森田療法における自力と他力(上)―倉田百三の魂の遍歴―

2019/09/07


倉田百三



 
1. 自力と他力
  「自由とは独立独行なり 奉仕さるるを願はざる処に自由あり」。森田正馬のこのような墨跡が、以前に三聖病院に掲げられていたことがあった。これは禅的な言い方のようだが、森田らしい味わいに欠ける言葉で、いわば野暮ったい感じがする。しかし、わがままで依存心の強い神経症者に対する、直截な教えであろうと解しうる。自ら努力をせずに、いわゆる他力本願に堕しているところに、自由な生き方はないと教えているのである。
  もちろん人間は、百パーセント自力で生きていくことなど不可能である。しかし、精一杯に自力を尽くして生きてこそ、向上することができ、おのずから生きがいも生じるというものである。それは当然の前提であるが、それでも人間は究極において、生死を他力に委ねるほかにどうしようもない存在である。
  森田は、まずは自己中心的で依存的な神経症者を自立せしめるために、野暮な教えも辞さなかったが、より深い人生観として、森田自身、結核を抱え、愛児を失い、人生の苦闘を経て自力の尽きるところ、なお死は恐れざるを得ず、という自然服従の境地に至っていたのであった。
  このような自力と他力の問題について、『出家とその弟子』で知られる作家で、森田療法に関わりのあった神経症者、悩める倉田百三の精神の遍歴を取り上げてみる。倉田には、宇佐玄雄や森田正馬との治療的関わりがあったのみならず、森田のもとに入院中だった学生時代の鈴木知準に対して先輩としての出会いもあった。鈴木は倉田から道元の他力の思想の洗礼を受けたのである。
  倉田百三と森田療法とのこのような交わりをたどることで、自力と他力の問題を考えようとする。



 

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2. 倉田百三の懊悩
  一高に入って文学活動をしていた倉田は、結核に罹患して退学し、療養生活を送ったが、その時期にお絹さんという女性と恋愛を経験する。その後京都の西田天香の一灯園に入って修養的生活を体験するも、矛盾を感じて去ることになった。数年後、戯曲『出家とその弟子』を書き、空前のベストセラーとなり、大正の親鸞ブームに火をつけた。そしてさらに戯曲、小説、宗教論などの執筆を続け、彼自身、親鸞を尊崇し、人間苦が救済される道は、真宗の他力の信仰以外にないという宗教観を有していた。
  大正15年(37歳)に、その3年ほど前から始まっていた強迫神経症的症状が、顕著に現れ出した。統覚不能(離人症的症状)、不眠恐怖、耳鳴り恐怖、計算恐怖、いろは恐怖、物象回転などであった。
  この頃、同じ神経症者の知人の中西清三宛ての書簡に、永平寺や南禅寺の禅者によい指導者がいるという情報を伝え、「(見性にいたる禅の修行とくらべて)真宗の解脱も他力の信心が手に入るまでは同じ苦しみと思います。…計らうまいとしては駄目なのですから、進退極ります。」と記している。
  こうして、自分も禅修行を考慮に入れていたらしい倉田だったが、たまたま京都の済世病院院長、小林参三郎の著書『生命の神秘』などを入手して読み、静坐すれば自分の力でない自然の力が働いて、自ずと強迫観念が治ると記されていることに惹かれて、この大正15年秋、小林の病院を訪れたのだった。
 
<参考文献>
・ 森田正馬 : 「倉田百三氏の強迫観念に対する心理的解説」(『森田正馬全集』 第五巻)、1975
・ 倉田百三 : 『神経質者の天国』、先進社、1918
 
 

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岡田虎二郎の写真


 
 

