「関西森田・体験会」の見学体験

2017/04/10


 

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関西の森田療法事情は、いささかややこしい。誰が言い出したか、関西は森田療法の不毛の地だと、久しく言われ続けてきた。京都には三聖病院という、伝統ある病院があったにもかかわらず、ある筋からはさような病院は存在しないものとして、ネグレクトされてきた。その背景は読めるので、むべなるかな、と思う。森田療法ならぬ宇佐療法が、独特の禅的体験の重視により、異彩を放ち過ぎていたからである。
さて関西における今日の事情はどうか。三聖は既に滅びた。たとえその亡霊は、まだ少々残っていようとも。とにかく入院森田療法は名実ともに関西の地から消え去った。代わって活発化しているのは、森田療法の知識としての情報化活動である。

森田療法は、本来人為の巧みによってなされる療法ではなく、自然な体験によって身につくものにほかならない。森田は、この療法を自然療法、あるいは体験療法と呼んだのだった。われわれの生活の中のIT化、情報化が進んでも、バーチャルな病院に入院して、何かを体得するというわけにはいかない。禅語を引き合いに出すなら、「冷暖自知」である。人生で経験する重要なことの多くは、間接情報からでなく、みずからの感覚を通して体験的に知ることによって、はじめて身につくものである。

さて、数年前から、関西にちょっと面白い会ができた。治療者、患者、研究者、市民のそれぞれの間にある垣根を取り払い、森田的な本質を共に追求しようと意図するもので、堺市のナカノ花クリニックの仲野実先生を中心とする「関西森田の会」がそれである。

最初この会は、自由な勉強会、兼飲み会であったが、昨年から、集団で森田的生活体験を共有しようと、大阪府南部の古民家で、月一度週末に合宿生活をしている。治療者、教員、看護師、当事者ら、10人余りのグループでの週末合宿体験である。

去る3月25日に、私は見学の立場でここに参加させて頂いた。以下はその見学体験の報告である。

 

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弘川寺

大阪府の南東部の山裾に弘川寺という真言宗の寺院がある。寺の下方には、何軒かの民家が並んでいる。その中にN先生の御実家であった古民家がある。この家はとりわけ旧家の風情を残している。ここが合宿の場である。

 

 

土曜日昼過ぎから合宿が始まった。なにやら打ち合わせをしている。

 

 

塀の外部の草引きをしている人がいる。

 

 

玄関前庭の草引き

玄関前庭の草引き

家屋の内外で、皆が思い思いに清掃作業をしていた。そのあと、数人は山へ薪を拾い集めに行った。また一部の人たちは、スーパーへ食材を買い出しに行った。
私はひとりで、近くの弘川寺へ行った。

 

 

弘川寺

弘川寺


大阪と奈良の間にある山系のうちに、金剛山がある。古くは修験道が行われていた山らしい。
弘川寺は、その山裾、南河内郡河南町弘川にある真言宗醍醐派の寺院で、役行者を開基とする。
西行がこの地を訪れて、滞在中に没した終焉の地としても知られる。お寺の近くには、西行の墓も、西行記念館もある。

 

 

弘川寺の隣接地
弘川寺の隣接地(N先生の所有地らしい)には、切った丸太を組み立てて拵えた西行歌碑がある。丸太組みの上には、西行がこの地で詠んだ名歌をしたためた某書家の墨跡が、掲げられている。
「さひしさに たへたる人の またもあれな 庵りならへん ふゆの山さと」 西行

 

(寂しさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里)

 

孤独に耐え抜いて生き続けてきた西行が、自分と同じ経験をしてきた人が誰かいたら、庵を並べたいものだと、放浪の果ての晩年の孤独な心境を吐露した歌である。こんな寂しい歌を残して、西行は世を去った。

 

 

弘川の地は山裾だけれど、都市部より標高はかなり高く、3月下旬になっても夜になると底冷えがする。拾い集めた薪をストーブにくべて暖をとる。

 

 

買ってきた食材で、夕食の準備をしている。みずから包丁で野菜を刻んでいるハナクリニック院長、N先生の姿が右方に見える。

 

 

調理した料理が出来上がって、食卓に並べられた。これから、夕食が始まる。私は見学者だったが、一緒に食事にあずかった。食材も新鮮だったが、作った人たちの手間と心がこもっていることがわかるので、一層美味しい。
既に夜も9時となり、私はこのへんで辞去させていただいた。夕食の後片付けを済ませたら、いつも深夜まで話が弾むそうである。
森田療法の有志たちによるこの体験的合宿には、禅的清規のようなものは一切ない。自由な合宿であるが、参加者の自己規制が働いて、集団はおのずから自律的なものとなっている。
このような合宿の意義を問うてみる価値はありそうである。