社会教育としての森田療法 ―理解と伝え方の難しさ ―

2017/12/26




 
1. 海外からの反応
   前回、PsyCause(フランス語圏国際学会組織)へ森田療法についての最近の情報を伝えて、それがこの学会のホームページに掲載されたことを記した。この学会は、フランスだけに限らず、フランス語圏であるから、ホームページの記事は多くの国々の人たちに読まれる。果たして、フランス以外の国の人たちから反応があった。
   カナダの精神科医で、先住民の文化についての研究者であるという人から連絡が届いた。モンゴルのシャーマンについての研究のため現地調査に赴いて、帰国したばかりだが、森田療法に関心があるというのだった。森田正馬が、かつて郷里の土佐の犬神憑きの調査研究をしたことを知ってのことだろうかと、驚いた。あるいは、森田の写真から、シャーマンのような印象を感じ取ったのだろうか。モンゴルにはシャーマンが多く現存しているようであるし、このカナダの医師とは交流したいが、今はやり取りを中断しているところである。
   困ったのは、アフリカのコートジボアールの心理学者から届いた質問である。

 

♥      ♥      ♥

 

2. コートジボアールからの質問
   コートジボアールは、以前は象牙海岸と呼ばれたアフリカ西海岸の国だが、字の通りに訳語を当てると、国名が表意的になるので、それを避けて表音的に、コートジボアールと呼ぶことになっている。この国の最大都市、アビジャン Abidjan の大学の女性心理学者から、自身が従事しているらしい依存症、とりわけアルコール依存症の治療に関する質問が来た。このような患者の「社会的自己」が「人間的自己」を取り戻すようにするにはどうすればよいか、治療者として考えているのだが、森田療法からの提案をもらえないかと言うのである。
   アビジャンは人口も多く、近代化した都市で、アルコールの誘惑に負ける人たちが少なからずいて、治療に困難を抱えているのであろうと想像できる。したがって、これは尤もな質問である。
   しかし、社会教育との関係に立ち戻って、森田療法の本質を取り戻す必要性を言おうとした私の論旨に対して、噛み合うところがない。この質問者が、「社会的自己」と言うとき、社会は、人間が欲望に負ける悪の装置のような意味合いが強い。社会教育と言う場合の社会は、社会悪も含めて、時代により、文化により、変数となりうる社会を、例外なく意味する。厳しいがそう言わざるを得ない。
   このアビジャンの質問者は、自分がおこなっている治療法や、そこで工夫していることや、直面している困難について、書いておられない。森田療法は必ずしも、ある精神療法が奏功しない場合に、それに取って代わろうとするものではなく、治療者を励ますものになりうる。また、もしも精神療法を阻む要因が、制度や行政など別のところにあるならば、そちらに目を向けるのもまた、森田療法であろうと思われる。
   アビジャンからの質問に齟齬を感じながら、考えを重ねて、長い回答文を書いた。たどたどしいフランス語作文なので、そのままお目にかけられない。書いた作文の要点のみを、日本語に戻して、次に示しておく。

 

♥      ♥      ♥

 

3.治療者の「自己教育」について―質問に答える―
   森田療法のことに目を留めて頂いたのを感謝します。一見ありふれた質問を頂きました。しかし、ありふれたかに見えるこのような質問こそ、基本的な問題にぶつかるため、答え方に困って返事が遅れてしまいました。
   その基本的な難しさは、二段階にわたります。
   第一に、問題は森田療法の本質的なところにあります。この療法は、大まかには精神療法の一種ですが、厳密な意味では、人間の教育なのです。創始者の森田自身、療法の教育的な面を強調しました。症状を治すことをこの療法の目的としていず、人間的成長をはかることを重んじています。その成長の体験の中で、症状を治すという課題は、いつの間にか解消していくのです。このような視点から、治療者も患者も、症状を治そうとすることを、忘れねばなりません。しかし、それは治療者患者関係、もしくは師弟関係を破棄することを意味しません。早く症状を治してやろうとする関わりは、優しいが安易な愛にとどまりますが、社会の中で、人格が陶冶されていくのを、根気よく応援し、あまり手助けしない慎重な関わりには、深い教育的な愛があります。
   第二には、今日的な問題があります。森田療法を生んだ日本においてすら、上述のような森田療法の本質が軽視され、性急に症状を治そうとする風潮に流されて、森田療法の名の下に、しばしば他の対症療法がおこなわれています。森田療法と他の療法の併用や混合なら、それもいいでしょう。しかし、森田療法と他の療法の混同に至っては、容認し難いものです。
   だからこそ、森田療法は、教育、とりわけ社会教育に通じるその本質に回帰すべきなのです。日本においては、歴史的に、西洋から導入された学校教育制度が、社会の中での教育を置き去りにした経緯があり、その教育の危機を救うために、社会の中での学びの復権を目指して、社会教育の気運が高まり、それが継承されてきたのです。ところが、この社会教育も近年低調になるばかりです。
   だから、今こそ、森田療法の分野でも、教育の分野でも、社会教育の重要性を想起し、社会教育の復興をはからねばならないのです。
   そうは言っても、教育は難しいものです。とりわけ、他人を教育することは困難なことです。それに反して、自分を教育することは、不可能なことではない。そして、自らの教育(自己教育)に打ち込み続けることが、他者に対する教育者あるいは治療者となりうる資質の涵養になります。
   例えば、日常生活の中で必要なことをするということは、人間として当然求められることです。より卑近な例として、日常生活の中で、便所掃除は必要不可欠なものです。それをしない者、あるいはそれをしたくない者に、人の教育や治療に当たる資格があるかどうか、言うまでもないことです。
 
   このような答え方に対して、不快に思われるかもしれません。しかし、精一杯に考えて、ここでは率直に答えることにしました。ご賢察願います。
 

♥      ♥      ♥

 
4. 便所掃除の復権を求めて
   アフリカから届いた質問への答え方を、長い間考えあぐね、返事の作文を練ってメールをようやくあちらに送信した。そしたら、直ちに相手から電報のように短い受信の通知メールが来た。コートジボアールのアビジャンの便所の事情はどうなっているのだろうか。この人は便所掃除をしているだろうか。この奇妙なやり取りは、PsyCause の代表者のボシュア博士も把握しているから、このボスがどのような反応を示すか、見ものである。今のところ、ボスは沈黙を守っている。
   一方、日本の社会教育の専門家の方々とやり取りをしているが、こちらにおいても、教育者の自己教育や便所掃除の問題は、いまだに俎上に上らない。小金井の浴恩館で下村湖人が、黙々と便器の掃除をしていた光景を思い浮かべるのは、私だけではなかろうと思うのだが。