森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(3)―谷中の両忘会への参禅体験について―

2017/01/13

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釈宗活 著『臨済録講話』大正13年刊

 
 森田正馬は、明治43年に両忘会の釈宗活のもとに参禅し、長続きしなかった。しかし彼の日記には、大正15年に釈宗活のこの本を読んだという記録がある。森田は禅や釈宗活への関心を持ち続けていたのである。
 

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 森田が鎌倉円覚寺に参禅したかどうかについては不明な点が多い。けれども、谷中の両忘会における釈宗活への参禅は、森田にとって大きな体験であったと思われるので、これについて今一度見直しておきたい。そのあらましは、森田の「日記」や「我が家の記録」に記されているので、先に便宜上、野村章恒氏の著作より再引用した。この度、改めて正確を期すため、森田の日記(写し)を直接閲覧したので、当該箇所をまず次に正確に引用しておく。
 
「明治四十三年二月五日
 藤根常吉氏ニ勧メラレ、両忘会ニ入會シ、槐安國語ノ提唱ヲ聴キ参禅ス、藤根氏ト共ニ帰リ晩酌ス、
 
六日(日)
 谷中初音町両忘會ニ参シ、摂心中、毎朝参禅スル事トナル、考案ハ「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」ナリ、午後ニ時天龍院ニ釈宗活師ノ禅海一瀾第二則ノ提唱ヲ聴ク、
 
七日
 朝参禅、師曰、禅ハ理ヲ以テ推スニ非ズ、身ヲ以テ考案ト一致スルニアリ、三昧ニ入ルベシ、坐禅ヲ怠ル勿レト、…」
 
 以上の日記の記載から、いくつかのことがわかる。森田はこの年の2月初旬の摂心の期間より、両忘會に入って、谷中の初音町にある坐禅の道場とも言うべき場所に通い出したこと。釈宗演が漱石に課したと同じ公案、「父母未生以前、自己本来ノ面目如何」を釈宗活から与えられたこと。釈宗活という老師の指導のしかたについての素描からわかる、その人物像の片鱗。そして午後は、朝の坐禅の場所ではなく、天龍院で老師の提唱がおこなわれたらしいこと、などである。

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 ところで、「両忘會」なるものは、どういうものであったのか、沿革をたどってみる。それは、在家の人々に対する禅指導の必要性を説く在家主義を標榜し、その活動をする組織で、明治8年に、山岡鉄舟、勝海舟、中江兆民らの有志の居士たちが、今北洪川老師(鎌倉円覚寺初代管長)を拝請して、東京湯島の麟祥院で、宗派によらない参禅会を結成して、これを両忘會と名付けたことが始まりであった(以下では、両忘会と表記する)。禅に参ずる集いとしては「両忘え」と読んでよいのだろうが、組織の意味で「両忘かい」と読んでおく。
 一方、会の中心人物のひとり、山岡鉄舟は、やはり在家居士の立場から、明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために、寺の建立を発願し、臨済宗国泰寺の僧侶越叟を開山とし、みずから開基となって、明治16年に台東区谷中に全生庵を建立した。そして山岡は、明治21年に病没している。
 湯島の麟祥院で創設された両忘会の活動は、その後いったん途絶えた状態になっていたようである。途絶えた原因は、中心人物の山岡鉄舟が、全生庵の建立に力を注いでいたためか、あるいは山岡の死去によるのか、あるいは全生庵の僧侶との関係か、わからないが、湯島の両忘会と山岡による谷中の全生庵建立との間に、矛盾はなかったはずである。私自身、山岡鉄舟は両忘会の設置場所を湯島の麟祥院から谷中の全生庵に移したものと、思い込み、森田が谷中の両忘会に参禅した先は、全生庵であったろうと憶測していたのだった。しかし調べてみたところ、両忘会の活動の場が全生庵にあった形跡は現れてこない。それでも、山岡鉄舟が没するまでは、両忘会は全生庵につながっていたのではないか、という推測を今も抱いている。
 全生庵は、臨済宗でも国泰寺に属していた僧を開山として仰いだが、折しも臨済宗内では明治38年に国泰寺派が成立する流れにあったので、山岡亡き後の全生庵は、宗派を越える参禅を主旨とする両忘会とは、必ずしも軌を一にできない微妙な関係にあったことも考えられる。こうして、両忘会が休眠状態になっている状況下で、問題の地、谷中で全生庵を半ば囲繞するかのように、両忘会が復活するのである。

 

