森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか?(2) ―鈴木知準氏の森田正馬円覚寺参禅説について―

2016/12/27

 

 
 最初に、前回の稿で述べたことを繰り返しておく。 森田正馬は、明治43年に谷中の両忘会に入り、釈宗活のもとに参禅したことは、事実として疑いを入れない。しかし、一方で、鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅したという説がある。これを声高に強調なさったのは、鈴木知準氏である。その根拠として鈴木氏は、森田自身が「円覚寺の釈宗演のもとで」参禅したと述べた文献があるとして、次のものを挙げておられる。
 森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧)六巻 146,1935.
 この文献に相当するものは、森田正馬全集第七巻に収載されているのだが、奇妙なことに、鈴木先生のおっしゃる「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉はない。
 この不一致は何を意味するのか。そこには、さまざまなことが考えられる。端的に言えば、そのような文言があった筈だという鈴木氏の思い込みか、さもなければ、編集者の判断により、その文言の削除がおこなわれたか、という推論を立ててみたのだった。
 

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 さて、前回手許になかった「神経質(旧)」誌(昭和10年4月号)の森田自身の文献、「日々是好日」にようやくたどり着いて、該当する文章を読んだ。そこには鈴木氏のおっしゃった「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、ついぞ見当たらなかった。森田正馬はかく語りき、と鈴木氏が示した文献中で、森田はかく語ってはいなかったのである。鈴木氏の言説に、実に単純な齟齬があった、と言わねばならない。森田がかく語ったという鈴木氏の言説は、昭和52年の氏の著作に見られるのだが、さらに付け加えれば、昭和51年に三聖病院の、宇佐玄雄生誕九十周年・三聖病院開院五十周年記念講演会に招かれて、その場においても全く同じことを述べておられ、それは昭和52年の三省会報第4号(昭和52年4月8日)に掲載されている。
 これらに先立って、森田の「日々是好日」という文献は、昭和50年に森田正馬全集第七巻に、熊野明夫氏の編集により収載されており、それは「神経質(旧)」誌に昭和10年に掲載された元の文献の再掲で、両方を照らしてチェックしてみたが、いずれにも、「円覚寺の釈宗演のもとで」という文言はない。ここにおいて、第七巻の編集者の熊野氏の作為が働いた可能性は消えて、問題はやはり元になった森田の文献の引用の正確性に差し戻される。誤った引用をすれば、そこに責任が発生する。にも拘わらず鈴木氏は、ためらうところなく、「森田は『円覚寺の釈宗演のもとで』参禅をしたと言っている」と、熱く語ったり書いたりなさっている。このけれんみのない語りは、一体何を意味するものであろうか。これは鈴木氏における単なる思い込み、あるいは記憶の錯誤の類のものであろうか。それとも、もっと深い確信的根拠に基づいてのことであろうか。真相はどこにあるのであろう。
 

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 ところで、昭和10年の「神経質(旧)」誌上の森田の文献は、書き下ろされたたものではない。森田は、前年秋に高知に帰省する途中で、三聖病院で一泊してそこで講話をおこなっており、それが書き起こされた講話録である。おそらく書き取りをもとに起草されたものであろう。そして、その起草文は、まず三聖病院から刊行されていた機関誌に掲載されて、それが森田のもとに届けられて、「神経質(旧)」誌に転載されたとみるのが妥当である。また森田自身、この雑誌の編集発行者であったし、自分の講話録であるから、目を通して内容を確認した筈である。だが、ちょうどこの雑誌が編集された時期には、森田は熱海で病臥中で、編集は竹山恒寿氏によっておこなわれている。このような過程で、原稿の文言の脱落が起こった可能性もないではない。それにしても、鈴木氏がそこまで深読みしておられたかどうか、定かではない。とにかく鈴木氏の引用しておられる文言は、どこにもないのである。
 森田が三聖病院で「日々是好日」と題する講話をおこなったのは、昭和9年11月23日のことで、この高知への帰省の旅には、井上常七氏や、布留氏、野田氏が同行し、共に三聖病院に宿泊して、森田の講話を聴いておられた。このような方々や、竹山恒寿氏、熊野明夫氏は、森田が円覚寺の釈宗演のもとに参禅したか否かを知っておられたに相違ない。井上常七氏や熊野明夫氏らの生前に、証言を頂いていなかったとしたら、大変悔やまれる。また熊野明夫氏は、鈴木氏の愛弟子だった方と聞くが、鈴木氏との間で、森田円覚寺参禅説について、後日に討論は交わされなかったのであろうか。鈴木氏や熊野氏の周囲におられた方々が、ご存知であったら是非お教え頂きたいものである。

 

