丹後半島と丹後ふるさと病院における、森田療法の可能性 (下)

2017/05/12


 丹後ふるさと病院の玄関で(真ん中に、院長の瀬古敬先生)


丹後ふるさと病院の玄関で(真ん中に、院長の瀬古敬先生)


 

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   京都には、四季それぞれに趣があるらしい。市内はいつも観光客で溢れかえっている。
   観光とは別に、住みたい都市としても京都は人気がある。日経BP研究所によって都市住民を対象におこなわれた調査(2016)で、「将来住んでみたい自治体」のランキングは、1位:札幌市、2位:京都市、3位:横浜市であった。 
   一方、地域別にみた医療の充実度はどうであろうか。厚労省による都道府県別にみた人口10万対医師数が公表されている。平成26年末の調査では、第1位:京都府、第2位:東京都、第3位:徳島県であった。平成26年以前においても、これら3府県が上位を占める年度が続いていたようである。京都市は、山紫水明、交通の便に恵まれ、また府下の医師数の多さは都市部に集中しているであろうから、医療は充実した都市であることが見込まれる。住みたい都市として、全国で1、2位にランクアップされているのは無理もない。しかし京都市は、京都府全体からすれば、その南部の例外的な一局所である。京都市とその近郊を含む都市部に比して、それ以外の府下の状況は、格段に異なるのである。それは、北海道の道東にある札幌市と北海道全体との関係に似ているであろうか。京都市に対して、府下の北方の地域、札幌市に対して、広い道内の地域。同じではないにせよ、ひとつの自治体内に、全国の人たちが憧れる住みたい都市とそうではない地域があるという事情は似通っている。同じ都道府県内でも、環境が良くて、便利で、医療が整っていて、住みたいという憧れの対象になる都市から離れると、そこには正反対の地域がある。若者はその地を離れて都市に行き、地域は過疎化して、高齢者が残されていく。着任する医師も少なくなり、悪循環が起こる。
 
   日本海に面した京都府の北の地域、京丹後市は、そんな不本意な条件を抱えた田舎町である。丹後半島の東の入り海にある天橋立ばかりが、観光名所と知られ過ぎてしまったきらいがあるが、半島の大半が京丹後市である。青く澄んだ日本海と海水浴場のある海岸、歴史好きの人たち向けには、遺跡や古墳が多く、俗化していないのが何よりもいい。京都市からそれほど遠隔の地域ではないのに、都市化の波はここまで及んでない。
 
   「百聞は一見にしかず」で、面白いことに、ネット上で、ライブカメラに映されている京丹後市内の風物の映像を観ることができる。市民の方々の生活の模様を観ることはできないが、風景の他に、街並みも遠景で映されていて、道路を走っている車が見えたりする。この動画サイトへのリンクは禁じられているが、下記の名称のサイトを開けば、ライブの動画を観ることができる。
 

「京丹後市/自然街並み ライブカメラ」

 
   30年ほど前、京丹後市内のある地元のための病院では、院長も不在になるという危機に瀕していた。策を失った地元の代表者の方々が、京都市内の大学や公的病院に、医師の派遣を懇願に来たのだった。しかし日本海のほとりの経営も危うい病院に、赴任しようとする医者はいなかった。当時京都市民病院に勤務していた瀬古敬先生は、そんな状況を見て、放っておくに忍びず、みずから院長として赴任したのであった。以来30年が経つ。瀬古先生は、死ぬまでここでやるとおっしゃっている。
 

病院の外来で、瀬古先生と高齢の患者さん。

病院の外来で、瀬古先生と高齢の患者さん。


 

