みかん山にあった森田療法 ―「煙仲間」の生き証人を訪ねて―

2018/04/19


笑う「みかん山原人」こと、山梨通夫氏。「煙仲間」の元 リーダー、

今「山梨みかんトラストファーム 農園主」。



   少し戯作風に書きはじめます。書くことは、ほとんど信用できます。
 
1.「煙仲間」と森田療法
   皆さまは「煙仲間」をご存知であろうか。ご存知ない。それは残念である。
   では『次郎物語』とその作者、下村湖人をご存知であろうか。イチローなら知っているが、次郎は知らない。作者もご存知ない。いや、それは残念である。
   では永杉喜輔をご存知であろうか。それもご存知ない。いや、ますます残念である。
 

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   それでは、下村や永杉の紹介から始めねばならない。イチローはそろそろ落ち目のようだが、『次郎物語』は永遠なり。下村湖人は、その生みの親である。彼は、佐賀県は神埼町(現神埼市)の出身で、鍋島藩の『葉隠』の武士道精神を、みずからのうちに秘めているところがあった。剣道をたしなんだらしいが、これはあまり上手とは言えなかったようだ。神埼市と言えば、先日、市長選に邪道プロレスの大仁田厚氏が出馬して、落選した。当選していたら、武士道が邪道に変わるところだった。さて下村は作家であったが、社会教育家でもあり、彼は「煙仲間」という、善き人たちの集団をつくった。佐賀の鍋島藩の『葉隠』に出てくる「煙」の語にちなんで、「煙仲間」と命名したのだった。しかし佐賀には忍者がいたそうだから、下村は本当は忍術が好きで、忍者集団をつくりたかったのかもしれない。とにかく、「煙仲間」は善良な人たちの集団であった。
 

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   さて、永杉喜輔は、「生活の発見」誌の誌名の名付け親であり、「生活の発見会」にも関わった人物である。その永杉喜輔は、下村の弟子の社会教育者で、愉快な人だった。そして戦後に、下村と永杉と、加えて水谷啓二の三人が一緒になった。三人とも、熊本の旧制五高の出身者で、永杉と水谷は同級生であった。
 
   皆さまは水谷啓二をご存知であろう。森田正馬の直弟子で、「生活の発見会」の生みの親である。かくして、下村湖人、永杉喜輔、水谷啓二の三人が、戦後の東京で一緒になり、「煙仲間」と森田療法がいっしょくたになった。ちなみに森田正馬先生も熊本五高の出身である。みんなが五高出身者だとは、不思議な巡り合わせである。
 
   下村は昭和30年に世を去った。惜しいことに、水谷も昭和45年に没した。永杉は長生きして、平成の世まで、それも21世紀まで生きていた。群馬大学の教授をしていた人だが、「永杉さん」 と呼ばれて、多くの人たちから慕われた。下村没後には、永杉版の「煙仲間」が静岡で生まれて、会員は全国に広がった。永杉と共にあった長命な「煙仲間」だった。
 
   解散したのは、平成23年で、仲間の中心人物だった人は今なお健在である。静岡で、みかん山農園を営んでいる山梨通夫氏という人である。この生き証人に会いに行った。去る平成30年2月半ばのことだった。


「煙仲間」会報の、永杉喜輔追悼号(平成20年(2008)5月号)


2. 永杉喜輔が来た清水
   永杉喜輔は、群馬大学教授であったが、学識を振り回さず、本音の教育観を臆せずに述べる、「本当のことを言う」人であった。教育学の教授である永杉自身が、「教育用語は、教育界の方言だよ」と言った。象牙の塔の中や、机上の教育用語の羅列の中に、本当の教育はないということを、研究室の外へ出てあちこちで伝えた人であった。
 
   永杉と静岡県の人たちとの最初の縁はどうしてできたのか、知らないが、昭和49年、静岡県青年の船に、永杉も講師陣のひとりとして乗り込むことになった。
   当時、各府県が青年団員などの青年たちを対象に、船で1~2週間かけて、主に外国を訪問する「青年の船」が毎年のように企画されていた。訪問先は主にアジアの外国だったようだが、その国の人たちとの文化交流や史跡の見学などをし、往復の何日間かの船上では、講師たちの講義を聴いて学び、船内で参加者が生活を共にするという、研修体験をするものだった。
 



清水港には国際的なクルーズ船が出入りする。(写真はWikipediaより)。

 

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   静岡県は海に向かって開かれており、清水港は国際港湾で、国際的なクルーズ船が発着する。山梨通夫氏は、昭和49年に、清水港発、静岡県青年の船に参加したのだった。山梨氏は、その船上で永杉の講義を聴いて大いに魅せられる。
   以後、仲間たちと埼玉の永杉の自宅へ押しかけて行ったりして、私淑し、翌、昭和50年より、「煙仲間」を結成して、手作りで月刊の会誌を出し始めた。それは、戦前の軍国主義下で、自由を守るために下村が作った、地下のレジスタンスのような「煙仲間」ではなく、また戦後に下村が雑誌「新風土」を拠り所にして、乱れた人心を正そうとしたようなストイックなものでもなかった。静岡県内を中心に、青年団や青年団OBたちの絆をメインに、他の府県の人たちへと輪が広がっていった。
 