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 さらに無視できないことが残っている。鈴木氏における文言の引用の矛盾をあげつらうにとどまらず、引用に依拠しない鈴木氏の文脈にも注意を向けておきたい。前回に、森田の円覚寺参禅説を述べた氏の文章の二カ所を抜粋して示したが、その第一の文章を、前回より少し長めに引用してみる。
 「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生きぬいた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田正馬も参禅している。これは明治二十年代から三十年代のことであった。(…)禅が日本文化に影響をあたえ出したのは、鎌倉時代からといわれる。(…)日本人の生き方、特に武士道、更に心学や武芸も強く影響された。森田もまたこの文化的影響下に育ったことになる。」
 この文章は、森田の「日々是好日」の文献に拠らずに、森田の円覚寺参禅説が述べられているので、引用の矛盾を免れているが、具体的根拠には欠けている。当時の文化的背景と森田の関心を考え合わせて、森田は必然的に円覚寺に参禅したと、ずばりと言い切るレトリックになっている。具体的証拠を示さずに、断定的に言うことには問題があるが、私自身も、森田が鎌倉円覚寺に、もし参禅を試みなかったとしたら、むしろその方が不思議なことであると思っている。
 森田の日記を調べてみても、円覚寺に関する記述は一切見られない。しかし、森田は箱根あたりの禅寺を観光的に見物したことも日記に記しているほどなので、禅への関心は窺われる。東京から遠くはない鎌倉の円覚寺を訪れたことが一度もなかったとは、到底考えられない。円覚寺のあたりを散策して、そのたたずまいを見たことくらいはあったろうに、と思う。円覚寺については、あえて日記に書かなかったか、書いてから削除したかという憶測が働いてしまう。そんな不自然さに関して、ひとつ想定されることとして、森田の希望に反して円覚寺への参禅が叶わなかった可能性が考えられる。
 円覚寺に参禅した文化人として、よく引き合いに出されるのは夏目漱石である。漱石は『門』にその体験を書いている。主人公、宗助は紹介状を持参して参禅を許可されている。受け入れられた宗助は、雲水たちと修行をともにしたのではなく、小説中で「一窓庵」と呼ばれる塔頭、帰源院に下宿して、典座寮の僧侶で釈宗活をモデルとした「釈宜道」に食事などの世話になって、老師から与えられた「父母未生以前の自己本来の面目如何」の公案を見解しながら、塔頭内で独座し、時間がきたら老師の釈宗演に相まみえるという体験をしたのだった。
 私は当時の円覚寺のことをまったく知らないので、あえて想像でものを言うことになってしまうが、市民に向けて開かれた座禅会のようなものはなくて、外部からは、主に一部の文化人だけが、客分のように受け入れられていたのではなかったろうか。そう考えると、円覚寺は、無名の若者であった森田が参禅を受け入れられるほどに、開かれてはいなかったのではないか、という推測が成り立つ。その後、釈宗演の命を受けて、釈宗活が東京の谷中で、在家者を対象とする、いわゆる居士禅の両忘会を主宰したので、森田も参加することになるが、釈宗演自身は、居士禅を専らとする人ではなく、仏教界における権力者のような人物であった。森田にとって円覚寺は狭き門であったのみならず、彼自身にとって、釈宗演は、一向に魅力を感じられない人物だったのではなかろうか。
 ちなみに、森田は釈宗演の名を伏せながら、明らかに宗演を批判する文章を書いているのである。
 釈宗演は、明治34年に「修養座右の銘」と称する、いくつかの言葉を作っている。森田は釈宗演という作者名は出さずに、それらのものものしい句に対して、「あたかも無念無想になれと命令するようなもの」であると、このような教えの愚を批判している(『神経質及神経衰弱症の療法』)。

 

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 鈴木氏の指摘するように、当時の日本の文化的背景を視野に入れると、森田が円覚寺のような格式ある禅寺で、一度は参禅の体験をしようと志したであろうことは、想像に難くない。ここまでは鈴木氏の文脈の通りであると思われる。しかるに現実には、夏目漱石と異なり、円覚寺の門は狭く、加えて森田は、釈宗演という老師に人間的魅力を感じることができなかったのではないかと推測されるのである。以上、想像を逞しくして書いてみた。その結果、円覚寺での参禅はなかったとみる方向性に傾いてしまったが、参禅について事実はどうだったかわからない。
 いずれにせよ、森田は決して禅への関心が薄かったのではなく、参禅については、師と場に恵まれなかったのは事実であろう。さらに、究極の禅的修行は、日常生活にあるという認識を有していて、禅寺に入る参禅を絶対不可欠としない柔軟な思想の持ち主であったのも、事実であったろうと考えられる。

                                          (あと少し次回に続く)

アフリカのコトヌー(ベナン)での学会で話題になった森田療法

2016/12/20

 去る11月の下旬にアフリカのコトヌー(ベナン)で開催された学会に招かれたPsyCauseの代表者、Jean-Paul BOSSUAT 先生は、日本の森田療法について、その療法のあらましを述べ、閉院前の三聖病院を訪問した体験についても話されました。聴衆は200 人ほどいて、その大半はアフリカの人たちであったが、彼らは森田療法に強い関心を示してくれたとのことです。アフリカの方々が、森田療法にどのように関心を持ってくれたのか、詳細はまだよくわかりませんが、BOSSUAT先生は以上のような報告をPsyCauseのホームページのサイトに記しておられますので、紹介しておきます。
 

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 La Pre Josiane Ezin Houngbé reçoit à dîner, au soir de la première journée de congrès, dans une salle du CNHU de Cotonou, le directeur de la revue Psy Cause et sa femme ainsi qu’un certain nombre de conférenciers et intervenants. Au cours des échanges lors de ce moment convivial, Le Pr Tognon ainsi que d’autres congressistes venus de Parakou, ville du centre Bénin où s’était déroulé le premier congrès de Psy Cause en Afrique Subsaharienne en 2008, ont exprimé leur souhait de la création rapide au Bénin d’une antenne Psy Cause Bénin. En effet, alors que la Côte d’Ivoire et le Cameroun en 2012, puis le Togo en 2015 et le Sénégal en 2016, ont mis en place une structure Psy Cause, il conviendrait, selon nos interlocuteurs, qu’au Bénin où Psy Cause a une histoire très ancienne, il en soit de même.
 