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   瀬古先生も私と同じように、フランスへに留学された経験がある。神経学が専門だったから、パリのサルペトリエール病院に学ばれたのである。今も寸暇を惜しんで、西洋の文献に目を通しておられる。毎週末に京都市内のご自宅に帰り、週末は研究会などに参加し、日曜午後から京丹後市に向かわれる。その生活を繰り返して30年。医師として生涯研修をし、研究をし、設備の整った医療機関で高度な診療をするには、京都市内で勤務する方がよいに決まっている。都会の生活を嫌って、世捨て人になろうとして、僻地の診療を生涯の仕事とされたのではない。必要とされているところに行って、医師としての自分を尽くされているのみである。本来、先生の専門は神経内科だが、京丹後市の第一線の病院に勤務しておられると、神経内科的疾患以外に、認知症はもちろん、精神疾患の患者さんの受診が多く、神経と精神の両面にわたって、広く診療を続けておられる。 
   先生と私は大学での同級生であるが、卒業後、専門を異にし、別の進路を歩んでいた。しかし、10年あまり前、ふとしたことから、先生は禅に関心を有し、折々に禅寺(妙心寺)に行って座禅をたしなんでおられることを知った。そして森田療法を共有するようになった。私が勤務していた三聖病院は、2年ばかり前に閉院となったし、そもそもそこでの内実は森田療法から宇佐療法に変容して、一部の特殊な患者さんたちから信奉されるものになってしまっていた。そのような悩みを抱えての勤務を続けていたのだったが、三聖病院の閉院により、今度は私は、「関西で入院森田療法を維持しなくてもよいのか」という無言の問いかけを、世間から感じることとなった。 
   私は、神経症は強いて人為的な手段を用いて治す必要はないという持論を有していたから、三聖病院に代わる入院森田療法施設の必要性については、内心懐疑的であった。安易に森田正馬の真似をした、形ばかりの入院森田療法の施設を造る必要があるなどとは、全く思っていない。「神経症者は、日本列島という神経症病棟に入院していればよい。いつかはそこで自分の生き方を思い出す」などとうそぶいている。顰蹙を買っているかもしれないが、わが本心である。だけど、神経症で悩んでいる人たちがおられることを知らないわけはない。さらに神経症という診断すら表面的に過ぎるような、深い不全感を奥底に抱えて、生きづらい日々をなんとか生きている人たちがおられることも知っている。だから真似事の入院施設よりも、有形無形に森田療法の本質を保持する場所や、人と人とのつながりが、大々的でなくともよいから、あるとよいとは、切実に思う。 
   現実に「生活の発見会」のような自助組織がある。私は、三聖病院の閉院前には「生活の発見会」の協力医にして頂いていた時期があったが、実際に深い交流をさせて頂くに至る前に、三聖病院の閉院に伴い、診療の受け皿としての「協力医」ではなくなった。でも有り難いことに「生活の発見会」の理事長様や事務局長様と交流させて頂けるようになった。 
   やりとりをさせて頂く中で、京都府の「生活の発見会」の事情を改めて知った。かつては府下の北部を含む組織があり、さらに京都市を中心とする「京都南」の組織があった。しかし現在では、「京都南」の組織が活動しているだけで、北部における発見会活動は休止している状態のようである。そこで、丹後ふるさと病院の院長、瀬古敬先生を「協力医」にと、昨年あえて「生活の発見会本部」に推薦させて頂いた。それを受け止めて頂いて、瀬古先生は「生活の発見会の協力医」に指定されている。京都府下の北部の発見会の会員様方が、丹後ふるさと病院の瀬古先生と遠慮なく交流なさることをお勧めしたいと思う。 
 

明け方の日本海海岸

明け方の日本海海岸


 

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   以上を長い前置きとして、丹後ふるさと病院における、入院森田療法、あるいは入院に準ずる方式での森田療法の可能性について、方針を示しておきたい。 
 