著書『岡田式静坐法』



 
3. 岡田虎二郎の静坐法
  倉田は、大正15年に静坐法を求めて京都の済世病院の小林参三郎のもとに受診した。それというのも、静坐法は、岡田虎二郎(1872-1920)が小林より先に東京でおこなっていたのだが、大正9年に岡田は病没し、岡田を継承した小林が京都で静坐法をおこなっていたからであった。
  ここで岡田虎二郎について少し述べておく。彼は白隠の内観法に倣い、肚で呼吸して丹田に気を集める健康法として静坐法を開発し、心身病弱者の救済を銘打ち、明治40年代の初めよりそれを東京で始めたのであった。これが次第に評判になり、関心を持った実業之日本社の記者が熱心に取材して、明治45年に『岡田式静坐法』という単行本を出版した。この本は大ベストセラーとなり、静坐法は著名人たちを含む多くの人たちの関心を集めるところとなった。岡田は日暮里の本行寺を本拠として、都内をはじめ多くの場所で静坐会を開いた。しかし過労も加わってか、岡田は50代で病没した。森田正馬は岡田式静坐法を見学に行ったが、催眠暗示的な手法とみなして、あまり評価しなかったようである。
 
<文献>
・ 岡田虎二郎:『岡田式静坐法』、実業之日本社、1912
 

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小林参三郎の面影


 

著書『生命の神秘』


 

4. 京都における倉田百三―小林参三郎と宇佐玄雄―
  小林参三郎(1863-1926)は、兵庫県出身で、医師を志して上京し、医師資格を取得後に渡米し、医科大学で外科を専攻した。長年アメリカに滞在し、ハワイで日本人病院を設立した。またハワイで西本願寺の開教使と会って感化を受け、仏教に帰依することになった。以後仏教書を読み、物理的治療だけでなく、信仰による精神療法の併用の必要性を痛感するようになった。一時帰国した際、真言宗による慈善病院設立計画を聞き、京都の東寺の敷地内での済世病院設立計画に参加し、40代で帰国して院長となった。
  小林は、科学の生み出した物質的治療が重視される医療を批判し、患者の精神状態に配慮する必要性を説いた。また人間は「天与の生きんとする力」、すなわち「自然良能」を具えていると言った。その天賦の力のことを、「自然の良医」あるいは「本具のドクトル」とも称したのだった。そして、このような能力を養う方法として、小林は岡田式静坐法を採用したのである。
  倉田百三が済世病院を受診したのは、大正15年秋のことである。しかし、入院した倉田は、すぐに静坐をさせてもらえず、まず森田療法の第一期のように臥褥を命じられたのであった。
  小林は宗派にこだわらず、仏教者と広く交流しており、禅僧で医師の三聖病院院長、宇佐玄雄ともすでに知人の間柄であった。また森田正馬が三聖病院に来訪した際には、小林も三聖病院に来て、小林は森田とも交わっていた。こうして、森田療法を知っていた小林は、入院患者に対して、静坐体験への導入として臥褥を設けていたのである。
  ところが小林は、倉田が入院して一週間後に心臓病で急逝してしまった。倉田は静坐をできぬまま、院長不在の病院に入院し続け、三聖医院に通って作業のみに参加することになった。そこでの宇佐玄雄の指導は厳しかった。倉田は、この時期のことを、『神経質者の天国』におよそ次のように書いている。
  それは京都の秋から冬にかけてのことだった。自分は十数年来、日常横臥の身で、冬は外出せず、外出すればマスクをはめて、風邪を引かぬように用心していたものだった。「それが、強迫観念と闘う必要上、全然やり方を変えねばならなかったので、マスクなどはめると、宇佐氏にひやかされるので、はめられない。私が常住起坐しておれるようになったのは、まったくこのためでした。…(入院中の済世病院から)宇佐氏の病院まで通ふのが、初め、危ぶまれたものが、だんだんと歩けるようになり、雪の積もっている山道を、嵐山から清瀧まで歩けたというようなことになりだしたのでした。」
  こうして、宇佐の指導に効果の兆しが見えだしたとき、父の病状悪化の知らせが入り、倉田は関東に帰って行った。
 
<文献>
・小林参三郎:『生命の神秘』、春秋社、1922
 


済世病院の当時の外観


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(下)に続く