アタラクシー、瞑想、禅、そして森田療法(その1) ― Nyl ERB 女史らの論文紹介後に著者と交わした討論―

2016/06/23

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        アルザスには曹洞宗の禅寺、RYUMON-JI(龍門寺)がある。そこでおこなわれている摂心。
            (写真はRYUMON-JIの案内冊子より)
 

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1.「アタラクシーと精神分析」(前回の紹介論文)を受けて
 先に、Nyl ERB 女史らの「アタラクシーと精神分析」という珠玉論文を紹介しました。それは精神分析の立場から森田療法について、論考を試みたものでした。ただし、その立論に対して、いくつかの問題を指摘せざるを得ませんでした。とりわけ、森田療法を正面から論じきることを保留し、アタラクシーという古代ギリシア哲学の用語を森田療法に当てて、それと精神分析を対比した点に、問題を含んでいたのです。
 辛辣ながら、前回そのようなコメントを書きました。
 ちょうどそれを書いた直後(6月11日)に、Nyl ERB 女史からメールが届き、こちらの懸念している“アタラクシーと森田療法の関係”について、ご自身の立場からの説明が記されていました。
 それを皮切りに、女史との間で、メールでメッセージをやりとりして討論を交わしました。文化を異にする者同士、逐一討論することは必要です。短い論文に書かれていなかった空白部分を、かなり埋める共同作業をすることができたのです。
 それらを次に紹介します。
 

蓮

         ストラスブールにある Centre de bouddhisme Zen 禅仏教センター(曹洞宗系)の案内冊子。
        Méditationの文字が大書されている。
 
2.私たちのやりとり
〈Nyl ERB女史より〉
 「アタラクシーと禅は、実際には別のものだろうと思っています。西洋でも、その志を持つ人は禅に触れる体験をしているわけですけれど、ヨーロッパにおける存在の哲学は、禅や仏教と本来対極にあるものです。フランスでは、誰もが ZEN に興味を持っています。しかし、それはあまりにも俗化した次元での関心であり、ZENを深く知ってのことではありません。厳密な意味においては、私自身も禅を語る資格はないので、アタラクシーに関係づけて述べておく方が適切だと考えたのです。また、言葉を媒介にする精神分析に対して、沈黙によるアプローチをするという森田療法が目指す境地は、アタラクシーに近いのではないかと推測したのです。でも、森田療法を理解することは難しいです。森田療法は、知的に理解するものではなく、体験的に知るものでありましょう。われわれの間にある差異もまた、差異を知ることで一層理解し合えるのではないかと思います。」(6月11日)
 
 このようなメッセージをもらったことで、違いを理解しようとしてくれる柔軟な姿勢を読み取ることができ、その姿勢こそ評価するに足ると思いました。
 

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そこで、アタラクシーと森田療法の関係について、こちらから意見や疑問を投げかけることにして、およそ次のような内容のメール文を書き送りました。
 