   ①入院について 
   瀬古先生は、三聖病院の閉院前後以降の私の苦境を察して、丹後ふるさと病院の病棟の個室の一部を入院森田療法用に供してもよいと、寛大な提案をして下さったのだった。そのご厚情に深い感謝の念を抱いている。ただし、有り難いご提案を生かすためには、さまざまな問題をクリアしなければならない。 
   入院という形態を取るならば、行政の監督下で許容されるように条件を満たさねばならない。例えば作業について、院内において、入院患者の使役とみなされかねない作業への従事は、タブーとなる。生活に必要なことこそが本当の作業なのに、無難な作業を用意するのが、入院森田療法の作業なのであろうか。この点は嘆かわしく、問題が残る。 
   入院は集団生活に意義があるが、ここで入院を受け入れる場合、最初はもちろん1人から始まり、人数が増えても数人までに制約される。 
   治療者の問題。多忙な瀬古先生に丸投げすることなどできないので、入院の第1号の方が来られるなら、その時点から、私が森田療法用の嘱託医師にして頂いて、病院に赴く。  
   入院受け入れ対象者は、最初は「生活の発見会」会員様(全国)を考えたが、地理的な事情を考えると、入院希望者はない可能性もある。したがって、発見会員様に限るという条件は外す。 
   発見会協力医である必要はないが、森田療法に通じておられる医師の責任に基づく紹介状を必要とする。 
   保険診療を適用するが、個室料金は1日につき数千円を要する。瀬古先生は個室料は取らなくてもよい、とおっしゃるけれど、規定通りの室料を取ってしかるべきだと私は言っている。 
   病院の入院患者の疾患や年齢層の特徴として、病棟内には認知症の高齢者が多い。 
   本院で、入院森田療法を受け入れる場合、上記のような事情の中での入院となる。このような条件下での入院を、生きた体験ができると捉えて入院を志願されるかどうかは、人によるだろうと思う。だから、特に関心をもつ人にしかお勧めしない。 
 
   ②丹後半島内に宿泊滞在して、病院に通院する方式 
   丹後ふるさと病院の森田療法医である瀬古先生との出会いと、丹後半島という地域への滞在を組み合わせる方法があるので、これについて記しておく。かつて森田正馬が自宅での入院療法を始める前に、患者さんを近隣に下宿させて、通院診療をおこなった。これと若干似ているが、趣旨は同じではない。森田の場合は、入院の形での診療を開業する前の、仮の方式だった。 
   しかし丹後半島内での宿泊滞在という提案は、いわば丹後半島全体を入院地とみなし、ここに自主入院して、この地で自由な行動をして、いろいろな体験をすることを重視する。宿泊先や行動のお膳立てはしないので、自主的に計画して頂きたい。宿はおそらく、民宿の比較的低料金のところを探すのがよいだろう。低料金の宿が見つかれば、病院の個室料金と大きくは変わらないであろう。地域で何をするか、何ができるかは、自身で考えてほしい。観光、ボランティア、アルバイト、歴史散歩、などなど。工夫をするのが森田療法である。 
   そして、丹後半島へでの滞在中、丹後ふるさと病院の瀬古先生の外来に通院なさるのがよい。瀬古先生は森田療法の講釈などなさらない。この先生は、人間が森田療法なのだから、会って何か感じるだけでいいのだ。 
   通院なさることが、あらかじめわかっていれば、私も病院に赴き、外来で会って、必要なら日記療法もさせてもらう。 
   半島内で自由に充実した滞在期間を過ごし、その間、丹後ふるさと病院の外来診療をインテンシブに活用なさればよいと思う。 
   これが、丹後半島での「宿泊滞在・自主行動・外来通院方式の森田療法」のプランの概略であり、その体験の勧めである。 
   奇抜過ぎると言われるかもしれない。お膳立てをしないので、そっけないと思われるかもしれない。しかし、われわれはそこまでご用意できないし、用意をしてあげるのがよいとも思っていない。鋳型のような規則に従わせるのではなく、自由を重んじるのが森田療法だと思うのである。生きづらい人は、この地においでになるとよい。 
 
   以上が、丹後半島と丹後ふるさと病院での森田療法の可能性である。 
 
   ここに記したことは、改めて、ホームページに掲示し直すかもしれないが、およそのことは略記した。もし真剣なご質問があれば、ご本人自身が、このホームページの「通信フォーム」から、必須項目だけでなく、全項目にご記入の上で、送信なされば、答え得ることはお答えする。 
   (なお、過去に何らかのお問い合わせメールを頂いた際に、迷惑メールと判定したものは、こちらに届きませんので、ご了承下さい)。

丹後半島と丹後ふるさと病院における、森田療法の可能性 (上)

2017/05/07


    経ヶ岬 灯台
    丹後半島の北端にある、経ヶ岬の灯台

     
     
