「忘れられた森田療法(La Thérapie de Morita Oubliée)」―フランス語原稿(雑誌に既発表)の日本語訳―

2016/09/10

 表題原稿のフランス語の原文は、雑誌 PSYCAUSE 70号の日本特集のうちの巻頭に掲載されました。それは、このHPの「研究ノート」欄から、原文でお読み頂けます。
 しかし、森田療法のことについてフランス語で外国人向けに一体どんなことを書いたのかと、ご関心を持って下さる方もおられるかもしれません。今頃ふとそう思いました。そこで、遅ればせながら、日本語に戻した原稿をここに披露しておきます。何のことはない、お読み頂いたらわかります。
 PSYCAUSE誌のこの日本特集は、一昨年秋、京都で開催された国際学会に基づいています。その際、学会参加者たちの三聖病院の訪問を受け入れる日程は予め組んでいました。ところが、彼らの京都入りとほぼ同時に、三聖病院の閉院が発表されました。かくして、PSYCAUSE学会の人たちは、期せずして、歴史ある三聖病院を訪れた最後の外国人グループとなったのでした。私の以下の一文は、そのような背景を視野に入れて草したものです。また立場上、あまり紙幅を取らぬように、特集の導入として短い小論を書きました。
 しかしながら、あえて「忘れられた森田療法」―過去形でなく「忘れられる森田療法」と言うべきかも知れませんが―に執拗なまでにこだわり、既刊の小著と同タイトルにしたのには、訳があります。両者の内容は違います。しかし、そこに通じている私の思いは同じなのです。
 どうも前口上が長くなりまして、あいすみません。
 

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              忘れられた森田療法 La Thérapie de Morita Oubliée  
                                              
                                          Shigeyoshi OKAMOTO 
 
 
 去る2014年10月、第10回 PsyCauseフランス語圏内国際学会が、「文化間の出会い」という基調テーマのもとに日本の京都で開催された。この国際学会のひとつの大きな目的は、日本の独自の精神療法である森田療法について、京都にあるその療法の伝統的な施設である三聖病院を訪問して、実際の診療を見学して直接それを学び、そのような見学体験を通じて討論を交わすというところにあった。
 ところが、この三聖病院は、同じこの年(2014年)の12月末に廃院になることが、学会が開催される直前に公表された。こうして、学会のために海外からやって来たフランス語圏の人たちは、図らずも三聖病院を訪問した最後の外国人となったのである。
 
1.森田療法の「ひとつの終わり」
 三聖病院は、森田正馬によって森田療法が創始された直後の1922年(大正11年)に、彼の弟子の禅僧で精神科医師の宇佐玄雄によって開設された(最初は診療所で、1927年(昭和2年)から病院)。その後、息子の二代目院長に受け継がれて、三聖病院は森田療法の最も伝統的なサバイバーとして、通算92年間、役割を果たし続けて、遂にその歴史の幕を閉じることになったのである。昨今の日本では、文化や文明のめまぐるしい変化に伴い、伝統的な森田療法を維持する施設は既に殆ど消滅し、とりわけ、禅を生かした森田療法の施設は、既に三聖病院だけになっていた。20世紀末以来、森田療法は、新しい時代の要請に応じて、入院よりも外来での治療が主流となり、薬物療法や他の精神療法と併用される方向へと変化していた。そのような新しい動向が進む中で、伝統的な森田療法を代表する専門病院であった三聖病院が、2014年末に閉鎖したことは、この療法の一つの終焉を象徴する出来事であった。
 
