コロナ危機の時代の森田療法(下) ―問われる森田療法の真贋―
2020/07/13
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コロナ危機の時代の森田療法(下)
―問われる森田療法の真贋―
1. オルテガ、西部邁の哲学と五木寛之氏 ―“Together and Alone”から“Alone and Together”へ―
アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代の人間の生き方について、五木寛之氏が言っておられることがある。それは、オルテガという20世紀のスペインの哲学者の思想を受けて、わが国の哲学者、西部邁氏(1939-2018)が書いていたことに関連する。
ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、著作『大衆の反逆』で、大衆による民主主義が暴走する状況を危惧し、それに対して、他者と対話し共存しようとする忍耐や寛容さを有する人の存在を、精神の貴族として重んじたのであった。わが国で西部邁は『大衆への反逆』を著しており、オルテガの思想に共鳴した哲学者として知られていた。西部はみずから精神の貴族の立場にいた人であった。ところが晩年において、その孤高の精神は救いがたい孤独となり、2018年に自裁(自死)を遂げた。それも多摩川べりを場所として選び、そこでふたりの弟子に自殺幇助をさせたという、いわくつきの自裁であった。西部はその前年に、自分の死の予告と決意の原稿を雑誌「正論」に寄せており、一年後に実行された彼の死を受けて、同誌の追悼特集に先の原稿(注1)が再掲載されたのである。
五木寛之氏はこの遺稿を読み、西部がオルテガを引用しながら書いていたくだりに注目したと、いくつかの場で言及しておられる。そこで西部のこの遺稿を入手して読んでみたが、全体において既に自虐的な異様な文章である。自分は生涯を通じて、他者との団結を求めてエッセイを書き続けてきたにもかかわらず、何ぴととも団結できなかった自分を揶揄することができる、というような論調の文章なのである。その西部の遺稿中で、五木氏が注目したという箇所のみを、以下に抜粋引用しておく。
「(オルテガいうところの)「トゥゲザー・アンド・アローン」つまり「一緒に一人で」いるしかないのである。言い換えれば、「社交にのめり込みつつも内心ではつねにぽつねんとしている」ということだ。」
このような文には、もはや精神貴族(ノブレス・オブリージュ)の誇りはなく、そこにあるのは、誇りの残渣と高齢のうつ病者の自嘲である。しかし、五木氏はこの文を読んで、「これだ」と思ったという。
西部は、オルテガいうところの「トゥゲザー・アンド・アローン」と書いている。オルテガはそのような表記をして、しかも「一緒に一人で」、「内心ではつねにぽつねんと」というような意味を込めていたのだろうか。厳密に点検することが望ましい。オルテガの著作はスペイン語であるから、英訳書に“ Together and Alone ”という謳い文句的な表記があるかどうか、少し探したが、これは不明のままである。したがって、そのフレーズの有無や意味について、傍証を得られないが、死を予定しながら西部がオルテガを引用している文章を、そのまま受けとめておく。
そして、五木氏の読み方を推測してみる。五木氏は、オルテガの系譜から西部を一旦切り取って、群集の中にいながら孤独に生きる者が体験する苦悩を西部に見た。そしてそこから折り返して、孤独者のままで大衆の一員になりきれば、一緒に生きる道が開ける可能性に着目したのではないか。五木氏は、「これだ」と思ったのである。そして、“ Together and Alone ”(「一緒にひとりで」)から “ Alone and Together ” (「ひとりで一緒に」)へという逆方向の道を示したのである。うつ病にとらわれた西部は力尽きて、死後に五木氏にヒントを提供したのであった。本当は、大衆の中で、ひとりぽつねんと生きるのではない、孤独を秘めながら大衆と生きるのであると。
アフター・コロナ、あるいはウイズ・コロナの時代においても、生き方が根底から変わるものではない。人間は、これまで不自由なく一緒に生活できた“ Together ”の日常から、コロナとの遭遇により、半拘束的生活の中で、自由な対人交流が制限され、また別離をも強いられる非日常的な“ Alone ”を体験している。しかしそのような不条理を受容しながら、協力し合って“ Together ”のステージへと再び進むのである。
同じ趣意をオルテガの思想に繋いで言い換えれば、改めて次のように表現できるだろうか。
コロナ禍のもとで社会は混乱し、人間関係は不安定になり、協力関係を結ぶことも容易ではない状況が続いている。こんなとき、大衆と共にいて集団の和(“ Together ”)を形成し、同時にその中にいて同調的にならない孤独(“ Alone ”)の精神貴族が水先案内人として存在することが必要である。
オルテガ、そして孤独に逝った西部も然り。大衆の中にいて、「和して同ぜず」。五木氏はそんな思想や生き方を再評価し、そこにコロナの時代の生き方への示唆を見た。
それは、森田療法、あるいは「生活の発見会」の活動のあり方にも通じるように思われるので、ここに紹介した。
注1:
西部邁 : 西部邁が本誌に全て書いていた「死」の予告と決意. 正論 通巻557号 : 138-153. 2018年4月.
