五高生との交流から学んだ禅僧、澤木興道 ―森田療法の視点から―

2017/09/16



澤木興道(昭和15年、大法輪閣刊、澤木興道『證道歌を語る』の表紙より)

 

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1. 異僧、澤木興道
   澤木興道は、自坊や自分の家や家族を持たず、各地を行脚して、民衆に参禅指導をした曹洞宗の僧侶で、「宿無し興道」という異名で知られている。日露戦争に出征して、敵兵を斬ったり、撃ち殺したりした経験がある禅僧としても知られる。澤木自身も日露戦争で重傷を負って除隊されたが、その翌年に再度出征している。
   森田正馬は、戦争をしかたのない事実と捉え、出征した弟の徳弥に対して、「匹夫の蛮勇を鼓して、敵前の前に進み出て」、犬死にするようなことはするなと諭したのだった。そして徳弥は殉死した。与謝野晶子が弟に、「君、死に給ふことなかれ」という反戦詩を贈った頃のことである。
   仏教のうち、禅宗は歴史的に見て右翼的で、国策としての戦争に同調した面があった。
   澤木自身は、禅僧として、自身の戦争体験をどうとらえていたのだろう。それを抜きにして澤木興道の禅を考え難い。私はこのような禅僧に危険なものを感じて、関心の外へと排除していた。
   ともかく、そんな負のイメージしか伴わない人だったが、ふと知ったことがある。それは、澤木興道が大正の頃に、旧制の熊本五高の学生たちと交流していたことがあり、その体験が澤木の生涯のひとつの大きな転機になったという、意外なエピソードである。
   最近、自分は森田療法と社会教育の関係を考える中で、歴史的に、これらの両領域において、幾人もの重要な人物が、森田正馬の母校、熊本五高から輩出している事実を知った。それで五高に注目が及び、調べる中で、五高出身者ではないが、生涯の一時期に熊本に滞在していた澤木興道と五高生の交流のエピソードに出くわしたのである。


熊本市内の万日山上での澤木興道老師
(昭和42年、大法輪閣刊『澤木興道全集 別巻一』より)


 

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2. 澤木興道、熊本までの半生
   澤木興道の熊本での生活は、三十歳代後半から始まる。そこに至るまでの澤木の半生を、まず簡単に辿っておく。
   明治13年に、三重県津市で、人力車の金具の製造を家業とする家の4人の子どもの末子として生まれる。4歳のとき母が死亡、7歳のとき父も死亡して、一家離散となり、親戚に預けられたが、その直後にその家の主も急死した。そこで知り合い筋の澤木という男の養子に入った。この澤木は、三重県一身田町の遊郭の裏町で、提灯屋をしながら賭場を開帳しているような人物だった。その界隈は詐欺師、香具師、博徒らの巣窟のような場所だった。小学生で賭場の張り番をさせられた。近所の女郎屋の二階で年配の男が急死した騒ぎがあり、その現場を見に行った。男の死体のそばに茫然と座っている遊女、駆けつけて泣き叫んでいる男の妻女。それを目の当たりにして、子ども心にようやく無常を観じたという。小学校を出ると、提灯の張り替え、寄席の下足番や賭博場でのぼた餅売りなど、日夜あらゆることをした。数十人の侠客連が縄張り争いで斬り合いをしているのを見たこともある。その始末の使い走りを自分が買って出た。
   次第にこのような生活環境から出たくなり、家出を重ね、16歳で永平寺まで行って、そこに入れてもらった。翌年、17歳で、永平寺で知り合った僧の紹介で熊本県の天草の宗心寺に行き、澤田興法のもとで出家得度し、以後澤木興道を名乗った。
   明治33年、20歳で入営して兵隊となり、兵役の生活が足かけ7年続く。その間、明治37年に出征し、「日露戦争を通じて、わしなども腹一ぱい人殺しをしてきた」という経験をする。戦争が終わり、28歳より足かけ6年、法隆寺勧学院で、唯識学を中心に仏教一般の勉強をした。さらに34歳より足かけ3年、法隆寺の末寺の空き寺の成福寺に住み込んで、独りで座禅ばかりをして過ごした。
   そして奇縁により、大正5年、36歳で熊本市の曹洞宗大慈寺に僧堂講師として招かれて、赴任したのだった。この熊本時代に五高生と交流する。大慈寺を出てからも、市内の万日山上の家で居候をした。50歳を過ぎて駒沢大学教授に呼ばれることになるが、それまで熊本を本拠とする生活が長く続いたのだった。


