自由を求めて生きた画家、高良眞木(中)―洲之内徹との不思議な関係―
2019/02/07
本稿は、(上)の稿(2018.12.25)より続くものです。
日数が空きましたので、前回の原稿へのリンクをつけておきます。
自由を求めて生きた画家、高良眞木(上)―画家たちの真鶴半島―
(承前)
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5. 風変わりな美術エッセイスト、洲之内徹
画家、高良眞木は、真鶴半島で中川一政に見いだされ、洲之内徹に育てられたという見方があった。森田療法の大家であった高良武久先生の長女の真木様が、家族内の葛藤を体験しながら、画家として、そして人間として成熟していかれた生涯に関心を持ち、調べているうちに、やはり画家としての眞木の背後にいた洲之内徹という人物の存在を無視できなくなった。
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洲之内徹とは。彼は銀座で小さな画廊を営む風変わりな人物であったが、「芸術新潮」に連載し続けた「気まぐれ美術館」という感性溢れる美術エッセイの自在な筆致が、美術家や文化人に注目されて、彼の名が知られるところとなった。小林秀雄は「今一番の評論家だ」と絶賛した。しかし洲之内自身は美術評論家を自任していなかった。随筆『絵の中の散歩』に彼は書いている。「どんな絵がいい絵かと訊かれて、ひと言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。―買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である、と。」(「鳥海青児「うずら」」)。彼はそう言って憚らなかった。その名文句に彼の真骨頂があり、画廊の主でありながら、気に入った絵は人に売らずに自分のものにしてしまうのだった。
同じ『絵のなかの散歩』の中に、絵を女に喩えて、惚れた男がその女の人には見えない本当のよさを見つけるようなものだと書き、さらには、埋もれた異才、時代が見逃している才能を発見するのは、批評家ではなく、目利きや蒐集家なのであると書いている(「山発さんの思い出」)。そして彼自身、一貫してそのような姿勢を取るのである。実際彼によって才能を見いだされた画家たちは多かった。洲之内は規範や基準にとらわれる評論家ではなく、自由に絵の中に画家のいのちを直感的に見る目利きであり、名伯楽であった。
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このような並外れた感性の持ち主、洲之内は人間としていかなる人で、どんな生涯を送ったのか。人間洲之内は、およそ尋常な者ではなかったのである。彼の経歴をざっと辿ってみる。
洲之内徹(1913-1987)は、松山市でクリスチャンの家庭に生まれ、東京美術学校建築科に入学し、日本プロレタリア美術同盟に参加、左翼活動をして検挙されて退学。松山に帰ったが左翼運動で逮捕され、留置場と刑務所で1年以上を過ごし、この間に読書に励んだ。獄中で転向を偽装して釈放され、その後志願して軍属となり、対共工作員として北支に渡った。共産党の経験を買われて軍部の情報の仕事を手伝っていたので、共産党で食っていた、とは本人自身の弁である」(「気まぐれ美術館」中の「羊の話」)。
大陸においては日本軍人の立場で、中国人に対して残虐行為の限りを尽くす体験をしている。終戦後引き揚げてきて、日本で生活を再開した彼は、作家を志望して小説を書くようになる。そして中国で自分が経験した虐殺、強姦、略奪、放火などの所業を私小説として赤裸々に書いた。小説「砂」には、兵隊相手の慰安婦ではなく、市民の女性を襲って強姦することに新鮮な快感を覚えて、女を狙って村の中をうろつくという主人公の異常な行状が、淡々と書かれている。この作品は、なぜか芥川賞候補になった。彼の小説は都合三度、芥川賞候補となったが受賞を逸している。