(初出 平成29年1月号)
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2. 「生活の発見会」の「煙仲間」的機能への期待
「生活の発見会」は二度誕生した。
まず、その最初の誕生に至るまでの経緯を簡単に振り返ることにする。それは、熊本の旧制五高出身者たちによって進められた、森田療法と、社会教育というふたつの潮流が、戦後に合流し、ひとつの大河になった歴史的なドラマであった。さらにその過程で、社会教育から「生活の発見会」の中へと流入した「煙仲間」の機能について見直したい。コロナ危機の時代の今、「生活の発見会」の中に秘められていた「煙仲間」の静かな活動の復活が期待される。
森田正馬は熊本の旧制五高を卒業した。それから10年ばかり遅れて同じ五高から、社会教育の分野で重要な田澤義鋪、下村湖人、そして永杉喜輔の3人の人物が輩出して、社会教育の道を切り拓いていった。加えて、水谷啓二も五高出身で、永杉と同級で、当時水谷は神経症に悩んでいたが、やがて森田正馬の指導を受け、森田療法の継承者となり、後に「森田生活道の伝道者」と呼ばれるまでになった。
昭和23年に、水谷は、戦後に社会教育活動の復活をはかろうとしている下村湖人とその弟子で旧友の永杉喜輔に巡り合った。そして水谷は人間下村の魅力に惹かれていく。森田正馬に薫陶を受け、森田療法は人間の再教育であることを熟知していた水谷にとって、みずからの「森田生活道」は、下村の社会教育と既に一体のものであった。戦前に始まった下村らの社会教育運動は、雑誌「新風土」を準機関誌としつつ、全国の青年団OB(壮年者)を主な仲間としていた。集団は、右翼や軍部の弾圧を避けるために、その実体が見えない洒脱な名称として、「葉隠」の中の歌に出てくる「煙」を取って、下村が「煙仲間」と名付けたものである。下村は戦後にも、この「煙仲間」を復活させていた。水谷は、当時居住していた横浜でみずから「戸塚懇話会」と称する煙仲間を立ち上げ、親しく下村に師事した。肝胆相照らして、下村や永杉もまた、森田療法に関心を寄せた。
雑誌「新風土」は終戦前に廃刊となっていたが、下村や永杉の努力で、戦後に再度の創刊を果たした。しかしエログロの時代から、もはや取り残されて、数年で再び廃刊の憂き目をみた。下村は、ベストセラーの自著『次郎物語』の読者らを各地に訪ねて、「煙仲間」の活性化を図ろうとしたが、精力を必要とするその行動は困難を伴った。
下村は、古稀の誕生日に歌を詠んだ。「大いなる道といふもの世にありと 思ふこころはいまだも消えず」。「煙仲間」運動を世に浸透させたいという願いは、やむところがなかったのである。だが、既に下村の体は病魔に侵されていて、昭和30年に彼は無念の生涯を閉じた。
下村が逝って、翌昭和31年、水谷は「啓心会」を立ち上げて集会の開催を始め、その翌年の昭和32年には、雑誌を発刊した。この雑誌の誌名は、協力者の永杉喜輔(当時、群馬大学教授)の発案で「生活の発見」となったのである。その命名の由来は、拙著(注2)でも紹介したので略す。重要なのは、この雑誌の発刊の趣旨であり、水谷は「生活の発見」の創刊に当たって、趣意書を関係各方面に書き送った。その一部を抜粋する。
「…私どもは精神医学あるいは心理学の面では森田正馬先生の教えを継ぎ、教育、教養および社会生活面では下村湖人先生の教えを継ぎ、下村先生の主宰された雑誌『新風土』の伝統を守りたいと思います。」つまり水谷は、森田療法と社会教育の両者をひとつの視野に入れて、生活の上に具現し、社会に広めていきたいという思いを、雑誌の創刊に託して表明したのである。
永杉も、「生活の発見」創刊号の編集後記に同様のことを書いている。「水谷氏を中心とした「啓心会」と湖人先生を記念する「新風土会」の同人が協力してこの雑誌を出すことになった」と。
