「森田正馬が参禅した谷中の両忘会と釈宗活老師について」の余録(1)―初音町、両忘会のあった場所―

2018/02/02


「一華五葉」の表紙 (題字と絵は釈宗活によるものか)



 

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   森田正馬は、明治43年に、谷中初音町にあった両忘会の釈宗活老師のもとに参禅した。このことについては、第35回日本森田療法学会(熊本)で、一般演題としてその概略を報告した。ただし、掲げたテーマについては、多くの内容が含まれており、短時間で発表しきれるものではなかった。余録として、いくつかの問題を取り上げて、書き加えることにしたい。
 
 

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1.両忘会の由来
   両忘会という在家禅の会は、山岡鉄舟らによって明治8年に創設され、今北洪川を湯島の麟祥院に拝請して開かれたものであった。その後途絶えていたが、釈宗演老師の命を受けた釈宗活老師により、明治34年に両忘会の復興が果たされたのであった。
  
 
2.両忘会(両忘庵)の場所の変遷
   在家主義の禅会であるから、本拠地を寺院に置くはずのものではない。釈宗活老師は、まず準備期間として明治33年に、山谷の湯屋の二階を借りて住み、世情を観察して、訪れる少数の人たちに禅の指導をした。
   翌年より正式に両忘庵を開くことになるが、根岸、日暮里、谷中と、いずれも借家を転々としたようである。その正確な把握が難しくて悩まされた。だが、釈宗活老師は過去を回顧する講演を昭和九年におこなっており、その講演の記録を再録した文献(注)に遭遇した。それを一読したところ、その中に、両忘庵を開いてからの場所の移動について、宗活老師がみずから述べた記録に接することができた。主にそれによって判明した場所の変遷を整理すると、およそ次のようである。
  
(1)明治34年、根岸の里、御隠殿坂の辺りに、仮の草庵。
 
(2)狭隘になったので、日暮れの里に居を移した。
 
(3)更に日暮里で再移転(四百余坪の広い地所)
※明治38年に、平塚らいてうはここに参禅している。
◆宗活老師は、明治39年から42年まで、布教のため渡米。
 
(4)帰国後、谷中初音町に家を借り、法を挙揚し、参禅を聞いた。
◎森田正馬が明治43年に参禅したのは、谷中初音町のこの両忘庵である。
 
(5)大正4年に、田中大綱居士が、天王寺町に道場を新築して、寄進した。
  
注) 人間禅教団三十年史編纂委員会 編『人間禅教団三十年史』人間禅教団 刊、1978
  


旧町名地図上の谷中の「初音町二丁目」 (赤く塗った部分)



 
 

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3. 谷中初音町二丁目
   森田正馬は日記に、谷中初音町の両忘会に参禅したという記録を残しているが、どんな場所だったのだろう。それはわれわれにとって大きな関心事である。初音町は、現在の谷中には存在しない古い町名である。台東区の旧町名の地図で、その存在を確かめることができた。初音町は明治の初期に居住地として開発されて、谷中地区に編入された地域である。しかし、その初音町は、一丁目から四丁目まで、大きなエリアにわたる。
   さいわい、昨年擇木道場の杉山呼龍先生にお訊ねした際、初音町の両忘会道場は「二丁目」にあったらしい記録があると教えて頂いた。臨済宗円成会青年部が明治45年に発行した刊行物、「一華五葉」にそのような記事が見えるとのことであった。
 「一華五葉」については、国会図書館の蔵書検索をしたところ、デジタルで閲覧することができた(古い貴重な文献は、デジタル判をネット上で閲覧できるようになっている)。 円成会とは、東京市内の禅僧たちの組織で、その青年部の刊行物が「一華五葉」だが、定期刊行物でもないようで、まさに一度だけ咲いた華なのか、よくはわからない。ともあれ、この表紙には、「宗」「活」と判読できる印のある「一華五葉」の題字と、やはり「宗活」の署名のある「慧可断臂図」が出ている。内容としては、冒頭に、釈宗活による「佛成道法語 大燈国師臘八上堂」という提唱の文が寄稿されている。宗活は、明治45年の「新年頭の雑誌刊行するにつき…提唱筆記を寄贈して呉れとの依頼からこれを掲載することに致した」と書き始めて、大燈国師の法語についての提唱を綴っている。また鈴木大拙や釈宗演の寄稿文も掲載されている。
   そして刊行物の末尾の「彙報」欄に、「両忘會」の案内があり、次のように記述されている。
  「谷中初音町二丁目両忘庵にあり毎月五日より五日間と廿二日より三日づつ釈宗活老師が槐安國語を講ぜられ亦接心會がある。會員は帝大の學生が割合に多いとの評あり。亦會には輔教會なる後援会があって仲々盛大な方である。」
 「輔教會」とは居士たちの会であろうか。ちなみに、資産家の田中大綱居士が、大正4年に天王寺町に道場の建物を新築して寄進している。谷中初音町二丁目の借家の建物は、道場としては十分なものではなかったと推察される。しかし、周囲の環境はどうであったか、不明である。二丁目であったことは判明したので、台東区の旧町名の地図上に、二丁目の部分を赤く塗って、その位置を示した。山手線の日暮里駅の西側の後方にあたる細長くのびた区画である。
   その中のどこかにあった両忘会の場所と環境はどうだったのだろうか。昨年その地域を歩いてみたが、商店などは少ないひっそりとした家並みであった。もちろん、昔の風情がどれだけ残っているのか、わからない。またもし両忘会のあった番地を突き止めることができて、そこに相当する現在地をピンポイントで特定できても、建物や住人は変わっている筈である。しかし、その場所を特定することで、あるいは何らかの情報の入手につながるかも知れない。
   森田正馬が参禅した、おそらく唯一の禅道場の場所を知ることに、なおこだわっている。
   両忘会の場所として調べるよりは、そこに住んでいた釈宗活の住所を、住民台帳で調べることもできるはずである。
   以上は未完の調べの報告である。
 


初音小路は、旧初音町二丁目と三丁目の境目くらいにある。

ディープな東京の風情を残している。