2. 森田療法の「本当の始まり」
 ところで、三聖病院の廃院は、伝統的な森田療法の精神の終焉をも意味するのであろうか? 否、決してそうとは思えない。神経症的な病理に対して、禅寺におけるような作法や雰囲気を、薬の代わりに用いて暗示的に治療する療法は確かに終わりを迎えた。そして、それはまた、神経症の症状が禅的な「悟り」によって治ると思いこむ人たちを誘惑する〈迷妄の集いの場〉の提供の終わりでもあった。それらの終焉により、覆われて見えにくくなっていた森田療法の本当のエスプリ(本質)が、これを機に現れて、今後一層そのエスプリ(本質)が評価され、万人の人生の中にそれが生かされることが望まれる。
 これまで、特に外国人に対して、森田療法は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として紹介されてきた。確かに、この療法を創始した森田は、神経質の治療である点を力説した。けれども、そのような表面的な力説のために、この療法に含まれているせっかくの深い本質が、日本においても見落とされがちになっていたことは否めない。まして外国人に対して、紹介に従事する日本人たちが、この療法の本質部分を慎重に説明することなく、単に“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療という表層だけを紹介することで、おそらく誤解を与えていたに違いないことは、非常に残念である。
 実際、森田がこの療法を、最初は“神経質(SHINKEISHITSU)”の治療法として開始したことは事実である。しかし “神経質 (SHINKEISHITSU)”の症状としての不安の心的メカニズムの中に、人間の存在に関わる根源的な不安が潜んでいることに気づいて、仏教的な智恵を療法に取り入れて、治療としての深みを増していったのだった。精神科医として診療に携わっていた彼は、概して“神経質(SHINKEISHITSU)”の患者を治療するに止まらざるをえなかったが、自分の療法はすべての人間の再教育だということも力説したのだった。
 そこで、次にこの療法に含まれる二層的な意義について、さらに述べておく必要がある。それはまず “神経質(SHINKEISHITSU)” の治療法であったのだが、さらに神経質の患者だけに限らない、すべての人間の生き方に関わる深い智恵でもある。以下では、森田療法における、このような二層性について言及する。
 
3. “神経質(SHINKEISHITSU)” とその治療
 森田療法は、人名が療法の名称になっている点で例外的な精神療法である上、“神経質(SHINKEISHITSU)”という日本語での名称を与えられた素質あるいは病理を治療対象にし、しかも禅と関係があるのも確かなので、外国人の方々にとって、この療法は、当然ながら大変理解し難いことであろう。そのため、ここで、まず森田が治療の対象にした“神経質(SHINKEISHITSU)”とは何かについて説明する。それは決して森田自身の新しく作った用語(新作語)ではなく、ドイツ語圏の精神医学の用語“Nervosität”の日本語への訳語であった。それは、ドイツのクレペリンKraepelinによる、彼の独自の精神医学体系の中で、ある一つの病的な性質を表す用語として規定されていたものであった。その用語と概念は、Kraepelinの下に留学した東京大学の精神医学の教授の呉秀三によって、日本に導入された。呉の弟子だった森田は、主に彼からそれを学んだのであった。そして森田は“Nervosität(SHINKEISHITSU)”の特徴としての素質や症状を知った上で、不安に傾き易いその素質が惹起する心気的な悪循環の心的機制に焦点を当て、その悪循環によって症状が固定化するというかなり力動的な捉え方を示した。こうして、“Nervosität”の概念を踏襲しながら、その精神病理について柔軟な理解の仕方をする立場から、森田は彼独自の療法を創案したのである。結局、“神経質(SHINKEISHITSU)”という用語は、“Nervosität”の訳語以外の何でもなかったが、その精神病理を、クレペリンよりも柔軟に捉えたところに森田の卓見があったのである。
 とは言え、森田の捉えた“神経質(SHINKEISHITSU)”とは、神経症になりやすい素質あるいは神経症そのものと別のものではない。一般にこのような心性においては、人一倍、不安に対して敏感で、不安を治そうとして、かえって不安に埋没して、生活が膠着し、クオリティ・オブ・ライフを低下させるばかりとなる。そこで、森田療法では、不安が治らなければ治らないまま、ただそのまま生活するように、治療者患者関係の中で言葉少なに促す。解決しない心を引きずりながら、歩き出す中で、新しい花が咲いたり、実がなったりするのである。
 