唐津海岸に五高生らとともに海水浴に遊んだ澤木興道老師(50歳頃)
(写真は同上書より)

 

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3.五高生たちとの日々

   旧制高等学校の学生たちは、バンカラ、弊衣破帽といった形容で知られる自由奔放な、ユースカルチャーを謳歌していた。それは全国的に共通だったが、とりわけナンバースクールの高校、それも奇数の番号の高校において、独自の特徴があったようである。
   熊本五高には、五高独特の校風があり、「剛毅木訥」と言われていた。
   そんな五高へ講演に呼ばれたことが、学生たちとの親しい交流の始まりになった。この坊主何を言うつもりか、といった調子で聴きにきた連中に、開口一番「諸君から色気と食い気を除いたら何が残るか」と言ったら、びっくりして彼らは熱心に話を聴き始めた、という。以来学生たちは、大慈寺へ座禅をしに来るようになった。
  「和尚さん、座禅は何のためにするのですか」とある学生が訊くので、「座禅をしても何にもならん」と答えたら、ぼやきながら帰ったが、再び姿を現して、「和尚さん、何にもならぬことをしに来ました」と言って座禅を続けるようになった。また、ある学生に、長時間かけて仏教の説明をしてやったが、「なんにもわからん」と言う。女郎屋へ行った帰りに、心境を訴えに来る者もいる。どこへ行くにも、五高生が五人、十人とついてきて、大飯を食うので財布を空にさせられた。
   澤木興道は、このような自然児五高生に教えながら学んだということを、弟子による聞き書きの書『禅に生きる澤木興道』の中で言っている。
   澤木自身の内面が五高生によって揺さぶられたのである。その辺のことを述べているくだりを、少し長くなるが、次に引用しておく。
 「打てば響くように座禅する者があるかと思うと、無茶苦茶に女郎買いする者もおって、その連中が続々やってくるので、兵隊以来、勉強と座禅で神経が細くなっていたわしも、見事に作り直された。いやも応もなく再出発をしなければならなくなって、かえって生き甲斐を感じた。」
 「第一、仏教というものに別に用事のない手合いだ。だから、こちらが坊主根性で相手したんでは、てんで話にならぬ。(…)相手は既成宗教的臭みは全然受け付けない。既成概念で片付けようとしようものなら、すぐにそれを剥ぎ取りにくる。素っ裸になって見せないと承知しない。容赦なく素っ裸を強要する。本当のことを言っても、もっと本当のことを言えと言って迫ってくる。だからわしは中途半端なところで糊塗することができなかった。こちら側に少しでも作りものがあると、とことんまで剥ぎ取らないと承知しないお客様である。そこで、自分を取り繕うことは、わしはできぬようになった。また自分というものを作ってはならぬと思うようになった。どこまでも作りものを作らないで進んでゆく、その溌剌たる生活こそ真実なものである。」
   このような述懐から、剛毅木訥の五高生との交渉が、澤木の人生の重要な転機になったことが伝わってくる。
 「彼らに出逢わなかったら、ついに既成宗教的な一線を脱することができずに終わったかもしれない」と言っている。
   大慈寺には数年間滞在した。やがてそこを出て、熊本市内の借家で参禅道場を一年間開いたが、ある奇特な人が、熊本駅裏の万日山の頂上にある別邸を使わせてくれることになり、そこの「居候」となった。以来、万日山を拠点に、各地に赴いて座禅の指導や説法をした。自然児五高生との交流によって開眼した澤木興道の、「移動僧堂」、あるいは「宿無し興道」と称された新たな人生の始まりであった。
   森田療法は、禅思想には教えられるところが多い。しかし、禅の教条的で、かつ形式を重んじる面にはついて行き難いというジレンマもあるから、僧が民衆の中に入ってくる普段着のような禅には親和性を覚える。欲も金も持たない「宿なし興道」の禅に、虚飾のない生き生きした魅力を感じるのである。


五高生らと由布岳に登った澤木興道老師(大正15年、46歳)
(写真は同上書より)


 

