「森田正馬が参禅した谷中の「両忘会」と釈宗活老師について」の余録(2)―湯屋の二階での禅―
2018/02/23
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森田正馬が参禅した、谷中初音町二丁目の両忘会(両忘庵)は、二丁目内のどこに位置する、どんな建物だったのであろうか。ここまで調べれば、あと一息、その場所を突き止めたいものである。
ところが、「釈宗活」に関する Wikipedia のページ内に、谷中初音町にあった両忘庵(両忘会)の建物に関する不可解な記載があるので、これを指摘して、説明を加えておかねばならない。
1. Wikipediaの問題の箇所
釈宗活の生涯の項に、次のように記されている。
「…2年間海外旅行を続け、1900年、帰国。日暮里駅の谷中墓地側の谷中初音町の湯屋の二階に居を設け、布教活動を開始した」。
そしてこの文末に、その出典として、サイト人間禅擇木道場(下記のホームページ)が示されている。
http://takuboku.ningenzen.jp/modules/pico07/index.php?content_id=4
しかし、このホームページには、谷中初音町についての記載はない。そればかりか、冒頭に、「『東京第一支部30年史』に記載されている文章から擇木道場の歴史を掲載します。」とあり、引き続き、その掲載文は、次の文で始まっている。
「両忘会を再興した釈宗活老師は明治33年山谷の湯屋の二階に住まわれ、40数名の居士、禅子に法話をし参禅を聴きながら、自ら毎日巡錫されました。」
出典として置かれているホームページが、Wikipediaに記載されている文章を支持していないのである。谷中初音町に両忘会があり、そこは湯屋の二階であったなどと、記されてはいない。加えて、最も初期には、釈宗活老師は山谷の湯屋の二階に住まわれたのであった、という素朴な記載が出現するので、それこそが事実であったと受け取れるのである。
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2. 湯屋の二階について
インドやスリランカでの滞在から明治33年(1900年)に帰国された釈宗活老師が、山谷の湯屋の二階を仮寓にされたということは、隠すべきようなことではない。山谷は下町ではあったが、古地図を見ると当時の山谷の地域は広く、後年の山谷と雰囲気を異にする情緒があったようだ。
加えて、湯屋の二階なるものには、江戸以来の風俗的な歴史が残っていたけれども、それは明治20年頃には閉じられている。従って、空き部屋になっている二階を間借りして、草庵にすることができたと理解すべきであろう。
元はと言えば、湯屋の二階は、江戸の庶民の銭湯にまつわる風俗文化のひとつであった。
岡本綺堂の『半七捕帳物』の中には、「湯屋の二階」の一編がある。また、岡本綺堂の『風俗 明治東京物語』には、湯屋の二階について記されているくだりがあるので、引用しておく。
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「『浮世風呂』などにも湯屋の二階のことが書いてあるが、その時代の二階番は男が多かったらしい。ところが、江戸末期から若い女を置くようになって、その遺風は東京に及び、明治の初年にはたいていの湯屋に二階があって、そこには白粉臭い女が控えていて、二階に上がった客はそこで新聞を読み、将棋を指し、ラムネを飲み、麦湯を飲み、菓子を食ったりしていたのである。
しかし、風紀取締まりの上から面白くない実例が往々発見されるので、明治十七、八年頃から禁止されてしまった。」
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湯屋の二階とは、風呂上がりの男たちが階段を上がって、そこにたむろして、飲食や世間話をしていたが、風紀的にも問題のある場所だったようなのである。
山谷なら、江戸以来のそんな銭湯文化が続いていたであろうが、二階での営業を禁じられた湯屋が、宗活老師に二階を貸したのである。
一方、釈宗活老師が、アメリカから帰朝した明治42年頃に、谷中初音町二丁目で、湯屋が二階の間貸しをしていたかという疑問がある。谷中初音町二丁目について調べてみると、ここは江戸時代には天王寺の門前町の一部をなしていたらしい。それが明治の初期に、初音町が起立された際に、その二丁目として谷中に編入されている。したがって、江戸時代から住宅はあったようだが、ここは上野の高台であり、かつ寺院の門前という環境である。湯屋の二階なるものは、江戸の下町の銭湯文化が明治にまで残ったものだったが、遡って江戸時代といえども、この区域には、湯屋と湯屋の二階の営業は馴染まなかったように思われる。それゆえ、湯屋の二階の営業が禁止される明治十七、八年頃以前にも以後にも、二階の営業もおこなう湯屋が谷中初音町二丁目にはなかったと考えるのが自然である。
森田正馬が明治43年に参禅した、谷中初音町二丁目の両忘会が、もしも湯屋の二階にあったのなら、それはそれで面白いことだが、残念ながら、そのような場所に両忘庵があった可能性は低いのである。
むしろ、釈宗活は、山谷の湯屋の二階を庵とするほどの粋人だったのだろう。森田正馬もまたしかり、湯屋の二階で、下の浴場を気にしながらの座禅も、森田の好むところではなかったろうか。そんな風流な環境の両忘会だったらよかったのである。
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大山鳴動して、あまり生産的なことが出て来ず、Wikipedia上の記事の一部が、事実に立脚していないことを、明らかにする結果となった。
要約すれば―
まず明治33年にインドやセイロンから帰国した釈宗活老師が、山谷の湯屋の二階を仮の草庵にしたという、人間禅擇木道場のサイトの記載は、そのまま受け入れるに足る。
両忘会が谷中初音町(二丁目)に設けられたのは、宗活老師がインドなどから帰国された明治33年ではなく、アメリカから帰国された明治42年(またはその翌年の明治43年年初)のことである。
谷中初音町二丁目は、地理的環境から湯屋の二階があった地域とは考え難く、ここでの両忘会が湯屋の二階にあったという記述は不自然であるし、その根拠もない。
Wikipediaに書き込みをなさるのは、釈宗活の研究者か、あるいは人間禅の関係者の方ではなかろうかと推測する。ここに敢えて、記述に信憑性に欠けると思った点を指摘させて頂いた。
こちらの指摘が誤りであれば、こちらこそ非を認めて、訂正せねばならないと思っています。
いずれにせよ、釈宗活老師の生涯に、ひいては森田正馬の参禅にかかわる重要なことなのです。