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 Lors de ce repas, le directeur de la revue Psy Cause a également eu des échanges avec des conférenciers venus de Belgique et de France, en particulier avec une sexologue de Bruxelles, Mme Martine Laloux, qui, dans l’après midi en plénière, a fait une communication très applaudie, intitulée « Impact de la maladie chronique sur la sexualité ». Les nombreuses discussions qui ont suivi avec la salle, en avaient fait une conférence très interactive. Heureuse de découvrir notre revue, elle nous a fait part, lors de ce dîner, de son intention de garder le contact, d’intervenir sur notre site et d’en parler autour d’elle en Belgique.
 
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 Tout au long des trois journées du congrès, ont eu lieu des échanges sur le fonctionnement de la revue Psy Cause. Principalement avec les Prs Jean Marie Yéo Ténéna (Côte d’Ivoire), Arouna Ouedraogo (Burkina Faso) et Aïda Sylla (Sénégal). Le Pr Jean Marie Yéo Ténéna, secrétaire de rédaction à l’Afrique Subsaharienne dans la revue Psy Cause, note que le nombre des articles adressés à la revue est bien supérieur à nos capacités de publication, ce qui, d’ailleurs, est un signe de succès. Il considère que nous devons mieux organiser la sélection des articles, ce qui renforcera la crédibilité de notre revue … et sera dans l’intérêt des auteurs. Le Pr Arouna Ouedraogo, Président de la Société Africaine de Santé Mentale, est en accord avec un renforcement de la sélection des articles.
 

 La Pr Aïda Sylla approuve également cette orientation. Elle est, de plus, favorable à ce que l’Ecole de Dakar pilote une demande de référencement au medline. La revue Psy Cause a déjà ses marques, en Afrique avec le CAMES, en France avec l’ASCODOPSY. La voie du référencement va se poursuivre et l’Afrique sera au cœur du processus. Au même moment, le Pr Mamadou Habib Thiam nous adresse depuis Dakar un courriel nous informant de l’avancement du second numéro Spécial Sénégal qui devrait paraître au premier semestre 2017. En ajoutant des échanges, en cours de congrès, avec le Pr André Tabo (Centrafrique) qui confirme la mise en place imminente à Bangui de Psy Cause Centrafrique, la richesse des rencontres à Cotonou du 22 au 24 novembre 2016 mesure le positionnement de Psy Cause en Afrique Subsaharienne francophone.
 
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 Nous poursuivons ce second volet avec la communication du directeur de la revue en plénière le 24 novembre « La thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï (Kyoto) ». Le Dr Jean Paul Bossuat introduit son propos en rappelant que sa présence à Cotonou en ce 24 novembre 2016 est un retour aux sources d’une vocation africaine de la revue. Dès 2003 en effet, le Pr René Gualbert Ahyi, alors qu’il était le seul psychiatre universitaire béninois, s’était adressé à la revue Psy Cause. À cette époque, le Centre Hospitalier de Montfavet (Avignon), dans lequel Psy Cause était reconnue comme une revue d’établissement, soutenait le développement de la psychiatrie béninoise. Notre revue ouvrait alors largement ses pages à des publications béninoises. Agrégé en 2006, le Pr Mathieu Tognidé soutenait en 2007 notre projet de congrès à Parakou réalisé en 2008 en partenariat avec l’université de cette ville. Il insistait ensuite pour que Psy Cause s’ouvre à l’Afrique, obtenant à cette fin une reconnaissance du CAMES. Ce sera une réalité à partir de 2010 et définitivement formalisé en septembre 2012. Autant dire que le Pr Mathieu Tognidé, auquel ce colloque de santé mentale rend hommage, a été au cœur de la transformation de Psy Cause en revue francophone internationale.
 
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 Le Dr Jean Paul Bossuat présente ensuite la thérapie fondée par le psychiatre japonais Morita dans les années 1920. Au croisement d’influences occidentales américaines et tout particulièrement allemandes avec Kraepelin, et orientales avec la voie bouddhiste de l’éveil dans sa version Zen, elle a donné lieu à la construction en 1922 de l’Hôpital Sanseï, spécialisé dans cette thérapie, dans l’enceinte d’un temple zen de Kyoto. Le fondateur de cet établissement, le Dr Genn-yu Usa, bonze et psychiatre, était un disciple direct de Morita. À son décès en 1957, la direction de cet hôpital est reprise par son fils. Des patients venaient de l’ensemble du Japon et de la Corée pour bénéficier de cette thérapie pratiquée dans le cadre d’une hospitalisation qui comportait quatre étapes : le coucher absolu, l’observation du monde extérieur, le travail et la vie sociale compliquée.

