「アタラクシーと精神分析」― Nyl ERB, Muriel Falk VAIRANT 著の論文について ―

2016/06/12

二人

 
 雑誌PsyCause日本特集号に掲載された論文の一つ、Nyl ERB女史(精神分析家)とMuriel Falk VAIRANT医師による“Ataraxie et psychanalyse”(「アタラクシーと精神分析」)という論文の要旨とその内容について紹介します。
 まず、論文のRésuméを原文のまま掲げ、続いてコメントを書き加えます。
 

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文章

 

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 著者らは、森田療法を精神分析と対比して、まず、両者は人間を幸福に至らしめんとする点では相通じることを認めています。ただし、両者は思想や道筋を、かなり異にしているということを指摘して、次のように言います。
 
 精神分析では、個人の歴史における過去の体験を取り上げる。そこでの基本的手法は言語である。対話によって欲動を変化させ、思考に自由を与えて、個の自我を再構築をはかるのである。
 古代ギリシャのアゴラは、公衆の議論の場であった。集団の中での個々人の対話の積み重ねによって、西洋の民主社会ができた。西洋の建築においては、個々に分析された細部からなる構築によって、華麗にして重厚な建築物ができた。宗教の次元でも、キリスト教では、過去の出来事の中で歴史選択がなされてきた物語としての聖書が、重きをなしている。
 個人の精神分析においても然り。言語による対話によって、過去からの解放をはかり、それを起点に、新たな人生に立ち向かわせる。その試練を経て、穏やかな幸福がもたらされるのである。
 一方、森田療法は、主体をアタラクシーの境地に到達させようとするものだと、著者らは言う。アタラクシーとは、ギリシャ語を語源としており、あらゆる苦悩を超越した魂の深い静寂の境地のことであり、それが森田療法における幸福なのであると。
 そして森田療法の治療の方法として、次のような特徴を挙げている。
 入院森田療法では、僧院のような環境で、規律のもとに行われ、まず、沈黙が課せられる。しゃべることの禁止によって、他者との関係性は遮断され、自己を見つめる瞑想のような体験が惹起される。次に視点を外界に移し、観察し感じたことを日記に書き、それに対して治療者の助言が与えられる。このような徒弟奉公的な営みに、ある種の充実や至福が感得される。沈黙はまた、思考を停止させ、ある種の脈絡のない思考と、瞑想的で理性によらない覚醒体験へと通じていく。このような心的過程は、精神分析ではありえないものである。
 森田療法のそのような仏教的治療哲学においては、個は個として存在しえず、集団の中に差し戻されるのである、と。
 
 こうして著者らは、精神分析と森田療法の間に見られる相違は、それぞれの療法が依拠する文化の相違によるとして、日本における仏教について言及して、次のように述べています。
 
 仏教の基本的原則として、教義と実践がある。
 仏教の教義は、多くは、段階的な指導のかたちで教示される。ブッダは、まずわれわれの眼に現実の姿を見せつけ、次いで新たにその分析をさせ、究極においては、ブッダ自身が事物を見ているような見方、つまり《あるがまま》に見る見方へと吾人が到達できるように教えたもうた。
 仏教の実践面においては、さまざまな修行や霊的な訓練があるが、仏教者たちはそれを生かして、個別の体験から仏教の教えの意義を知って、霊的な道を前進し、目標としての悟りと解脱の境地に達するのである。
 

