丹後半島と丹後ふるさと病院における、森田療法の可能性 (上)

2017/05/07


    経ヶ岬 灯台
    丹後半島の北端にある、経ヶ岬の灯台

     
     
       丹後半島の先端に、経ヶ岬がある。ここは京都府の、そして近畿地方の最北に位置する最果ての岬である。
       経ヶ岬には灯台がある。青い日本海を前に、白い灯台の姿が日に映える。しかし夜がくれば、灯台は暗闇に沈み、航行の安全を守るために、海に光を照らし続ける。
       一昔前のことだが、灯台守夫婦の生活を描いた『喜びも悲しみも幾歳月』という映画(昭和32年、木下恵介監督作品)が公開された。灯台はすべて辺境の地にあるが、そんな各地の灯台を転勤しながら、厳しい任務を果たし続ける灯台守のドラマは、人びとの心を打った。「妻とふたりで 沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす」と歌われた主題歌もヒットした。
       年代は下って、約30年後に、ストーリーを変えたリメイク版の映画『新・喜びも悲しみも幾歳月』(昭和61年、同じ木下恵介監督作品)が製作公開された。この映画の物語は、経ヶ岬灯台を舞台にして始まった。したがってそのロケも経ヶ岬で行われた。劇中の主人公はやがて転勤により経ヶ岬灯台を去って行くのだった。そんな展開にも似て、折しもこの映画のロケが終わった2年後の昭和63年に、経ヶ岬灯台は、灯台守の駐在しない無人管理に移行した。灯台の灯は消えないが、灯台を舞台とする人間ドラマの灯は、こうして過去へと流れ去っていった。
     

       ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

     

       さて灯台にまつわるロマンから、一転して経ヶ岬の地の現実に目を転じる。近畿の最北端にあり、日本海に向かって遮るものがなく、開かれた立地にあるこの岬は、北方の海空、とくに上空を監視、警戒するに適した場所である。古くは、太平洋戦争中には、海洋に向けて旧海軍の監視所があったが、戦後の昭和23年には、既に米軍レーダー基地が開設されていた。昭和33年以来、航空自衛隊の(埼玉の入間基地の)分屯基地となって、今日に至っている。近くの山上にはレーダーを配備している。自衛隊基地は灯台から少し西の方にある。この基地の役割は、「日本海に面した空の防人である」と謳われている。自衛隊の基地と言えば、日本中至る所にあるし、丹後半島の地元もそれを受け入れてしまっていたのである。
       ところが、最近、在日米軍京丹後通信所という、米軍レーダー基地が、航空自衛隊経ヶ岬分屯基地に隣接して設けられた。2014年に既にレーダーがそこに搬入された。同年12月には早くもレーダーの運用が開始された。このレーダーは、弾道ミサイルの探知と追尾を行うものであるとされる。朝鮮半島とアメリカとの間で、とりわけ緊張が高まっている今日、米軍のレーダー基地ができたことは、丹後半島に危機感を走らせているのではないかと思う。しかし地元の人たちが実際にそれをどう受け止めているのか、定かではない面もある。過疎化したこの地に生きている人たちは、明日のことをどう考えているのだろう。


    丹後王国物語
    『丹後王国物語~丹後は日本のふるさと』(平成25年刊)
    舞鶴市、宮津市、京丹後市など、丹後の複数の自治体からなる「丹後建国1300年記念事業実行委員会」編
    で刊行された大判の出版物の表紙。

     

       ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

     

       灯台守の人たちのドラマに続いて、今一度、丹後半島のロマンの話をしよう。
       歴史を遡ること古代まで。丹後半島には王国があった。邪馬台国は丹後にあり、卑弥呼は丹後にいたのかもしれないのである。『丹後王国物語』の表紙には、次のようなフレーズが出ている。「卑弥呼は丹後にいた!? 大陸との交易の中心にあった高い文化と、強大な権力。これらを伝える無数の遺跡。浦島、羽衣など伝説の宝庫。 丹後はまさに日本のふるさとである。」
     
       このような歴史ロマンは、夢想の産物ではなく、古墳の存在や出土品などの事実に基づき、歴史学者によって提唱されている考え方である。丹後王国論の学説は、古代史を専門とする歴史学者の門脇禎二氏の著書『日本海域の古代史』 第六章「丹後王国論序説」(東京大学出版会、1986年)に詳しい。他にも、古代丹波の歴史研究をしておられる伴とし子氏による出版物がいくつかある。なお丹後王国と言う場合、年代的には、丹後国より先に丹波国が存在していて、丹波国の北部が、和銅6年(713年)に分国して丹後国となったものであるので、それを踏まえておく必要がある。丹後の地にあった王国の最盛期は、分国以前の時代にあたるので、それを考慮して、厳密には丹後王国でなく丹波王国と呼ばれることもある。先の『丹後王国物語』は、「丹後建国1300年記念事業実行委員会」によって編纂されているが、内容は建国以前の古代史のロマンを、マンガを添えつつ、解説によってコンパクトに詰め込んだものである。ともあれ、一読に値する。
     