4.人生の苦悩に対する森田療法
 神経質や神経症の精神病理に起因せずとも、誰しも人生に苦しみを体験する。そのような避けがたい苦悩に対処する、森田療法の第二の層について述べておきたい。
 仏教によれば、人間はこの世で八つの苦の試練を受けるさだめにある。
 第一の苦は、「生」そのものである。生がなぜ第一の苦なのか? 人間は自分の意志によって、生まれてくるのではなく、絶対受動的に生を享ける。親も、先天的な心身の素質も、境遇も、一切自分の意志で選択することはできなかったのである。生まれてきた自分の存在理由を理解できなくても、生への執着が起こる。だが、日常生活の中で、種々の不合理な体験をすることは多い。そのために人生に懐疑的になり、不遇な運命に対するルサンチマンが起こる。このような生の苦は、人間の存在そのものにかかわる最も根源的な苦である。第二は、「老」の苦。第三は「病」の苦。第四は「死」の苦である。八苦のうち、以上の前半の四苦は、人間の存在の根源にかかわるものである。
 第五は、愛する人との別離、第六は憎悪すべき相手との邂逅、第七は求める対象を得ることの不可能性、第八は、心身の活動に伴う煩悩や葛藤である。これら後半の四苦は、日常の生活の中で体験されるものである。
 以上の八苦は万人にとって不可避なものであり、それゆえにこれらを否認せずに受容して、生きることを仏教は教えている。
 苦は楽を生み出し、楽は苦の種になる。両者は剥がし難い表裏一体のものである。仏教はもっぱら苦に虐げられて生きることを強いるのではない。苦にも楽にも素直に一体化して、自然のままに生きるところに人間の自由があることに気づくのが、仏教の智恵なのである。
 どんなに科学技術が進歩して社会生活の利便性が高まり、先端医療が開発されて、新しい治療が発見されても、人間は必ず死を迎える。にもかかわらず、科学の進歩は、人間に錯覚的な万能感を与えた。そのような万能感と、仏教の示す八苦との間の懸隔は広がっていくばかりである。現代人のメンタリティの特徴として、苦に対する耐性が低下しており、心的外傷に過敏になっていて、それを弾力的に受け止めて自己修復する柔軟な機能である、いわゆる “レジリエンス” の力に欠けている。現代人は他者の攻撃性に対して、容易に挫けるか、あるいは反撃する習性を獲得してしまった。他者を友とみなさず、他者は敵とみなされがちである。残念ながら、他者は敵対者の属性を帯びていることが多いのが現実である。日本では、子どもたちは集団で、弱い子どもをいじめ、いじめられた子どもが自殺する事件が後を絶たない。学校の教員たちも、親たちも、子どもの教育に責任を持とうとしない。大人たちの自殺も頻繁に起こり続けている。これが、生きることを重んじる森田療法を生んだ国、日本の現実である。
 神経質や神経症の治療を、病院やクリニックの診察室でおこなうことも必要だが、森田療法は、狭義の精神療法であることから脱皮して、教育や福祉や企業の中に浸透することが望まれる。しかし、それは教条としての森田療法を押しつけようとするのではない。森田療法は、本来専門分野たりえない筈のもので、権威的な専門家を必要としない。たとえ専門家がいたとしても、他者の苦悩を救い、他者を教育することは容易なことではない。ではどうするのか?そのように自分に問いかけることが、契機となる。そこで人は自分と自分の置かれている状況を見つめれば、素直な心に目覚める。素直な心に目覚めたら、やむにやまれなくなって、何かに向かって動き出さざるをえなくなるであろう。
 こうして第一歩を踏み出すのである。その歩みは、自己のためか他者のためか分かち難い自然な動きである。治療者対患者という役割的関係も消滅する。
 こうして、精神療法の枠を出て、森田療法という名称さえ失い、苦悩をもつ人間同士として出会いを経験するところに、森田療法はその深みを増していく。
 このような森田療法の本質的な部分は、今日までほとんど忘れられていたように見える。療法の本質を含みながら、同時に形骸化してもいた伝統的森田療法が衰退して、その歴史に幕を下ろした今日、そのエスプリ(本質)が改めて思い出されて、森田療法にとらわれない森田療法の静かなルネサンスが新たに始まるであろう。

アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その3) ― 比較文化的に見る禅と森田療法 ―

2016/09/03

 夏の間、ブログの更新が途切れていましたが、前回までの連載に引き続き、
 まとめに代えて、その最終回の稿を出しておきます。
 

france zen⑥画像

       RYUMON-JI(龍門寺)の庭の龍。
       ドラゴンは西洋においても『ヨハネの黙示録』にも出てくる伝説上の動物である。
 

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1.西洋に導入されている禅
1-1.フランスにおける禅への関心