〈当方より女史へ〉
 「精神分析と森田療法の比較検討は、古くて新しい問題です。先行研究は少なからずありますが、多くは言い古された指摘にとどまっています。そんな中で、森田療法の目指すものを、アタラクシーとほぼ同一視した、唐突とも思えるような論考に触れて、私は戸惑いを覚えました。森田療法を禅と重ね、禅をアタラクシーにつないでいることは察しがつきます。それにしても、森田療法もしくは禅と、アタラクシーとの異同を、もう少し明確にして論を運ぶべきであったのではないでしょうか。したがってその点を論じる必要性が残されています。そのため、ひとつの手がかりをこちらから提供します。それは禅における究極の境地とされる『悟り Satori』についてであり、かつそれがアタラクシーとどう関係するかを、点検してはどうかという問題提起なのです。
 禅の体験の究極の境地は、『悟り(Satori)』であるとされます。悟りとは、主体としての自己が客体としての自己と対決し、その二元的対立の果てに、『真の自己』の境地に至るものです。それは、心身や主客や自他や生死の二元的対立のない、あるがままの自己である境地です。そこにおいては、悟りと迷いの二元論的対立すらありません。迷いの渦中で必死に生きている状態が悟りであり、逆に悟りを開いたと思って自負するとき、既に迷いの中に転落しているのです。
 人生に煩悩はつきものです。あるがままとは、煩悩を超越することではなく、煩悩に執着しないでそのまま生きることを意味します。禅の修行において、座禅がおこなわれるのは、心身がひとつになった状態で、あるがままの自己を体験する方便として、座禅が定着したものだからです。座禅や禅の修行は、煩悩を超越した神聖な境地を目指すものではなく、人間としてあるがままに生きようとする努力を、方法として凝縮したものであり、それ以上の特殊なものではありません。
 禅と禅における悟りについて、基本的に以上のように理解した上で、アタラクシーと対比する必要があるでしょう。
 しかし、その前に追加すれば、禅の悟りというものにも、さまざまな捉え方があるのです。ひとつの有名な例を紹介します。
 かつて戦乱の時代に、戦に巻き込まれて火炙りの刑に処せられた有名な禅僧がいました。快川(Kaisen)というその僧侶は、火刑にされる前に、次のような辞世の言葉を残しました。
 『心頭を滅却すれば、火もまた涼し』
 禅の悟りをあえてアタラクシーと重ねるならば、火を涼しいとする境地はアタラクシーに相当するのでしょうか?
 しかしながら、火は熱いのが当たり前です。殺されたくない、死にたくないのが当たり前です。森田正馬なら、火を涼しいとわざわざ言うような悟りを、きっと受け入れなかったでしょう。森田は、治癒と禅の悟りを同一視しました。ただし森田は、『生きるために火花を散らして働くようになったのを悟り』と捉えたのです。悟りについての森田の見解はおそらく的確です。火を涼しいという悟りは、凡人にとって無用のものだと、私は考えています。
 以上に述べたことを考慮して、アタラクシーと禅と森田療法を対比してほしいと思います。」(6月13日)
 

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以上のような私からのメッセージは、女史にある程度まで通じたようで、反応のメールをもらいました。彼女の発言は、先の論文内容よりも深まってきました。しかし理解と同時に新たな誤解も発生し、彼女からの疑義も呈されています。
 ともあれ、彼女からのメッセージを紹介します。
 
〈再び Nyl ERB 女史より〉
 「あなたが禅について書いてくれたことをよく読み返しました。そしてその結果、厳密な意味での禅思想と、ヨーロッパで一般に安易におこなわれている禅の思想とを、混同すべきでないことを改めて知りました。
 ヨーロッパにおける禅は、当面のストレスや不安を解消するのに役立つメディタシオン(瞑想)につながっています。それはある種の流行現象ですが、実利的なもので、医師もそれを活用しています。以前はルラクサシオン(リラクゼーション)と呼ばれていたものに当たります。このメディタシオン(瞑想)は、インドの仏教の僧堂で僧侶のもとで修行した人たちによって、ヨーロッパにもたらされたものです。
 さて、禅思想がとりわけ仏教の本質に触れるものであることは言うまでもないようですが、その哲学は、自己への畏敬と、satoriと呼ばれる覚醒体験に至るような生の高揚にあるということを知りました。そのような禅が探求するのは、絶対的な生そのものになりきるために、煩雑な生を空にする法なのであろうと私は考えます。だからこそ、火炙りになる僧をして、火は涼しいと言わしめたのではないでしょうか。
 アタラクシーは、このような究極の至福の追求に類しますが、satoriの境地に達するものではありません。
 森田療法の対象患者は神経質で、悪しき生を生きており、satoriの追求からほど遠く、単に幸福になりたいと念願しているだけである―、だから森田療法はその願望を実現してやるために、彼らをsatoriへの道へと導いてやる、ということでしょうか―。
 ところが、私はあなたのメールをまた読み直してみて、とんでもない勘違いをしていることに気づきました。森田は治癒とsatoriを同一視した。彼によれば、必死で生きている状態そのものがsatoriなのである、と書いてあるからです。
 より良い幸福の追求は精神療法のひとつの本旨であり、それを描いている野中剛監督の(三聖病院)の映画から、ある種のアタラクシーを感じ取れますが、そのようなアタラクシーとも懸隔があることになるのでしょうか。
 先の小論で私は、精神療法間の対比として、森田療法と精神分析の違いを述べました。しかし、一体、精神療法あるいは森田療法の営みは治癒を可能にすると信じるべきなのでしょうか? 私は懐疑的になっています。絶えず極度に緊張して生活することは、確かにより良いひとつの生き方かもしれませんが、それで最良の人生を取り戻すことになるのでしょうか! 私は疑問に思います。
 是非あなたの考えを知らせてください。」(6月20日)
 