 
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 En octobre 2014, la revue/association francophone Psy Cause tenait à Kyoto son IXème congrès international. Il était présidé par le Pr Shigeyoshi Okamoto, spécialiste de la thérapie de Morita, formé à Sainte Anne et rencontré à Paris lors d’un congrès de « philosophie et psychiatrie » le 28 juin 2001. Ce congrès de Kyoto rassemblait des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacaniens (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Deux courants de la clinique française inspiraient les participants japonais : le phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Un événement donnait à ce congrès un sens particulier : la décision de la fermeture de l’Hôpital Sanseï par son directeur devenu trop âgé pour poursuivre. Il n’était pas question de transmission mais de démolition : la pelleteuse rasait l’hôpital quasi centenaire, quelques semaines après le passage des congressistes de Psy Cause venus de France et du Canada. Ce congrès de Kyoto avait donné lieu à une cérémonie de clôture de cette expérience thérapeutique qui s’origine aux débuts du siècle dernier. Le Pr Shigeyoshi Okamoto n’a pas été autorisé à préserver de quoi constituer un musée, le directeur souhaitant la disparition totale de tout ce qui se rattache au lieu de soin. Un « Cahier Japonais » a rassemblé des textes du colloque et d’autres auteurs japonais dans le N°70 de Psy Cause. Largement diffusé au Japon, il porte un témoignage d’éléments constitutifs du patrimoine de la psychiatrie japonaise.
 
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 Cette communication a interpelé l’auditoire béninois, en particulier le Pr René Gualbert Ahyi, sur la question de la transmission de pratiques thérapeutiques inspirées par la culture ancestrale face au choc de la « modernité ». Ce qui vient de se jouer à l’Hôpital Sanseï peut très bien survenir en Afrique. Le thème de la mondialisation a, de façon récurrente, été évoqué lors du colloque. Elle a pour véhicule l’univers numérique via internet.
 
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 Lors de l’ultime séance plénière, après une communication très vivante intitulée « Education sexuelle en Afrique », le Pr Arouna Ouedraogo, en tant que Président de la Société Africaine de Santé Mentale, convie les congressistes au second congrès de la SASM à Yamoussoukro du 6 au 9 mars 2017. Le Dr Jean Paul Bossuat, modérateur de la séance, annonce alors que la revue/association francophone Psy Cause sera représentée à Yamoussoukro, en tant que partenaire officielle de la SASM.

Jean Paul Bossuat

“ PsyCause et le Japon : 15 années d’échanges “(“ PsyCause と日本 : 15年間の交流 “)

2016/12/17

 PsyCause という、フランス語圏国際学会組織と交流を始めて15年になります。
 このほど、PsyCauseのホームページのサイトに、組織の代表者のJean-Paul BOSSUAT 先生が、日本との過去15年間の交流を回顧する記事を出して下さいました。
 PsyCause のホームページのアドレスは、当ホームページの「リンク」欄の冒頭に掲げていますので、いつでもアクセスしてもらうことが可能ですが、以下に改めてリンクをつけておきます。
 
http://www.psycause.info/
 
 この回顧の記事で、BOSSUAT先生は写真とともに過去15年の交流の経緯を明快にまとめて書いて下さっています。こちらの記憶がおぼろげになっていることまで再現されているので、情報の整理と保存の能力にも驚いています。
 
 森田療法の分野での日仏交流は、古くは高良武久先生のパリでの講演に始まり、以後20世紀末まで、日本からフランスへ向けての交流ならぬ一方通行的な紹介活動が、散発的に続けられてきました(その中には、不肖自分もいました)。森田正馬の著書の翻訳がなされたのは、その時代の最大の成果だったと言えますが。
 さて、一方的な紹介活動は、20世紀末をもって終息に向かいました。それを受けて、21世紀のグローバル化の時代に、電子化された通信機能を活用して、私たちはPsyCauseのネットワークの中で、インターネットやメールで森田療法について国際的に討論を交わすことが可能となりました。一方2年前には、フランス人たちは日本を訪れて、閉院間近い三聖病院をリアルに見届けるという的確な行動力を示しました。画像とともに、そのような体験を記した BOSSUAT 先生の回顧の文は、森田療法についての国際的討論を経ながら、遂にリアルタイムで閉院前夜の三聖病院を訪れて、フランス人の立場から、森田療法の歴史のひとつの幕引きに立ち会った貴重な生き証人の記録でもあります。
 以下にその記事を、貼り付けておきます。
 

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 Psy Cause a officiellement affirmé sa vocation francophone internationale à partir de 2010 et l’a inscrite dans ses statuts en septembre 2012. Cette évolution à partir d’une revue locale française est le fruit d’une longue histoire. Notre présence francophone en extrême orient, comme en Afrique ou au Canada, a des racines qui s’originent dans les premières années de la revue. Tout a commencé à Paris lors de la cinquième Conférence internationale Philosophie et Psychiatrie qui se déroulait du 28 au 30 juin 2001 à la Faculté des Saints Pères sur le thème : « Douleur et dépression ». Le comité scientifique était coordonné par un Professeur de Marseille spécialiste de la phénoménologie, Jean Naudin. Le directeur de la revue Psy Cause, le Dr Jean Paul Bossuat faisait le déplacement accompagné d’un collègue, le Dr Rémi Picard. Ce dernier était un jeune psychiatre dans le service du directeur de Psy Cause au Centre Hospitalier de Montfavet. Il se préparait au concours pour être psychiatre des hôpitaux, et nous effectuions ensemble une communication à ce colloque. Le Dr Rémi Picard est aujourd’hui Président de la CME du Centre Hospitalier de Montfavet.
 