   年に一度は、静岡県で集会を開いていたようで、永杉がそこに来ることもあった。永杉は、ほぼ毎号の会誌にメッセージを寄せていた。会員たちは、それぞれの生活の体験や思いを自由に会誌に寄せていた。自然環境の保護や、原発問題への発言もあった。海外へNGOのボランティアとして参加しながら、現地から便りを書き送って来る人たちもあり、国内、国外でのボランティア活動の情報交換の機能も果たしていたようだ。
 

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   この「煙仲間」の構成は、当初は静岡県内の青年団の絆に発したが、次第に地理的空間を超えて、問題意識を共有するが、しかし互いに温度差があってよい、自由な関係が許容される会という性格を帯びていったような印象を受ける。それは「永杉さん」や主宰者の山梨氏の人柄によるのだろうし、その自由さが「煙」たる、新たな所以になっていたとも言えよう。情報化が進み、地域社会が空疎化していく中で、地縁でもなく、インターネット上でもなく、手作りの会誌でつながる優しさの関係に、癒やされるところがあったのかもしれない。ただし、このような推測は、十分な検証によってはいないことを、付け加えておく。
   会員数は、常時およそ百人以上いたようである。




   中心人物の山梨通夫氏は、元気で人間味のある人で、みかん山でみかんを栽培しながら、東南アジアに仲間を持っており、たびたびそちらへ出かけていく。アフガニスタンや南米にも行ったりする。土着性と放浪癖を併せ持っている。毎月の「煙仲間」の会誌の発行は、欠かさない。永杉は平成20年に没したが、そのときの「煙仲間」誌の永杉喜輔追悼特集号の写真を、先に掲げたが、永杉没後もしばらく「煙仲間」は続けられ、結局平成23年5月号をもって終刊となった。最終号は実に349号に達していた。昭和50年の創刊以来、36年間の長きにわたり刊行を続けられたのであった。
   社会教育研究者の野口周一先生から、この永杉・山梨版の「煙仲間」誌のバックナンバーを閲覧させて頂いた。さらに、山梨通夫氏をご紹介頂いたのだった。

みかん山(山梨みかんトラストファーム)の山荘(ゲストハウス)




3. みかん山での体験森田療法
   長い間「煙仲間」を主宰してきた山梨さんとは、一体どんな人なのだろう。気になっていた。宮澤賢治の童話の「やまなし」のような、不思議な人か? とにかく会ってみたかったので、平成30年2月半ばに静岡へお訪ねした。山梨様の本拠は、清水港の近くで、海に面した「みかん山」であるが、こちらの都合に合わせて、静岡市内まで出て来て下さった。写真を既に冒頭に出したので、その風貌はご覧の通りである。笑ってしゃべって飲んで、笑ってしゃべって飲む。「やまなし」ではなく、「みかん山原人」のような人であった。永杉さんに会い、「煙仲間」を始めたのが、二十代後半で、今は六十代半ばだという。青年団員だった頃の話なども伺ったけれど、とにかくこんな人に会えたことが、何よりも確かな収穫であった。長髪で気取っているのかと思ったら、散髪は年に一度しかしないと言う。会った次の週は、タイの農村に行くとおっしゃっていたから、多分タイで散髪屋に行くのだろう。タイに行きつけの散髪屋があるらしい。静岡市内で会って頂き、翌日はみかん山を訪れるはずだったが、こちらの事情が発生して中止させて頂き、みかん山は幻のままとなった。
 

帰りにみかんを沢山頂いた。これはその一部。



   みかんと共に、「みかん山から」という刊行物を何部か頂いた。「山梨みかんトラストファーム」発行の刊行物で、最新の2018年2月刊のものが、第114 号になっているから、これも「煙仲間」と同じくらいの歴史がありそうだ。
   この「山梨みかん山トラストファーム」にある山荘は、ゲストハウスになっていて、宿泊してみかん山農園で体験作業ができるようになっている。山梨様はあちこちの大学教員たちにも知られており、夏休みには、ゼミの学生たちが泊まりに来る。みかん山は、会員制になっていて、会員に対して、収穫したみかんと「みかん山から」の通信刊行物が届けられる。年に何度かの収穫祭には、会員たちが集まって来る。ほかにも、ワークショップと称して、囲炉裏を囲んで、何やら一緒にやったり、楽器を持って来てかき鳴らしたりしている。
   宿泊滞在は、自炊をせねばならない。風呂も自分らで炊く。便所は、おつりが来る方式のようで、溜まった肥えは農園を肥沃にする。
   ここに泊まりこめば、森田療法以上に森田療法的な生活を体験できるように思う。「煙仲間」は、下村によるもの、永杉によるものと、それぞれ違っても、どこかで森田療法につながってくるから、妙である。
 

   山梨様は、本当は孤独な人なのかもしれない。ふとそんなことを思う。「やまなし」と山梨様が重なる。
   できれば出直して、そんな山梨様のいるみかん山を訪れたいと思っている。
 

   以下、「みかん山から」(トラストファームの会報)に掲載された写真、いくつか。