 メッセージの終わり近くなって、混乱と疑問が噴出しています。
 
〔女史の混乱〕
 一旦は整理がついたかに見えた、アタラクシーと森田療法や禅との関係が、再度混乱しています。その原因として、ひとつには、禅の本物の悟りは日常生活を必死に生きている状態にこそあるという見方が、まだ腑に落ちていないらしいということがあります。さらに三聖病院のドキュメンタリー映画を観た女史は、そこではアタラクシーが主題になっているかのような印象を受けたようで、その記憶がよみがえった模様なのです。女史は熱心な人なので、これらのことについては、もっと根気よく伝え続ければ、理解を得られるはずです。
 
〔女史の疑問〕
 もうひとつ、大きな問題は、森田療法における治癒とは何かということを、女史が突きつけてきたことです。フランス人が、いきなりこの問題に飛びついてきました。
 これはわれわれにとっても大問題です。近年、私自身も思っています。森田療法は神経症の治療という狭い領域にとどまる必要はない。極論すれば、例外的な場合を除いて、神経症を治療対象にする必要はない。森田療法はみんなのものである。万人の人生とともにある智恵として、社会のあちこちで現に生かされているであろうし、より一層生かされるとよい。森田療法は人間が呼吸している空気のようなもので、特別なものではないけれど、不可欠なものである。そのような柔軟な見方、生かし方が、とりわけ忘れられています。(手前味噌になりますが、そんなことを昨年小著に記しました)。
 味噌臭くなりましたが、この問題も、賢明な女史は理解してくれるはずです。
 かくして、やりとりはまだ続きますが、本日はここまでです。
 

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注記
 最後になりましたが、文中で度々用いてきたアタラクシー(英語読みでは、アタラクシア)という言葉の語義を、念のため書き添えておきます。
 〔ataraxie(仏)、ataraxia(英)〕
 古代ギリシアのエピクロス派が用いた言葉で、語源からは、何ものにも邪魔されない状態のことであり、外界から煩わされない精神の平静、安定を指した用語である。エピクロス派はこのような状態に快楽があるとし、それを理想の境地として追求した。
 

本日5

「アタラクシーと精神分析」― Nyl ERB, Muriel Falk VAIRANT 著の論文について ―

2016/06/12

二人

 
 雑誌PsyCause日本特集号に掲載された論文の一つ、Nyl ERB女史(精神分析家)とMuriel Falk VAIRANT医師による“Ataraxie et psychanalyse”(「アタラクシーと精神分析」)という論文の要旨とその内容について紹介します。
 まず、論文のRésuméを原文のまま掲げ、続いてコメントを書き加えます。
 

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文章

 

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 著者らは、森田療法を精神分析と対比して、まず、両者は人間を幸福に至らしめんとする点では相通じることを認めています。ただし、両者は思想や道筋を、かなり異にしているということを指摘して、次のように言います。
 
