清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想―

2020/01/27


清沢哲夫 著『無常断章』昭和41年、法蔵館。


 

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< 清沢哲夫の詩、『道』―アントニオ猪木に影響を与えた真宗の他力思想― >
 
 現役時代には、「イ―チッ、二ーッ、サ―ンッ、ダァァァ―!!」で突っ走ったアントニオ猪木だったが、引退時には、リング上で『道』という意味深い詩を読み上げた。一躍有名になったその詩は、当初は一休禅師の作と言われた。猪木自身、『アントニオ猪木自伝』の中で引退セレモニーのときのことを回顧して、『最後に、新日本プロレスの道場訓にもしている、一休禅師の詩を読んだ。』と書いている。しかし、この詩は、清沢哲夫の『道』という詩に酷似しており、清沢の詩を一部改変して猪木が朗読したものである。
 まずは、猪木が朗読し、かつ自伝にも掲載している、一休の詩だというものを以下に掲げる。
 
 

『道』

 

アントニオ猪木(一休)

 
 この道を行けば
 どうなるものか
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 踏み出せば
 その一足が道となり
 その一足が道となる
 迷わず行けよ
 行けばわかるさ。
 
 次に、清沢哲夫の詩を掲げる。
 
 

『道』

 

清沢哲夫

 
 此の道を行けば
 どうなるのかと
 危ぶむなかれ
 危ぶめば道はなし
 ふみ出せば
 その一足が道となる
 その一足が道である
 
 わからなくても
 歩いて行け
 行けばわかるよ。
 
 この詩は、清沢哲夫が最初に暁烏敏の主宰紙『同帰』に昭和26年10月に出し、それを昭和41年に刊行した著書『無常断章』に収載したものである。
 清沢哲夫は、清沢満之を祖父にもつ深い真宗思想家、活動者であった。戦争を体験し、復員後は実家、愛知県碧南市の西方寺で形骸化した寺院制度を改革しようとしたが、周囲の反対にあい挫折を経験した。その頃、暁烏敏の孫娘と結婚している。また弟が精神病を発病したので、入院させた。『無常断章』中の「狂人」という文章には、次のように記されている。
 
 「弟の病に対する悲しみをこえる道は、自分も亦今現に寸分違わない世界にいるのだと知らされるのみであります。
 しかし自分の中にある狂気が知らされてくる時、一切の事物の上に明るい光がさしてきます。」(昭和27年1月)。
 
 『道』という詩を書いたのは、そのような時期のことであった。
 その後愛知県の寺を出て、暁烏が生前に在寺していた石川県の明達寺に移住した。ドイツ留学、大谷大学の教職を経て、暁烏姓となり明達寺の住職になった。
 
 清沢哲夫の『道』は、人事を尽くして天命に身を任せている自身の歩みを、読者に対して優しく包むように伝えている。
 猪木が朗読した詩では、いくつかの箇所で改変がなされており、とくに終わりの部分では、「わからなくても歩いて行け」(清沢)が「迷わず行けよ」(猪木)と変えられている。
 一休禅師には多くの道歌があり、迷いや道について歌ったものがいくつもある。けれども、一休の歌はたいてい一癖あって表現が屈折しており、「迷わず行けよ」などと一休が言ったりすることはない。しかし引退時の感懐として、リング上で叫びたかったことは、一休の教えにもまた通じたので、「迷わず行けよ」と分かり易い句を入れて一休の詩に仕立てて、清沢哲夫の名を伏せたのではないだろうか。猪木の背後に、禅と真宗に通暁した人物がいたと考えられる。清沢哲夫の詩を持ち出したのだから、真宗にかなり造詣の深い人であろうか。
 いずれにせよ、格闘家の引退に当たって、自力を超えて他力に委ねて歩む道の詩が取り上げられたことは、興味深い。格闘技においてさえ、究極的には自力と他力が融合する境地になるのである。
 そして最近、車椅子生活になったアントニオ猪木は、車椅子の生活者として「あるがままで」生きていく、と述べている。
 森田療法における「あるがまま」も、自力と他力を包含していることを、改めて思う。
 


