その前夜

2015/02/02

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 2月1日(日曜日)午後、三聖病院の玄関に脱がれた履きものが見える。何人かの来院者あり。

 
 

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 もう電気も切られた2月1日(日曜日)の午後、院長室(第1診療室)の中に数人の人たちが入っている。そのための来院者だった。

 講話をしているような場合、です。

 講話を聴いているような場合、です。

 
 

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 病院建物の玄関の上方、屋根の頂き。日頃あまり注意して見ないが、鬼瓦の下に懸魚(げぎょ)という装飾物がある。

 
 

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 懸魚(げぎょ)をズームで撮った。

 魚の顔を正面から見たような装飾になっている。火災の難を除けるようにと、水を象徴する魚を模したもので、それゆえ懸魚(げぎょ)と呼ばれるとは、写真を撮りに来ていた元修養生のAさんから教えられた。感謝。

 
 

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 朽ちた木に「希望」などと書かれたものを中庭の洗い場に仮置きしていた。それを引き取りに行ったら、「希望」は消えてしまっていた。昨秋病院を訪れたフランス人たちに、この木を示し、「希望」の裏側は絶望ですよ、と教えたのだった。(持ち去った人は大切にしてくださいね)。「心ほったらかし」は、ほったらかしにされていた。

 
 

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 中庭の池に、金魚たちが、まだ沢山いる。小ぶりの金魚4匹ほど、自宅で金魚鉢に入れると言って元修養生が救出した。しかし大きくなった金魚たちは残されてまだ池の中。とりあえず餌だけ投げ込んでやった。

 焼き物の狸は、危機が迫って遂に化ける力を発揮したのか、姿を消した。

 
 

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 東福寺の鬼手仏心。

 前庭の池の鯉の多くは、東福寺内の池(?)に移されたそうな。しかし警戒心の強い2匹の鯉は池の底に逃げ込んでいる。ときどきその魚影が見える。鯉にも餌を投げ込んでやった。2匹の運命は?

 
 

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 中庭の流し場付近で、ごみ扱いされている物の中から、これを見つけた。

 これは、その昔三聖寺で修行僧たちが浴室で使っていた洗濯板である。「自然」という浮き彫りにされた文字部分に衣類をこすりつけて洗ったものと思われる。そのような説明が、この洗濯板の裏面に宇佐晋一先生の文字で記されている。その記入年号は一九六〇年となっている。

 板の一部が濡れている。半ば露天にあったものを拾ったばかりなのである。

 
 

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 これも、ごみの山の中から掘り起こした。大きな額入りの色紙で、宇佐氏の三聖醫院の開業を祝う言葉が書かれている。だからこれは、大正11年の宇佐玄雄による醫院の開業を祝福したものである。

 
 

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 医療廃棄物として、ごみに仕分けられた物のうちのひとつ。昭和30年代にわが国に導入されて、国内で初めて製造された物と思われるECTの機器である。博物館のようなところに保管されてしかるべきだと思うほどの代物。したがって、極めて厳粛な意味で、ここにその画像を出した。

 本院でも、近年は使用しなくなっていた。

 
 

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 閉院にあたり、貴重な歴史的資料の散逸を防ぎ、保存する必要性を感じて、私はごく一部の理解者しかいない中で動き出した。しかしタイムリミットは迫ってくる。それで暫定的な受け皿の空間がまず必要と思われ、とるものもとりあえず、病院に隣接する賃貸マンションを、自主的に借りた。その3階の部屋の窓から、左手に三聖病院の建物の一部が見える。

 これは、そこから見た解体直前の、「Before」の写真である。

三聖病院閉院の新聞記事

2015/02/02

 去る1月31日(土曜日)の京都新聞夕刊に、三聖病院の閉院についての記事が出ました。

 「薬頼らず、あるがまま受け入れる」

 『治療に「禅」神経科閉院』

 「経営難で東山・三聖病院」

 「90年の歴史」

 「元患者ら惜しむ声」

 このような小見出しや大見出しが、紙面のトップに踊り、院長の姿や、病院建物の外観の写真も掲載されています。

 記事の内容は、これだけいくつもの見出しがあれば、森田療法を知る者にとっては、いや少なくとも三聖病院を知る者にとっては、およそ察しがつこうというものです。禅を取り入れた独特の治療法の病院が、90年の歴史を有しながらも、薬物療法が主流となった近年の医療の中で、経営困難に直面していた。そして多くの人たちに惜しまれながら、診療の幕を閉じる。そのような報道的な記事です。

 10日ほど前になるでしょうか、京都新聞の記者A氏から、三聖病院の閉院のことで取材のお申込みを頂きました。三聖病院の元患者と名乗る人から、閉院の連絡が入ったので、この件を調べだしたとのことでした。

 「元患者」なる人が、閉院を新聞記事にしてもらおうと意図して通報したという問題が、まずあります。新聞社への匿名の通報はよくあることでしょうから、報道価値があるかどうかについての判断の仕方については、新聞社側はもちろん精通なさっておられるはずです。けれども通報者が、「元患者」だと名乗ったところに、この療法で見事に立ち直った者ですという凛々しさのようなものを感じとり、それによって新聞社は動き出したのではないか・・・。患者と元患者の区別が、截然とできるものではないことは、森田療法からすれば明らかです。ですから、患者と元患者の二分法に陥っている人に、つい心もとなさを感じてしまうのです。あるいはこちらがひねくれた考え方をしているのでしょうか。

 確かに三聖病院の閉院は、地元紙の記事になってもおかしくはありません。しかし、自称元患者さんの情報提供の意図とは、三聖病院は不滅ですという幻想を、現実の新聞記事にしてほしいという切ない願望だったのではないか。やはり私はそのように思ったのです。

 加えて、森田療法がどんなものであるかを言葉で伝えることは至難です。それも患者さんに対してならいざ知らず、まず新聞記者の方に森田療法を、さらには禅を伝えるのは困難なことです。そして記者は、それをペンで情報として読者にお伝えになるのです。しかし、森田療法も禅も、情報にはなりえません。

 そのようなわけで、私は記者A氏に、私自身の意見を述べず、森田療法の取材のための予備知識だけをご提供しました。閉院に関しては、当然のことながら院長に直接取材をして頂いたのでした。

 三聖病院が閉院するにあたって、その捉え方には様々な視点があるはずです。もちろん第一には、禅的な森田療法が姿を消すという事実、第二に、病院の診療に対する評価、第三に、文化財的な病院の古い木造建築物が残されずに解体されるということ、第四に、地主としてビジネスに徹しておられる東福寺の現実的姿勢。このように様々な切り口があったはずですが、結局、森田療法の病院の閉院が惜しまれるという、あたりさわりのない記事をお書きになったのでした。

 厳密に言えば、入手なさった情報の影響で、事実とは言えない箇所も含まれています。読者のほとんどは、頓着しないでしょうけれど。

 とにかく新聞報道はされました。最初に閉院の情報を京都新聞に提供なさった「元患者」様、これでご満足でしょうか。

 私自身は、報道もさることながら、森田療法史上重要な役割を担ってきた三聖病院は、これまでの苦難はあったとは言え、今閉院にあたって、病院の歴史的資料を整理し保存する社会的責任を負うと認識しているのです。