 精神分析では、個人の歴史における過去の体験を取り上げる。そこでの基本的手法は言語である。対話によって欲動を変化させ、思考に自由を与えて、個の自我を再構築をはかるのである。
 古代ギリシャのアゴラは、公衆の議論の場であった。集団の中での個々人の対話の積み重ねによって、西洋の民主社会ができた。西洋の建築においては、個々に分析された細部からなる構築によって、華麗にして重厚な建築物ができた。宗教の次元でも、キリスト教では、過去の出来事の中で歴史選択がなされてきた物語としての聖書が、重きをなしている。
 個人の精神分析においても然り。言語による対話によって、過去からの解放をはかり、それを起点に、新たな人生に立ち向かわせる。その試練を経て、穏やかな幸福がもたらされるのである。
 一方、森田療法は、主体をアタラクシーの境地に到達させようとするものだと、著者らは言う。アタラクシーとは、ギリシャ語を語源としており、あらゆる苦悩を超越した魂の深い静寂の境地のことであり、それが森田療法における幸福なのであると。
 そして森田療法の治療の方法として、次のような特徴を挙げている。
 入院森田療法では、僧院のような環境で、規律のもとに行われ、まず、沈黙が課せられる。しゃべることの禁止によって、他者との関係性は遮断され、自己を見つめる瞑想のような体験が惹起される。次に視点を外界に移し、観察し感じたことを日記に書き、それに対して治療者の助言が与えられる。このような徒弟奉公的な営みに、ある種の充実や至福が感得される。沈黙はまた、思考を停止させ、ある種の脈絡のない思考と、瞑想的で理性によらない覚醒体験へと通じていく。このような心的過程は、精神分析ではありえないものである。
 森田療法のそのような仏教的治療哲学においては、個は個として存在しえず、集団の中に差し戻されるのである、と。
 
 こうして著者らは、精神分析と森田療法の間に見られる相違は、それぞれの療法が依拠する文化の相違によるとして、日本における仏教について言及して、次のように述べています。
 
 仏教の基本的原則として、教義と実践がある。
 仏教の教義は、多くは、段階的な指導のかたちで教示される。ブッダは、まずわれわれの眼に現実の姿を見せつけ、次いで新たにその分析をさせ、究極においては、ブッダ自身が事物を見ているような見方、つまり《あるがまま》に見る見方へと吾人が到達できるように教えたもうた。
 仏教の実践面においては、さまざまな修行や霊的な訓練があるが、仏教者たちはそれを生かして、個別の体験から仏教の教えの意義を知って、霊的な道を前進し、目標としての悟りと解脱の境地に達するのである。
 