 
 一昨年(2014年)、京都で私たちが開催したフランス語圏「PSYCAUSE国際学会」で、丹後ふるさと病院院長の瀬古敬先生は、「森田療法における『あるがまま』の背景にあるもの」について発表して下さいました。その中で瀬古先生は、フランスと日本のそれぞれの文化における、自然と人間の関係について述べ、その対照的な例として、ベルサイユ宮殿と修学院離宮を提示されました。17世紀に太陽王と呼ばれたルイ14世は、絶対王政を誇り、自然をも制服する神の子として豪華な宮殿を建築し、広大な人工的庭園を造営して、それを権力の象徴としました。同じ17世紀に、後水尾上皇の意により京都の比叡山麓に、離宮と、その周辺の自然を生かした広大な庭園が造営されました。前者には、自然を制服して、その人為の力を誇示する人間の生き方を、後者には、自然と調和する人間の生き方を見て取ることができます。瀬古先生は、修学院離宮の庭園を「あるがまま」のひとつの原型として示されたのでした。
 フランス革命によって王政は廃止され、人権を手に入れたフランス人は「解放 Liberté」としての自由を手に入れました。しかしその後、「自我の勝利」を謳うフロイトの精神分析を歓迎したフランス人たちは、望んでフロイト王朝の支配下に入り、自我の囚われ人となったのでした。そんな閉塞感を打破しようとして起こったのが、1968年のパリ五月革命だったと見ることもできるでしょう。1960年代後半から1970年代前半にかけての、権力に対するあの異議申し立て運動は、やがて弾圧されて終息します。当事者たちの間には敗北感と共に、ある種のカタルシスによる虚脱感が蔓延したのでした。ヒッピー族が現れたのもそのひとつの現象です。
 時あたかもその頃に、弟子丸泰仙禅師は、ヨーロッパで積極的に曹洞宗の禅を広めていました。精神的拠り所を求めていた当時の人たちに、自我に囚われない禅という生き方は魅力的なものとして受け入れられたのでした。
 禅は、キリスト教における “méditation メディタシオン” や、東南アジアから移入された小乗仏教などと、ややもすると混同されがちです。またフランス語化した“ZEN”は、フランス人の生活の中に俗化して普及し、日本的な芸術や芸能、東洋的な代替医療や健康法などを、広く指すものとなっています。本物の禅が適切に理解されて受け入れられているならば、フランス的な禅やZENの文化が生まれることを、咎め立てする必要はありません。
 そこで改めて、フランスにおける本来の禅の受け入れ事情のことにふれておきます。
 この国に導入されている禅の大半は、曹洞宗の禅であることは既に述べました。修証一等を旨とし、座禅をすること、修行し続けること自体が悟りであるとする曹洞禅は、公案を介さない「非思量」を重んじるので、“méditation” や瞑想から、あまり無理なく入っていけるのでしょう。彼らの修行の様子を直接見たこともない自分として、その修行についてコメントする力はありません。でもたまたま気になっていることがあります。それは道元の重要な教えの語句のフランス語訳についてです。
 
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふといふは、自己をわわするるなり。
 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
 万法に証せらるるといふは、
 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
                           (『正法眼蔵』現成公案)
 
 これは、一言では「身心脱落」と言われる、道元の最も重要な教えのひとつです。
 このフランス語訳が、ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ており、その部分を画像にして、下に掲げました。ここで気になるのは、道元の言葉の最後の部分、「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」のフランス語訳についてです。それは次のように記されています。
 
 “c’est dépouiller son propre corps et son propre esprit comme le corps et l’esprit de l’autre.”
 
 「脱落せしむる」の訳として“dépouiller”という他動詞の一語を当てるのは、直訳として正しいと思います。しかし道元の教えのこのくだりの原意としては、主語があって、それが目的語に対して他動詞的に行為をおこなうという能動的関係の成立ではなく、むしろ「おのずから脱落する」ことを指していると受け取れるのです。自己の身心と他己の身心の区別もなくなり、かつそれらはおのずから脱落してしまうのです。そのように考えると、別の試訳として、再帰動詞(代名動詞)の方を用いて、さらに“laisser”を入れて、次のような文章にすればどうかと思うのです。
 
 “c’est se laisser dépouiller de son corps et de son esprit ainsi que du corps et de l’esprit de l’autre.”
 