さらに永杉は、創刊100号記念特集号(昭和43年12月号)に雑誌の発展を願う言葉を書いている。その一部を抜粋する。「読者諸兄姉よ、どうか本雑誌を広めて下さい。…物心ともに不潔極わまる日本に一灯を掲げ、一隅を照らすもの、それが「生活の発見」である。」
こうして水谷は、独自の「生活の発見」誌を、100号を超えるまで刊行し続けた。雑誌の発行者は、創刊号以来、奥付に「水谷啓二方「生活の発見会」」となっていた。
だが水谷は、森田療法と社会教育のさらなる発展をはかろうとする夢を残して、昭和45年に急逝した。
それを受けて、水谷の「生活の発見会」と「生活の発見」誌は、長谷川洋三氏に継承されて、再度の誕生となった。長谷川氏は、「生活の発見会」を運営するに当たり、当初は教育の路線を取ろうとしたが、やがて全国的な「自助グループ」へと変化して現在に至っている。
さて改めて、「煙仲間」とは。それは先に概略を記したが、下村湖人がその活動にとくに力を入れた、拘束性のない自由で創造的な集団である。一見煙のようにはかなく、しかし脈々と流れる地下水のごとく、見えないところで社会の良心を共有しあっている。下村はよく「白鳥蘆花に入る」と説いたが、これは煙仲間の精神に通じる教えであった。禅語(『碧巌録』)の「白馬蘆花に入る」に拠っており、白馬が蘆花に入ると見分けはつかないが、存在しているという意であった。「白馬」を「白鳥」に変えて、より情趣ある句にしたのである。
さて、ひとたび事が有れば、既存の団体や職場を超えて、匿名の地下組織となり、縁の下の力持ちとしての推進力を発揮して社会に寄与する。そのような集団的活動を効率的に進めるためには、集団外に指導者がいるのもよいが、集団内で主となる動きをする「主動者」が存在することが望ましいと下村は言う。オルテガが『大衆の反逆』で、さらに西部邁が『大衆への反逆』で述べている思想に通じるものがあるように思われる。下村は「葉隠」の精神貴族(ノブレス・オブリージュ)なのであった。
下村から水谷が受け継いだ「煙仲間」は、水谷没後にどうなったのか。永杉はひとり、静岡で起こった「新生煙仲間」と行動を共にした。長谷川洋三氏以降の「生活の発見会」に、「煙仲間」はどのように伝わったのだろうか。森田が言った「法悦から犠牲心が発露する」という教えによって、後進のために力を尽くし、助力者原理に従って共に成長するということは、限りなく尊い。ただ一抹の懸念は、もし症状を治すことが第一義になれば、自由な前進が阻まれるということである。
自助グループと煙仲間は、その点で根本的に性質を異にする。煙仲間は、症状を治すこととは一切関係なく、多少修養的なモティベーションをもった、気楽な友の会である。コロナの時代に、こんな自由な会が各所に伏在してほしいと心から願う。
注2:
岡本重慶『忘れられた森田療法』創元社.2015
参考文献:
藤瀬昇・比嘉千賀・岡本重慶 共編『森田療法と熊本五高』熊日出版,2018
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3. おわりに―森田療法100年、コロナ元年―
森田療法が成立して100年、わが国のこの貴重な精神療法を守るために、先人たちによる誠実な努力、尽力が重ねられてきた。それに対して敬意を表することを忘れてはならないと思う。だからそれを軽率に踏みにじるような言辞を弄してはなるまい。
ただし、この100年の間に、医療の事情や神経質者の特徴は変貌し、森田療法はかくも変化した現実にどのように対応すべきか、苦渋と苦難の道を歩んできた。やむを得ない迷走を続けてきたと言えるだろう。そこには澱のようなものも溜まっているかもしれない。
思いがけないコロナの危機によって、それは白日の下に晒されるのだろうか? そして療法の真贋が問われるのであろうか?
それは私のような不見識なものが判定できることでは到底ない。コロナ危機に遭遇して、見えてくるものがあるのであろうか。それとも、コロナ禍によって覆われてしまうものもあるのだろうか。いずれにしても冷静に判定を見守る時がきたように思う。