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 Une conférence très originale avait retenu notre attention, le second jour de colloque, intitulée « La douleur spirituelle et la thérapie de Morita ». Nous n’avions jamais entendu parler de cette thérapie japonaise. L’auteur, le Dr Shigeyoshi Okamoto, psychiatre et Professeur de santé mentale à l’Université Bouddhiste de Kyoto, avait su captiver son auditoire et nous donner l’envie de le connaître. Ce sera chose faite lors de la soirée de gala de ce même jour aux Jardins de Bagatelle. Le courant est passé : nous avons parlé de cette thérapie japonaise, de Kyoto et également de la revue Psy Cause. Le Pr Shigeyoshi Okamoto adressera le 16 décembre 2001 une lettre au directeur de Psy Cause : « j’ai bien reçu un exemplaire du dernier numéro de votre revue et je vous en remercie vivement. Je vous suis aussi reconnaissant de votre amabilité de m’avoir ajouté parmi les correspondants associés. » Il ajoutera son espoir de notre venue, tous les deux, au congrès mondial de psychiatrie à Yokohama l’année suivante. Nous avions à l’époque dans l’ourse de Psy Cause, une rubrique réservée aux étrangers, les « correspondants associés ». Cette même année 2001, en juillet, le directeur de la revue effectuait une tournée dans des établissements du Québec à l’invitation du Dr Raymond Tempier. Là aussi, étaient semés des prémices qui allaient germer douze années plus tard.
 
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 Dix années après ce colloque parisien et d’envoi régulier de notre revue, en 2011, le lien avait été préservé. Le Pr Shigeyoshi Okamoto nous signale par courrier le 17 février son changement d’adresse et son intérêt pour la lecture de Psy Cause. Il nous informe également de sa prise de fonction dans l’Hôpital Sanseï spécialisé dans la thérapie de Morita à Kyoto. C’est l’époque où nous mettons en place un comité de rédaction international francophone et nous lui proposons d’y faire son entrée. Il nous répond par mail le 21 mars 2011 : « Je suis très honoré et en même temps confus (…) car je ne maîtrise pas bien la langue française (…) » Il répond aussi à notre suggestion d’organiser à Kyoto un séminaire Psy Cause sur la thérapie de Morita : « votre proposition (…) m’intéresse beaucoup. En pratiquant la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï, hôpital spécialisé dans cette thérapie beaucoup inspirée du Zen, je m’occupe depuis longtemps de l’échange franco-japonais au niveau de cette thérapie. »
 
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 Il nous informe alors d’une difficulté rencontrée avec la Société Franco-Japonaise de Médecine qui fonctionne dans le cadre de la psychiatrie : « la source de cette société remonte à la rencontre de quelques psychiatres japonais avec Henri Ey. Les activités de cette société se sont limitées à des échanges entre les psychiatres de la région parisienne et ceux de la région de Tokyo. Extraordinairement, en 2004, cette société organisait un colloque intitulé « Journée de la Thérapie de Morita » dans notre hôpital à Kyoto. » Mais, ajoute le Pr Okamoto, cette journée n’a « pas été bien appréciée » à cause de problèmes tels que « la différence des cultures, la difficulté de communication, une préparation imparfaite dans l’organisation. » De plus, la publication des écrits en France n’a pu être réalisée. Depuis ce relatif échec, nous écrit le Pr Okamoto en ce 21 mars 2011, « je n’ai pu développer, malgré mon désir, l’échange franco-japonais sur la thérapie de Morita », et conclut « j’apprécie beaucoup votre proposition (…). Il faudrait préparer prudemment ce séminaire pour le réaliser avec succès. » Quatre jours plus tard, le 25 mars 2011, il nous poste une carte postale représentant l’œuvre de Camille Claudel « L’abandon », sur laquelle il nous écrit : « La région de Kyoto reste intacte, épargnée par le désastre (Fukushima). En revanche, notre hôpital « périmé » court vers sa ruine. Venez et regardez le avant sa disparition. »
 L’année 2011 est également, pour notre revue/association celle de la montée en puissance de la communication numérique. Le site est doublé depuis l’automne 2010 d’un blog plus convivial, plus journalistique. Le contenu du blog sera par la suite, en janvier 2013, intégralement transféré dans le nouveau site psycause.info qui regroupera les diverses fonctions. Deux articles présentent sur le blog la thérapie de Morita. Le premier, en date du 29 juillet 2011 évoque un projet de séminaire Psy Cause, sur la thérapie de Morita à Kyoto. Le second, en date du 30 août 2011, parle des réactions par courriels au premier texte, et de la réponse du Pr Okamoto. Ces deux textes sont à lire dans la rubrique « Asie » accessible en cliquant sur la barre du haut de notre site.
 
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 Notre entrée en extrême orient se fera par le Cambodge en novembre 2012. Invité au congrès de Siem Réap, le Pr Okamoto ne pourra se déplacer pour des raisons de santé. Sa communication sur la thérapie de Morita sera lue et présentée aux congressistes par le directeur de Psy Cause. L’une des congressistes au Cambodge, la Dr Catherine Lesourd, pédopsychiatre en Martinique, vient en juin 2013 à Kyoto, rencontre le Pr Okamoto et visite l’Hôpital Sanseï. Lors du congrès Psy Cause d’Ottawa en octobre 2013, elle se porte volontaire avec la Dr Patricia Princet pour manager au nom de Psy Cause un congrès à Kyoto présidé par le Pr Okamoto. Le projet de 2011 va prendre forme et devenir un événement historique.
  
