西村惠信先生が出演なさった仏教バラエティー番組について―森田療法の視点から―

2015/08/22


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西村惠信先生を囲んでの本年の新年会の写真(部分)。

 

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1.終了後の「まえせつ」
 前に案内しましたように、NHK総合テレビで『ギヤーテーギヤーテー・煩悩ショップ108』という仏教バラエティー番組が先般放映されました。NHKから請われて、花園大学禅文化研究所所長、西村惠信先生がこの番組に出演なさいました。西村先生は豪放磊落、こだわらずに清濁併せ呑まれるお方です。番組の企画上の制約があることとて、ご発言は限られるにせよ、テレビ画面から伝わる西村先生のお人柄を感じ取って頂くとよいと思って、番組の案内をしました。出演なさった西村先生ご自身、8月15日深夜に放映されたこの番組をご自宅で視聴されて、出来上がったその全編を、おそらく始めてご覧になったのではないかと思います。番組へのご自身の感想はまだ伺っていませんが、視聴者のひとりとしての私の感想を漏らします。
 私たちが毎週通っている禅を学ぶ会で、西村先生はおっしゃっていたのでした。NHKのディレクターが、自坊まで出演の依頼にやってきて、こんなことを言った。数多く著された難しい禅学の書物に加えて、ハウツウ本とも言えるような育児の本(注)もお出しになって、その中で実際に則して、人の心の琴線に触れるようなことを平易にお書きになっているので、出演をお願いするのはこの方だと思った、と言った。引き受けたら、衣を着るか作務衣を着るか、何色を着るかまで、何度も細かい打ち合わせがあった。AKBとか言う頭を丸坊主にしたことのある女の子や落語家(とおっしゃっていた)が出る。小池龍之介が煩悩の相談に応じ、自分はショップのオーナーの役で、奥でモニターを見てコメントをする。渋谷の駅前の歩道橋の上で、般若心経を唱えさせられる。それが番組のラストになるらしい。
 まあ、最初はこのようなお話しだったのです。
 注)『いい子に育つ仏の言葉』小学館、2004.
 

2.馬頭観音と西村惠信先生
 さて8月15日に番組を視聴したら、店長(よゐこの濱口優さん)や店員(女優の江口のりこさん)と話しをなさる場面が早速出てきました。「無縄自縄」、「煩悩即菩提」と書きながらおっしゃった解説もさることながら、濱口さんが気楽に西村先生と交わす会話の方が愉快です。いくら演技でも、濱口さんが西村先生のお人柄に包容されて親しみを覚えなければ、こんな雰囲気の会話にはなりません。
 (AKB48についての会話):オーナー役・西村先生 「有名な人らしいけど僕は知らんね」、店長役・濱口さん 「ボーズ48はないのですか」、 西村先生(笑いながら)「ボーズ48はないね」、濱口さん「アッハッハッハハー」。
 番組の冒頭では、店長の濱口さんは、店員の江口さんに、「オーナーは怒る」と言ったり、「あの髭ええよねー」と言ったりしています。共演する中で、威厳と親しみを感じたのだろうと思われます。
 煩悩ショップの受け付けの部屋には、「馬頭観音」の図像が掲げられており、「108の煩悩を食べ尽くして、救済してくれる観音様」という説明が添えられていました。濱口さんは江口さんに、馬頭観音について説明します。「馬頭観音はね、108の煩悩を食べ尽くしてくれる。そのときに、なんでそんなに悩んでるねー、と怒りながら愛の説教をしてくれる、そんな観音様やね。そういうこと覚えていかんとオーナーに怒られるよ」。江口さん(笑いながら)「オーナーは怒るのですか」。濱口さん「怒る、怒る」。
 西村惠信先生は、馬頭観音に重ねられているのでした。
 

3.悩みに対する僧侶の説法
 仏教の面目は本来葬式仏教にあるのではなく、より良く生きるための知恵です。最近、その生きる知恵としての仏教が、一部の前衛的でユニークな僧侶の出現で、若者や市民の親しみを得るようになっている風潮があります。そのような流れでの仏教バラエティー番組でした。それにしても、予想以上にバラエティー過ぎる仏教番組で、多少辟易したのでした。
 若手の僧侶で、何冊もの著書が若い世代に読まれている小池龍之介さん。東京の新橋でボーズバーを経営しながら、そこで悩みの相談に乗っている真宗の全盲僧侶、田口弘願さん。さらに極めつけは、ネット上に動画を出してバーチャルアイドルと仏の世界を融合させて、若者に人気のカリスマ僧侶、真言宗の蝉丸Pさんです。しかし、このようなネット上のゆるキャラ僧侶の人気は、それ自体、社会現象として捉えるべき別の問題なのでしょう。
 さて「煩悩ショップ108」 では、AKB48の峯岸みなみさんの、「仲間の成功を喜べず、嫉妬心を感じる」という悩みに対して、小池龍之介さんが相談に乗ります。同じく、ダチョウ倶楽部の上島竜平さんの、「自分の芸に対する周りの評価が気になる」という悩みに、田口弘願さんが相談に乗ります。さらに、街角煩悩ボックスまでしつらえて、田口さんが街ゆく人のお悩み解決までします。芸能人や市民のそれぞれの悩みに、僧侶が仏教の視点から助言するのです。そして助言を受けた人たちは、「スッキリした」、「心が洗われた」などと言って帰って行くのでした。
 