クリニックではありません

2020/01/25


<クリニックではありません>
 
 当方は、クリニックではありません!
 診療を行うクリニックや心理カウンセリングを行う相談機関ではありません。
 
 当研究所の理念などは、ホームページの表紙にあたるページに明記している通りです。
 森田療法という優れた療法―というより生き方ですが―の意義とあり方に関心をお持ちの方々と、広い意味で、その研究上の交流をはかろうと意図しています。職種を問わず、同じ志しを有する方々と、日本中遠くても近くても、意見交換、情報交換をして、共に勉強しましょう、という提案をして、京都森田療法研究所という名のもとに、いわば研究交差点のような機能をしようとしています。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
 これを書いているとき、たまたまブルガリアの心理学者からお手紙が届きました。
 台湾の方やフランスの方々とも交流があります。ヨーロッパは遠いですが、メールでのやりとりで、地球上の距離を越えて、かなり交流が可能です。そんな時代になりました。
 
 さて一方で、困る問題もありますので、ここに記しておきます。
 この研究所を森田療法のクリニックかカウンセリング機関とお間違えになる方も、一部にはいらっしゃるようなのです。京都地区で森田療法専門機関を探して、勘違いをなさるのかもしれませんが。
 
 受診機関を求めて、お困りのかたがたもいらっしゃることでしょう。そのようなかたがたのご不自由はお察しします。しかし京都地区も、森田療法の無医村ではないと思います。どうぞお間違えなきようにお願いします。ご本人様、ご家族様、また森田療法関係者のかたがたにお願いします。当方のホームページに明記している趣旨を正確にご理解下さい。そして早合点なさらないで下さい。
 ご理解のほどを、改めてお願いする次第です。
 

京都森田療法研究所

主宰者 岡本重慶

謹賀新年

2020/01/12




ご挨拶
 皆さま、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
年頭の所感
 昨年は、災害の多い年でした。人間的な生き方、取り組みである森田療法は、災害を無くするような万能のものではないことは、言うまでもありません。
 ただ、言えることは、森田療法は神経質や神経症の症状を治す精神療法だという思いこみが蔓延しがちな風潮の中で、森田療法のあり方が問われているということです。災害の、人為ではいかんともし難い現実を前にして、それでもそれをどうするかと考え、動けることがもしあれば動き、そして祈る。それが森田療法だと思います。
 さらに言うならば、現代において、森田療法が対象とする心の病理は神経症だけでなく、あれやらこれやらと増加した、だから森田療法を生かす場が広がったと、やりがいを感じて活動を拡大しようとする、それは重要なことですが、それが目的化したら、少し違うと思うのです。森田療法は、それを施したり教えたりする専門家と、施されたり教えられたりする人たちとの二分法の上に成り立っていたら、本当の森田療法ではないでしょう。それだけは確かなことです。もちろん、対象への取り組みという二分法から始まって、その二分法が乗り越えられていくのでしょうから、性急に批判すべきことかどうか、わかりませんが。
 ともあれ、災害の多かった昨年は、森田療法にとってとくに試練の年であったと思います。そして森田療法の試練は、今後も続きます。
 当方(京都森田療法研究所)は、いろんな意味での体力の不足のため、活動面で制約を抱えていて、それが残念なところですが、それなりに微力を尽くしていきたいと思います。
 昨年、森田療法の「考現学」を課題として掲げて、研究的な原稿をそれに連動させようと試みました。恥ずかしいことに、それが中途半端な形で止まっています。先述した森田療法のあらまほしい本当のあり方を探るという点で、こちらの思いはひとつです。本年は、その整理をつけていかねばなりません。
 竜頭蛇尾になってはいけません。長広舌はこれくらいにしておきます。
 
お願い、あるいはお誘い
 上記の長広舌で、当方の意図しているところを、およそお分かり頂けたかと思います。それはこのホームページの表記のページにも、理念として書いている通りです。机上の論に終わるような高尚な研究をすることを目標にしてはいません。実際の必要につながる研究をしようとしています。またその表現の形は、多様であってよいと思います。当初、定期的な研究会の継続的な開催を試みましたが、やってみると、中身の薄い集いになりかねず、そのため随時、必要に応じて、少人数で会って話し合い、交流をしています。どうぞ皆さまにおかれましては、気楽に当方にアプローチして下さい。大小、何でも持ち込んで下さい。どうぞご遠慮なく! 遠慮してためらう人こそ、お会いして交流すると、意義ある成果が生まれます。一方、こちらの趣旨を無視して飛び込んできそうな方は、まず自分の足元をご覧下さい。そして、こちらはクリニックやカウンセリング機関ではありませんから、患者様として受診したい御方は、こちらでは対応しておりませんので、その点はどうぞご理解下さいますように。
 
 
 それでは今年もどうぞよろしくお願い致します。
 

令和二年元旦
  京都森田療法研究所
   主宰者   岡本重慶
   研究員   一同