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彼の小説に対しては、車谷長吉の「洲之内徹の狷介」という一文が『絵のなかの散歩』の巻末にある。車谷は言う。私小説であろうとも、虚実皮膜の間に成立するものだが、洲之内の小説には「実」だけがあって「虚」がない。悪を突き詰めていけば、「浄土の光」が射してくるものだが、洲之内の小説ではそれが射して来ない。小説とは「人が人であることの謎」を書くのが本筋なのに、彼の小説はその謎に近づいていないと。さらに車谷は、透徹した目で「悪」を見据えた人の狷介な眼差しで絵を見ることによって、洲之内は絵の「目利き」になることができた、と言うのだが、この後半の指摘には、車谷の人柄の善人性が浮かび上がって、批評としては物足りない。風変わりであった人間洲之内を、「狷介」と評しながら、車谷は彼の内面を探っていない。
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それを補うごとくに、大原富枝が『彼もまた神の愛でし子か』と題する洲之内の評伝を書いている。中国の女性への性的残虐行為を働いた日本兵はもちろん彼ひとりではなかった。しかし彼は、「敵方の女を凌辱するのは、生理ではなくて思想だと言うのである。もしそうなら、これは、人間をつくられた神にこそ訊いてみなければわからない」と、大原は造物主への問いとして、彼の人間性を厳しく批判している。さらに、酒の席で洲之内は、拳銃を使う場合での最も効果的な女の殺し方、などという話を披露したが、このような問題については、彼自身の哲学があったことを大原は取り上げて、「こと、女に関しては、洲之内徹のなかには、悪魔的と言っていい、救いようのない地獄があった、とわたしは思う」と言う。また小説 「砂」について、「洲之内徹のなかの人間性の破壊が、すでに深奥に達していて、いかに凄惨なものであったか、その様相を、いまわたしは改めて思っているのである」、そして「洲之内徹には、人間性において微量ながらも、無視できない不具性があった、とわたしは考えている」と、大原は決定的に記している。
中国から帰国後の日本の生活でも、洲之内の女性関係は乱脈を極め、妻子がいながら、いわゆる女狂いをする。本妻の影は薄く、出版社の編集部の女性との間に子をもうけ、また画家、佐藤哲三の遺作を集めるために行った新潟の新発田では人妻との激しい恋愛に陥っている。婚外を含めて、生涯に少なくとも4人の女性に子を産ませている。
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さて洲之内と絵との関係に話を戻す。作家として身を立てようとした洲之内は、小説を書き続けていたが、一方、田村泰次郎が銀座に開いた「現代画廊」に入り、ほどなく田村が手を引いたため、1961年からこの画廊を受け継いだ。
作家を断念して美術畑に入った彼は、書きためたエッセイ『絵のなかの散歩』を1973年に出し、翌1974年より「芸術新潮」に「気まぐれ美術館」を連載し始めて、注目を浴びる。絵と画家に対して距離感を置かずに、感覚的な自分のまなざしを向けて縦横に書いた、いわば私小説的な美術エッセイのこの連載は、死を迎えるまで10年以上続けられた。
6. 高良眞木の絵に魅せられた洲之内徹
高良真木と洲之内徹の出会いや、現代画廊での個展の開催などについて、以下、『高良眞木画集』の巻末年譜を参考にして記す。
高良真木は、1971年に、浜田糸衛の旧知の佐藤哲三画伯夫人の縁で、洲之内徹と出会っている。そして早速その年に、銀座の現代画廊で「高良眞木油絵展」を開いた。眞木はその際に中川一政氏に絵を見てもらったのだった。売れ残った絵のひとつ、<土>が洲之内に買い上げられ、それは後に蒐集家でもある彼の「洲之内コレクション」に加えられた。
1973年、現代画廊で「高良眞木 油絵と水彩展」を開いている。同年、作品<樹>が第1回美術ジャーナル賞を受賞。また同年、日本テレビ「美の世界」で、「樹の絵」と題して、高良眞木の絵画を取り上げ、洲之内や浜田を含むインタビューを加えた番組が放映された。
1979年、「高良眞木 1979」展を現代画廊および各地で開催した。新潟県新発田市の、画家佐藤哲三ゆかりであり、洲之内のゆかりでもある「画廊たべ」でもこの個展を開催した。
1983年、再び新潟県新発田市の「画廊たべ」で、「高良眞木展」を開き、浜田糸衛・高良眞木を囲む座談会を開いた。この座に洲之内がいたかどうか、不明であるが、彼と高良眞木との間には、佐藤哲三夫人や浜田糸衛の介在があったのだった。