4.森田療法から見れば
 西村惠信先生は、出演後に次のように語られたそうです。「きらびやかな舞台に立つ人間でも『個人』としての悩みを抱えているということは、華やかなこの時代であっても、個人という問題は切り離せないものだと実感した。煩悩は無尽だが、仏教の教えでそれを断ち切ることが出来ればという願いを込めた」(「NHK ONLINE」というサイトより)。
 これはおっしゃっる通りだと思います。個人の悩み、煩悩、心の病理は無尽であるからこそ、精神医学や精神療法は、それらに向き合い続けているのです。ただし向き合うにあたっては、治療者が深い知恵をもつことが必要です。そこにおいて仏教や禅などの知恵を治療に取り入れたのが森田療法です。このように悩みや煩悩への対処として、森田療法は、仏教や禅に通じるものですが、だからと言って、両者は同一だと安易に言ってしまうこともできません。今回の番組からは、むしろその違いを考えさせられました。
 煩悩の相談に乗った僧侶たちは、来談者たちに助言しています。自分の中の嫉妬をそのまま受けとめること。自己中心的に自己を追求しても、そこに本当の自分はない。周りの人がいてくれて、そのおかげで自分が作られ、自分は自分らしくなる。だから自分に対する不安はあってもそれで安心なのだ。助言の要点はざっとそんな具合です。
 このような指導を森田療法に照らして見ると、指導の内容は森田療法とまったく同じです。しかし指導のしかたは、かなり異なります。お坊さまたちの指導は、個別の相手に合わせた仏教の説法です。いわば説得療法です。あるいは、仏教的な超ブリーフサイコセラピーです。うまくポイントを突く助言をなさっているので、クライアントの方々は腑に落ちたようで、「安心した」、「スッキリ解決した」、「仏の教えて偉大やな」などとおっしゃっています。一旦はそれでよいのでしょう。でも人間の業は深く、また煩悩が心の中を占領します。
 「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」。これは有名な鈴鹿馬子唄ですが、この替え歌があります。「寺は照る照る帰りは曇る 家に着いたらどしゃ降りの雨」。心を清々しくするためにお寺に行ったのはいいものの、家に戻ったらまた煩悩の大雨に流されてしまう、というわけです。煩悩を抱えつつ生きるのが人の性で、七転八倒、七転び八起きが人生なのです。失礼ながらお坊さまの説法を聞いて、スッキリしたという解決はちょっとあやしくて、「一を聞いて十を知る」ほどの明敏な人でなければ、その場の仮の解決にしか過ぎないものになるのではないでしょうか。
 むしろ、心には簡単な解決などありません。簡単に決着しないことをみずから身をもって知るのが、本当の解決なのでしょう。お坊さまの説法による教えもさることながら、その教えをひとつの光としつつも、自分自身で見つける答えの方が貴重です。
 煩悩にとらわれながら、どんな答えがあるかはわかりませんが、暗闇の中を手探りで生きていくように導くのが、森田療法です。治療者は人生の先達として存在し、後進(患者さんやクライアントさん)を薫陶しますが、心の問題解決に何の指針も与えません。心は主人公に帰属しますし、主人公ですら、自分の心を操作することは困難なのですから。治療者は後進と生活を共にし、その中で、言葉による説法では伝え得ないものを伝えてやります。より厳密には、生き方のこつのようなものを伝えるということはできない、ということを言葉なき言葉で伝えるのです。
 森田療法は、会話をしない無言の療法だと言うのではありません。ゲラゲラ笑う場面もあってよいのです。ただ肝心なことは、言葉による説法のごとき方法ではなかなか伝えられないので、日常の生活そのものが、そのまま治療実践になるのです。治療者自身、煩悩を抱えて生きている生身の馬頭観音です。自分の煩悩と食べた煩悩で腹一杯になりながら、生活し続ける治療者を見て、患者さんの人間性は陶治されていくのです。
 森田療法はそんな療法ですから、「ギャーテーギャーテー」の番組の「煩悩ショップ108」の煩悩相談に興味津々だったけれど、違和感を覚えてしまったのでした。
 
 番組の最後に、西村先生が渋谷で般若心経を唱えて、般若心経は世の中の苦しみを断ち切る誓願だとおっしゃったのが、印象的でした。森田療法も、最後は祈りに通じるのかも知れません。