第33回日本森田療法学会で発表します

2015/09/28

 来たる10月14日から16日に、倉敷で第33回日本森田療法学会が開催されますが、16日に下記の発表をおこないます。
 事前抄録は抄録集に掲載されています。その版権は学会にあるのでしょうが、自分で書いたものにて、差し支えなかろうと考え、発表のタイトルとともにここにその事前抄録も出しておきます。
 詳細については、すでに北海道森田療法研究会で発表したものです。その際は、小規模なアット・ホーム的な場で、3時間にわたり、自由な語り方をさせて頂きました。
 今回は、短時間の枠内で要約的にまとめた発表をすることになります。
 
 

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三聖病院が存在したことの歴史的意義について
─平成26年末の閉院を受けて─

 
 
 森田正馬の直弟子、禅僧で精神科医の宇佐玄雄によって、禅的色彩の濃い入院森田療法施設(三聖医院)が大正11年(1922年)に東福寺内に創設された。その後三聖病院となり、父子二代の院長により、通算約90年の長きにわたり、禅的な森田療法の診療が継続されたが、昨年(平成26年)末、遂にその歴史の幕を閉じた。この機に本院が森田療法史上に存在した意義を考えてみたい。
 父子お二人は共に森田正馬の療法に忠実な診療を追求された。しかし父子各々の特色がみられたのも事実なので、お二人における、治療者像、思想や診療、治療構造、実績などを対比してみる。さらに両者を総合して、本院の歴史的意義を顧みることにする。
 
 

1. 初代院長の時期
 宇佐玄雄先生は自身が神経衰弱に罹患したことを原体験とし、悩める人に一律に禅を説くだけでは不十分で、禅に精神医学を取り入れる必要性があると痛感して、慈恵医専に学んだ。大正8年に卒業し、折しも療法を確立した森田との数奇な出会いに恵まれた。森田は開業した玄雄を応援し、また玄雄から禅を学んだ。治療者玄雄は厳格で、かつ庶民的な面を兼ね備えていた。規律や作業の重要性を厳しく説く一方、患者と共に入浴したり、厨房で田楽の作り方を教えたりする人だった。治癒への「こつ」は善光寺床下のお戒壇巡りのように、ただ暗闇を進むのみだと教えたところにその真骨頂を見る。晩年には真宗に傾倒し、『正信偈』の「不断煩悩得涅槃」、「自然即時入必定」を引用した。
 
2. 二代目院長の時期
 晋一先生は、受け継いだ禅寺風の病院を場に、粛々と規則を守る修養的な入院体験をすることを重んじた。しかし天龍寺の平田精耕老師から、「禅を花とするなら森田療法は造花だ」 と評されて、療法を花に近づけようと一層精進なさったという挿話がある。指導の特徴は徹底した不問にあり、自己の内界を論理的に言語化することは禁じられる。継続された講話の趣旨も「わからずにいる」ことであった。こうしてコミュニケーションが断たれた状態で、知性を外に向けて必要な行動をせよと勧奨される。殆ど言葉のない世界で、優しく君臨しておられる院長は、カリスマ性を帯び、しばしば敬慕や崇拝の対象になった。
 
3.三聖病院が存在した意義
 父子を対比すると、二代目において、禅をより原理的に追求なさったように見受けられる。ともあれ入院原法を長年維持して世に伝えた三聖病院の功績は大きい。