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4.禅僧の戦争体験と思想 ―森田正馬と対比して―
   ところで、考え直しておかねばならないことがある。上に記した澤木興道と五高生たちとの交流のエピソードを、父親のような世代の男が、息子のような学生たちと裸の付き合いをした痛快な話として、おしまいにすることができるだろうか。残念ながら、ここでめでたく話を閉じるわけにはいかない。
   澤木は学生たちによって、素っ裸にされ、「兵隊以来、勉強と座禅で神経が細くなっていたわしも、見事に作り直された」と言うが、どんな「わし」がどのように作り直されたのであろうか。純粋無垢な五高生たちに、自分が日露戦争で体験した戦争の悲劇や罪悪を伝えただろうか。
   万日山に長居をしていた澤木は、昭和10年に駒沢大学からの要請により、熊本に別れを告げて、同大学の教授となった。やがて軍靴の音が響き始めて、日本は侵略戦争に向かう時代のことである。五高の自然児たちの運命はどうなったのであろうか。駒沢大学の澤木は、軍事政権の近くに身を置くことを辞さなかった。
   昭和10年代の澤木は、戦争について、いくつかの発言をしている。自分は、日露戦争で兵隊に行けば人殺しも名人の方であった、と言っている。しかしそれは、自分が生まれつき胆力があったからに過ぎず、座禅で胆力をつけたのではないと付け加える。この文脈で、座禅は仏行であるが、戦争は無間の業であり、仏行と戦争は反対のものとして、区別する見解を述べている。ところがその見解は一貫しない。驚くべきことに、戦場における殺戮を、仏教思想によって合法化しているいくつかの発言に遭遇する。少年の頃、やくざたちの斬り合いを見たというこの人の原体験が、つい重なって見えてしまう。任侠道と仏道と戦争が一緒になっているかのようである。とにかく悲しい話だ。
   さて、森田療法の立場から禅に求めていることがある。それは禅語の断片や禅の難解な思想ではない。座禅の警策でもない。問題は禅者の生き方である。
   澤木興道の後半生については、もはやここでは論じ尽くせない。稿を改めるほかなかろう。
   一方、森田正馬の戦争に対する考え方はどうだったか。森田は反戦主義者だったという単純な捉え方をして、美化する風潮があるようである。果たしてそうか。森田は、与謝野晶子のように、反戦思想を詠嘆的に謳うことはしなかった。出征した弟、徳弥に対して、無駄に命を落とすなと言っただけでなく、敵前逃亡をするなとも諭しているのである。彼は弟に対して、「怯懦と匹夫の蛮勇とは、どちらも男子として最も賤しむべきものである」と教えた(野村章恒『森田正馬評伝』による)。戦場へ赴く肉親に対して、なんと厳しいことを言ったものかと思う。
   森田は、暴力や戦争に賛成しているわけではないが、世の中の事実であり現象であると言って、それを受け入れている。
 「戦争は世界に絶えない。事実であるから、善くとも悪くともしかたがない。兵法は、戦わずして勝つのが上乗であって、国には軍備が整って、外交で勝つのが、上策であろうと思う。」と述べている(第42回形外会)。同様のことを、第46回形外会でも、「読んで字の如き平和論や無戦論は社会人心の本然性を無視した屁理屈である。」と言い、武力を充実させて、「戦わずして勝つ」の平和を説いている。
   戦争というものを、森田正馬はこのように捉えていた。彼は極めて現実主義的な思想の持ち主だったと思う。しかし、事実として戦争が起これば、澤木興道が体験したような事態に直面するわけである。
   澤木の戦争体験と発言は、禅僧の戦争責任につながるが、弟を戦争でうしなった森田の思想は、森田療法とも絡んで、われわれに迫ってくるのである。


澤木興道(昭和31年、誠信書房刊、酒井得元『禅に生きる澤木興道』より)


 

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〈主要文献〉
 
1) 澤木興道と五高生の交流に関するもの
 ・澤木興道 : 禅に生きる. 誠信書房. 昭和31年
 ・酒井得元 : 澤木興道 聞き書き. 講談社. 昭和59年
 
2) 澤木興道と戦争に関するもの
 ・澤木興道 : 證道歌を語る. 大法輪閣. 昭和15年
 ・ブライアン・アンドルー・ヴィクトリア : 禅と戦争. 光人社. 平成13年
 ・遠藤 誠 : 今のお寺に仏教はない. 現代書館. 平成7年
 ・市川白弦 : 仏教者の戦争責任. 春秋社. 昭和45年
 ・松岡由香子 : 「禅と戦争責任」-沢木興道老師のアポロギア. ネット上の文献(掲載誌不明. 未出版原稿か?)
 ・松岡由香子 : 「禅と戦争責任」(続き)-沢木興道老師のアポロギア. 第二部 禅と戦争. ネット上の文献(掲載誌不明. 未出版原稿か?)
 ・澤木興道 : 生死のあきらめ方.
 ・澤木興道全集. 大法輪閣.
 
3) 森田正馬の戦争に対する考え方
 ・森田正馬全集 第五巻. 白揚社.
 ・野村章恒 : 森田正馬評伝. 白揚社.