三聖病院の歴史的資料の保存について(その二)─「物の性を尽くす」─

2015/07/13

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森田正馬が三聖病院に宿泊したときの専用の部屋になっていた、二階の三十六号室に掛けられていた番号札

 

 

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1. 資料こそ、いのち
 三聖病院はどんな病院だったのか─。建物が跡形もなくなり、病院が消滅した今、もはや現在形ではなく、過去形で病院の歴史を捉えることしかできなくなりました。その歴史を語れる生き証人として、幸い元院長の宇佐晋一先生を筆頭に、少数の人物は存在します。しかし、ナラティヴは、しばしば「藪の中」のごとき語りになります。したがって事実を裏付けるものとして、資料こそ必要です。いのちある資料が雄弁に歴史を語りうるのです。

 

2.シーシュポスの神話
 森田正馬による療法の確立を受けて、直弟子の宇佐玄雄先生の志により、早くも大正11年に東福寺内に医院が創設されました。昭和2年には病院となり、戦中戦後を生き延びて、父子二代の院長により約90年間にわたり、この専門施設では、禅的色彩の濃厚な森田療法の診療が続けられたのです。禅的であると同時に診療自体が独特だったので、二重の意味で、外部からは神秘のヴェールに包まれた病院と見られてきました。現代の神話のような病院だったのです。ともあれ、この病院が森田療法史の上で、無視できない大きな位置を占めていたことは、紛れもない事実です。年末の閉院が決まった昨秋の時点から、病院業務を整理する作業と並行して、歴史的に貴重な資料を保存するプロジェクトが組まれるべきだったと思われます。具体的には、然るべき予算を組み、資料の価値の判断と保存のしかたに通じた人員を当てる必要がありました。滅びるにまかせるのが、あるがままではありません。院長にはご自身のお考えがあってのことだったのかどうか。それにしても、病院の役員各位や看護師各位らにおいてもまた、本院の歴史的意義を考慮して、資料を保存しなければいけないというような認識を有しておられないようでした。閉院に際して院長が分け与えてくれる形見分けを、記念にもらって帰るというような感覚だったのだと思います。
 価値観の転倒した集団の中で、私はひとりで資料の保存のために動きました。私の他にもうひとり、ユニークな人物がいました。病院の最後を見届けるため閉院まで入院していた遠方の地方出身の青年です。彼は病院の庭の大木がやがて切り倒されることに不憫を感じ、大木を実家の土地まで運んで移植したい、そして三聖病院の庭から移して根づかせた樹木を媒介に、郷里に森田療法を伝えたいと院長に訴え、一時は親御さんと共にそれを本気で考えていました。実現はしませんでしたが、彼は言いました。「人のために自分が何かしようと思ったのは初めての経験でした」と。滅びる病院の最期のときに、彼はそんな経験をしたのです。そして冷静に返った彼は、流れに逆らって資料の保存に執心し続けている私に、ちょっと皮肉な言葉を投げかけました。「シーシュポスの神話のようなことをし続けるのですか」。

 

3.「物の性を尽くす」
 保存のために必要な資金に事欠く上に、かなりの資料が「平等に一切に施されたり」、あるいは無断で持ち去られている実状に臍を噛みながら、私は消えていく病院の建物などを撮影して、せめてそれらの画像をと、このブログ欄に掲載し続けていました。そんな私の心は渇いていましたが、それを格別の思いでご覧になっていた元修養生の方々がおられたことを知りました。さらに、歴史的資料の保存について書いた記事も読んで、表と裏の二重の事態を理解して下さった方がおられます。
 30年ほど前に三聖病院で「修養」をした経験があるという男性の方から頼りが届きました。歴史ある病院のMUSEE(記念資料館)を創るためにフランス人が拠金をしようと申し出ているのなら、自分もそれに続きたいという有り難いお言葉です。ある地方で学芸員として働いておられる方です。自分の仕事は、資料が「いのち」を持っていることを最もよく知っている職業のひとつなので、三聖病院の歴史的資料の保存が円滑に進捗していないなら、協力を惜しまないとのご意向でした。しかし事態はそんなに容易ではありません。それを理解して頂くには、直接会ってお話しするしかなく、過日この方(A氏とします)にお目にかかることになりました。A氏は複雑な事情を知って驚いておられたようでした。しかし私としては、資料というものの貴重さと、資料は資料群として扱われて意味を帯びるということを、改めてA氏から教えられました。聞けばA氏は、三聖病院の建物の解体が近づくにつれて矢も盾もたまらず、1月末に病院に来訪なさったそうです。しかし無断で病院の建物内に入ることを遠慮し、庭の南天の一枝を手折って持ち帰り、それを花瓶に差して大切にしていたとのことです。
 A氏は修養生だったとき、庭のバラの花が見える二十号室にいたそうです。私は建物解体の直前に、部屋の入り口に残されていた番号札を集めて、現在それを預かっています。閉院になる日まで入院し続けて、最後の退院者となった数人の方々に対しては、私は医師職員としての判断で、希望するなら部屋の番号札の持ち帰りを認めることにしました。しかし、解体前に集めた番号札の数はざっと半分くらいしかありませんでした。残りはどこへ消えたのでしょう。
 さてA氏の過ごされた二十号室の番号札は、私の預かり分の中から見つけることができました。もとより保存している番号札の数は揃っているわけではありません。私はA氏に二十号室の番号札を進呈しようと提案しました。ところがA氏からは、それを辞退するメール文が届きました。その一部を要約して紹介させてもらいます。
「二十号室の札が残っていたとのこと、うれしい限り」。
「二十号室、風の音、雨の音、粗末な机、寒い部屋、バラの花、池の鯉、拍子木の音、厨房の匂い、猫、といった無数の外界事象が、とくに第二期の私を導いてくれた」。
「外界へ注意を向けるという森田療法の優れた特徴が、三聖病院ではよく生かされていた」。
「自分は森田療法で体得したことを職業に活かしているのかもしれない」。
「部屋の番号札については、機会があればその画像をブログに掲載していただければ…。というのも、修養生にとって、部屋の番号札は表札のようなに大切なものだったから。時を経てもそれを見ることで、何らかの自覚を得ることがあるかもしれない」。
「二十号室には無数の修養生が入り、無数の人が全治し、社会で真面目に生活をしていると思う。自分はその一人に過ぎないので、決して実物を独占することはできません」。
「お庭から勝手にいただいた南天の葉2枚を記念にして、大切にしてまいります」。

 森田正馬は、『中庸』に出ている「物の性を尽くす」ということを教えました。それぞれの物の特質や価値や働きが、最大限に出し尽くされるように工夫して、物を活かすことの大切さを言っているのです。するとその効用は人に及んで「人の性を尽くす」ことにつながり、さらに己自身が活かされて「己の性を尽くす」ことにもなるのです。
 A氏は、二十号室の札を独占せずに、デジタル画像を出すことで、いのちある資料の共有を図るという妙案を出して下さいました。いのちある資料は活かし方次第です。たかが部屋の番号札ですが、その物の性を尽くして、物も人も自分も活かし得ることを教えて下さったのです。

 

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