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 Notre congrès Psy Cause à Kyoto en octobre 2014 est contemporain de la décision de fermeture de l’hôpital Sanseï. Le Pr Okamoto s’adresse le 19 octobre aux congressistes par ces mots : « En tant que responsable de l’organisation, du côté japonais, je voudrais d’abord souhaiter la bienvenue à Kyoto au congrès de Psy Cause, à tous les ressortissants de pays francophones ici présents. Je voudrais aussi les remercier d’être venus de si loin jusqu’ici. Ma gratitude va aussi aux Japonais qui participent avec assiduité, bien qu’il s’agisse d’un colloque en langue étrangère. Quant à moi, Shigeyoshi Okamoto, cela fait une dizaine d’années que j’ai des échanges avec ce mouvement. Notamment, j’avais eu l’honneur d’être invité à faire une conférence sur « La thérapie de Morita et le bouddhisme » au congrès qui s’est tenu au Cambodge en 2012. Mais mon état de santé s’étant aggravé, je n’ai malheureusement pas pu être présent en personne, dérangeant ainsi grandement les membres de Psy Cause. Je voudrais donc saisir l’occasion qui m’est donnée ici pour leur renouveler toutes mes excuses. Cette année, deux ans ayant passé, j’ai dû accepter la tenue de ce congrès, pour me faire pardonner.(…) Je dois par ailleurs ajouter que l’Hôpital Sansei, qui est l’hôpital le plus traditionnel pour la Thérapie de Morita, fermera ses portes à la fin de cette année. La décision a été prise à la fin de septembre. L’histoire de la Thérapie de Morita évolue depuis le passé jusqu’à présent et du présent vers l’avenir. En voyant les dernières images de l’Hôpital Sansei en activité et en réfléchissant ensemble à la signification historique de cet hôpital, je voudrais que ce congrès soit mémorable. »
  
 Cette première journée de colloque, le Pr Shigeyoshi Okamoto nous brosse le panorama de la Thérapie de Morita au Japon aujourd’hui : 300 médecins pratiquent la Thérapie de Morita au Japon. Peu réfèrent leurs soins à la philosophie du Zen. Les autres ont pris de la distance avec cette philosophie qui est à la base de cette thérapie et ne savent pas ce qui est pratiqué à l’hôpital Sansei qui est un élément attesté dans l’historique de cette thérapie. Il nous présente un film construit sur l’hospitalisation à Sansei d’un garçon qui a une phobie d’autrui, qui met en évidence une thérapie qui permet un lâcher prise de la jouissance sans changer la problématique névrotique sous-jascente qui est mise à distance, en moins de trois semaines. Le patient, libéré d’une pathologie invalidante, peut ensuite valoriser pleinement son talent artistique.
 
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 La seconde journée de colloque est particulièrement solennelle avec la venue d’un grand maître Zen très connu au Japon, Maître Eshin Nishimura. Le Pr Okamoto en précise le contexte : « la fermeture en décembre de cette année de l’Hôpital Sansei a été décidée comme un baisser de rideau sur une longue histoire de 92 ans. » Après un historique de l’Hôpital Sanseï ouvert en 1922 par un psychiatre bonze zen et disciple du psychiatre japonais Morita, il présente le maître zen : « si j’ai demandé à Maître Nishimura de nous donner une conférence, ce n’est pas parce qu’il est le plus grand spécialiste japonais du Zen mais parce que je voudrais qu’en le voyant en chair et en os, vous ressentiez par vos cinq sens le Zen vivant qui émane de sa personne. »
 
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 La troisième journée, le 21 octobre, est une visite de l’Hôpital Sanseï qui sera la dernière. Le directeur, le Dr Shin-ichi Usa, nous attend debout sur le perron, appuyé sur une canne, du haut de ses 88 ans, le visage emprunt de gravité. Nous avons devant nous un homme qui, dans les dix premières années de son enfance, fut un contemporain du Dr Morita. Son père, fondateur de cet établissement conçu pour mettre en pratique les idées du Dr Morita, lui a passé le flambeau à sa mort en 1957. Cet homme en tant que second directeur, a maintenu l’œuvre de son père pendant 57 ans. Il nous invite à visiter l’œuvre de toute une vie et au delà. Une maxime est affichée dans le hall d’entrée : « Seule la réalité est la vérité ».
 Ce congrès a été chargé d’émotion et la communication a été intense malgré les filtres culturels. Nous avons tous eu conscience de vivre un moment particulier de l’histoire de la psychiatrie japonaise. Les communicants japonais ont tenu à s’exprimer en langue française, ce qui a positionné notre événement dans le registre de la Francophonie.
 Ce congrès de Kyoto a rassemblé des intervenants japonais se référant de l’approche bouddhiste ou lacanienne (une école lacanienne francophone très vivante existe au Japon). Divers courants de la clinique française les ont inspiré : Henri Ey, la phénoménologie et la psychanalyse lacanienne. Ce croisement des références a été voulu par le Pr Okamoto qui se définit davantage comme francophile que comme francophone.
 
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 Les lendemains de ce colloque sont difficiles pour le Pr Okamoto avec la fermeture puis la destruction de l’Hôpital Sanseï. La pelleteuse rase le bâtiment centenaire dès février 2015. Le dernier directeur de cet établissement a tenu à ne pas laisser de trace de cette expérience thérapeutique qui plonge ses racines dans les années 1920. Il ne s’est pas soucié de transmettre des documents pour le musée que désire constituer le Pr Okamoto qui souhaite, lui, préserver la mémoire de la thérapie de Morita traditionnelle.
 