 私の方が当然無知ですから、とんでもない勘違いをしているかも知れませんが、あえて試験の答案のつもりで書いてみました。フランス側の訳文が記された案内冊子は、その禅仏教センターとつながりのある Nyl ERB 女史から頂いたものですので、女史を通じて先方の見解を伺いたく、既に女史に伝えました。恥をかくのは私かも知れませんが、このリアルタイムのやり取りの結果は後日報告します。
 一方、臨済宗の禅は、曹洞宗に遅れてフランスに導入されました。神戸の祥福寺で修行をした妙心寺派のフランス人僧侶、太寛常慈禅師が、1975年よりヨーロッパで布教を始めました。太寛禅師は1976年に山田無文老師より臨済宗妙心寺派のヨーロッパ代表に任命され、アルデッシュ県に「碧巌山正法寺(la “Falaise Verte”,le temple Shobo-ji)」を創立しました。1989年には臨済宗の開教師となり、妙心寺との緊密な関係のもとに、正法寺の禅堂を維持し続けています。
 曹洞宗と臨済宗の違いを、とりわけ西洋人の立場から見ると、只管打坐の行を本位とする曹洞禅の方がより入り易く、片や思想的に複雑で、かつ公案を用いる臨済禅の方は、敷居が高い感じがするのではないかと思われます。
 法政大学のフィリップ・ジョルディ教授は、「フランスにおける臨済宗の受容過程での課題」というフランス語の論文(注)で、臨済宗がフランス文化に導入されるに当たっての問題を深く論じておられます。その内容の詳細についての紹介は別の機会に譲ることにして、同氏が歴史的視点から、西洋における仏教の受容の問題に言及しておられる箇所があり、示唆深いので、取り上げておきます。
 
 仏教は古代ギリシャ・ローマ時代より西方に入っており、ギリシャ仏教が、奇跡的にもクシャーナ朝やガンダーラ王国で数世紀にわたって続いたのだった。しかしその後は多様なヨーロッパ思想の中で、仏教は寸断されたり再解釈されたりして、変質することになった。ショーペンハウエルやニーチェのように、その哲学思想を部分的に仏教に拠っていた人たちに継承されたけれども、既に仏教は本来のものではなくなっていた。
 このように、過去において仏教は、西洋に無事に受容されてから後に変質を蒙った経緯があったが、逆に性急な移植によって起こるかも知れない失敗にも心しなければならない。東洋の伝統文化をいたずらに西洋に適用しようとする誘惑に駆られることは、えてして危険である。東洋の伝統文化を西洋に同化させる過程において、本質が失われては意味がない。西洋の文化的土壌に東洋の伝統文化の本質の種を蒔く。そこで新しいものが生まれる。無理な移植を強いるならば、同化されることなく、新たに生まれるはずのものは、生まれる前に死んでしまうだろう。そのような愚を避けるためには、東洋の伝統を道具化しないこと。そして西洋の文化的条件をわきまえることが必要である。
 これは西洋における禅の受容において、留意せねばならないことである。
 
 フィリップ・ジョルディ氏は、かなり辛口のコメントをしておられます。なおここでは、同氏の文意に沿って筆者なりの書き方をしました。
 禅の移植もまた、「あるがまま」がよろしいようです。
 
 注) JORDY Philippe : De quelques difficultés majeures dans la réception du Zen Rinzai en France (フランスにおける臨済宗の受容過程での課題). 法政大学国際文化・国際文化情報学会『異文化』(論文編),11;7-37,2010 .

 
 