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 以上で、著者らの論文内容を、日本語文で要約的に紹介しました。原文の記述の順序に、必ずしも従っていませんが、内容を忠実に再現するように努めて記述しました。短い論文なので、ほぼ全体を漏らさず紹介したことになります。
 さて、この論文では、精神分析についての説明は的確で、教科書的であり、われわれにとってもお馴染みのものです。問題は、著者らの森田療法の捉え方です。私たちはその理解のしかたに大いに困惑を覚えるのです。
 この論文で、森田療法の目指すものは、苦悩を超越したスピリチュアルな静寂と安らぎの境地であると捉えられています。そしてその境地を指して、古代ギリシャ哲学由来のアタラクシー(ataraxie)という語が当てられています。フランスでは、ZENの体験は、しばしば ataraxie という言葉とその概念で説明されることがあると聞きます。このような禅理解のしかたが生じる思想的背景には、それなりの歴史的事情があるでしょう。まずヨーロッパに入ってきた仏教は、旧植民地であった東南アジアの南伝仏教、つまり小乗仏教(上座部仏教)でした。その後、日本から禅が導入されましたが、それは曹洞宗の禅でした。もちろん小乗仏教と曹洞禅は、仏教としてかなり異なります。しかし、いずれにおいても、俗界を離れてひたすら修行に打ち込むことが重んじられる点では、相通じるところがあるので、フランス人にとって、区別が困難だったことでしょう。仏教に超俗的な自己研鑽を見た彼らは、自分たちの文化の中にあるキリスト教的な瞑想と似通うものを、(小乗)仏教や(曹洞宗的)禅に見たのです。そしてそこに見たものをさらに深く理解しようとして、古代ギリシャ哲学にまで遡り、アタラクシーという用語や概念を持ち出すことになったのだと思われます。
 近年、ティク・ナット・ハン師のような、小乗、大乗の区別を超えた偉大な指導者がフランスにおける仏教に影響を与えていて、日常における瞑想(メディテーション/メディタシオン)が推奨されています。セクトにこだわらない大らかな仏教が、受け入れられるのは、望ましいことです。しかし、禅については、なお理解困難なままに、フランス人はためらいながら、それを瞑想(メディテーション/メディタシオン)という行いに結びつけるとともに、その究極の体験を知的分別で説明しようとして、アタラクシーという哲学用語を当てるのです。
 本論文の著者らも、禅仏教の目指す境地として、同様の先入観を持っていたことが、期せずして明らかになりました。つまり、森田療法と禅の関係をある程度知った段階で、性急にも一足飛びに、森田療法をアタラクシーに結びつけてしまったのです。論文においては、森田療法なるものについて若干の記述があるのですが、それがどのようにアタラクシーに繋がるのか、記述に脈絡がありません。
 しかしこの著者らが言葉足らずに書いた森田療法の説明は、実は三聖病院でおこなわれていた療法の特徴を記述したものにほかならず、そのような意味では、意外にも描写は的を射ているのです。彼女ら(著者ら)は、一昨年秋に京都に来て三聖病院を訪問した PSYCAUSE のグループの中にいた人たちで、それなりにこの病院を鋭い眼で分析的に観察したようです。言うまでもなく、三聖病院の独特の禅的森田療法に、森田療法の普遍的な本質があるかどうか、それには肯んじ難いものが残ります。京都に来たフランス人たちを、閉院間際の三聖病院に連れて行くのが、私には精一杯の「おもてなし」でした。その結果、熱心に訪問に加わった本論文の著者らにより、三聖病院の事実がフランス人の眼で冷徹に指摘されたことは、思いがけない収穫だと考えます。
 それにしても、三聖病院の療法の営みと、アタラクシーを直結させて考えるには、かなりの無理があります。森田療法の本質を禅に近いものとして、彼ら、彼女らに紹介してきたのは私自身なのですから、著者らが森田療法を禅との関係で理解しようと努めてくれることについては、私自身それを好ましく思うものです。しかしながら、一挙にアタラクシーに持っていく理解のしかたを提示されると、私は伝え方の不首尾に責任を感じますが、同時にやはり違和感を禁じ得ません。著者らは、そのように論を運ぶ根拠を有していないはずです。何を以てアタラクシーとするのか、残念ながら、彼女らの論旨には、空白があります。導かれる結論が突飛なのです。禅あるいは森田療法をアタラクシーとみなす先入観ありき、の論文の印象を拭えません。
 

 そのため、森田療法と禅について、改めて若干のことを補わねばなりません。
 森田正馬が「煩悩即菩提」という禅語を引用して教えたように、煩悩を抱えて生きること、そのままで悟りなのです。苦を苦とし、苦のままに生きるほかありません。悟りというものは、不可解なものです。苦悩を超越した域に至福の境地があるのかどうか、そのような命題にわれわれは関わる必要はありません。少なくとも、そのような境地の追求は、森田療法から逸脱していきます。
 森田正馬は、治癒と禅における悟りを同一視しました。ただし、森田は、「生きるために火花を散らして働くようになったのを悟り」というとしており、それが即ち治癒の姿なのです。悟り澄ました至高の心的境地を問題にしているのではありません。アタラクシーは論外のことになります。
 この辺の重大事については、日本人でも、とくに神経症の罠にはまっている人たちが、しばしば誤解をするところです。ましてフランス人に理解してもらうことは容易ではありません。でも同じ生身の人間同士、やりとりを重ねることによって、きっと理解してもらえるだろうと思っています。
 
 なお、禅の悟りの境地の捉え方について付言すれば、禅の思想的立場によっても微妙に異なると思われる節があります。禅の悟りをアタラクシーと捉えてしまう陥穽は、禅の悟りの問題と西洋の知との相対性の中に潜んでいるのかも知れません。
 ここでは長くなるので、稿を改めたいと思っています。
                                             (6月11日 記)
 

追記1.