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 Le 4 septembre 2015, le Pr Okamoto nous écrit : « Après notre congrès de Kyoto, la fermeture de l’Hôpital Sanseï puis la démolition de son bâtiment ont suscité des problèmes quant à la nécessité de la conservation des divers documents historiques. Car le lieu de cet hôpital est vraiment important dans l’histoire de la thérapie de Morita, la création de cet hôpital remontant à l’ère de Shoma Morita. Le Dr Usa père, disciple de Morita, a fondé cet établissement sur le terrain du temple Tohukuji en introduisant le Zen auquel Morita attachait de l’importance, le considérant comme l’essence de sa thérapie. Au final, cet important hôpital a désormais disparu. » Or, nous confie le Pr Okamoto, cette destruction n’a suscité que de l’indifférence quant à la nécessité d’en conserver des documents, ajoutant : « personne n’a tenté de les conserver sauf moi. Même le directeur a été indifférent quant à cette nécessité. Moi tout seul ai fait tout ce que j’ai pu. J’ai épuisé mes possibilités et en ai été beaucoup fatigué. Cela a été ma bataille. »
 
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 La construction du « Cahier japonais », dossier spécial Japon dans le N°70, revêt donc un rôle important dans cette dynamique de transmission. Le Pr Okamoto s’y investit sans ménager ses efforts, aidé par Mme Nyl Erb, notre nouvelle chargée de mission pour l’extrême orient. Cette dernière était venue à notre congrès de Kyoto grâce à google. Elle effectuait une recherche sur la thérapie de Morita et la seule occurrence disponible via internet était Psy Cause. Ethnopsychanalyste passionnée par la culture japonaise, elle s’est, après notre congrès dans la capitale impériale du Japon, portée volontaire pour faire le lien avec les professionnels de ce pays, et a apporté sa précieuse contribution quant à la réalisation d’un dossier en langue française très complet intégrant la thérapie de Morita, le Zen, la psychanalyse au Japon, et des données anthropologiques. Le Pr Okamoto a lui même tenu à la publication de trois articles dans lesquels les auteurs se réfèrent à la psychanalyse lacanienne. Le N°70 sera diffusé à partir d’avril 2016. Le Pr Okamoto nous écrit le 6 juin 2016 : « Nous, les auteurs japonais, avons reçu l’envoi du N°70 de la revue Psy Cause le 27 mai. Envoi dont nous sommes vraiment reconnaissants. » Il nous fait part de la satisfaction des auteurs quant à la présentation avec des photos en couleur, de leurs articles. Et il nous commande une livraison d’exemplaires « pour offrir ce numéro à plusieurs collègues japonais, en mémoire de la fermeture de l’Hôpital Sanseï. »
 
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 Le 24 octobre 2016, le directeur de la revue Psy Cause, invité à Cotonou au congrès béninois de santé mentale, communique sur la thérapie de Morita à l’Hôpital Sanseï avec pour base, entre autres, les écrits du N°70 et le congrès de Kyoto. La question de la transmission d’une thérapie associée à des bases culturelles est au centre des échanges avec la salle car elle trouve beaucoup d’écho en Afrique Subsaharienne. Autant dire que les professionnels africains vont suivre avec attention le devenir de la thérapie de Morita au Japon.
 

Jean Paul Bossuat
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森田正馬は、鎌倉円覚寺に参禅したか? (1)―釈宗演と釈宗活―

2016/12/08

 釈宗演、宗活(白黒)

         釈宗演(左)              釈宗活(右)
 

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 森田正馬は、明治43年に東京谷中の両忘会に入って座禅に通い、釈宗活のもとに参禅した。このことは、森田正馬全集第七巻に出ている「我が家の記録」や「年譜」、さらに野村章恒氏の『森田正馬評伝』によっても明らかである。たとえば『森田正馬評伝』の中の「人間像の彫塑」の章に摘記されている森田の日記の明治四十三年のくだりに、次のように記されている。
 「三月(注:二月の誤りか)五日(土)藤根氏(常吉、富士川遊氏助手)に誘われ谷中両志会(注:両忘会が正しい)に入会、釈宗活氏の提唱を聞き摂心中毎朝参禅す。考案(注:公案が正しい)は「父母未生以前の本来の面目如何」なり」。
 
 ところが、森田正馬は鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という説もあるのである。
 鈴木知準は『現代の森田療法―理論と実際―』(白揚社、昭和52年5月刊)の中で分担執筆した「森田療法と禅」 という文中で、鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅したと、二度も繰り返して記している。その二カ所を引用しておく。
・「明治に入って臨済禅の系統に廃仏毀釈の新政治の嵐の中を生き抜いた禅僧に鎌倉円覚寺の今北洪川、その弟子の釈宗演がある。ここに夏目漱石、鈴木大拙、西田幾多郎、若い日の森田も参禅している。これは明治20年代末から30年代のことであった。」
・「森田は「日々是好日」なる論文(注)の中で次のように述べている。「私は禅に関しては門外漢である。今からおよそ三十年近く前(明治三十六~三十七年)円覚寺の釈宗演のもとで禅の提唱を聴き参禅もした。公案は『父母未生前本来面目』で四度参禅していろいろ言ったが通過しない。禅の修行はそれきりであった。」」。
 さらに鈴木知準氏は、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとへ参禅したことについて二度も言及した、この「森田療法と禅」という文章と同一の稿を、自著『森田療法を語る』(誠信書房、昭和52年6月刊)にそのまま収めている。著者鈴木氏は、記した内容について確信を持っておられたように思われる。ところで、先に引いた鈴木氏の第二の文章において、氏が引用文献として注記しておられるのは、次のものである。
 
森田正馬 : 日々是好日. 神経質(旧) 六巻 146,1935.
 