france zen文書

ストラスブールの禅仏教センターの案内冊子に出ている道元の言葉のフランス語訳。
 
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1-2.アメリカにおける禅への関心
 
 西洋でも、アメリカにおける仏教や禅の受容の流れはフランスの場合と若干違いますので、対比のためにアメリカのことにも少しふれておきます。
 アメリカ合衆国の独立100周年 (1876年)を記念して、自由の女神像がフランスからアメリカに1886年に贈られました。フランス語で “Statue de la Liberté”と呼ばれる像で、したがって英語では “Statue of Liberty”と命名されました。フランス生まれの “Liberty”という名の女神が、高く差し上げる松明で世界を照らしているのですが、それは以後のアメリカの行方を暗示していたかのごとくです。
 禅の課題もまた「自由」にあると言えます。ただし漢字としての「自由」は含蓄が深く、“Liberty”がそれにあたるとは思えません。フランス語の “Liberté”は束縛、拘束、抑圧などからの“解放”を意味します。英語には、それと同じ “Liberty”の他に、「自由」を意味する語として “Freedom”があります。“Liberty”は「~から解放される」という受動的な自由であるに対して、“Freedom”は、より能動的なニュアンスを帯びた自由を表す言葉です。この “Freedom”の方が、禅における「己事究明」の果ての「自由」につながるように思われます。アメリカ人は、自由の女神像のことを “Miss Freedom”という愛称で呼ぶこともあるようですが、フリーダム嬢の松明に照らされて、アメリカでは比較的自由に禅が広がっていきました。
 1893年にシカゴで万国宗教会議が開催され、鎌倉円覚寺の釈宗演率いる日本の仏教団が、そこに参加しました。年譜的には、これは日本仏教、とくに禅が、アメリカの公的な場にはじめてお目見えする機会を得たイベントでした。釈宗演はこの会議で、アメリカの宗教研究者、ポール・ケーラス Paul Carusと知り合います。ポール・ケーラスの著作のひとつ『カルマ Karma』は、釈宗演の弟子の鈴木大拙によって邦訳され、『因果の小車』の題で出版されました。それは芥川龍之介が『蜘蛛の糸』を書く題材となったものです。そして鈴木大拙は、釈宗演の推薦により、渡米してポール・ケーラスのもとに行き、彼の出版社で編集に携わることになります。
 他に釈宗演の門下の僧侶や、釈宗活 (森田正馬が参加した「両忘会」を主宰していた人物) の門弟も、活動の足跡を残しています。このようにアメリカでは、臨済禅の方が曹洞禅より早く上陸しましたが、独特の公案禅をアメリカにどのように馴染ませようとしたのか、詳らかではありません。
 ところで鈴木大拙は、僧侶ではないため、禅の実践的な普及に関わることはなかったものの、戦前および戦後の二度にわたり、長期間アメリカに滞在し、主に哲学的な立場から禅思想についての英文の著作を出し、講演活動も行いました。この大拙を通じて、いわば神秘的な日本の禅思想や文化に関心を深めた人たちは少なくなかったのです。大拙の影響による禅的なものへの関心を伏線として、戦後の50年代から60年代にかけて、社会体制を否定し人間性の解放を求めたビート世代は、仏教に惹かれ、続いて若者たちの間に広がったカウンターカルチャーの中で、日本の禅や東洋の瞑想が彼らの心を捉えました。実地の禅を示さなかった鈴木大拙に代わって、ヒッピーたちが実験的に禅的行動をしてみせたと言っても、過言ではないでしょう。難解で神秘的な思想を伝えて、アメリカ人に合うような修行の実際を十分に示さなかった点に、臨済宗の問題が露呈したように見えます。
 禅の普及については、臨済宗に遅れて北米に進出した曹洞宗の着実な活動に、むしろその成果を見ることができます。1959年に、曹洞宗の鈴木俊隆老師が、サンフランシスコの日本人街にある桑港寺に、住職として着任しました。折しも、続いていた反体制運動の波は、日系アメリカ人のための桑港寺にも届き、座禅をしにやってくる非日系のアメリカ人たちが増えて、混乱が生じるほどになりました。鈴木大拙に比して、「リトル・スズキ」と自称したという謙虚な鈴木俊隆師でしたが、座禅に来る非日系人に厳しい規矩を課して只管打座を命じ、混乱を収拾します。その一方で現地の参禅者向けに修行の場を用意する必要性を感じ、桑港寺の近くに「発心寺」を開き、さらに1967年には、タサハラに建設した本格的な修行道場としての「禅心寺」を中心に、「サンフランシスコ禅センター」を創設しました。こうしてアメリカにおける禅は、1960年代より、理論から実践へと移行していきました。