1987年10月のある日、洲之内は現代画廊での高良眞木展の打ち合わせのため、真鶴に来訪して終電で帰宅した。その翌朝倒れて意識不明となり入院、1週間後に死去した。洲之内がこの世で最後に見た絵は高良眞木のものであった。
洲之内は、1971年に眞木との交流が始まってから、彼女の絵に注目して大いに期待を向けてた。しかし眞木は、日中友好協会の活動に意欲を示し、絵については貪欲さがない。洲之内の助言に応じつつも、つい「気まぐれ」さを発揮して、洲之内を嘆かせるという奇妙な関係が生じていた。
眞木の絵に対する洲之内の評価は、彼の代表的な二つの美術エッセイに余すところなく記されているので、紹介する。
まず『絵のなかの散歩』(1973)に、眞木の「樹」という作品を本の口絵に原色刷りで出しながら、「高良眞木「樹」」という一文で作品と作者を讃えている。洲之内は、眞木の「樹」の絵から関根正二のデッサンを思い出す、と言い、「この木には木の精が棲んでいる。汎神論的な世界である。」と書いている。さらに「この無数の枝の組み方がまた面白い。これはもう写生などというものではなく、思考の図式である。」として、枝の重なり具合を細かく描写しているが、洲之内に似合わずとってつけたようで、文章が死んでいる。これはどうしたことか。次に出てくる文章がすべてを示唆していよう。
「高良さんという人は、絵も素晴らしいが、ご本人も実に素晴らしい。私の知る限りの女性の中で、最も魅力的な人である。」これは高良眞木様にとっても有り難迷惑な話である。
洲之内は、東京の高良家に食事に招かれたことも書いており、眞木様について、「この人には、女らしい細かな心遣いもある。…彼女は真鶴のアトリエの庭から芹(せり)や蕗(ふき)を摘んできて、ちょっとした料理を添えてくれたりするのである」と記している。そして高良武久博士と高良とみ女史を両親にもつ育ちのよさや、アメリカやパリに留学した彼女の経歴に一目置いて、それにもかかわらず日本の油絵のどんな規格にも合わずに、真鶴で独りで勝手に自分の絵を描いているのが、高良さんの魅力である、と手放しで言う。
洲之内は高良眞木の絵への期待を募らせる一方でなのである。当時、眞木は文化大革命の最中に中国を訪れたときの次のような体験を、ある雑誌に書いていた。
―ひとりの若い農民が、国慶節のポスターを作っていて、画面中心の毛沢東の写真のまわりにひまわりの花を描いていた。ひまわりは毛沢東という太陽にあこがれて咲く農民自身であった。私ならもっと巧くひまわりを描けるが、しかし「彼のように描くことはできない」と思って、農民の姿に感動した、というのである。眞木のこの文章を引用して、洲之内は農民とともに毛沢東の方を向いているひまわりのような高良眞木にじれったさを感じ、高良さんは自分自身の「樹」のようないい絵に向き合ってほしい、という慨嘆でこのエッセイは終わる。
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さらに洲之内は「芸術新潮」誌上の「気まぐれ美術館」の連載第17回目(1977年)の「小田原と真鶴の間」という文章の後半で、高良眞木の絵、「ダリア」と「風景」を文中に白黒で掲載して、再び眞木の絵の魅力と、日中友好より絵に向き合ってほしいという、自分の石アタマの弁を述べている。
「アルプ」という雑誌に出す絵を借りに真鶴を訪ねたら、高良とみ様にも会って、「眞木にもっと絵を描くよう、あなたからも仰有ってください」と言われたという。眞木は、中国の農民画の画集を持ち出してきた。少女たちが鶏の世話をしている養鶏場や、飼育係が按摩をしている大豚と仔豚もいる養豚場や、山のように収穫されたとうもろこしと皮をむく人々の絵を示して、彼女は言う。「自然はただ鑑賞される対象ではない。自然に働きかける生産者農民の眼だけがとらえることのできる自然がここにある。」と。
洲之内は「私には紙芝居の上等くらいにしか見えないのである。そこが私は焦れったい。しかし、私はもう何も言わなかった。」と諦めの念を記している。そのまま折り合いのようなものができたのか、眞木との関係は洲之内の死まで続いた。
中国の農民画に眞木が見た自然と人々や生き物との共生的関わりは、おそらく眞木に重要な変化をもたらした。そんな眞木から洲之内も何らかの救いをえたのではなかったか。
次回の(下)の稿に続く