       さて、丹後半島に古代王国があったことをまず雄弁に物語るのは、とくに古墳時代の4世紀頃に作られた数多くの古墳の存在である。そのうち、網野銚子山古墳(京丹後市にある、全長198mの前方後円墳)と、神明山古墳(京丹後市にある、全長190mの前方後円墳)の二つは、とくに大きく、日本海側にある古墳のうちで、前者は最大のもの、後者は第二の大きさのものとして位置づけられている。また、蛭子山一号墳(与謝野町にある、全長145mの前方後円墳)も大きい。網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山一号墳は、丹後三大古墳とされるが、それらの規模からして、丹後半島には強大な権勢を誇る王族がいたことを証明するものである。古墳は大小あり、丹後半島全域には、約6000基の古墳がある。
     
       古墳、その他の遺跡から出る出土物もまた重要で、丹後地域では、鉄とガラスの出土が極めて多いことが、大きな特徴である。鉄剣などの鉄製品や、ガラス玉、水晶玉が多く出土しているが、それだけにとどまらない。弥生時代の、最古の製鉄所遺跡(京丹後市弥栄町の遠處遺跡)や、同じく弥生時代の、最古の玉造り工房跡(京丹後市弥栄町の奈良岡遺跡)も見つかっており、鉄やガラスの製造技術に長けた集団が古くからこの地にいて、その技術で鉄やガラスの製品を造り、大陸や内陸部と活発な交易をおこなっていたものと推測される。
     
       こうして、丹後半島では、古墳の規模から推定されるような強大な権力を持つ支配者がいて、鉄やガラスのものづくりの技術を有する文化があり、地理的には日本海に面して、大陸への表玄関として恵まれた条件にあった。この地には、弥生時代の中、後期から古墳時代にかけて、4世紀頃を最盛期とする古代王国があったと考えられるのである。
     
       厳密な名称としての丹後王国は、丹波王国から713年に分かれたものとされるが、門脇氏は丹波王国自体が6世紀に既にヤマト王権の支配下に入っていたと推測している。一方、丹波王国は強大で、その勢力は山城、近江、難波、大和にまで及んでいたとする説もある(『海部氏勘注系図』による伴とし子氏の説)。ちなみに丹波は、古来「たには」と読まれており、難波は「なには」であり、名称の上からは類縁を感じる。もちろん根拠を伴っていないが。いずれにしても、丹後の国と畿内との間になにがしかの交流がなかったはずはない。
     
       伊勢神宮の外宮には、豊受大神(とようけのおおかみ)が祀られている。この神は、もともと丹後の祖神であり、五穀の種を授ける食を司る神であった。丹後地方には、豊受大神を祀る神社が多くあって、信仰を集めているのである。この豊受大神は、雄略天皇の時代に伊勢に遷されたのであるという(『丹後王国物語』伴とし子氏執筆:第1部による)。丹後は「元伊勢」と呼ばれているが、その名称は、このような歴史的事情に基づいている。
     
       丹後に邪馬台国があり、卑弥呼が丹後にいたかどうかは、わからない。しかし、その可能性はないわけではない。邪馬台国の地理的条件として、海路で大陸と交流できる利便性が不可欠であったろう。その点では、邪馬台国畿内説は不自然に見える。畿内説が採られる場合、日本海に面した丹後王国(丹波王国)が、海陸を経由して畿内に通じる機能を果たす必要があったことを考慮に入れなければならないであろう。邪馬台国丹後説と畿内説は、関連しあう歴史ロマンである。
     

       ♥      ♥      ♥      ♥      ♥      ♥

     
       丹後は日本のふるさとである。
       こんなふるさとの地に、丹後ふるさと病院がある。丹後ふるさと病院の院長の瀬古先生は、忘れられつつある日本人の原点を、森田療法と重ね合わせながら、日々の診療を進めておられるのである。本物の森田療法がそこにある。次回の稿でそれを記して、丹後半島と丹後ふるさと病院に皆様をお誘いしたい。

                                                          (以下次回)