いた原稿が含まれています。比嘉先生のオンライン講演の視聴とともに、併せて読んでいただければ、幸いです。
 なお、この本の入手について、「お知らせ」に書いておきます。