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 円覚寺の釈宗活は、管長の釈宗演より印可を受けて、表徳号「両忘庵」を授かるとともに、東京の両忘会の再興をはかるように命を受けた。それにより、明治35年に釈宗活は谷中に草庵を結んで、両忘会を継承し、在家の人たちの禅指導にあたることになった。草庵を結んだ、と伝承されているが、その場所は日暮里とも谷中とも言われる田舎めいた区域の、貸家の一軒家であった。平塚らいてうは、明治38年、日本女子大学の学生のときにここへ参禅しており、自伝の中でこの両忘庵と宗活老師について触れているので、少し引用しておく。
 
 「私はこの友の紹介で、(…)日暮里の田んぼの中の一軒家、「両忘庵」の風雅な門をくぐっていました。いよいよ釈宗活老師というお坊さんについて座禅の修行をすることになったのです。
 迷いも悟りも両つながら忘れるという両忘庵には、当時の若い帝大生が多く集まって座禅をしていました。鎌倉円覚寺管長釈宗演老師の高弟だという宗活老師が、どんなお年寄りかと思ったところ、まだ三十を少し出た位の青年僧だったので、意外な感じに打たれました。何でも高校時代、人生問題に悩んで、学業を捨てて、禅門に走り、出家した方だとかひとから聞いていましたけれど……。何度も畳に額をすりつけるような最敬礼を教えられた通りにして、この老師から「父母未生以前の自己本来の面目」という公案をいただきました。「さあ、あちらへ行って坐り方をよく教わってしっかりやりなさい」老師の言葉はたったこれだけのものでした。(…)
 両忘庵の参禅は、朝五時から六時位までで、冬の朝は提灯をつけて家を出て、牛乳配達か新聞配達しか通らない暗い淋しい道を歩かねばなりませんでした。」(平塚らいてう著『作家の自伝 8・平塚らいてう』日本図書センター 刊、1994 )。
 
 このような文章から、両忘庵の地理的環境や、早朝におこなわれていた宗活による座禅指導の雰囲気が伝わってくる。
 平塚らいてうは、翌年大学を卒業して再び参禅し、見性の体験をして公案を透過する。それにより慧薫という安名を受けるに至った。しかしその結果、おそらく自己に陶酔したような境地、禅で言えば、勝境(勝ち誇ったような魔の心境)が続き、明治41年に、夏目漱石の弟子の森田草平と心中未遂事件を起こす。デカダンスの文学に影響を受けて、ダヌンツィオの『死の勝利』を地でいったようなこの醜聞は世を騒がした。漱石は「狂気じみた芝居」だとこれを酷評した。マスコミは、野狐禅の「禅学令嬢」と呼んだ。この出来事は、東京に根付き始めていた居士(在家)禅のあり方にも警鐘を鳴らすことになった。
 森田正馬は、この2年後に参禅するのだが、彼にとって平塚らいてうの行動は、在家者における禅を予め冷静に考える材料になったことであろう。
 この頃の釈宗活は、明治39年より4年間の予定で、アメリカに渡って禅の布教活動をしていた。明治41年の一時帰国を挟んで、かの地で布教を続けたが、目的を達成できず、明治42年に帰国し、両忘庵で在家の人たちの指導に復帰した。そのような時期の明治43年に森田は参禅したのだった。
 

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 さて、両忘庵は、釈宗活の号であるとともに禅道場の名称でもある。この道場の開設の地として、谷中を選択したことについては、わけがあったのであろうか。釈宗演の指示によったのだろうが、そこにはどんな必然性があったのか。あったとすれば、全生庵との関係が考えられる。それは山岡鉄舟の実績への郷愁、全生庵との連携の必要意識、逆に国泰寺派への対抗意識、などなど想像は膨らむが、あえてこの地に草庵を結んだ何らかの理由について、これ以上はこだわらないことにする。
 ただ、この谷中の地で、まず両忘庵の正確な場所が不明であり、森田の日記によれば、提唱は天龍院でおこなわれたようであるし、さらに森田は、谷中初音町に参したと記している。このように参禅の場がはっきりしないのは、いささか奇妙である。瑣末なことのようでもあるが、参禅の場を洗い直してみたい。
 初音町という町名は、現在の谷中には存在しない旧町名である。これについては、「台東区ホームページ」の「台東区の旧町名について」というサイトから、現在の住所と旧町名の新旧を対照的に同定できる。現在の谷中のどこが、旧初音町にあたるか、わかるのである。両忘庵(推定)、天龍院、そして全生庵も含み、初音町に入るのは?
 意外にも、初音町に所在するのは、全生庵だけのように判定される。新旧の住所の対照に、念のため見直しの点検を要するとは思うが、ストーリーは混迷に入る。
 今回はここまでにして、もう一度結末を書き直すことにしたい。
 
                                         (さらにもう少し次回に)