 鈴木俊隆師の他にも、日本から派遣された前角大山なる曹洞宗の老師もいて、このような初代の日本人指導者のもとで育成されたアメリカ人の禅僧が、アメリカに固有の禅を創造していきます。
 たとえば、アメリカ人のローリー大道老師によってニューヨーク郊外に「マウンテン禅院」が創設されましたが、大道老師は過去に臨済禅との接点を有し、前角老師から曹洞禅を継承し、さらにチベット仏教の影響も受けているのです。また、日本では曹洞、臨済の双方を取り入れた原田祖岳を受け継いで、安谷白雲が鎌倉に設立した三宝教団がありますが、その安谷師は1960年代にアメリカに渡ります。ハワイ、そしてロサンゼルスへと入り、伝統にとらわれない禅を伝えました。アメリカ人のニーズに合った安谷師の指導により、その流れを継ぐ弟子たちが育ち、彼らが指導者となって今では国内に複数の拠点ができ、アメリカ人在家者が馴染みやすい禅として、多くの人たちに受け入れられています。三宝教団は、日本で既に伝統の垣根を越境していた禅が、国境を越えて自由の国アメリカで活路を開いた例でもあります。
 近年、カリフォルニア州のシリコンバレーに集まっているIT企業の従事者を中心に、アメリカ人の禅への関心はますます高まっていると言われています。決まって引き合いに出されるのは、2011年に早逝した、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズのことです。ジョブズは友人とアップル社を設立したものの、1985年に会社を追われて失意に陥り、以前から知っていたロスアルトス市の乙川弘文老師の指導を仰ぎます。乙川老師は、鈴木俊隆老師がサンフランシスコ禅センターを創設した際に、日本から呼び寄せられた曹洞宗の僧侶ですが、その後はロスアルトス市内の「俳句禅堂」の住職をしていて、ジョブズはそこに出入りしていたのです。乙川師の下でジョブズがどのような修行をして、どのような境地を得たのか分かり難い点はありますが、彼は新たに立ち上げたネクスト社に戻り、再びIT開発の最前線に立ちます。
 ジョブズは、少年時代より高い知能と独自の発想ができ、その非凡な能力によりITの開発をして、若き成功者になりました。しかし性格的には、かなり問題を有していたようです。彼は「シンプルであることは、複雑であることより難しい」ということを、改めて禅から学び直したと見ることもできます。しかし挫折したときの彼は、禅によって自分をみつめる体験に恵まれたのではないでしょうか。乙川師自身も風変わりな人だったと言われますから、波長が合ったのかもしれず、師の理解を得て、ジョブズは自分を矯めていったのではないかと推測します。
 シリコンバレーのIT企業では、社員たちに向けて、瞑想 (メディテーション) やマインドフルネスが導入されていると聞きます。高度な知的作業をするに当たって、無駄な思考は省き、必要な思考に集中することは必要ですから、思考の効率化を図るエクササイズとしては、瞑想もマインドフルネスも有用でしょう。しかしそれらと禅は同義ではなく、自分の人生を見つめ尽くして、それを今に収斂させるのが禅ではないかと思うのです。ITと禅を一挙に結びつけるのは、短絡的ではないでしょうか。
 アメリカにおける禅の流れを大まかに記してきましたが、その中に見られる特徴を以下に改めて略記しておきます。
 伝統のない自由の国、アメリカでは、禅は自由に受け入れられ、自由な展開を示しました。臨済宗、曹洞宗という宗派を超えることはタブーではなくなり、むしろ自由な融合が起こっています。
 鈴木大拙による東洋の神秘のような教えだけでは飽きたらず、当然のこととしてプラクティスが求められるようになりました。ただそこには、実際を重視するアメリカ人の気風が見て取れます。そんなアメリカ人を惹きつけたのは、神秘性を残しつつ、同時に実用的でもある瞑想(メディテーション)だったのです。アメリカにおける瞑想には、禅、チベット仏教、東南アジアの仏教の三つの流れが合流しています。しかし宗教色のない実用的な瞑想として受け入れられたのは、マインドフルネス瞑想でした。それは脳科学的にも有効性があるとされ、禅とは一線を画して仕事や生活の中で活用されているようです。
 このような流れの中に、伝統から解放されてフリーダムの道を歩むアメリカを見ることができます。
 奇妙なことに、森田療法のアメリカへの導入は低調であるように見受けます。森田療法のすべてが禅であるとは言いませんが、アメリカで禅に関わっている人たちは、森田療法をどう捉えているのか、気になるところです。