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 以上で、著者らの論文内容を、日本語文で要約的に紹介しました。原文の記述の順序に、必ずしも従っていませんが、内容を忠実に再現するように努めて記述しました。短い論文なので、ほぼ全体を漏らさず紹介したことになります。
 さて、この論文では、精神分析についての説明は的確で、教科書的であり、われわれにとってもお馴染みのものです。問題は、著者らの森田療法の捉え方です。私たちはその理解のしかたに大いに困惑を覚えるのです。
 この論文で、森田療法の目指すものは、苦悩を超越したスピリチュアルな静寂と安らぎの境地であると捉えられています。そしてその境地を指して、古代ギリシャ哲学由来のアタラクシー(ataraxie)という語が当てられています。フランスでは、ZENの体験は、しばしば ataraxie という言葉とその概念で説明されることがあると聞きます。このような禅理解のしかたが生じる思想的背景には、それなりの歴史的事情があるでしょう。まずヨーロッパに入ってきた仏教は、旧植民地であった東南アジアの南伝仏教、つまり小乗仏教(上座部仏教)でした。その後、日本から禅が導入されましたが、それは曹洞宗の禅でした。もちろん小乗仏教と曹洞禅は、仏教としてかなり異なります。しかし、いずれにおいても、俗界を離れてひたすら修行に打ち込むことが重んじられる点では、相通じるところがあるので、フランス人にとって、区別が困難だったことでしょう。仏教に超俗的な自己研鑽を見た彼らは、自分たちの文化の中にあるキリスト教的な瞑想と似通うものを、(小乗)仏教や(曹洞宗的)禅に見たのです。そしてそこに見たものをさらに深く理解しようとして、古代ギリシャ哲学にまで遡り、アタラクシーという用語や概念を持ち出すことになったのだと思われます。
 近年、ティク・ナット・ハン師のような、小乗、大乗の区別を超えた偉大な指導者がフランスにおける仏教に影響を与えていて、日常における瞑想(メディテーション/メディタシオン)が推奨されています。セクトにこだわらない大らかな仏教が、受け入れられるのは、望ましいことです。しかし、禅については、なお理解困難なままに、フランス人はためらいながら、それを瞑想(メディテーション/メディタシオン)という行いに結びつけるとともに、その究極の体験を知的分別で説明しようとして、アタラクシーという哲学用語を当てるのです。
 本論文の著者らも、禅仏教の目指す境地として、同様の先入観を持っていたことが、期せずして明らかになりました。つまり、森田療法と禅の関係をある程度知った段階で、性急にも一足飛びに、森田療法をアタラクシーに結びつけてしまったのです。論文においては、森田療法なるものについて若干の記述があるのですが、それがどのようにアタラクシーに繋がるのか、記述に脈絡がありません。
 しかしこの著者らが言葉足らずに書いた森田療法の説明は、実は三聖病院でおこなわれていた療法の特徴を記述したものにほかならず、そのような意味では、意外にも描写は的を射ているのです。彼女ら(著者ら)は、一昨年秋に京都に来て三聖病院を訪問した PSYCAUSE のグループの中にいた人たちで、それなりにこの病院を鋭い眼で分析的に観察したようです。言うまでもなく、三聖病院の独特の禅的森田療法に、森田療法の普遍的な本質があるかどうか、それには肯んじ難いものが残ります。京都に来たフランス人たちを、閉院間際の三聖病院に連れて行くのが、私には精一杯の「おもてなし」でした。その結果、熱心に訪問に加わった本論文の著者らにより、三聖病院の事実がフランス人の眼で冷徹に指摘されたことは、思いがけない収穫だと考えます。
 それにしても、三聖病院の療法の営みと、アタラクシーを直結させて考えるには、かなりの無理があります。森田療法の本質を禅に近いものとして、彼ら、彼女らに紹介してきたのは私自身なのですから、著者らが森田療法を禅との関係で理解しようと努めてくれることについては、私自身それを好ましく思うものです。しかしながら、一挙にアタラクシーに持っていく理解のしかたを提示されると、私は伝え方の不首尾に責任を感じますが、同時にやはり違和感を禁じ得ません。著者らは、そのように論を運ぶ根拠を有していないはずです。何を以てアタラクシーとするのか、残念ながら、彼女らの論旨には、空白があります。導かれる結論が突飛なのです。禅あるいは森田療法をアタラクシーとみなす先入観ありき、の論文の印象を拭えません。
 

 そのため、森田療法と禅について、改めて若干のことを補わねばなりません。
 森田正馬が「煩悩即菩提」という禅語を引用して教えたように、煩悩を抱えて生きること、そのままで悟りなのです。苦を苦とし、苦のままに生きるほかありません。悟りというものは、不可解なものです。苦悩を超越した域に至福の境地があるのかどうか、そのような命題にわれわれは関わる必要はありません。少なくとも、そのような境地の追求は、森田療法から逸脱していきます。
 森田正馬は、治癒と禅における悟りを同一視しました。ただし、森田は、「生きるために火花を散らして働くようになったのを悟り」というとしており、それが即ち治癒の姿なのです。悟り澄ました至高の心的境地を問題にしているのではありません。アタラクシーは論外のことになります。
 この辺の重大事については、日本人でも、とくに神経症の罠にはまっている人たちが、しばしば誤解をするところです。ましてフランス人に理解してもらうことは容易ではありません。でも同じ生身の人間同士、やりとりを重ねることによって、きっと理解してもらえるだろうと思っています。
 
 なお、禅の悟りの境地の捉え方について付言すれば、禅の思想的立場によっても微妙に異なると思われる節があります。禅の悟りをアタラクシーと捉えてしまう陥穽は、禅の悟りの問題と西洋の知との相対性の中に潜んでいるのかも知れません。
 ここでは長くなるので、稿を改めたいと思っています。
                                             (6月11日 記)
 

追記1.

 紹介した論文の著者のひとり、Nyl ERB 女史とは随時メールのやりとりをしていますが、上記の文章を書き終えた6月11日の夜、女史は彼女らがアタラクシーという用語を持ち出した理由についての説明を書き送ってきました。その趣旨の紹介を含め、アタラクシー、禅、森田療法について、次回にコメントを追加する予定です。
 
追加2.

 森田療法へのフランス人の反応に関しては、小著(『忘れられた森田療法』)の最終章に記しました。森田療法の日仏交流にご関心を持って下されば、参照して頂けると幸いです。今ここに書いていることは、その交流の流れの続きを、リアルタイムで補足的に報告しているものです。
 

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Nyl ERB女史(中央)とMuriel Falk VAIRANT医師(右)。 2014年10月20日、京都での PSYCAUSE学会にて。
 

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Muriel Falk VAIRANT 医師(写真左)。2014年10月21日、三聖病院にて。