       丹後半島の先端に、経ヶ岬がある。ここは京都府の、そして近畿地方の最北に位置する最果ての岬である。
       経ヶ岬には灯台がある。青い日本海を前に、白い灯台の姿が日に映える。しかし夜がくれば、灯台は暗闇に沈み、航行の安全を守るために、海に光を照らし続ける。
       一昔前のことだが、灯台守夫婦の生活を描いた『喜びも悲しみも幾歳月』という映画(昭和32年、木下恵介監督作品)が公開された。灯台はすべて辺境の地にあるが、そんな各地の灯台を転勤しながら、厳しい任務を果たし続ける灯台守のドラマは、人びとの心を打った。「妻とふたりで 沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす 灯をかざす」と歌われた主題歌もヒットした。
       年代は下って、約30年後に、ストーリーを変えたリメイク版の映画『新・喜びも悲しみも幾歳月』(昭和61年、同じ木下恵介監督作品)が製作公開された。この映画の物語は、経ヶ岬灯台を舞台にして始まった。したがってそのロケも経ヶ岬で行われた。劇中の主人公はやがて転勤により経ヶ岬灯台を去って行くのだった。そんな展開にも似て、折しもこの映画のロケが終わった2年後の昭和63年に、経ヶ岬灯台は、灯台守の駐在しない無人管理に移行した。灯台の灯は消えないが、灯台を舞台とする人間ドラマの灯は、こうして過去へと流れ去っていった。
     

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       さて灯台にまつわるロマンから、一転して経ヶ岬の地の現実に目を転じる。近畿の最北端にあり、日本海に向かって遮るものがなく、開かれた立地にあるこの岬は、北方の海空、とくに上空を監視、警戒するに適した場所である。古くは、太平洋戦争中には、海洋に向けて旧海軍の監視所があったが、戦後の昭和23年には、既に米軍レーダー基地が開設されていた。昭和33年以来、航空自衛隊の(埼玉の入間基地の)分屯基地となって、今日に至っている。近くの山上にはレーダーを配備している。自衛隊基地は灯台から少し西の方にある。この基地の役割は、「日本海に面した空の防人である」と謳われている。自衛隊の基地と言えば、日本中至る所にあるし、丹後半島の地元もそれを受け入れてしまっていたのである。
       ところが、最近、在日米軍京丹後通信所という、米軍レーダー基地が、航空自衛隊経ヶ岬分屯基地に隣接して設けられた。2014年に既にレーダーがそこに搬入された。同年12月には早くもレーダーの運用が開始された。このレーダーは、弾道ミサイルの探知と追尾を行うものであるとされる。朝鮮半島とアメリカとの間で、とりわけ緊張が高まっている今日、米軍のレーダー基地ができたことは、丹後半島に危機感を走らせているのではないかと思う。しかし地元の人たちが実際にそれをどう受け止めているのか、定かではない面もある。過疎化したこの地に生きている人たちは、明日のことをどう考えているのだろう。


    丹後王国物語
    『丹後王国物語~丹後は日本のふるさと』(平成25年刊)
    舞鶴市、宮津市、京丹後市など、丹後の複数の自治体からなる「丹後建国1300年記念事業実行委員会」編
    で刊行された大判の出版物の表紙。

     

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       灯台守の人たちのドラマに続いて、今一度、丹後半島のロマンの話をしよう。
       歴史を遡ること古代まで。丹後半島には王国があった。邪馬台国は丹後にあり、卑弥呼は丹後にいたのかもしれないのである。『丹後王国物語』の表紙には、次のようなフレーズが出ている。「卑弥呼は丹後にいた!? 大陸との交易の中心にあった高い文化と、強大な権力。これらを伝える無数の遺跡。浦島、羽衣など伝説の宝庫。 丹後はまさに日本のふるさとである。」
     
       このような歴史ロマンは、夢想の産物ではなく、古墳の存在や出土品などの事実に基づき、歴史学者によって提唱されている考え方である。丹後王国論の学説は、古代史を専門とする歴史学者の門脇禎二氏の著書『日本海域の古代史』 第六章「丹後王国論序説」(東京大学出版会、1986年)に詳しい。他にも、古代丹波の歴史研究をしておられる伴とし子氏による出版物がいくつかある。なお丹後王国と言う場合、年代的には、丹後国より先に丹波国が存在していて、丹波国の北部が、和銅6年(713年)に分国して丹後国となったものであるので、それを踏まえておく必要がある。丹後の地にあった王国の最盛期は、分国以前の時代にあたるので、それを考慮して、厳密には丹後王国でなく丹波王国と呼ばれることもある。先の『丹後王国物語』は、「丹後建国1300年記念事業実行委員会」によって編纂されているが、内容は建国以前の古代史のロマンを、マンガを添えつつ、解説によってコンパクトに詰め込んだものである。ともあれ、一読に値する。
     