 参考文献
1.ケネス・タナカ : アメリカ仏教―仏教も変わる、アメリカも変わる― . 武蔵野大学出版会, 2010.
2.石井清純,角田泰隆 : 禅と林檎― スティーブ・ジョブズという生き方―. ミヤオビパブリッシング, 2012.
3.岩本明美 : アメリカ禅の誕生―ローリー大道老師のマウンテン禅院―. 東アジア文化交渉研究別冊 6,11-31,2010.

 
 
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2.禅の「悟り」と森田療法における「治癒」への理解の問題

 
 最後に、またフランス側の森田療法理解の問題に戻ります。
 このシリーズ稿で、先にニル・エルブNyl ERB 女史が森田療法の治癒状態を禅と重ねつつ、「アタラクシー」に似た境地として理解していたことについて述べました。何をか言わんや、ですが、彼ら彼女らにとっては、禅や森田療法についての情報と体験が少なくて、そのような理解のしかたが精一杯のところだったのです。まして、京都の三聖病院の禅的森田療法、つまり宇佐療法からの入門を経由して、本物の森田療法を理解するという課題は必要でしたが、フランス人にとっては容易なことではなかったようです。Nyl ERB 女史も三聖病院という鬼門を入り、魔境に陥ってしまったのです。
 そこで私は、アタラクシーとの比較対比が可能な、ひとつの禅の境地として、快川和尚の放ったと言われる言葉、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」(正確には、後述するように「火も自ずから涼し」)を引用し、このような高踏的境地を指し示すことの非妥当性を、あえて指摘しておいたのでした。そして最後にその問題に立ち戻らねばならないと思って、ここまで保留してきたというわけです。
 宇佐玄雄も森田正馬も、治癒の境地を示すために禅で言う「無寒暑」を引き合いに出しています。『碧巌録』第四十三則の「洞山寒暑廻避」の「本則」に、ある僧と洞山良价との次のようなやり取りがあります。
 僧「寒暑到来せば如何にか廻避せん」。
 洞山「何ぞ寒暑無き処にゆかざる」。
 僧「如何なるか是れ寒暑無き処」。
 洞山「寒き時は闍黎を寒殺し、熱き時は闍黎を熱殺す」。
 読みやすいように一部表記を改めましたが、以上のような洞山良价の教えが出ているのです。「闍黎」とは、僧のことで「あなた自身を」というような意味であり、また「殺」は表現の誇張であって、「なりきってしまえ」と言っているのです。短く言えば「寒時寒殺、熱時熱殺」で、「熱い時は熱さになりきり、寒い時は寒さになりきれ」ということです。(禅は誇張した言葉で、持って回ったことを言います。「言うは易く行うは難し」ということにならないように、わざわざ難解な表現をするのだろうか、と言いたくなりますが…)。ともかく、これは森田も常に教えていた「なりきる」ということを言っています。
 さらに「本則」の次の「評唱」に、「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という洞山の教えの句が出てくるのです。火刑にされる前に、快川和尚は脳裏に浮かんだ『碧巌録』のこの句を言ったという伝説のような話です。猛暑の到来と火刑とはわけが違いますが、禅の寓意を理解するほかありません。
 森田正馬は、禅でいう「悟り」をなるたけ平易に理解して、その限りにおいて、療法における治癒と禅における悟りとを同一視しました。森田は、禅の難解さを嫌い、悟りを素朴に捉えて、「すべての行動が自由自在で、最も適切に働く時の状態」が「悟り」の境地だとみなして、これを治癒と同等視しました。「自由自在」が放恣を意味するのではないことは、言うまでもありません。「随所に主となれば立処皆真なり」(臨済義玄)というような自由を生きることなのでしょう。
 フランス人にとっての自由、アメリカ人にとっての自由、日本人にとっての自由、これらの差異を理解しながら、建設的に対話を続けていくことが必要です。
 
 付記
 本稿では、森田療法へのフランス人の反応として、雑誌 PSYCAUSE に現れた Nyl ERB女史らの発表を取り上げましたが、フランス人たちからの森田療法への反響は、以前からさまざまありました。中でも面白かったのは、ディディエ・ブルジョア Didier BOURGEOIS という精神科医師は、「日本の森田療法はエグザイルEXILEだ。『正常病』だ」という、事実上筆者に向けた批判をしてくれました。このような毒舌の方が、おめでたい「アタラクシー」より、はるかに面白いのです。この毒の利いた語りは、小著『忘れられた森田療法』で紹介したことがあります。この毒舌精神科医は、最近沈黙しています。高齢で、焼きが回ったのでしょうか。
 フランスから、もっと毒矢が飛んでくることを期待しているのです。

 
 

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無心(RYUMON-JI 龍門寺の猫)