 この文献に相当するものは、森田正馬全集 第七巻に「日々是好日」という題でそのまま収載されている。そこでこれを読むと、奇妙なことに、鈴木氏が引用した部分の中にあった筈の「円覚寺の釈宗演のもとで」という肝心の言葉が抜けていて、見当たらないのである。これはどういうことであろうか。これを強いて推測すると、二通りのことが考えられる。
①元の森田の文献の上に、鈴木氏が「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉を付け加えたものであり、元々なかったか―。
②「円覚寺の釈宗演のもとで」という言葉は、森田の元の文章に出てはいるが、その信憑性を疑った第七巻の編者(熊野明夫氏)によって、削除されたか―。
 そのいずれかであると考えられる。
 なお、森田によるこの文献は、鈴木氏の言うような「論文」というほどのものではなく、森田が昭和9年11月に三聖病院においておこなった講話の記録であり、これを書き起こしたものである。
 
 さて、そこで「神経質(旧)」誌の森田のその文献を参照する必要があるのだが、手元になく、急いで取り寄せている。数日後に入手予定なので、入手し次第、追ってこの稿の続きを記す予定である。
 
 ところで、鈴木氏が指摘しておられたこと―、森田が鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに参禅した、という話は、以前から伝説化して巷間で信じられてきたのは事実である。三聖病院院長の宇佐晋一氏は、父の宇佐玄雄が僧医として進む道について助言を仰ぐために、釈宗演に直接会いに行ったというエピソードを語る際に、森田正馬が参禅した釈宗演その人である、と説明しておられた。私自身、そのような「伝説」に接しながら、一方で森田の日記などからは、谷中の両忘会に参加して釈宗活から公案を与えられたという記録があるので、森田の参禅については、ずっと不可解さを引きずってきた。谷中両忘会への参禅は、まず疑い難い。しかし、二者択一とせずに、森田は谷中の両忘会に参ずる前に、鎌倉円覚寺に参禅したことは、なかったのか。そのような疑問は晴れないでいる。
                                       (次回に続く)

「江渕弘明医師、禅に生きた森田療法家―その知られざる生涯と活動の軌跡―」の発表について

2016/12/03

 生涯のほぼすべてを、森田療法と禅で生き抜いた森田療法医がおられました。
 江渕弘明医師(1916[大正5]-1998[平成10])。
 少年期に始まる神経症的体験をきっかけにして、森田療法に触れ、さらに青年期の10年にもおよぶ結核療養生活の体験から、森田療法や禅の世界に一層深く入っていかれたものと思われます。
 私たちにとって、さほど遠い過去の世代の人ではありません。なのに、療病十年、僧堂での修行生活二十年、森田療法について研究的な発信をされることもなかったためか、ほとんど知られていない人物です。修行中には、僧堂から出て一部の森田療法の関係者たちと交流なさってはいました。その足跡をたどることでこの希有な人物に迫ろうとしました。森田療法にとって禅とは、森田療法家にとって修行とは。われわれはこの先生から多くを学ぶことができます。
 去る11月26日、第34回日本森田療法学会(東京)で、その発表をしたのでした。しかし、一般演題の限られた時間内に、江渕先生に関するすべてを述べることはできませんでした。残念ながら、うわべをなぞるだけの発表になりました。それにもかかわらず、江渕家のご親族の方々、4人様がご来聴下さり、恐縮しました。そして勿論留意するとは言え、江渕家のプライバシーにある程度は関わるかもしれないこの発表についての、私の強いお願いに、同意して下さいましたご夫人とご親族の方々に、改めて心から感謝しています。
 
 学会当日に提示したスライドは、「研究ノート」欄に再現し、説明を書き込みました。学会の限られた時間枠内で話したことよりも、若干説明文が膨れた部分もあります。そこでは新規の追加説明を加えたことになりました。
 
 江渕弘明先生は、長年の修行体験を経て、「禅、森田道、本質全て一なり」という境地を得ておられました。そして修行も熟したその頃に、老師から印可を受けられました。
 ところで、その何年か後に、ひとつのエピソードがあります。江渕先生は、ある企業グループの慰霊祭に、老師代理として導師を務める大役を任されました。そこへ行くために金襴の袈裟衣を着せられた先生は、後輩のある僧に向かって言われます。「わしゃ、恥ずかしい。猿回しの猿のようじゃ。断ろうか」。そしたら後輩の僧から逆に諫められるのです。「常日頃から、人には、あるがままとか、恥ずかしいままとか、なりきるとか、思いきるとか言っていて。自分が思いきったらどうですか」と。
 人間は何年修行をしても、悟り澄ました聖人になれるものではないし、悟り澄ませばよいわけでもない、ということを江渕先生は教えて下さいます。
 「わしゃ、恥ずかしい」。それが「禅、森田道、本質全く一なり」ということなのでしょう。
 学会当日は、そんな挿話まで紹介できなかったのです。