       さて、丹後半島に古代王国があったことをまず雄弁に物語るのは、とくに古墳時代の4世紀頃に作られた数多くの古墳の存在である。そのうち、網野銚子山古墳(京丹後市にある、全長198mの前方後円墳)と、神明山古墳(京丹後市にある、全長190mの前方後円墳)の二つは、とくに大きく、日本海側にある古墳のうちで、前者は最大のもの、後者は第二の大きさのものとして位置づけられている。また、蛭子山一号墳(与謝野町にある、全長145mの前方後円墳)も大きい。網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山一号墳は、丹後三大古墳とされるが、それらの規模からして、丹後半島には強大な権勢を誇る王族がいたことを証明するものである。古墳は大小あり、丹後半島全域には、約6000基の古墳がある。
     
       古墳、その他の遺跡から出る出土物もまた重要で、丹後地域では、鉄とガラスの出土が極めて多いことが、大きな特徴である。鉄剣などの鉄製品や、ガラス玉、水晶玉が多く出土しているが、それだけにとどまらない。弥生時代の、最古の製鉄所遺跡(京丹後市弥栄町の遠處遺跡)や、同じく弥生時代の、最古の玉造り工房跡(京丹後市弥栄町の奈良岡遺跡)も見つかっており、鉄やガラスの製造技術に長けた集団が古くからこの地にいて、その技術で鉄やガラスの製品を造り、大陸や内陸部と活発な交易をおこなっていたものと推測される。
     
       こうして、丹後半島では、古墳の規模から推定されるような強大な権力を持つ支配者がいて、鉄やガラスのものづくりの技術を有する文化があり、地理的には日本海に面して、大陸への表玄関として恵まれた条件にあった。この地には、弥生時代の中、後期から古墳時代にかけて、4世紀頃を最盛期とする古代王国があったと考えられるのである。
     
       厳密な名称としての丹後王国は、丹波王国から713年に分かれたものとされるが、門脇氏は丹波王国自体が6世紀に既にヤマト王権の支配下に入っていたと推測している。一方、丹波王国は強大で、その勢力は山城、近江、難波、大和にまで及んでいたとする説もある(『海部氏勘注系図』による伴とし子氏の説)。ちなみに丹波は、古来「たには」と読まれており、難波は「なには」であり、名称の上からは類縁を感じる。もちろん根拠を伴っていないが。いずれにしても、丹後の国と畿内との間になにがしかの交流がなかったはずはない。
     
       伊勢神宮の外宮には、豊受大神(とようけのおおかみ)が祀られている。この神は、もともと丹後の祖神であり、五穀の種を授ける食を司る神であった。丹後地方には、豊受大神を祀る神社が多くあって、信仰を集めているのである。この豊受大神は、雄略天皇の時代に伊勢に遷されたのであるという(『丹後王国物語』伴とし子氏執筆:第1部による)。丹後は「元伊勢」と呼ばれているが、その名称は、このような歴史的事情に基づいている。
     
       丹後に邪馬台国があり、卑弥呼が丹後にいたかどうかは、わからない。しかし、その可能性はないわけではない。邪馬台国の地理的条件として、海路で大陸と交流できる利便性が不可欠であったろう。その点では、邪馬台国畿内説は不自然に見える。畿内説が採られる場合、日本海に面した丹後王国(丹波王国)が、海陸を経由して畿内に通じる機能を果たす必要があったことを考慮に入れなければならないであろう。邪馬台国丹後説と畿内説は、関連しあう歴史ロマンである。
     

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       丹後は日本のふるさとである。
       こんなふるさとの地に、丹後ふるさと病院がある。丹後ふるさと病院の院長の瀬古先生は、忘れられつつある日本人の原点を、森田療法と重ね合わせながら、日々の診療を進めておられるのである。本物の森田療法がそこにある。次回の稿でそれを記して、丹後半島と丹後ふるさと病院に皆様をお誘いしたい。

                                                          (以下次回)