 紹介した論文の著者のひとり、Nyl ERB 女史とは随時メールのやりとりをしていますが、上記の文章を書き終えた6月11日の夜、女史は彼女らがアタラクシーという用語を持ち出した理由についての説明を書き送ってきました。その趣旨の紹介を含め、アタラクシー、禅、森田療法について、次回にコメントを追加する予定です。
 
追加2.

 森田療法へのフランス人の反応に関しては、小著(『忘れられた森田療法』)の最終章に記しました。森田療法の日仏交流にご関心を持って下されば、参照して頂けると幸いです。今ここに書いていることは、その交流の流れの続きを、リアルタイムで補足的に報告しているものです。
 

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Nyl ERB女史(中央)とMuriel Falk VAIRANT医師(右)。 2014年10月20日、京都での PSYCAUSE学会にて。
 

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Muriel Falk VAIRANT 医師(写真左)。2014年10月21日、三聖病院にて。

‟ Les psy causent ” ー 心は「すったもんだ」 ー

2016/06/04

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  雑誌 PsyCauseの日本特集号が刊行されたことを、先日のブログでお知らせしました。

  この特集は、一昨年(2014年)秋に京都において、森田療法を主なテーマとして国際PsyCause学会を開催したことに端を発します。学会の成果を中心に、翌年(2015年)の学会誌に日本特集を組もうという企画が生まれたのでした。そして“Cahier Japonais”(日本についての論考)の号がやっと日の目を見ました。2015年の最終号ですが、刊行が遅れて、本年3月末に出たものです。

  この号の編集には当方も介入しました。しかし相手方には、特集号の刊行を、今後のさらなる日仏交流につなぐ礎石にしようとする目論みがありました。京都を中心とするわれわれ西日本の少人数のグループには、そんな相手の希望に応じるだけの組織力がありません。この特集号の発行の水面下には、相手方との間にそのような葛藤がありました。フランス語圏とは言え、国際的な学会組織とわれわれ少人数が渡り合うのはかなり無理があって、骨が折れます。

  実を言えば、一昨年に学会を引き受けざるを得なくなった時点で、日本国内の francophone のプシ関係の先生方や、あるいは個人を超えて組織として PsyCause学会と趣旨を共有するところが多いと思われる日本の学会、とりわけ「多文化間精神医学会」のような学会組織に、交流をお引き受け願えればと、内心考え続けてきました。しかし当面の学会開催、三聖病院の閉院という事態、日本特集号編集など、すったもんだで現在に至ります。

  日本特集のこの号には、雑誌の各論文にカラー写真が添えられました(陰の声あり:文章が主体か、カラー写真が主体か)。それはよいとしても(陰の声:よいかどうかわからない)、日本側から寄稿した論文に添えられた写真の大半は、一昨年にフランス人たちが来訪したときに、京都や奈良の観光に出かけて撮影したものです。写真としてはまずまず美しく撮れています(陰の声:写真は真実を写しているか)。極めつけは雑誌の表紙の写真です。フランス人たちは、日本語の表意文字としての「観光」を知らないようでした。「光」を観るより「影」を観よ。雑誌を観た感想として、これからそういう皮肉を相手に届けようと思うのですが…(陰の声:野暮なこと)。

  雑誌の表紙には、小さな文字で書いてあります。“Les psy causent”と。幸いなるかな、日本語の読めない精神分析家たち。こちらのすったもんだも知らないで。

でも心はいつもすったもんだでよいのです(陰の声:よいも悪いもない)。
 
 ※ いくつかの論文の要旨を、追って紹介していく予定です。

                                

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